雪真夜中の灯りと青いチケット
真夜中に、突然目が覚めた。
ぱちんと切り替えるように目が開き、ネアは状況が分からずに目を瞬く。
それ程に唐突な覚醒であった。
(……………まだ、真夜中のようだけれど)
雪明りが夜を照らすウィームの冬は、どんな時間でも窓の外は真っ暗にならない。
夜ともなれば一番暗いのは秋なのだが、今夜ばかりは少し様子がおかしい。
そう気付いたネアは、ぎくりとした。
暗いのだ。
妙にべっとりと、部屋の中が暗い。
ここが夢の中でなければ、何か異変が起きているのだろう。
慌てて、隣に寝ているディノの体を揺さぶる。
「ディノ」
「……………ネア?」
慌てて隣に眠っている魔物を揺り起こすと、ディノは真珠色の睫毛を揺らして目を開いた。
悪夢にありがちな事例として、ここで側に居る人が目を覚まさない場合もあり得たので、ネアはまず、頼もしい魔物の覚醒にほっと胸を撫で下ろす。
「突然目が覚めてしまったのですが、………夜が、いつもよりも暗くありませんか?」
「………おや、どこかで扉が開いているね」
「扉が………?」
起き抜けの柔らかな眼差しがふっと鋭くなり、ディノが体を起こすと、真珠色の光を孕む長い髪がさらさらとと流れ落る。
緩やかな巻きのある髪なので、肩から流れた後に寝台の上で僅かに不規則に弾む様子は、それだけで息を呑むような美しさだ。
夜が奇妙な程に暗いので、ネアは思わず、ぼうっと光るような色に思わず魅入られてしまう。
だが、こんな時はいつもであれば真っ先にネアを案じてくれる魔物が、どこか冷え冷えとした魔物らしい眼差しで周囲を窺うではないか。
その反応に背筋が冷えたネアは、指先で首飾りの金庫の所在を探る。
(………うん。ここにあるわ)
着用している感触をなくせなかったら、どれだけ不用心だと言われても、さすがに就寝時に外さずにいるのは不可能だっただろう。
こうして側に置いておけるのは有難いが、身に付けている感触がないので、ふとした時に心配になってしまうこともある。
「私達には気付かれ難いように、気配を変えているようだ。それで、君の方が早く気付いたのだろう」
「…………気付かれないように、何かを偽装しているようなものなのですね」
「こちらにおいで。………持ち上げるよ」
「はい。ディノにしっかり掴まっていますね」
「うん。…………さて、どうしようかな」
僅かに眉を寄せたディノの、ぐっと暗い夜の光の中で煌めく水紺色の瞳を見つめ、ネアはこの魔物の長い髪を三つ編みにしてあげるかどうか少しだけ悩んだ。
だが、すぐにディノが立ち上がったので、そのまま掴まってることにする。
「ネア。アルテアを呼んでご覧。…………私からの呼びかけは届かないようだけれど、君からの呼びかけは別の拾い上げをしているかもしれない」
「…………カードではなく、名前を呼ぶだけでいいのですか?」
「うん。今夜はウィームに居ると話していたからね」
「は、はい。ではアルテアさんを呼んでみますね」
ネアはごくりと息を呑み、どんな感じがいいのだろうと考えながらアルテアの名前を呼んでみた。
するとどうだろう、ディノが深く艶やかに微笑むではないか。
「……………気付いたようだ」
「まぁ。ディノには分かってしまうのですね」
「すぐにこちらに呼ぼう。手が多い方が良さそうだ」
「はい!」
寝室を抜け、そのまま部屋を出る。
廊下に出ると暗さはいっそうに酷くなり、いつもは青白い雪明りが投げかける夜の影がどこにも見当たらない。
それは、まるで大事なウィーム専用の陰影を忘れてしまったような、どこか不自然な暗さであった。
「ノアを起こしに行きます?」
「いや。ノアベルトは、既に扉の近くに向かったのだろう。……………恐らく、開いたのはエーダリアとヒルドの近くだ」
「…………っ、」
ひゅっと鋭く息を吸い、ネアは込み上げてきた怖さを押し戻そうとした。
けれども、冷静になりきれずに指先に力が入ってしまう。
「お二人は………」
「恐らく、エーダリアは扉に随分と近かったのではないかな。………場合によっては、招き入れられている可能性もあるね」
