爪痕と焼き立てパウンドケーキ
ぴしゃんと、天井からの雫が浴槽に満たされたお湯に落ちる。
「ふぁ…………」
ネアは、リーエンベルクの大浴場で顎先まで香りのいいお湯に浸かり、うっとりとしていた。
あまりの香気の素晴らしさにくんくんしたり、深呼吸したりしてしまうが、その症状がより顕著なのは家忘れの妖精の舞踏会の会場に足を踏み入れた家族の方だ。
ディノは元々入浴を好む魔物だが、エーダリアやヒルドまでが珍しくしっかり顎先までお湯に入ってしまい、グレアムもほぼ同じ姿勢である。
そんなに香水の香りがきつくて参加者は大丈夫なのだろうかと思えば、影絵のような場所で、尚且つ資質としては享楽や怠惰にあたるので、魔術の香りも澱んでくるらしい。
「……………それが、魔術の歪みや澱みだと分かっているので、いっそうにあの香りは堪えた。……だが、一番影響を受けたのはヒルドだろう」
お湯の中から少しだけ顔を上げ、エーダリアは心配そうに森と湖のシーの方を見ている。
その奥に浸かっているグレアムも微動だにしないが、大丈夫だろうか。
「確かに、…………あの場所は酷かったですね。そのような場所にエーダリア様を招き入れる画策をした者達が、相応しい酬いを受けるといいのですが」
「……………わーお。かなり怒ってるぞ」
「何かを粉々にしたり、踏み滅ぼす必要がある際には声をかけて下さい!」
「おや。そう言っていただけると、頼もしいですね」
「ヒルド………」
「ご主人様………」
「ありゃ。こっちもだ…………」
「お前は、妙なものとは関わるな。審査があれば可動域上弾かれるだろうが、いい加減な連中が選別をすると、影絵を開く駒にされかねないだろうが」
「…………えらばれても、はじかれてもほろぼします?」
「ネア、クッキーを…」
「今はやめろ。浴室内でものを食わせるな」
隣でお湯に浸かっている選択の魔物は、本邸の工房でかなり細かい作業をしていたようだ。
エーダリア達とは違う理由でこの大浴場の開放が嬉しかったらしく、浴槽のへりに頭を乗せるようなのけぞりスタイルでお湯を楽しんでいる。
少しでも香りを摂取したい入浴者には向かないが、くつろぎの形としてはかなり気持ちがよさそうだ。
なお、こちらで上品な入浴姿を披露している乙女は、浴槽に入ってすぐの水位が浅い部分にしっかり座り、肩までお湯に埋めるが顔は出しておくスタイルである。
両手は完全に脱力しているが、そちらはお湯の下のなのでお行儀よく座っているように見える、優雅なる淑女の楽しみ方だ。
「実は、まだよく理解出来ていない部分があるのですが、なぜ今回は、エーダリア様を舞踏会の中に入れようとしたのですか?」
「扉を開けるからだろうな」
「むむ…………。扉を……?」
端的に説明してくれたアルテアが視線を向けた先で、グレアムがふうっと息を吐くのが見えた。
白灰色の髪先を濡らしたグレアムと、長い髪を今日ばかりは結い上げずに卸しているヒルドは、なぜかとても色めいた入浴姿である。
魔術洗浄をかけて髪に匂いはもう残っていないのに、それでもお湯に浸けたくなってしまうのだろう。
ディノも同じようにしているのだが、こちらはなぜか、色香よりも辛かったのだなという不憫さの方が際立っていた。
「家忘れの妖精の舞踏会は、影絵としての記憶が古くなり過ぎているんだ。今回のように招き入れる為の算段をされても、もう、あの影絵を開く事が出来るのは僅かな者達しかいない。その点、ウィーム王族は、あるはずのない場所を訪ねたという事例を多く持つ、謂わば開場の適役になる」
「……………まぁ。それで、エーダリア様を選んだのですね」
「家忘れの妖精達の舞踏会は、役目や居場所を持つ者達を招き入れて享楽に溺れさせる場所でもあった。真夜中のまま黎明が訪れることなく、あるべき時間も回らない。…………時間の座の怒りを買ったのは、主にこのあたりの理由だろう。時間の無断管理にあたるからな」
そこでざぶんとお湯に沈んでから顔を出したノアが、片手で前髪を掻き上げる。
大事な家族が無事に戻ってきて、表情はぐっと穏やかになった。
(でも、………多分とても怒っているわ)
エーダリアやヒルドがまだ弱っているのだから、それも当然だろう。
