城郭都市と夜紡ぎの剣 5
「お待ち下さい。………もうお帰りに?一曲踊りませんか?」
さて次の一曲でと思ったところで、ネアを呼び止めたのは、ハーフィードであった。
ばさりと揺れたケープに、こちらを見た青い瞳にシャンデリアの光が揺れた。
一緒に振り返ったノアが、ネアの腰に回した手に僅かに力を入れる。
「そうだね、少ししたら帰るかな。僕が、この子ともう一曲踊ったらね」
「せっかくお誘いいただいたのに、申し訳ありません。……ここにあまり長居しない方が、皆さんの為にも良いと思いますので」
敢えてその言葉を伝えてみたネアがちらりと視線を向けた先では、リシャードとのダンスを終えた真紅のドレスの女性が泣きそうな目をして立っている。
すぐにそこに割って入った黒髪の美丈夫がおり、明らかに貴族ではなく軍部の者であろうその男性は、壊れ物を扱うようにもう一人の王女の肩を抱き寄せていた。
ネアの視線を辿り、蕩けるような柔和な美貌を彩る青い瞳が困ったような微笑みを浮かべた。
「…………あの子が我が儘を申したのでしょう。お連れ様には、後で謝罪しておきます」
「だとしても今夜のお祭りは、皆さんのものなのだと思います。私達は、こうしてお城に呼んでいただけただけで満腹ですから、帰るべき時間を見定めるべきでしょう」
「私があなたと踊りたいのだと、お願いしてもでしょうか?」
そう微笑みかけられ、ネアは目を瞠った。
この領主には確か、昨年娶ったばかりの美しい妻がいる筈だ。
とても仲のいい夫妻だと聞いているので、こうして意味ありげにダンスの誘いを受けるとは思わなかった。
そんなネアの困惑に気付いたのか、ハーフィードは、おやっと眉を持ち上げてから小さく笑う。
「失礼、………誤解させてしまいましたか。あなたは、私と同じようなまじないを授かり生まれた子供のようだ。ですので、勝手に親しみを覚えてしまいました。お互いに伴侶も得ておりますので、甘やかな語らいではなく魔術やまじないについてお話し出来ればと思いまして」
そう説明され、漸く得心した。
この領主がネアに求めているのは、人ならざる者達とのかかわりで得られる祝福や守護についての話題なのだろう。
(そして多分、私を窓口にして、ノア達からの手助けを得られるかどうかも確かめようとしている…………?)
であればネアは、それは出来ないのだとしっかり意思表示をしなければならないので、きちんと言葉で説明する事にした。
「あら、私はただの同行者ですので、あなたの欲するような情報や権限は持ち合わせておりませんよ?…………王女様達は、きっとここから良いお相手を見定められるでしょう」
その言葉に、ふっと目を瞠ったスノーの領主は、そのまま破顔した。
愉快そうにくすくすと笑った彼の隣で、お付きの騎士がまたかと言わんばかりに天井を仰いでいる。
「…………そうか、あなたは私の悪巧みに気付いておられたか。いえ、あなた方は、と言うべきでしょうが………」
「他人の事は言えませんが、人間は強欲で身勝手なものです。そして、このような形で結婚を強いられた王女様達の苦悩や悲しみも、何となくですが想像出来るような気がするのです。私はかつて、望まないものなど御免だと、凍えてしまうくせにセーターを捨ててしまった事がありますから」
「…………私も、大切な妹達に、着たくないものを着ずとも、これまでと同じように守ってやれると言えれば良かったのですが。…………その為に縋った手でした。高位の方よ、このご無礼をどうかお許し下さい」
胸に手を当てて深々と一礼した領主に、ノアは、酷薄な微笑みで肩を竦めたばかりであった。
許さないとは言わないものの、不愉快であったのは違いないのだから、人ならざる者達は安易に許すとも言わないのだ。
ノアはそのまま何も言わずにいたが、領主はその答えを得たものか、もう一度深くお辞儀をすると、隣に並んだ護衛の騎士達を連れて立ち去って行った。
近くにいた貴族達が不思議そうに、ネア達と領主を見比べているので、予め音の壁のようなものを展開してあったのだろう。
「まぁ、要するに、僕達が人間じゃないことに気付いた上でも怯まなかっただけの狡猾さを、あの人間は持ち合わせていたって事だね」
「ずっと、旅人でも構わないので、ただの旅人にしてはきっとお忍びの高貴な人であろうノア達を捕まえてしまおうとしているのだと考えていました。………でもあの方は、もう少し現実的な考え方をされていましたね」