「………ふぁい」
「君をその近くに連れてゆくのは避けたかったのだけれど、私も手を貸した方が良さそうなんだ。………ただ、そうなると君を一人にしてしまうので、どうしようかなと思っていたのだけれど………」
「意志のようなものがあるのなら、………侵入者でしょうか?」
「いや。新年の振る舞いの前に、手紙や書類の行き来があった筈だから、その中のどこかに、条件指定の門を埋め込まれていた可能性もあるね。ただ、検査を経ていない外部からの物を受け取るようなことはしない筈だ。今、ゼノーシュに何かが紛れ込んでいないか調べさせているよ」
「………何かが」
以前にもあったことだが、リーエンベルクとは言え、妖精などの侵食を完全に防ぐのは難しい。
在籍している人員の内側に巣食われていた場合や、誰かが知らずに外にいるものを招き入れる約束をしていた場合。
そのような場合には、異変があってから証跡を辿らざるを得ず、どうしても対応は後手になってしまう。
暗い廊下をディノに持ち上げられて移動し、エーダリアとヒルドの部屋のある中央棟に向かう。
こつこつと靴跡が響くのは、誰かの居住室のない区画だ。
この辺りの廊下は絨毯を敷かずに、敢えて靴音などを拾えるようにしてあるのだ。
(………おや)
それが見えたのは、廊下を曲がったときだった。
開いた扉の奥の部屋から漏れる光のように、廊下の先にぼうっと灯りが見える。
ぎりりと眉を寄せ、ネアはその灯りに目を凝らした。
普段であれば閉まっている扉で、こんな日に誰かがいるとは思えなかったからだ。
少しずつそちらに近付いてきていることに不安を覚えながら、けれどもディノの肩にしっかりとしがみついていたのは、ディノが何も言わないのにも、きっと意味があるのだろうと考えていたから。
(あれ…………?!)
しかし、なぜかディノは、そのまま灯りの落ちている扉の前を通り過ぎようとするではないか。
という事はやり過ごした方がいいもなのだろうかと困惑していたネアは、直後の呼びかけにうまく反応できなかった。
「ああ、あったこれだ。この青いチケットを持って行けば入れる筈だ。いいかい?四名までだよ!」
「…………は、はい?!」
にゅっと、扉の向こうから伸ばされた手が何かを押し付けてきて、ネアは思わず受け取ってしまう。
受け取ってからしまったと思い、ぞっとしたまま扉の方を見てまた呆然とした。
その扉はいつものように閉まっていて、灯りが漏れるどころか廊下は真っ暗だったのだ。
「ネア?」
「…………い、今、この部屋から手が伸びてきて、このチケットがあれば入れると、…………渡されて受け取ってしまいました」
「…………見せてくれるかい?………これは、暮らし忘れの妖精の舞踏会のものだね。………随分と古いものだ」
「暮らし忘れの妖精さん………」
「今はもういない種族だよ。季節の進行や祝祭の行列の外側に暮らしていた古い妖精だ。けれども、度々時間の座の運行を狂わせたので、真夜中の座と黎明の座で滅ぼしたと聞いている。………怠惰と享楽の系譜の者達だ」
「まぁ…………」
ネアは、ディノに渡した青いチケットをじっと見つめ、時間や煩い家族などは忘れて大いに歌って飲んで騒ごうという文字を見つけた。
日時と思われる表記と、その文章、そして、陽気なお客は大歓迎なので、帰らなくても結構だという不穏な文章までもが記されている。
(もしかして今夜の異変は、…………このチケットに纏わるようなものなのだろうか)
「恐らく、リーエンベルクからの助力があったのだろう。このようなことが起きた際にそのチケットを渡すような影絵を作り、条件で動くような魔術の仕掛けがあったのかもしれないね」
「で、では、このチケットがあれば、もしエーダリア様がどこかに迷い込んでいても、迎えに行けます?」
「うん。良いものを貰ったね」
「はい!」
こちらを見て微笑んでくれたディノは、もう、先程までの冷え冷えとするような瞳をしていなかった。
という事はつまり、このチケットが解決してくれた要素の懸念があり、この魔物をとても不安にさせていたのだろう。