ネアだって、大事な魔物が涙目でお湯に浸かっている姿を見るだけで、犯人は粉々で充分だと思うくらいなのだ。
「…………あの妖精はさ、そんな風にあちこちに障る騒ぎ方をしてたから、影絵も残さないように徹底的に潰されたんだよね。悪意や残忍さで誰かを奪った訳じゃないし、自分で舞踏会に足繫く通っていた連中もいる。……………でもまぁ、望まない連中を中毒的な取り込み方もしてたし、総じて屑だった。あちこちを怒らせたのも、徹底的に排除されたのも、そこだろうなぁ」
そう教えてくれたのは、ノアだ。
「ああ。だからこそ、あの妖精達の舞踏会にまた行きたいと彷徨う信奉者を多く持ちながら、影絵としても残らなかった。…………そのせいで、信奉者達がどうにかして影絵でもいいから取り戻そうとしているんだろう」
「そうか。…………私は、この世界のどこかに残っているその影絵になり得る部分の扉を開くのに、有用だったのだな………」
エーダリアがぽつりと呟き、ネアは耳元を通り過ぎていった喧噪を思い出してみる。
(ノアは悪意や残忍さはないと話していたけれど、無害という感じにも思えなかったかな。………どこか、そら恐ろしいような空っぽの賑やかさで、けれども生身の温度に似た悪意があった。…………でもそれは、誰かを殺したりするような悪意ではなくて、無責任でいい加減なものなのかもしれない…………)
けれども、そこがどれだけ醜くても、その中でしか生きられなかったような者達もいるのだろう。
ずっとずっと昔の、復讐の踏み台にした社交の場を思い出し、ネアはほろ苦くそう思う。
本当は違う場所で生きていきたくても、そのような場所でしか息が出来ないような人達を何人か見た。
ネアハーレイが我が身を滅ぼす古い屋敷から出られなかったように、彼等もまた、女達のきつい香水の香りとけばけばしいシャンデリアの光に縁取られた、中身のない噂話と、実りのない享楽に溺れるばかりの社交の輪の中に捕らわれていたような気がする。
「……………愚かで悲しい方達ですね。きっと、そんな場所に戻らずに済む方が健全だと思います。……………ただ、それが幸福かどうかと言えば、そうではないのでしょう」
「………僕の周りにも、そういう連中がいたなぁ。僕もそちら側だったこともあるけど、…………家忘れの妖精の舞踏会だけは、大嫌いだったんだよね」
「望みがない場所だったからだろう」
ふと、エーダリアがきっぱりそんなことを言い、ノアが青紫色の瞳を瞠った。
顔を上げたエーダリアは、澄んだ鳶色の瞳に大浴場の美しいシャンデリアの煌めきを映している。
同じような光の煌めきがあったとしても、家忘れの妖精の舞踏会の明かりはこんな風に美しくはなかった筈だと、ネアはなぜだか思ってしまった。
「……………うん。そうかもね。どこにも行けない連中はさ、それでもあの舞踏会の中にいつもの仲間がいるのが、幸せだったのかもしれないなとは思うけどね。あんな場所に入り浸っていたら、もう何もかもがどうでも良くなって、寂しくなくなる日も来たかもしれないけれど、願い事は叶わないんだろうな…………」
そんなノアの言葉に、どこか寂しげに頷いたのはグレアムだ。
「……時間の座に滅ぼされていくその日も、家忘れの妖精達からは何の願い事も聞こえてこなかった。……………俺は、避難場所を奪われる者達の絶望に呼ばれはしたが、願い事はそればかりだ。…………ある意味、後期のラエタの無気力さに近いものがあったな」
「……………そう言えば君は、私の城に家忘れの妖精達からの招待状が届いた時に、すぐに捨ててしまったね」
ディノがそう言うと、グレアムは少し驚いたようだった。
覚えておられるとは思いませんでしたと呟き、けれども何だか嬉しそうに微笑む。
「先程のノアベルトの言葉の通りですよ。もしあなたが、あの舞踏会で安らぎを得てしまえば、……………きっと、願いを叶える機会を永劫に失ってしまうと思いました」
「…………うん。行かなくて良かったのだろう。君のお陰で、そのような場所に行かずに済んだのだね」
「おい。……こんなところで泣くなよ」
「……………髪から雫が落ちただけだ」
呆れ顔のアルテアにそうは言っているが、グレアムは少し泣いてしまったのかもしれない。
