272. 選択肢は過分にあります(本編)
真夜中のウィームで、ネアは首飾りの金庫から出したものを、魔物達に見せているところだった。
不穏な鐘の音も何かの鳴き声も聞こえない静かな夜は、だからこそ、よくないものがひたひたと歩み寄るような恐ろしさがある。
皆が冷静に感じられるが、誰一人として立ち去らないこの状況下が、どれだけひっ迫していることか。
それを考えると吐きそうになるので、ネアは一度決めた覚悟を胸に思考の上から払い除ける。
これからもがこれまでもと重なるとは限らない。
だからこそ、これまでだって今日だって、ネアは警戒を怠らなかったのだから。
また今度のない喪失は、あの日までで充分だ。
ばたんと閉まった扉の音が、もう聞こえないのだとしても。
「この、木箱に入った色鉛筆なのですが、私の描いたメモによると、絶対に必要になるものとしてエーダリア様と一緒に出掛けた季節の祝福列車でいただいたものなのですよ。そこでの経験を忘れてしまうような旅だったようなのですが、きっとディノ達にもお話ししていますよね?」
「…………ご主人様」
「ありゃ。シルとアルテアも一緒だったんだよ」
「なぬ。メモに書き漏れがあったようです」
それは、いつの日からか、首飾りの金庫の中にあった木箱だった。
数えるのも大変な数の鉛筆かと思えば、全てが色違いの色鉛筆だったので、使ってしまおうかなと思ったものの思い留まってそのまましまってあったのだ。
大事な祝福を受け取れる場所で、どのような経緯かネアは、千二百もの祝福の枠をその色鉛筆に交換してきたらしい。
となればいつか、それだけの種類こそが必要となる場面が来るのかもしれないと思って。
「今回、最初は選択肢にありませんでしたが、よく考えれば色鉛筆にも入る顔料には鉱石を使うことが多く、特にこちらの世界では絵の具などに霧の結晶石ですとか、真夜中の鉱石ですとか、原材料が鉱石類のものが多いのを思い出しました」
「……………シル、いけそうじゃない?」
「鉱石質のものが多いね。………少しだけ、夜や星も混ざっているけれど、それはアルテア自身が手に取って選びながら抜いていけるだろう」
「千二百か。二百落としても千に足りそうだな」
「配分としては、いい具合だと思うよ。……………アルテア、他の餌を探す時間の間にも、一度これを使って試してみない?」
「……………アルテア?」
ここで、アルテアの反応が鈍かったので、ディノが名前を呼んだ。
ふっと気配を揺らしてから頷いたアルテアに、ネアはまたひやりとする。
明らかに様子がおかしいので、これはもう間違いなく何かが損なわれている真っ最中ではないだろうか。
慌てて手を伸ばそうとしたところで、選択の魔物は一歩下がった。
ネアは瞳を瞠ったが、アルテアは何も言わなかった。
「………アルテア。遮蔽室に移動しようか」
「ああ。遮蔽のある部屋で行った方がいいだろう。ノアベルト、念の為に、そこで行うことをエーダリアとヒルドにも共有しておけ」
「ありゃ。とっくに済んでいるよ。ただ、今はこっちに近付かない方がいいかなと思って、自室で待機して貰っているからさ」
「………そうか」
「シル、移動しよう。ネアもね」
「……………はい」
移動時間は僅かだったが、ネアは、走り出したいくらいだった。
アルテアは足取りもしっかりしているし、落ち着いているように見える。
床に伸びたその影を踏み、先導するノアとアルテアの横を歩くウィリアムの背中を見る。
「アルテアがリーエンベルクに来たのは、失われたものを再補填し易いからだよ」
その道中で、ディノにそんな事を言われた。
そろりと隣の魔物を見上げると、ディノが淡く微笑んでくれる。
「ディノ…………?」
「少なくとも、私達との関りまでを失うまでにはまだ時間がかかる。幸い、呪いの進行はあまり早くはないんだ。…………だからこそ、もしもがあっても対応出来るようにリーエンベルクに来てくれた」
「リーエンベルクにいれば、ディノ達がいるからですか?」
「彼がもし、…………君との関りや使い魔であることを忘れてしまっても、私達がその情報を補填出来る。その際に、アルテアがこの場にいるということこそが、過去に彼が選んだことの何よりもの裏付けになるだろう」