それが解消されて良かったと安堵していると、エーダリア達の部屋のある区画に向かう廊下の交差で、ひっそりと立っているアルテアを見つけた。
(この服装は………)
漆黒のスリーピース姿に白い杖を持っているアルテアを見て、ネアは、容易ならざる事件が起きたのだと再確認してしまう。
ネアは、帽子と杖を備えた漆黒のスリーピースは、ウィリアムの軍帽ありの装いのような選択の魔物の正装なのだと考えている。
その装いが必要だと思うくらいのことが、ここで起きているに違いない。
「騎士棟はどうだ?」
「ゼノーシュから、入り込んだ者はいないと言われたよ。…………ただ、振る舞い料理の手配の際に、確認書を持って来た商人の一人から奇妙な匂いがしたらしい。あまりウィームでは好まれない香辛料の匂いだったので、念の為に店側との確認も行ったそうだ」
「違和感があったのなら、この手の問題は大抵がそこに帰着するだろうよ。…………店というよりは、書類の配達業者の不備かもしれないぞ。店の従業員ではなく商人が確認書を届けたという事は、どこぞの代理業者を使ったんだろう」
話しながら階段を登り、その途中でアルテアはこちらをちらりと見た。
目が合ったのでこくりと頷いておくと、シルハーンから手を離すなと言われてまた頷いた。
そんなアルテアは、ディノに先程預けた青いチケットを見せられ、眉を持ち上げている。
「古いな。…………今はもうないものか」
「この状況は、影絵を手繰り寄せて過去を再現したようだね。…………どのような意図で過去の扉を開いたのかが、問題になる筈だ」
「偶然、当時の忌み言葉を使ったか、…………或いは意図的にこの扉を掘り起こそうとした連中がいたのか、動機についてはダリルあたりに調べさせておけ」
「……ノアベルトは、扉のこちら側に立っていて、上手くエーダリアを繋いでいる。けれども、扉の内側に入って、こちらに連れ戻すことが出来ずにいるようだ」
「……………一度内側に入って、連れ戻すしかないだろうな」
「うん。ネア、このチケットの利用人数などは聞いているかい?」
「は!つ、伝えて忘れていました。四名です!」
「では、私かアルテアかのどちらかも、会場に入ろう。見てみて、どちらの資質が合うかによるかな………」
「お前は、出来るだけこちら側に残っておけ。…………グレアムも呼んだのか?」
「うん。扉の種類が特定出来なかったからね。彼であれば、経験として知り得ていることもあるかもしれない」
エーダリア達の部屋に面した廊下に向かう前に、ゼベルに案内されるように反対側から交差する廊下に現れたのは、白灰色の上着を着た犠牲の魔物だ。
ディノを見て優雅に一礼すると、夢見るような瞳にどこか剣呑さを湛えて微笑む。
ディノから廊下のそちら側から中央棟に入らないようにと言われたゼベルは一礼し、騎士棟に戻ってゆく。
奥にもう一人騎士がいるようなので、帰り道に一人にならないようにもしたのだろう。
「門で出会ったゼノーシュから話を聞いたので、問題の商人の情報はバンルにも伝えてありますよ。たまたま靴職人と飲んでいたので、そちらが狩りに向かったそうです。ダリルとも連携を取るそうですから、心配ないでしょう」
「その手配をしてくれたのだね。有難う。…………君は、この扉を知っているかい?」
「……………暮らし忘れの妖精の招待状ですね。……………俺の予測ですと、………所謂あの妖精達の信奉者の仕業かと。ウィームは、様々な境界に面した土地の気質を強く反映した者達が多いので、標的にされ易いんです。俺がウィームにいた時にも一度だけ扉が開かれましたが、その時は、知識のある者の手に届いたものだったので、すぐさま扉を蹴り閉めたそうですが、エーダリアは知らなくても無理もない。………あの妖精達が滅びてからは七百年にもなりますが、もう一度あの楽しみを取り戻したいという中毒的な高位の信奉者も残っているようですね」
「…………閉めることも出来るのだね」
「ほわ。ななひゃくねん………」
エーダリアの部屋の前に到着すると、そこには憔悴した様子のヒルドがいた。