ネアは、出来事としては絶対に許せないことだったが、こんな会話が持てたのは何だかいいことだったなと考え、唇の端をちょっぴり持ち上げた。
「ディノが、そんな場所に行かずにいてくれて良かったです。絶対に私を見付けてくれなければ困るので、グレアムさんのお陰で大切な魔物が無事だったのだと知って、ほっとしてしまいました」
「……………可愛い。懐いてくる………」
「今は、ここで、素敵な感じにとっても賑やかですものね。こんな真夜中なのに、家族がすぐに集まって助け合えて、アルテアさんも、グレアムさんも駆け付けてくれて、今はみんなで大浴場にいるのですよ。大変な夜でしたが、幸せなのだなと思います!」
「……………うん」
ネアの言葉に、ディノはふっと瞳を揺らした。
きらきらと瞳を輝かせて周囲を見回し、嬉しそうに微笑む。
ノアも同じ表情をしていて、エーダリアは噛み締めるように俯き加減に微笑んでいた。
ネアは、目が合ったヒルドと微笑み合い、素敵な気分になったのでアルテアの真似をしてぐいんと背中を伸ばしてみる。
(………あ、気持ちいい)
だが、思わぬ解放感に頬を緩めたところで、隣の使い魔に、後頭部を手のひらで掬うように持ち上げられると、元の体勢に強制的に戻されてしまった。
「……………ぎゅ?」
「情緒がないなら、余計な真似はするな」
「解せぬ……」
「アルテアなんて……」
「ディノ。これは寛ぎ妨害であって、新しい触れ合いなどではありませんからね?」
「………そうなのかい?」
たっぷりお湯に浸かってから浴室を出る際に、グレアムが少し申し訳なさそうに、ウィリアムが来られない時に贅沢をし過ぎたなと呟いていたので、ネアは、振り返った大浴場に今度はお疲れのウィリアムが来た時にも開いて欲しいとお願いをしておく。
しゃりんと、中央の大きなシャンデリアが光ったので、了承の合図だったのかもしれない。
何はともあれ、今夜もエーダリアを助けようとしてくれたように、リーエンベルクはとても優しいのだ。
「そして、ディノの為にミルクティーを淹れますね。…………皆さんも飲みますか?」
「貰ってもいいだろうか」
珍しく真っ先にそう言ったのはエーダリアだったので、きっと、一人で家忘れの妖精の舞踏会に招き入れられてしまった動揺は、まだ残っているのだろう。
(そこがどのような場所だったのかが、………少しだけ想像がつくから)
だから、こんな夜は家族でわいわいするのが一番の薬であることを知っているネアは、何食わぬ顔で頷いた。
ネアだって、けばけばしい社交の場から家に帰り、嫌悪感のあまりに吐き気がして、少しも眠れない夜を知っているのだ。
どれだけ上部が美しくても、華やかでも、そこに身を置かねばならないことに失望する夜もある。
それが自分の選択であれば尚更で、ネアならば事故だと思えることが受け流せずに、エーダリアには爪痕になっているように思えるのは、結果として、そんな場所にヒルドを招き入れてしまったからかもしれない。
(……誰もそこまでは言わないけれど、その手の要素は享楽に付き物だろう。………聞こえてきた喧騒の中にも、密やかな睦言的な響きがあった)
恐らくそこは、気を遣って貰っているのだろう。
だからネアも、汲み取れてしまったとは言わなかった。
「あ。それと、ダリルには連絡を入れておいたけど、エーダリアを引き摺り込んだ書類の文字配列は、今後、ウィームで同一配列を禁止するようにしたから」
「……………ノアベルト?」
「領内への通達の詳しい調整は、ダリルが急いで固めるってさ。ただ、リーエンベルク内部ではもう排除対象として魔術式に組み込んだから、この中では同じことは二度と起こらないよ」
「そう、……………なのだな」
驚いたように振り返ったエーダリアに、ノアがにんまりと微笑む。
湯上りに誰かが整えてくれたのか、いつもより、髪の毛がぴしゃんとなっている塩の魔物は、勿論、大切な家族の懸念を残したりはしなかった。
「今夜はアルテアだけじゃなく、グレアムにも意見を貰えたからさ、すぐに構築出来たんだよね。もし、まだリーエンベルク内に残っているものがあれば排除出来るし、こういう対策は急いだ方がいいからね」