「ナインはそれに気付いて腹を立てたんだろう。望み方にも作法がある。ねぇ、僕も怒っても良かったんだよ?」
そう微笑んでこちらを見たノアが、手を差し出してくれる。
「でも、私があの方達に理解を示したので、怒らないであげてくれたのですか?」
「君と残りの祭りを楽しみたい、僕自身の為にね。僕ともう一曲踊ってくれるかい?これで帳消しにしないと、やってられないからさ」
「まぁ、足りますか?」
「うん、充分過ぎるくらいにね。ほら、君とこうして踊れる機会ってあまりないよね?」
「ふふ、それはノアが、私だけではなくてディノや、エーダリア様やヒルドさん達を大切にしているから、機会が減ってしまうのですよね」
「……………ありゃ」
僅かに照れたようにくすりと笑い、ネアがダンスを始める位置にぴたりと着けば、人間に擬態をしていてもはっとするような美貌を持つ塩の魔物は、青紫色の瞳を幸せそうに細める。
こちらに気付いたリシャードが憮然としているのが見えたが、やはりそちらは家族の輪の外側の生き物なので、三曲目のダンスは自分でどうにかして欲しい。
「僕は酷い家族なんだ」
「むむ、そうなのですか?」
「うん。君とナインが踊っている時、君達が余所余所しくて凄くほっとした」
「あら、私はあの方に歌声を貶された事を生涯忘れない執念深い人間なので、元より今回の事件が解決するまで、何とか復讐を思い留まっているくらいの感覚なのですが…………」
「…………そうなの?」
「もしかして、仲良しだと思っていたのですか?」
「ほら、全裸でも好きに生きていいって優しくしてたから」
「それは、これからのお付き合いが想定されていないので、他人の振る舞いがどうあれと受け入れるのも楽だからですね。加えて、私が復讐したいのはあの方が私を貶めたその仕打ちであって、精霊さんとしての習性までを否定するような真似はしたくないのです」
その部分において、全裸問題を軽率に否定してしまったのは、ネアにとって手痛い失態だった。
なぜそこに拘るのかと言えば、勿論、元々この世界で人外者達の多く住むウィームに暮らす以上はと心掛けてもいるのだが、今回は特に、リシャードがネアの大切な人達とは浅からぬ関係であり、言葉を交わす仲だからということに尽きる。
知る限り、ネアの大切な人達もまた人ならざる者らしい独創性に富んだ生き物なので、そちらから、ネアの視野の狭さを知られてしまい、彼等の心を狭めたくなかったのだ。
(特にウィリアムさんなんかは、拒絶されたり否定される事に対してとても敏感そうだし…………)
ディノだって、毛布で巣作りをするし踏んで貰いたがる魔物だ。
ウィリアムは時として彼自身を追い込むほどに終焉を司り、ノアやアルテアも、戯れのような魔物らしい惨忍さでネアと同族の誰かに酷い事をする。
あなたとわたしは違うからと、ひび割れる事がこの世界にどれだけあるだろう。
でもネアはそれでも良くて、そう伝えたいからこそ、この問題は慎重にならざるを得ない。
実際にそう考えているのに、自分の発した軽率な一言で足を取られるのは嫌ではないか。
考え方の近いノアはこのような説明をしっかりと受け止めてくれるので、ネアはそこまでをきちんと説明しておいた。
「……………僕の大事な君は、やっぱりそういうところが可愛いんだ。僕はきっと、君になら、嫌われても君がずっと好きだよ」
「…………むむ、そう言われると不思議なのですが、ノアに対しては一緒にリーエンベルクに暮らすようになってから、嫌いだと思うところがないようです。恋人さんに対しては不誠実だと思う事も多いですが、呆れはしても嫌いだとは思いませんから」
「……………え、結婚しよう」
「もう家族なので、しませんよ」
求婚は断らせていただいたが、ノアは、目元を染めて瞳をきらきらとさせて嬉しそうに微笑む。
あまりにも嬉しそうにしているので、ネアはここにいるのが銀狐だったら、両手で体中をわしわしと撫でてあげるのになと考えてしまう。
やがて音楽も終わり、足を止めたところでネアは後方から誰かに腕を掴まれた。
「…………ここ迄だ。帰るぞ」
「僕は今、すごくいい気分だからもう五曲くらい踊れそうなんだけどなぁ………」
「……………それなら、他の誰かと踊ればいいだろう」
低い声に込められた不機嫌さからすると、リシャードの我慢はそろそろ限界のようだ。
ネアもそろそろ熟成肉に移行するべきだと考えるに至り、そう提言するとノアも苦笑して頷いてくれた。
