毛布の隠れ家と魔物のリボン
淡い微睡の淵でそっと目を開けると、大事な魔物はまだ眠っているようだ。
ネアは何だか嬉しくなってしまい、美しいその寝顔をわくわくと眺めた。
巣の中には魔物のいい匂いがして、奥に寝かされているネアは、巣材でもある高級毛布のもふもふほこほこしたものに包まれている。
(繭みたいだわ……………)
そんなことを感じ、この安らかさはそのせいなのだろうかと考えた。
昨日まで迷い込んでいたスノーでは怖い思いはしなかったにせよ、やはりディノの隣で眠ると心が柔らかくなるようだ。
(フレンチトーストを作るから、もう少ししたら起きないと……………。でもこのまま傍にいてあげたいような気もするし………)
すっかり安心して眠っている魔物を見ていると、その無防備さがずっと続けばいいのにと思ってしまう。
僅かな吐息の温度に撫でてやりたくなって指先がむずむずしたが、起こしてしまいそうなのでぐっと堪えた。
どこか遠くで雨音が聞こえる気がする。
夏雨の葡萄酒を飲んだからだろうかと考え、両親の死の後は、こんな日に降る雨が苦手だった頃のことを思い出した。
けれどもう、その心地良さにむふんとなるばかりなので、ネアは、この魔物が隣にいればすっかり心を緩めていられるのだ。
ふっと瞼が揺れ、真珠色の睫毛が持ち上がる。
開かれた水紺色の瞳の澄明さに、ネアは今でも見惚れてしまう。
深く深い湖のような美しさは、けれどもひやりとするような鮮やかさまでが胸の内に届くのだろうか。
「………………ずるい」
「おはようございます、ディノ。そして私は、なぜ早々にずるいと言われてしまったのでしょう?」
「ネアが見てる……………」
「解せぬ」
ディノが起きてくれたので、ネアは我慢していた思いを開放し、早速手を伸ばしてその頭を丁寧に撫でてやった。
撫でられている間中、目元を染めてもじもじしている魔物は、個別包装信者の伴侶が巣の中に居る事が嬉しくてならないようだ。
(最近は個別包装じゃない日もあるけれど、ディノにとっては、巣に入って貰うのが更に上位の扱いなのかな……………)
「でも、今朝はフレンチトーストを作るので、早めに起きますね?」
「……………うん」
「朝食を食べたら午前中のお仕事をして、その後はエーダリア様やダリルさん達と、報告会のおさらいをします。皆さんが今回の事件の流れを知ってくれた上で吟味していただく質問だと、私が気付けなかったことや、忘れていたことがまた出てくるかもしれませんから」
「……………その後は、夕暮れのこぼれ橋を見に行くのだね?」
「ええ。以前から、その橋ににょろにょろする悪い奴が出るそうですので、通行人の方々に悪さをしないように叱りに行くお仕事ですね。………魔物さんみたいですよ?」
「毛皮のある蛇の姿をしているのなら、欄干の魔物かもしれないね……………」
そんな話をしながらディノの巣を出ると、やはり窓の向こうは雨の朝であるようだ。
若干雨足が強いような気がするのだが、橋の調査に出るまでに止んでくれるだろうか。
橋に住み着いた毛皮のにょろにょろは、綺麗な夕焼けの日にしか出てこないので、雨が降り続く場合は別の日に調査日を変えなければいけない。
「その場合、明日は狐さんの予防接種なので、橋のにょろにょろ対策はその後になってしまいそうですね……………」
「火の慰霊祭も近いので、少し先になるかもしれないね。慰霊祭のような儀式の近くに、土地の魔術の配列を変えるのはあまり望ましくないから」
「そういうものなのですね。となると、狩りなども自粛した方がいいのですか?」
「土地の人間がよく使う、魔術の繋ぎ目でなければ大丈夫だよ。橋や大きな門があるところは、念の為に避けた方がいいね」
「はい。では気を付けるようにしますね。……………ディノ?」
ネアはここで、おずおずとブラシを差し出した魔物に気付き、目を瞠った。
にっこり微笑んでブラシを受け取り、鏡台前の椅子に座ったディノの真珠色の髪の毛を丁寧に梳かしてやれば、ご機嫌になったディノの気分のせいか、宝石質な輝きのある長い髪が光るような艶を帯びる。
しゃわっと絡まる事もない長い髪にブラシを通せば、その美しい髪から光がこぼれるよう。