きっちりと着替えていつもと変わらぬ様子だが、もう家族なのでとても悄然としているのがわかってしまうのだ。
ノアはなぜかエーダリアの部屋の扉に背中をぴったりと寄せて立っており、そこから動けないように見える。
「…………ノアベルト、どうだい?」
「シル。…………今は、僕と背中合わせになっているよ。顔を伏せて、舞踏会なんて楽しくないって風に本か何かを読んでいるようにって伝えてある。……………今のところは、僕がかけた目眩しが生きていて、まだ誰もエーダリアに話しかけてきてないかな。…………でも、そろそろ隠しきれなくなる」
(エーダリア様は、一人で見知らぬところにいるのだわ………)
しかもそこは、時間の座の精霊達に滅ぼされたという妖精の舞踏会なのだ。
おまけに、ネアが貰ったチケットには、帰らなくてもいいというような不穏な文字が記されている。
(享楽と怠惰………。少しだけ、ゴーモントのよう………)
時間を忘れ、家族の目から逃れて享楽と怠惰に溺れるような場所だとも思えば、正直なところ、あまり良い場所だとは思えなかった。
「ネアが、リーエンベルクからチケットを貰ってきてくれたよ。………招待状のようなものかなと思ったけれど、売り物に見えるね」
「ありゃ。チケットが残ってたんだ。………騒ぎにならずにどうやって連れ戻せばいいのか、悩んでいたところだったんだけど、……………それがあれば」
「うん。これがあれば、正しい入り方が出来るだろう」
ディノが手にしたチケットを見て、ノアは目に見えて安堵の表情を浮かべた。
そんなノアの表情の変化に事態の好転を見て取ったのか、続けてヒルドが瞳を揺らす。
「シルハーン、俺が行きましょう。あちらの連中にとっては、あまり喜ばしくない客になる筈なので、帰ると言えば喜ぶ筈です」
そう名乗り出てくれたのはグレアムで、ディノが僅かに瞳を瞠った。
「いいのかい?」
「俺も、ウィームの住人ですからね。領主に何かがあると困りますから」
「………有難うございます」
深々と頭を下げたヒルドに微笑み、グレアムが頷く。
「エーダリアとの繋がりがあった方がいいから、君にも行って貰うようになるだろう。シルハーン、チケットは何人まで有効ですか?」
「四人までのようだ。ノアベルトはこちらの錨になるから、動かせないだろう。…………向こうにあるのは、花の香りと、音楽の資質が大きいかな。となると、私が入った方が良さそうだ。……………アルテア、この子を頼むよ」
「……………音楽か」
「演奏家としての顔も持つ君は、近付かない方がいいと思うよ。別の角度から繋がりを取られると良くないからね」
「ああ…………」
苦々しくそう呟き、アルテアは顔を顰めている。
ネアはディノの手からアルテアに預けられ、周囲が不安定になっているのでアルテアから離れないようにと言い含められた。
「ディノ…………」
「大丈夫だよ。すぐに帰ってくるから、待っていてくれるかい?」
「戻ってきたら、美味しいミルクティーを淹れますね」
「うん。……………では、行ってくるよ」
「ネア。シルハーンのことは俺が守るから、安心していてくれ」
「は、はい!グレアムさん。ディノをお願いします!」
「あ、僕の、エーダリアとヒルドもね!」
エーダリアの部屋の扉にぴったり背中を預けたまま、苦しげにそう微笑んだノアに、グレアムがふっと微笑みを深めた。
しっかり頷いてくれた犠牲の魔物の姿に、ネアは、義兄の魔物が痛ましいくらいの安堵を見せたことに気付いて胸がぎゅっとなってしまう。
(きっと、ノアは不安で堪らなかったのだわ………)
ぎいっと、どこかで大きな扉が開く音がする。
それが背後からだったのでネアは思わず振り返ってしまい、何も見付けられずに視線を戻すと、もうディノたちの姿はなかった。
「…………えぐ」
「………ったく」
心配なあまりに思わず嗚咽を飲み込むような声が漏れてしまうと、アルテアが溜め息を吐いて自由になる方の片手で頭を撫でてくれる。
杖は脇に挟んでいるようだが、それでも仕草に不自然さはなかった。