「そう、だったのですね…………」
「だから、…………彼も踏み留まろうとしているんだ」
「はい」
こくりと頷くとディノが微笑んだのは、先程、アルテアに拒絶されたネアが落ち込んでいると思ってだろう。
その通り少し落ち込んでいたので、ネアは優しい伴侶に手を繋いで貰い、色鉛筆作業をする部屋に移動した。
(………こんなところに、遮蔽室があったかしら)
開いた扉の先で、ネアはぼんやりとそんな事を思う。
もしかすると、リーエンベルクが新たに開放してくれた場所かもしれないが、精緻な模様のあるドーム型の天井を見ると、リーエンベルクの構造では本来あり得ない部屋だ。
とは言え、天井についてはいつの間にか夜空だったり森だったりするので、本来の形状はあまり重要ではないのかもしれない。
遮蔽室の中に入ると、角の丸い長方形のテーブルを囲んだ長椅子のセットが置かれていて、ネア達はそこに座る。
見上げた天井の天窓からは、夜の光が差し込んでいた。
深い瑠璃色とくすんだオリーブ色を基調とした、どこか礼拝堂のような趣の部屋である。
「さてと。…………問題は、この色鉛筆をどんな選択に結んでアルテアが扱うかだよね。上手くいけば、呪いをこっちに移して剥離出来るんだけど」
「代わりの餌探しでいいんじゃないか?」
「わーお。物凄く雑だけど、直接的な選択は無効なんじゃないかなぁ」
「好きな色を探すかい?」
「おおよそ、探すまでもないな」
「ありゃ。我が儘だなぁ………」
「おい………」
「…………アルテアさんは、まだ私の使い魔さんだということは、覚えていてくれます?」
ネアがそう尋ねると、自分で持ち出した椅子に座ったアルテアがこちらを見た。
どこか冷ややかにも感じられる魔物らしい眼差しであったが、出会った頃までのものではない。
だとしても、もう既に何かを食べられてしまっているのだろうか。
「………枝葉を食われたかもしれないが、今はまだ大きなものはそのままだ」
「まだ、終身雇用のことも覚えていてくれます?」
「……………あまり動かすな。呪いを揺らさないように大きく選択を添わす要素には、触れないようにしているんだぞ」
「おや。それで、この子を遠ざけようとしたのだね」
「……………え、僕もう泣きそう」
「………何でだよ」
「それなら寧ろ、ノアベルトがあの狐だったことでも差し出してみます?」
ウィリアムの言葉に一瞬絶望の目を向けたが、ノアはすぐに立ち直った。
だが、それでもいいよと微笑んだが、若干手が震えている。
告白を終えても銀狐を助けてくれたりしたアルテアに、こちらの塩の魔物はすっかり懐いてしまっているので、今の関係を失いたくはないのだろう。
「…………代わりになるとでも思うのか?」
「案外、なりそうだなと…………」
「は………?」
思わず、アルテアがウィリアムと見つめ合ってしまったところで、テーブルの上には千二百もの色鉛筆が並べられた。
全てを丁寧に並べる訳ではないが、一通り目に触れるようにしておき、アルテアが色鉛筆を使う傍らで、ディノやノア達も鉱石質ではないものを箱に戻して減らし、協力してゆくという共同作業だ。
アルテアが使う色鉛筆は元の木箱に、その中から取り除く色鉛筆はノアが何処からか取り出してくれた小さな木箱に収められることになる。
けれどもまだ、この色鉛筆をどう使うのかが決まっていなかった。
「アルテアさんからあの時の約束が失われていない内なら、効力はあるでしょうか。この色鉛筆の中から、私の一番特別な色を選んで下さい」
だからネアは、事前に一つ確認を取り、色鉛筆に選択を添わせる方法を提案してみる。
だが、僅かに眉を寄せたアルテアが短く首を振った。
「先程の確認と、さして絡まないぞ。それに、取捨選択の理由としては弱いな」
「なので、そこに選ぶという行為そのものに、負荷をかけてみます。……………私の特別な色鉛筆を選び損ねたら、絶交しましょう」
「……………は?」
「きっぱり、さっぱり絶交です。いつかまた仲直りするかもしれませんが、森へお帰り下さい」
「何を言って…」