「……ここで、領内の規格が決まるまで待つと、今度はこいつが呼び込まれかねないからな」
「あら。グレアムさんに素敵な前例を教えていただいたので、もしもの際には、扉は蹴って閉めておきますね」
「わーお。僕の妹なら、出来ちゃいそうだぞ…………」
「…………あの扉は、閉められるのだな……」
「ありゃ。エーダリアは、どうかな…………。でも、閉める為の守護魔術も組み立てられるといいかもね。これは、ちょっと相談してみよう」
時計を見れば、夜もだいぶ遅い時間だった。
真夜中を大きく過ぎ、そろそろ夜明けに近い時刻となる。
昨晩も朝食の少し前まで仕事をしていたというエーダリアの体調が心配だったが、今はネアも、ここでみんなと過ごしている方が気持ちが安らかだ。
望まない場所に連れて行かれ、少しだけ傷付いるかもしれない家族がいるのであれば、尚更に。
(だからきっと、ヒルドさんもノアも、早く寝なさいとは言わないのではないかな)
だとすれば、先程ヒルドが騎士棟への連絡があると言って少し席を外したのは、案外、朝食の時間の変更の手配なども含めての事だったりするのだろうか。
「ノアベルト。お前のお陰で、これから、都度、仕事の書類を開く際に身構えずに済む。………有難う」
「…………うん。僕もさ、こんなことは二度と嫌だからね」
「とは言え、外部書類などを開く際には、今後も一応の警戒はお忘れなきよう。このような形で動くものがあるということ自体は、一つの脅威ですからね」
「ああ。私も、初めての経験だった」
神妙な面持ちでそう言ったエーダリアに、思わぬ解決策を齎したのは、アルテアだった。
「………決済した書類そのものに、状態保存の魔術をかけてから魔術金庫で空間隔離しておけ。本来は人間の組織で出来る対応ではないが、ノアベルトに手配させれば簡単だろう」
「よーし。じゃあ、アルテアの使っている工房を紹介してよ。シルが、ネアの金庫はアルテアが手入れをするようになってからの方が状態がいいって話してたし」
「……………そこは、私用だ。他の工房を紹介してやる」
「なぬ。私の愛用の金庫は、使い魔さんが手入れをしてくれているのです?」
「さてな。…………それと、お前は目を離した隙に食べ物を出すな」
突然使い魔がこちらを見たので、ネアはぎくりとした。
だが、すぐに素知らぬ顔を作ってみせる。
「ミルクティーには、クッキーや焼き菓子などが必須なのですよ?」
「だとしても、時間を考えろ」
「お菓子とは、時間や環境だけでなく、心の有りようも反映するべきものなのだと思っています」
ネアは頑固にそう主張し、ディノがそっと膝の上に三つ編みを置いてくれる。
「確かに、こんな夜には焼き菓子があった方が、気持ちが安らぐかもしれないな。ザハの焼き菓子でも出そうか」
「まぁ。いいのですか?」
「…………グレアム、お前は引っ込んでろ。………こちらで少しでもましなもので準備する」
「やきがし…………」
「簡単なパウンドケーキでいいな」
「は、はい!」
アルテアがパウンドケーキを出すと分かるとグレアムが小さく微笑みを深めたので、優しい犠牲の魔物は、わざとザハの焼き菓子を出すと言ってくれたのだろう。
ネアは視線でお礼を伝えておき、首飾りの金庫から引っ張り出しかけていた焼き菓子の箱を、また所定の位置に戻した。
そして、一度席を立ったアルテアが持ち込んだものが、夜明け前にミルクティーなどを嗜む人間を狂喜させた。
「……………一切れまでだぞ」
「焼き立てです!」
ごとんと机の上に置かれたのは、型から外されたばかりのパウンドケーキだ。
ほこほこと湯気を立てているが、たった今作って焼き上げたということもない筈なので、焼き立ての状態で保存しておいてくれたのだろう。
ネアはもう、この手の魔術の不思議に驚くよりも、ただ、焼き立てのパウンドケーキの尊さにのみ注視しようと考えている。
アルテアは、手際よくケーキナイフを取り出し、人数分を切り出してくれた。
ヒルドがこちらもどこからか準備したリーエンベルクの食器に、焼き立てのパウンドケーキが載せられる。
食べたい人を募集したところ、あまりにもいい匂いだったせいか皆が挙手してしまい、不思議な時間のパウンドケーキパーティが始まった。