そんな美しさに胸が満たされるので、この朝の儀式はネアの一番好きな時間だった。
綺麗に梳かした後に一本結びにすると、ディノがおやっという目をして不安げにこちらを振り返るので、料理の時に汚れてしまうといけないから、三つ編みはその後でだと告知しておく。
「では、私は顔を洗うので………、むむ、さてはついてくる気ですね?」
「ご主人様…………」
余談だが、ディノはお風呂は大好きだが、洗顔はあまり得意ではない。
前提として、本来は洗顔の必要のない高位の生き物なので、勿論洗うかどうかは本人任せなのだが、こうして先にブラシを差し出した日には顔を洗わないというのがディノの密やかな自己主張である。
なのでネアが一人で顔を洗いにゆくと、もそもそとそんな魔物もついてきた。
顔を洗わない朝の魔物の日課は、顔を洗うご主人様がタオルでぷはっと顔を拭くのを眺めることなのだ。
「私としては、観覧はあまり募集していないのですが、今日は仕方がありませんね。その代わりに、水飛沫が飛ぶといけないので安全圏にいて下さい」
「うん。君が動いても手が当たらないところにいるよ」
顔を洗ったり顔を拭いたりする中でぶつかると嫌なので、洗顔中の接近には、厳しい立ち位置制限を設けてある。
びしゃびしゃの顔を見られるのも落ち着かないので、巧妙にも、正面から顔が見られない絶妙の位置に待機魔物の安全圏を設定してあった。
無事に顔を洗い終え、ふかふかのタオルで顔を拭きながら鏡越しにディノを窺えば、目が合ったことできゃっとなっている。
そんな魔物の観察対象にされているネアは、室内履きを脱いでこそっと床石の温もりを楽しみつつ、いつもとは雰囲気の違う伴侶の姿にむむぅと目を凝らした。
「…………一本結びのディノも、騎士さんのようできりりとしますね。これからは髪型を変えてみたりもしたいですか?」
「でも、三つ編みがないと、君が掴めないだろう?」
「なぜに私発信の要求のようになっているのだ……………」
「ネアは、三つ編みを引っ張るのが好きだからね」
恥じらいながらそう呟いた魔物ときちんと話し合ってもいいのだが、ディノは、ネアが三つ編みを欲していると思うからこそ、日常のふとした場面でも必要とされている喜びを感じられているようなのだ。
以前に魔物の毛髪と髪の毛リード問題について相談したエーダリアから、安易に取り上げてしまうと他のどんなご褒美を加算されるか分からないと言われ、現状の運用に落ち着いている。
(それに、ディノが引っ張って欲しいのなら、もうあまり嫌ではないのだけれど……………)
ネアが積極的に引っ張りたいかと言えばそうではないのだが、ディノがそうして欲しいのならば吝かではなくなってきた。
要するに、この綺麗な真珠色の三つ編みを引っ張ることに残念な人間は慣れてしまったのだ。
「今日は雨なので、部屋の中がぼんやりと薄暗い朝ですね。以前暮らしていたところでは、こんな日に仕事で外に出なければいけなかったりしてとても憂鬱でしたが、こちらに来てからは雨降りのお天気も大好きになりました」
「そうなのかい?」
「ええ。雨で染まった霧や、森の色がとても綺麗ですし、雨の日には、雨粒の結晶を拾えたり不思議で綺麗なものにも出会えますし、何よりもディノが傍にいてくれたからかもしれませんね」
「……………かわいい」
お喋りをしながら、二人は厨房で朝食の準備を始めた。
こちらの厨房は影絵のような場所に建てられた屋敷の中にあり、窓からの景色は常に初夏を映している。
この季節になってくると、ウィームの季節と風景が似通うようになってきており、今日は厨房の窓の外も雨模様だった。
魔術の守護と祝福のあるエプロンは、先日、野生の本能に負けた銀狐に初代エプロンが巣材にされたので二代目である。
銀狐は、どうもエプロンの紐の部分をあぐあぐ噛んでいたいようで、いつの間にか盗まれており、そんな銀狐の首根っこを掴んだヒルドが、ぼろぼろになったエプロンを持って謝罪させに来ていた。
叱られてけばけばになってしまった銀狐は、その日の午後には見目麗しい塩の魔物の姿で新しいエプロンを買って来てくれた。