「ノア。…………大丈夫ですか?怖くありません?」
扉に背を預けたままのノアが気になって声をかけると、まるで縋るようにこちらを見た青紫色の瞳は、とても無防備に見えた。
「…………僕は大丈夫だけど。…………こういう怖さは嫌だね。絶対にエーダリアから手を離すつもりはないけど、僕にはさ、………扉の向こう側が見えないんだ」
「ディノ達が迎えに行ってくれたので、きっともうすぐだと思います!」
「うん。…………ヒルドはさ、ああいう奴等に好かれそうな妖精だから、それも大丈夫かな」
「なぬ。…………きりん帽子を渡しておくべきでした………」
「ありゃ。それ渡すと、シルとグレアムも死んじゃうからやめて………」
しっかりと体に回された腕と、服越しに伝わる体温。
ネアはいつもよりも口数の少ないアルテアがとても緊張していることに気付き、そっと様子を窺う。
「何かが、まだ危うい感じでしょうか?」
「…………仕掛けられたものだ。あちらが揺動である可能性も、皆無ではないからな」
「そ、そうでした………」
「エーダリアの執務室あたりに、招待状かチケット代わりになった何かがある筈なんだよね。それを見ればどういうものなのか分かるんだけど、今は、ここが開けられないからさ」
「…………魔術の置き換えで、その扉を向こう側との境界に仕立て上げたのか」
「そういうこと。でも、ぎりぎりだったんだ。僕が気付いて駆け付けた時にはもう、それくらいしか出来なくてさ。…………ヒルドが、寝る前に今夜は森の妖精達が煩いって話してたんだよね。振る舞いが近いからかなって、あんまり考えてなかったんだけど、…………今思えば森の妖精達の声がここまで聞こえるはずもないし、きっと扉が開きかけていたんだろうな………」
だからきっと、ノアは怖くて悲しかったのだろう。
ネアは、大切な家族にそんな思いをさせているこの事件が、少しでも早く解決してくれればと願う。
それでもやはり、廊下はとても暗かった。
祈るような思いで、待ち続ける。
その時のことだ。
「………っ」
ざわざわと揺らぐのは、舞踏会や夜会などの喧騒だろう。
品なく騒ぎ立てる人々に、どこかそら恐ろしい悪意を滲ませた女性の笑い声。
そんなものが風の揺らぎのようにふわりと通り抜け、ネアは、前世界の層が通り抜けた日のことを思い出す。
慌ててアルテアの顔を見上げてしまったが、幸い、弱っていたりする様子はないようだ。
それどころか、怪訝そうにこちらを見ている。
「ネア?………何かあったか?」
「今、………あまり良くない感じの、舞踏会の喧騒のようなものが聞こえました。ほんの一瞬だけ、………通り過ぎるように」
「ノアベルト、そちらはどうだ?」
「シル達が合流したみたいかな。…………もしかすると、その瞬間かもしれないね。シルを通して、ネアにも何かが届いたのかもしれない」
「そうだったのかもしれません。…………こちらに触れたといよりは、…………風に乗って喧騒が届いたような感じでしたから」
ぎいい、ばたん。
すると、またそんな音が聞こえた。
はっとしたノアが扉から背中を離し、両手でエーダリアの部屋の扉を開く。
「エーダリア!ヒルド!無事だったかい?」
「エーダリア様!…………ふぇぐ。みんな帰ってきました!」
そこには、ネアの大事な家族や、グレアムがいた。
なぜか全員が床に蹲って口元を片手で覆っているが、怪我をしていたり、良くないものを引き受けてしまっているような様子はない。
よろよろとこちらに出てきて廊下に蹲ったエーダリアの片手は、しっかりとヒルドが握り締めていた。
「ノアベルト。……………お前のお陰で、戻って来れた」
「エーダリアが落ち着いて行動したのも、良かったんだと思うよ。もしあそこで、我慢出来なくなって僕の側から離れてどこかに隠れようとされてたら、もう手が届かなくなるところだったんだ………」
「……………酷い匂いでしたね。…………ネイ、魔術洗浄などは必要でしょうか?」
「うん。すぐに作るよ。………うわ。凄い香水の匂いだね。…………それと、酒と、水煙草かな」