「好きな色、ではないのですよ。私の特別な色です。この色鉛筆は、私が、素敵なものがいただけるというとっておきの枠を何と千二百も削って選んだものなのだとか。それなのに、絶対にこれだけは持ち帰るのだと意気込んで選び抜いたものです。だからこそ勿論、特別な思い入れもあるでしょう。………特別なことにこそ使うのだと」
突然そんなことを言い出したネアに、僅かに、アルテアの表情には動揺が見えた。
この人間は何を言い出したのだろうという目をしていたが、二人のやり取りを聞いていたディノが、それにしようかと頷いてくれる。
ぎょっとしたように振り返ったアルテアに、ディノはちょっとだけ困ったような、けれども優しい微笑みを向けた。
「シルハーン!」
「選択は、君の資質だった筈だよ。君であれば、答えを見付けることが出来るのではないかな」
「……………わーお。僕も、アルテアを森に返す準備をしなきゃなのかな。その前にブラッシングして欲しかったんだけど」
「……お前は黙っていろ」
「ネア、……………その、本気なのか?」
思わずと言った様子でこちらを見たのは、珍しく弱り切ったような目をしたウィリアムだ。
なのでネアは、きりりと背筋を伸ばし、にっこりと微笑んだ。
「はい。このような状況ですから、私も覚悟を決めました。…………アルテアさん。さくさく進めて下さい!言われてみればやはり、もし間に合わなくても、絶交したい気分になるかもしれません」
「………お前は……」
「アルテア、呪いの領域が動きそうだ。…………時間を惜しんだ方がいいだろう」
何かを言いかけたアルテアを遮り、ディノが静かに告げた。
また呪いが進んでしまうのだろうかとぞっとしたネアは、そんなディノが、珍しく自分からしっかりと手を繋いでくれたことにおやっと眉を持ち上げる。
見上げた先で揺らいだのは、寧ろディノの瞳の色だったかもしれない。
はっとするような、美しい水紺色の瞳であった。
「君が敷いた選択に、呪いが興味を向けたのだろう。ここから先は、問いかけの管理者として、君も呪いの盤上に上がることになる。私の手を離さないようにね」
「……………は、はい!」
「くそ、自らこちら側に踏み込みやがって!」
舌打ちし、がしがしと髪を掻いたアルテアが、ふうっと鋭く息を吸う。
そして、机の上に並んだ色鉛筆に向かった。
いつの間にかテーブルの上には白い紙が束になって置かれていて、ここに描いて色を見給えという感じになっている。
どこかで、何かがぞろりと動いたような気がして目を瞬くと、ネアはひんやりとした空気と、奇妙な静謐さに包まれた、異様な空間の中にいた。
(………先程までいた部屋のまま。でも、壁を取り払って真っ暗で広大な空間にその部屋を置いてしまったようだわ)
そんな中で、この部屋だけがぼんやりと明るくて、周囲を取り囲む暗闇にはぞっとするような余所余所しさがあった。
座っている長椅子が置かれていたのはこの部屋の中央の筈なのに、どうしようもなく背中の後ろが冷たい。
そこに誰かが立っているような恐ろしさと、人間や亡霊のような悍ましさではなく、獲物を見定めた獣が息を潜めて襲いかかるのを待っているような感覚と。
背後に何かがいるのは間違いなかったが、生き物としてのものなのか呪いそのものの形なのかまではネアには分からなかった。
静かな静かな部屋の中で、ぱきぱきと鉱石が育つ音がする。
壁や床から育ってゆくのは黒いペン画で描いたような木で、その形状に見覚えがあるのに思い出せないような独特のものだ。
床には苔に似た緑の染みが広がってゆき、それでも植物特有の香りはしないままだった。
(まるで、木というよりは鉱石の中を侵食するひび割れのようにも見える)
さらさら、かたん。
重なる音は、アルテアが無言で紙に試し描きしてゆく色鉛筆を動かす音。
取り上げて色を見て、また横に置いてゆく。
動作自体は早いのだが、時折悩むように眉を寄せることもあった。
ディノやノア、ウィリアムは何も言わない。
だがそれが、ただこちらにはもう聞こえないだけなのかもしれないとネアは思う。
(……………っ、)
アルテアが色鉛筆を動かしてゆくほどに、ネアの背後の異様な冷気は強まった。