(やっぱり、最終日の晩餐だとリスクが高過ぎるもの。もしもの時のことを考えて、今日の内に食べておくべきだわ…………)
ネア達の周囲には、見目麗しい男性と何とかして踊りたい女性達の包囲網が出来つつあったが、その場からお辞儀をして退出の挨拶をすれば、こちらを見ていた領主は微笑んで頷いてくれた。
きっと彼にとって、この招待は荒療治だったのだろう。
もし、ノアやリシャードが妹達を選ぶのならそれは喜ばしいが、そうでなければ、望まないダンスを強要した王女達をどれだけ冷淡に退けるのかまでが想定済みだったに違いない。
可哀想ではあるが、傷付いた王女達に手を差し伸べる男達は多い。
寧ろ、相手となるのが本来は人間ではない高位の者であるからこそ、その時に手を差し伸べてくれる男性の想いは強く確かなものだと知れるのだ。
(あの人は、そんな事を強いる自分を情けなく思いながらも、妹さん達にセーターの必要性を身を以て理解させたのだわ………)
現に、真紅のドレスの女性は今、先程の黒髪の男性にしっかりと守られ、その腕の中でほっとしたように微笑んでいる。
彼女が熱い眼差しで見つめたリシャードとは随分と雰囲気が違うが、あの男性が王女を大切に想っている事は誰の目にも明らかだった。
(この地に留め置けるのなら、或いは、人外者としての守護や知恵を得られるのならと願ったけれど、それも駄目なら、せめて妹達の荒療治にとノア達を利用してしまうのだから
なかなかの策士なのだと思う………)
ネアはすっかり感心してしまったが、そのくらいの胆力を持たなければ、対岸がいつ敵国に戻るか分からない土地で、それでも大らかに微笑むような民を守ってゆけないのかもしれない。
スノーフィスという家名は、このスノールフェを守護する者という意味があるのだそうだ。
そしてこの土地は、かつて、先代の信仰の魔物の最終経由地であったらしい。
川の向こう側からは海に繋がり、その先の島々の遥か向こうには、旧世界の魔術の影響が残る国々が控えている。
ネア達は、ハーフィードの手配で帰りも馬車が使えたので、最も祭りが賑わう城館近くの広場などを歩く事は避けられた。
「お城の舞踏会に少しだけ顔を出し、馬車で送って貰えて熟成肉のお店にも行けるのですから、今夜も素敵な夜になりそうですね」
「…………貴女の認識だけ、我々とは違うようだな。耐え難い時間の続きの、最下層ではない程度の時間と言ったところだろう」
「あ、僕はこの子と二曲も踊れて楽しかったから、今夜はまぁ、悪くない夜かもしれないね」
「…………まさか、その為に最初のダンスを引き受けたのか?」
「さて、どうかなぁ」
帰りも勿論、馬車の窓にはカーテンが引かれている。
この街に迷い込んでいる他のチームとは顔を合わせない方針であるので、姿を隠してこれだけ移動出来るのは、思いがけない収穫であった。
「さて、着替えてしまおうかな。さすがにこの装いは目立つよね」
「…………なぬ。なぜにここで始める感じなのだ」
「ささっと済ませるから、そのまま座っていて構わないよ」
「肌色警報が発令されますか………?」
「あ、それはないから、ポケットに手を入れないで…………」
ノアとリシャードは馬車の中でふわりと装いを変えてしまったので、魔術の着脱が出来ないネアは、舞踏会にも出られるドレスの裾を一時的に魔術で短く裾上げして貰い、上から外套を羽織って市井の飲食店でも浮かないようにした。
「送っていただき、有難うございました」
ここからは細い路地になるのでと、お目当の店の少し前で馬車を降りた。
ノアの手を借りて馬車のタラップを降りてから御者にお礼を言えば、帽子を持ち上げてお辞儀をした妖精の御者と妖精の馬達は、さあっと霧が解けるようにしてその場から消えてしまう。
がらがらと遠ざかってゆく車輪の音が聞こえたので、帰りは透明になってお城に戻るようだ。
二日目の祭りの夜のスノーの街には、そこかしこに陽気に騒ぐ男達の姿があった。
ホテルにも近いこの辺りは、大きな広場がない区画なので、伴侶探しに荒ぶる者達は少ないようだ。
空には満月が浮かび、並木道の木立の鮮やかな紅葉を照らしている。
どこかの路地から柔らかなバイオリンの音色が聞こえてきて、馥郁たる秋の夜の美しさがそこにあった。
ふと、昨晩見た夢の誰もいない場所で輪になって踊る人達の影を思い出したが、不思議と怖さは感じなくなっていた。
(お城の舞踏会から帰ってこられたので、………何というか、この土地と呪いから少し離れたのかしら…………?)