柔らかだが丈夫な生地の白いエプロンは、ポケットの部分にミモザや菫の見事な刺繍があり、すっかり気に入っている。
おまけに、汚れの気になりそうな白ではあるが、絶対守護が汚れなどは討ち滅すという使い勝手の良さであった。
「酸っぱいものは、何が食べたいですか?細切りにした人参をオレンジのドレッシングで和えたものと、トマトのピクルスと、セロリとレーズンの香草ピクルスがありますよ」
「トマトかな………」
「ふふ、ディノは酢漬け野菜の中でもトマトがお気に入りですものね」
「白いのはあまり食べないかな………」
「むむ、大根さん………」
ネア達の厨房での酸っぱい系簡単おかずは、ディノが好きなので切らした事のない酢漬け野菜がほぼ毎回の酸味を補ってくれる。
「葡萄酒も買いましたし、週末には、トマトとモッツァレラチーズの恒例のおつまみも作りましょうか?」
「ご主人様!」
ディノの大好きトマトシリーズの中で、第二位の座を押さえているのが、細かな角切りトマトとモッツァレラチーズをボウルにどんと作り、塩胡椒にオレガノ、オリーブオイルを回しかけて混ぜるだけの簡単なものだ。
熟れすぎていないトマトを使い、水っぽくならない程度に半刻ほど寝かせれば味が馴染むのだが、二人とも出来上がったところからスプーンでぱくぱく食べてしまい、あっという間になくなってしまう。
そのままでも充分に美味しいが、食欲のない日にかりかりに焼いたパンに乗せても美味しいし、塩胡椒を強めにしてさっぱりとした蒸し鶏肉にたっぷりかけても美味しい。
「…………じゅるり」
想像したせいで食べたくなってしまったものの、今はモッツァレラチーズを切らしている。
こればかりは代用が効かないので、後で仕事帰りにでも買ってこよう。
(本当は、そこに朝靄の雫を入れても美味しいのだけど、なくてもあっという間に食べてしまうから入れなくなってしまった…………)
「これも食べるのかい?」
「ええ。せっかくだから季節のものもいただきましょうね。茹でたものにソースをかけてグラタン皿で軽く焼いてあるので、あつあつになっていますよ」
ネアがオーブンで軽く焼き目をつけていることに気付き、ディノが覗き込んでいるのは白いアスパラこと、シュパーゲルだ。
ウィームでは年間を通して市場に置かれていて、収穫の土地によって味や祝福が違う。
本日いただくアルバンのものは、ネアとしては料理次第という感じで特別好物ではないのだが、この季節だけは震える程に美味しくなる。
雪解け水の祝福と、春の芽生えの祝福で美味しくなるそうで、雪の少ない冬の後のアルバンのシュパーゲルはやや味が落ちるのだそうだ。
なお、リーエンベルクにはシュパーゲル博士と呼ばれる、シュパーゲル大好きな階位なしの騎士がいるらしい。
「このままだと野菜尽くしですので、スノーの気分続きで白いソーセージを茹でました。お皿に粒マスタードをたっぷり乗せておきますね」
卵液にくぐらせたフレンチトーストをじゅわっと焼く頃になると、厨房は甘い香りで包まれた。
ディノは、オーブンから出されたシュパーゲルのソース焼きと、トマトのピクルスや茹でソーセージの乗ったお皿をテーブルに並べる手伝いをしてくれている。
漸く、複数の料理を並べる事が最近出来るようになり、以前のように渡されたお皿を持って悲しげに立ち尽くすことはなくなったようだ。
しかし、今朝の魔物がささっとお皿を並べてしまえたのは、伴侶の歌うフレンチトーストの歌を聴きたいからだろう。
ネアはまず、自分の歌声がフレンチトーストに染み込ませた牛乳の祝福を壊さないように、この厨房内に影響を及ぼさない為の隔離結界を張って貰う。
そこまでして初めて、安心してフレンチトーストの歌が歌えるのだ。
あの大量殺戮の後なのでかなりひやひやしたが、幸いにも、ディノは喜ぶだけで儚くなったりはしなかった。
フレンチトーストが焼き上がると、ホイップクリームも添えた甘いフレンチトーストに、おかず的な塩っぱいものもあるという罪深い朝食が出来上がる。
幸せそうに瞳を輝かせてこちらを見ているディノといただきますをして、作った料理を幸せそうに食べてくれる人がいることに、今日もまた心の中でひっそりと感謝した。