まるで背中が凍るようだと思っていたものが、途中から鋭利な苦痛に変わる。
(違う。…………これは、この空間に育つ木のような、ひび割れと同じものだわ)
深く突き立てられる爪のように、鋭いものをぐっと押し付けられるように。
そんな感覚が強まってゆき、けれどもこれは、アルテアが答えを出すまでは終わらないのだと分かっていた。
呪いの盤上でその相手をするのなら、きっとネアもまた何かを支払わなければいけないのだろう。
今や、部屋の中には不思議な木々が育ち、苔むした床と相まって庭園のようであった。
硬質な煌めきは成る程鉱石だなという感じであったが、黒い木々に緑の葉が芽吹くとそら恐ろしい瑞々しさがある。
「……………それは、死より出づる拒絶に損なわれない、聖なる庭の水晶」
(ああ、まただ)
また誰かが、遠くでそんなことを呟いている。
はらはらと舞い落ちる白い花びらの向こう側で、石造りの祭壇のような椅子に座って。
風に揺れる白い長い髪をぼんやり眺め、ネアは冷や汗のしたたり落ちそうな自分の顎先に揺れる髪もまた、白いことに気付いた。
であるのならばきっと、背後の気配はこの世界層のものではないのだろう。
「残念だが、それはただの石くれだ。穢れたものであればまだいいが、聖なるものでもある」
そう呟く声にこちらを案じる気配はない。
いつものように淡々としていて、愉快がるような言い方をしていてもさらりとしている。
やっぱりもう、収穫祭の領域で出会った春の祝祭とは違うのだなと思い、なぜだかはっとした。
どうしてそう考えたのかが、分からなかったのだ。
「死の影が何の影響も及ぼさない石くれであっても、聖なるものであれば」
だから、自分がなぜんな返答をしたのかもまた、ネアにも分からなかった。
ただ、耐え難い背中の痛みがぎくりとしたように身じろぎ、今まさに首元にかけようとしていた爪を引っ込めるような気配がある。
こちらの足元には静謐な夜の湖があり、ざわざわと本物の木々の縁取りが揺れる。
そして、それらを覆うリースのように、茨が円を描いていた。
(………どこにもいけないもの。どこからか来て祀り上げられた女神の名前を以て、信仰の庭から切り離されたもの。音楽を失い、祝祭から追い出されて、罪を犯して怪物になり果てたもの。そして、もう歌わないもの)
心のどこかで他人のような自分がそう呟き、ネアは小さく微笑んだ。
いや、そればかりなものか。
ここはもうあの茨の庭ではなく、美しい美しいウィームなのだ。
ネアは歌乞いで、大事な伴侶の魔物がいて。
その魔物の為になら、幾らだって歌おう。
災いとなるために奪われた音楽でも、ネアの大事な魔物は可愛いと喜んでくれるのだから。
(ディノが、怪物だって構わないと言ってくれるのだから、罪人としてではなくてただの自由で幸せな怪物として、この呪いに抗ってみせよう)
ここは、そういうところなのだ。
それにネアの手にはディノの指輪があって、この場には頼もしい義兄な魔物と、騎士の魔物と、そして今、きっと同じように戦っている使い魔がいる。
口惜しげに背中に突き立てられる爪だって、考えれば、生まれ育った世界で暮らしていた頃のネアハーレイが度々起こしていた発作に比べれば、大したことがないかもしれない。
心臓を握り潰されるような痛みとままならない呼吸を、誰もいない古い屋敷で堪えていたあの日々に比べたら、こんなものはふんと鼻を鳴らして踏み滅ぼせるくらいの脆弱さである。
お腹が空いて惨めでもないし、また一人ぼっちで明日を迎えるのかと思う程には怖くもない。
そう思った途端、覆いが外れるようにディノ達の声が聞こえてきた。
「……………合計だと、取り除くのは四十三本か。数は足りそうだね」
「どうやらこの漂流物は、一つの鉱石の中に他の鉱石が入り込んで育つもののようだ。場合によっては、想定を超える要素が必要になるだろう」
「ありゃ。………足りるかな」
「シルハーン、ネアの様子はどうですか?」
「堪えてくれているよ。…………もしかすると、苦痛のようなものも感じているかもしれないのに」
「このくらいであれば、大丈夫です。ディノが手を繋いでいてくれますから」