そう考えたネアは、ほっとして息を吐く。
これで何の憂いもなく、熟成肉を楽しめそうだ。
「思っていたよりも、すんなりと帰れましたね」
「あの領主が、僕達を呼びつけた事以外では分をわきまえた人間だったからね。だからこそ、利用された感は否めないけれど、君と踊れたから報復はしないでおこう」
「お家に帰れば、ここはもう遠い昔の事なのですよね?あの方達がどうなったのか、ノアは知っているのですか?」
「うん。領主もその妹達も、とうに死んでいるね。黄色いドレスの王女は、スフィア呪いの期限までに伴侶を得なかった筈だけれど、僕達だけではなく、他の参加者もこの土地の過去に触れた訳だから、今回はどうなるかな」
「……………まぁ。あの王女様は、亡くなってしまったのですか?」
どれだけ世間知らずでも、あの場所でノア達が気紛れを起こせばあの言動一つでこの地に災厄が降りかかる可能性もあったのだ。
上に立ち、民を守らねばならない王女として、気質的にはあまり好ましい女性には感じられなかったが、それでも疫病で死んでしまってもいいとは思えない。
通りすがりの他人としての分量でしかない微々たる良心ではあるが、出来れば幸せになって欲しかった。
「呪いの顛末は疫病だから、最初から死ぬとは決まっていないんだよ。スノーの領主の一族は信仰の魔術を持っていて、僕の知る歴史では、その魔術による治療で疫病を克服した事になっていた筈だね。まぁ、さっさと伴侶を得ておけば良かったんだろうけれど………」
「…………それでもと、必要なものを手に取らない事もまた、あの方の生き方なのですものね……………」
「僕にとっては、どうでもいい人間の話だけどね」
そんな話をしている内に、ネア達は目的のお店に辿り着いたようだ。
正面に見えていた熟成肉のお店の扉を開け、席が空いているかどうかを尋ねたところ、今夜はお城での舞踏会があるので、割り増し料金が必要になる貴族用の個室であれば空いているという。
ただしその個室だと、料理人が焼き網で熟成肉を焼く調理パフォーマンスは見られないのだそうだ。
個室で構わないネア達はその席でと頷き、なかなかに豪奢な内装の個室に通される。
安宿であれば一晩泊まれる値段が加算されるので空いていたが、相変わらずノアはまったく気にならないらしい。
「ノア、資産状況的に本当に大丈夫なのですか?」
「ネアだって、ほこりに貰った宝石一つで小さな国が買えるでしょ?そういう事だよ」
「むむ、………つまり、そのようなものを必要なだけ生み出せてしまう……?」
「うん。だから、このくらい気にしなくても…」
「おのれ、選民どもめ……!」
「えっ、何で………?!」
ノアはとても困惑していたが、ネアが労せずしてぽぽいと財産を生み出せる事を黙認するのは、名付け子であるほこりくらいのものだ。
狩りの女王とてせっせと獲物を仕留めて貯蓄に励んでいる中、働くという概念がない生き物への羨望はやはり恨みがましくなってしまう。
「ぐるる………」
「ほら、ネアの食べたかった熟成肉だよ。えーと、これでいいのかな……」
「しっかり赤みのお肉のものと、上質な脂がさっぱりながらもとろける熟成肉の二種をいただきます!」
「うん、好きなだけ食べていいからね。………それとナインは、会計を分けるのも面倒だからまとめて払うけど、魔術の繋ぎは自分で切ってくれるかな」
「言われなくても。…………熟成肉ではないが、炙り刺しがあるようだが、これはいいのか?」
「炙り刺し様!!」
この世には労せずして得られる恵まれた者と、歯を食いしばって働かねばならない持たざる者がいる。
ネアは全ての不平等さを熟成肉に向けることにして、勿論この土地の美味しい葡萄酒も吟味して選んだ。
最初の炙り刺しは白で、熟成肉では赤を頼む予定なのだが、ノアが頼んだロゼも勿論いただく所存である。
「とは言え私はやはり、自らの手で獲物を狩りお金を稼ぐのが性に合っていますので、そろそろ目新しい獲物などに出会いたいですね」