「……………むぐ!……………美味しいでふ」
「美味しいね…………」
「ディノは、この焼き立てパウンドケーキの、少しかりかりっとした表面の部分が好きになったのですよね」
「うん」
嬉しそうにパウンドケーキを食べているディノを見て、グレアムが満足気に微笑んでいる。
最近はちょっぴり涙もろくなっている犠牲の魔物だが、もう本日分は大浴場で泣いてしまったのだろう。
エーダリアもほっとしたような様子でパウンドケーキを食べていて、そんなエーダリアの様子を、そっとヒルドとノアが窺って微笑んでいる。
「家族でいただくようなパウンドケーキなので、こんな日は、アルテアさんの出してくれたものになって良かったです!」
「一切れまでだぞ」
「……………ぐぬぅ」
美味しさを崇めてもう一切れ増やして貰う作戦はあえなく潰えたが、今回は分の悪い戦いになると事前に察知していたネアは、こんな失敗も想定の上で最後の一口を残しておく手練れであったので、空っぽのお皿を悲しく見つめることにはならなかった。
「そう言えばさ、エーダリアは向こうで何読んでたの?」
そろそろこの不思議に温かな会もお開きかなということろで、ノアがそんな質問をした。
しかしなぜか、やっと柔らかくなっていたエーダリアの表情が、その途端に曇るではないか。
ノアも気付いたのかはっと息を飲み、悲し気に瞳を瞠っている。
「ご、ごめん。もういいや、今夜の事は忘れようか………!」
「……………そうではないのだ。その、……………ノアベルト」
「ノアベルトが……………」
「まぁ。ディノもしょんぼりなのです…………?
「やれやれ…………」
ネアも、向こうでの事を思い出してしまったのだろうかと思ったが、呆れたような目をしたヒルドの様子からすると、どうも違う理由だという気がする。
ネアが首を傾げていると、エーダリアが覚悟を決めたようにぽそりと呟いた。
「……………塩の魔物の転落物語なのだ」
「え、……………それ、僕が虐められる本だよね…………」
「魔術書などでは、周囲の要素の影響を受けるのでまずいと思った。そして、それ以外で持っていたのは、…………その本だけだったのだ」
「あの本を持ち歩いてしまうのは、分かるような気がします。随所に面白いところがあるので、ついつい、読み返したくなったりしますものね」
「ああ。そうなのだ!一番新しいものは、いつも魔術金庫に入れてある」
「……………ヒルド、エーダリアが虐めるんだけど」
「おや、その本があったお陰で、精神的な負荷が軽減され、あなたの付与した目晦ましが長持ちしたのかもしれませんよ?」
「……………ありゃ」
そう言われてしまうと、ノアは綺麗な瞳を揺らしてふるふるするばかりだったが、申し訳なさそうに項垂れたエーダリアは、一生懸命に自分を繋ぎとめてくれた契約の魔物に対し、よりにもよってという本しかなかった罪悪感を抱いているらしい。
だからネアは、そんな家族の為に上手い言葉を探してきた。
「ノアは、扉のこちら側でも向こう側でも、エーダリア様を守っていたのですね」
「……………うん。……………でも、後でエーダリアにはボールを投げて貰おうかな」
「……………す、すまない。付き合おう」
「おい。その話は狐になってからにしろ………」
「まぁ。今度はアルテアさんが少し弱ってしまいました…………」
「ご主人様………」
「そしてディノは、三つ編みを持っていて欲しいのですね?」
塩の魔物の転落物語からの、ノアが人型でボールを投げて欲しい発言となったので、聞いていただけのディノまでもが少し弱ってしまったようだ。
ネアは大事な魔物の三つ編みをしっかり握ってやり、皆でカップやお皿を片付けると各自の部屋に戻った。
グレアムにも、リーエンベルクに泊まってはどうだろうと声がかけられていたが、自宅が近いので家に戻るようだ。
そう言えば仕事があったのではとネアは青ざめてしまったが、幸いにもザハでの仕事は午後からだという。
リーエンベルクの反応を見る限りはもう大丈夫だろうと、アルテアも自分の屋敷に戻っていった。
こちらに滞在するのであれば、ちびふわにして抱っこして寝るのも吝かではなかったので、それだけが心残りである。