「ご主人様………」
「まぁ。ディノもよれよれです………!浴室の準備もしてあげましょうか?」
アルテアな乗り物から床に下ろして貰い、大事な魔物に手を伸ばしながらそう言いかけたネアは、ばっと振り返った。
同時に、エーダリアも同じ方向を見る。
「大浴場です!」
「………ああ。開いたようだな」
「……………すまないが、俺も入浴させて貰ってもいいか?」
控えめに手を上げたのはグレアムで、エーダリアがすぐさま頷く。
「勿論だ。休んでいってくれ。…………今回は、こんな時間に迷惑をかけた」
「いや。リーエンベルクの大浴場が報酬なら、充分な支払いだろう。…………シルハーン、立てますか?」
「うん。………ネア、まずは魔術洗浄をかけるから、少し離れていてくれるかい?」
「ふぁい。…………私の大事な魔物を変な香水の匂いまみれにした場所なんて、きりんさんカードを千枚くらい撒き散らしてやるべきです………!」
「ご主人様………」
「おい。余計に弱らせるな………」
「む?」
簡易的な魔術洗浄を終えると、ディノ達の服や髪に染み付いた匂いはなくなったようだ。
ほっとしたようにはしているが、とはいえ、散々吸い込んでしまった香りの記憶のせいでとても具合が悪いそうで、一刻も早く大浴場の素晴らしい香りの中に飛び込みたいと、そちらに向かう皆の足取りはとても早い。
ネアは、ちょっと駆け足かなという家族を使い魔の介助で必死に追いかけ、共に大浴場に向かった。
そして、ノアは勿論、アルテアも大浴場を楽しむのは吝かではないらしく、突然の異変からの突然の大浴場の時間が始まることとなる。
(あの扉はもう、閉まったままだったな………)
道中の廊下の窓から落ちる夜の光が明るかったことにほっとしながら、ネアは、青いチケットを渡してくれた誰かに、ちゃんと会いたかったなと少しだけ思う。
あのチケットを渡してくれたお陰で大切な家族を取り戻せたので、会ってお礼が言えれば良かったのだが。
なお、扉を開いたのはエーダリアの執務室にあった、料理の注文書と、支払いに必要な請求書の一式だったようだ。
回収した書類は既にノアが魔術でダリルに送っていたようで、幾つかの文章を繋ぎ合わせると、ネアが貰った青いチケットに書いてある文章が浮かび上がり、かなり悪質なものだったと判明する。
その書類に、エーダリアが支払い承認の為の押印をしてしまったことで、扉を開いてしまったようだ。
ディノも話していたが、招待性ではなくお金を払って入場する舞踏会だったようなので、支払いという行為を紐付けて初めて扉を開く仕掛けなのだろう。
開場が真夜中ということもあり、すぐに魔術が結ばれない仕掛けが災いし、すぐには異変に気付かなかったのだ。
犯人はやはりあの商人だったらしく、エーダリアの支援者達が締め上げているのだとか。
そんな報告を、ネアは大浴場の浴槽の中で聞いた。
「ネアが気付いたのってさ、リーエンベルクに暮らす人間だからかもね。ほら、リーエンベルクには王族扱いの認識をされているなら、あのチケットを渡す為に呼ばれたのかなって」
「リーエンベルクは、やっぱり凄いですねぇ。………むふぅ。この大浴場の素晴らしい香りも、堪らない素敵さなのですよ!」
部屋に帰る余裕はなかったので、浴室着は、贅沢にも失せ物探しの結晶を使って取り寄せてしまったが、こんな素敵な時間をみんなで過ごせるのだと思えば相応しい対価なのかもしれない。
(怖いことが、すぐに終わって良かった………)
舞踏会の場に足を踏み入れてしまった者達が、未だに無言でお湯に浸かっているのが心配だが、何とか香りの記憶を塗り替えようとしているようなので、少しでものんびり出来ればと思う。
「ふぁふ!」
「……………お前は、その浴室着をどうにかしろ」
「なぜなのだ」
「あんな舞踏会なんて………」
静かな夜が、ゆっくりと更けてゆく。
ネアは、お湯に浸かって幸せそうに頬を緩めているエーダリアを見ながら、リーエンベルクは、大事な主人を不埒な舞踏会に強制的に連れ去る仕打ちを許さなかったのだなと微笑んだ。