「…………僕さ、そろそろネアの狩ってもいい獲物って、減ってきた気がする」
「あら、リズモはあちこちにいますよ?」
「この前だって、スリフェアで夜紡ぎの剣を………………夜紡ぎの剣!!」
ここで、突然テーブルに手を突いてがたんと立ち上がったノアに、ネアは目を丸くする。
なぜか、目を閉じて激しく震えているが、ネアの最新の武器がどうしたのだろう。
「…………夜紡ぎの剣だと?まさか、今も持っているのか?!」
「なぜに、リシャードさんまで荒ぶり出したのだ…………」
こちらもテーブルに手をばしんと叩きつけて立ち上がった死の精霊は、立ち上がったまま悲しく肩を震わせている塩の魔物の肩を両手で掴み、がくがくと揺さぶっているではないか。
(…………もしかして、リシャードさんにとって、大切な物だったりしたのかしら?)
その可能性があるのではと考え、ネアは購入したばかりの武器を取られないようにと、腕輪の金庫から激辛香辛料油の水鉄砲を取り出しておく。
万が一リシャードが強引に取り上げようとした場合は、これで動けなくしてしまおう。
「…………ネアがさ、スリフェアで買ったばかりなんだ」
「とうにこの世界から失われたとばかり思っていたのだが、発見されたのか…………」
「この子が身に蓄えた収穫の祝福って、そりゃあもう凄いからね。スリフェアからも失われた筈の剣が、なぜかまだあそこに残っていたりもするんだよ…………」
「それがあれば、どれだけ早く帰れたと思っているんだ…………」
「……………今回のスリフェアでは、ちょっと手痛い失態をして記憶を封印していた関係で、すっかり忘れてたよ」
(それって、エーダリア様に一生懸命謝っていた件かな………)
ここで、立ち上がって荒ぶっていたノアとリシャードは、すとんと崩れ落ちるように椅子に座り、同じような姿勢で頭を抱えてしまった。
ちょうど白葡萄酒や炙り刺しのお肉が運ばれてきたので、扉を開けた店員はぎょっとしていたが、ネアが気にしなくていいと微笑んで伝えれば苦笑して頷いていた。
これだけの男前でも上手くいかないものですねぇと笑ってくれたので、ノアとリシャードが振られてしまったと勘違いしているのかもしれない。
幸い、この店の店員達はそれぞれに伴侶がいるようだ。
身内にもお相手を探している女性はいないようで、こちらに向けられる眼差しに、であれば誰それのお相手にというような思案の様子はない。
扉が閉まって店員が退出すると、ノアが重たい口を開いた。
「…………ごめんネア。夜紡ぎの剣があれば、合法的に夜を紡いで、昼間の時間を短縮出来たんだ………」
「……………そのような事が出来る剣なのですか?」
「ありゃ、もしかしてまだ使った事がないのかい?」
「はい。ウィリアムさんが使い方を教えてくれる約束でしたので、その日まではと………」
「わーお、やっぱり腹黒いぞ………」
聞けば、夜紡ぎの剣はその剣戟により、夜を紡ぎ昼の時間を削れるものであるらしい。
ネアの技量でも数時間程度、剣の腕に覚えのある者が使えば、昼の時間の半分くらいを容易く削れてしまったのだそうだ。
「これはさ、そうして時間や属性を変えられるものだからこそ、人知れず葬られた道具だからね」
「だからディノも、ウィリアムさんに使い方を教えて貰える時までは、使わずにしまっておくようにと話していたのですね…………」
「念の為に聞くけど、ネアは、葡萄酢と蔵出しの新酒の葡萄酒を買えればもういいんだよね」
「はい。どちらもお店の見当はついたので、ささっと買ってしまえますよ?」
「…………では、それを済ませたらさっさとここを出るぞ…………」
そう呟いたリシャードの瞳はとても静かだったが、悲しみを堪えているのは間違いなかった。
ネアは、それはさて置きと、きりりと冷えた白葡萄酒を美味しくいただき、杏と夏雨の香りにピアノの旋律の翳りのあるというその味に感動に打ち震える。