(…………私はずっと、自分の冷たさが嫌いで、けれども自分の事は好きだったから、そんな私でいる事を諦めていた………)
ちくちくするセーターとて、大事に編まれたものなのだろう。
そんなセーターを粗末にする自分の心の冷たさが惨めでならず、けれども愛せないという事は結局自分一人ではどうにもならないものなのだ。
(でも今は、ディノがいて、…………このリーエンベルクのみんなや、ここには共に暮らしていないけれど、大切な人や、素敵だなと思う人がいて…………)
そう考えるだけで、今日も胸の中でほろりと涙がこぼれてしまいそうになる。
善良ではなく、誰にでもふるまえる優しさは持ち合わせていないが、この喜びにばかりは、いつも無垢に心が震える。
そして時々、ノアもそうなのだろうなと考えたりもする。
ネアは、義兄な塩の魔物が、スノーでせっせとエーダリアとヒルドへのお土産を買っていた事を知っているのだ。
窓の外の雨は世界を青みがかった灰色に染め、そんな景色の中には、はっとする程にあでやかな花々が咲き、緑の葉が揺れていた。
窓を鳴らす雨の雫に景色が映り込み、テーブルの上にはまだ薔薇の祝祭で貰った薔薇が生けてある。
「ディノ、…………もし今日はこれだと決めたリボンがなければ、今日は、新しいリボンを使ってくれますか?」
「新しいリボン………かい?」
「ええ。先日のお買い物の際に見付けてしまい、強欲な私が我慢出来ずに買ってしまったものの、またしてもリボンを増やしてしまったと告白出来ないままに隠し持っていたリボンなんです。無事にスノーから戻って来ましたよという記念も含め、ここで強引に渡してしまいたいなと考えているのですが…………」
「…………ネアが…………虐待する」
ネアは喜んでくれるかなと思い提案したのだが、この厨房のテーブルで朝食を食べているのが不思議なくらいの美貌を持つ魔物の王様は、息も絶え絶えになってしまい儚く傾いた。
「……………君がそうやって私に伝えてくれるのなら、私も君をたくさん大事にしなければだね」
「………………っ、」
しかし、こちらを見てそう微笑んだ魔物の眼差しにはぞくりとするような男性的な色香があり、ネアは、手に負えない魔物にならないように、用法容量を守って愛情を注いできたコップを、またしてもうっかり溢れさせてしまったことに気付いてしまう。
(し、しまった……………!!)
「き、今日はお仕事がいっぱいありますから…………みぎゃ?!」
「うん。薬の仕事は終えてしまったから、もう少し二人でゆっくりしようか」
「まさか、この一瞬で作ってしまったのですか?!…………そ、その、……………お皿を洗わなければいけないので…」
「おや、アルテアが置いていった魔術があるだろう?でも、君は自分でお皿を洗うのが好きなのだよね。では、一緒に洗おうか」
「………………ディノ、ずるいです……」
「そうかな」
こうして微笑む時、ネアは自分の伴侶は老獪な魔物でもあるのだと思い知らされる。
ぞくりとする怜悧で凄艶な美貌は、ふとした瞬間に、他の魔物達よりも遥かに仄暗く鮮やかに見えるのだ。
いつもは瞬き程の間に消えてしまうその微笑みを、こんな時にはずっと吐息が触れる程の距離で見ている羽目になり、ネアの心のコップも既に限界であった。
(……………でも、コップの水が溢れてしまったから、こうして抱き締めたくなる気持ちは、私にも分かるようになった…………)
まだ慣れないのは、こうして距離を詰める経験が絶対的に少ないからなのだろう。
いつかは慣れるのだろうかと考えてはみたが、今の自分の技量では百年くらいはかかりそうだ。
途方に暮れながら洗い物をしていたが、ネアは調理の合間にも洗い物を進めてしまう派なので、残念なことに洗って時間を潰せるものは、食卓に並んだお皿くらいしかなかった。
あっという間に終わってしまい、はらはらしながら洗い場の周りを片付ける。
「部屋を出る時に、三つ編みにしてくれるかい?」
「…………ふぁい。………っ?!」
こんな事なら、ごろごろして崩せないようにもっと早く三つ編みにしてしまえば良かったと考えながら、ネアは、なぜ気付かぬ内に壁際に追い詰められたのだろうと首を捻るのだった。