「…………この葡萄酒も買って帰ります!」
「それなら、店に在庫があるだろう。店側の言い値で買っておいてやる」
「まぁ、良いのですか?」
「え、ネアの為なら喜んで買ってあげるけれど、お会計僕なんだけど…………」
「明日は開店と同時に、買い物を済ませ、すぐに夜紡ぎの剣を使う。剣技であれば、お前より私が扱った方がいいだろう」
「………お渡しする前に、必ず返却するという誓約書を書いて下さいね」
「…………その購入の経緯を聞いておいて、私が持ち去る訳がないだろう………」
だが、これで無事に帰る算段はついたようなものだ。
そうと決まればと気を取り直したのか、ノアもリシャードも、ネアがすっかり気に入ってしまった葡萄酒を飲み始め、表面を軽く炙った生肉を、上等な葡萄油と香草塩と胡椒だけでさっぱりといただく炙り刺しを食べ始める。
ハムのように薄く削いだ炙り刺しは、噛むというよりは口の中ですぐになくなってしまう美味しさで、辛口の白葡萄酒にとても合う。
この街と言えばのソーセージも注文したのだが、熟成肉も頼んでいるのでそちらは辛いチョリソーのようなものにしておいた。
山盛りのサラダと、しっかりとした食感の黒パンも美味しく、ネアは大満足で炙り刺しをまた一枚頬張る。
「むぐ!幸せれふ」
「もう一皿頼むかい?今夜はお祝いだから、好きなだけ食べていいよ!」
「少し早く帰れると判明してとてもご機嫌ですが、ここでは酔っ払って脱がないようにして下さいね」
「…………あ、そうだった」
「そんな悪癖があるのか、絶対に脱ぐな」
やがてテーブルに、まずはしっかりとした赤みの熟成肉が届いた。
赤葡萄酒を使った濃厚なソースをかけていただくのだが、そのあまりの美味しさにネアは椅子の上で弾んでしまう。
噛み締めて美味しさを楽しむタイプの肉なのだが、しっかりとした味わいで少しもくどくない。
(お、美味しい……!!)
「…………ほお、これは美味いな」
「うーん、僕は今のところ炙り刺し派かなぁ」
「あら、私はたった今、この熟成肉派に乗り換えました」
「え、僕を捨てるの…………?」
「しかしながら、まだもう一種類のお肉が来ていませんので、最終的にはどうなるのか分かりません」
ネアは慎重にそう答えたが、とろけるお肉の熟成肉との出会いは衝撃的であった。
こちらは、表面に香草の香りをつけて塩胡椒で味を整え軽く焼き目をつけたものを、中央部分はレアに近い状態で切り分けて振舞われるのだが、そんな熟成肉は、ネアの主神であるローストビーフに近い状態と言えよう。
それを、ネアを感動させたとろりとした濃厚な葡萄酢のソースで食べるのだから、塩味と酸味の組み合わせの妙技により、ネアにお代わりをさせる至高の料理となっていたのだ。
ノアはロゼの葡萄酒が気に入ったようで、こちらも店に在庫があれば買い上げると話している。
そのロゼや、お肉に合わせた赤葡萄酒も美味しかったが、やはりネアとしては白葡萄酒だろうか。
こうしてとても和やかな晩餐の時間を楽しみ、ネア達は満ち足りた思いでホテルへ帰った。
ネアは、帰り道で葡萄酒のお土産袋を沢山抱えた見知らぬ男性から手を振られたのだが、ノアがそちらを一瞥すると、どこかで見たことのあるフード姿の男性が、手を振っていた男性を慌ててどこかへ連れて行ってしまった。
リシャードがとても険しい顔でそちらを見ていたので、もしかすると知り合いなのかもしれない。
その夜は、安堵に気の緩んだノアが、昨晩に買って帰った葡萄酒の残りを部屋で飲んで脱いで騒ぐ事件があったが、こちらも熟成肉という神に出会いご機嫌のほろ酔いなネアがうっかり鼻歌を歌ってしまったところ、すやすやと眠ってくれたようだ。
リシャードが目を輝かせて愉快そうに笑っていたので、やはり自分の歌の技量は素晴らしいのだと再確認したネアも、幸せな気持ちで眠りについたのだった。