そう会話を続けると、はっとしたように魔物達がこちらを見る。
アルテアだけは手元の作業に集中しているようだったが、ノアの青紫色の瞳にはうるうるとした安堵があった。
「怖くないかい?」
「はい。このお部屋には、頼もしい魔物さんが四人もいるのですよ」
「……………良かった」
ディノの安堵の呟きは穏やかだったけれど、だからこそ怖さを堪えてくれているのだろう。
ネアは繋いだ手にあまり力を籠め過ぎないようにと思いかけ、やっぱり、痛い時はぎゅっと握って伝えておこうと考え直す。
(だって、家族なのだもの)
ふうっと、押し殺したような吐息の音がした。
色鉛筆で試し描きし続けているアルテアの表情にも、何かとの鬩ぎ合いの気配がある。
額に滲んだ汗と、慎重過ぎる手の動かし方には苦痛の影が見えた。
(もし、この間にも失われているものがあったのなら、それは……………戻らないのだろうか)
その様子に思わずディノの手をぎゅっとしてしまえば、伴侶の魔物はネアの指先を優しく包んでくれる。
ぴったりと寄せた体から、体温がじんわりと伝わってきた。
「君の管理する選択は、君の所有下にある。遮蔽の部屋に入っているのは、だからこそでもあるんだ。ここで、色鉛筆に呪いを上手く移せたのなら、その間に食べられたものは取り戻せるよ」
「はい!」
「呪いそのものが実を結ばなければ、…………恐らく、それ以外のものでも取り戻せるものが多いだろう。どうしても、何枚かの葉が戻らない可能性は残るけれどね」
「………はい」
「後は、………君の特別な色を見付けられるかな」
「む。失敗したら、絶交なのですよ」
ここでまたがりがりと背中を痛めつけられ、ネアはディノの手をぎゅっと握った。
悲しげに瞳を揺らしたディノが繋いだ手にもう一方の手も重ねてくれる。
アルテアがちらりとこちらを見た気がしたが、ネアが慌てて視線を戻した時にはもう、再びテーブルを見ていた。
「ウィリアム、今何本目?」
「千、百二本だ。………三」
「うわ。ぎりぎりだなぁ、同一規格で作り足そうかな……」
「あわいの特性を帯びるのは難しいだろう。……………ただ、もしかすると一本だけ植物の特性を入れた方がいいかもしれないね。ここ迄植物を思わせる形状にも、意味があるのかもしれない」
「…………ふぁ!………い、今思い出しました。これはもしかすると、庭園水晶かもしれません!」
「庭園水晶?…………あれって、森の系譜じゃなかったっけ?そっちの資質は感じられないんだよね」
「いえ、………恐らくここではないものなのですよね。となると、私の生まれ育った場所にあった庭園水晶が近いのかもしれません。水晶の中に、他の好物や泥岩を取り込んでいるものなのです。ですが、水晶の中の様子が庭園のように見えるので、庭園水晶と呼ばれていました。そして、直接的な意味付けまでがあったのかどうかは分からないのですが、聖なる資質を持つようなものだという認識もありました」
ネアが慌てて説明を重ねると、ディノとノアが何やら視線を交わしている。
そして、ノアが、テーブルの上からどかしていた一本の色鉛筆を、木箱の中から取り上げた。
「じゃあ、これかな。ホーリートの色みたいだから、ちょうどいいかなって」
「まぁ。そんな色があるのですね!」
「鉱石分を使いきって、これが最後がいいかな。シル、どう思う?」
「いや。水晶に内包されているものであれば、最後から二番目あたりがいいのではないかな」
「うん。じゃあそうしよう」
その時にまた背中がぎしりと痛んだので、ネアは無言でこくりと頷いた。
先程までの凍えるような寒さは消えていたが、痛みは変わらずに続いている。
だが、テーブルの上に残った色鉛筆がだいぶ少なくなってきていたので、その作業が成果を出してくれるのかどうかの方が気になって堪らなかった。
(あと、十本くらい…………)
色鉛筆を持つアルテアの手に、不自然な力が入るのが見えた。
立会人のようなネアですらこの状態なのだから、アルテアにも痛みなどがあるのだろうか。
もう先程のここではないどこかは見えなかったが、それでも、呪いの気配のようなものはずっと感じていた。
部屋の中に生い茂る黒い木々には、徐々に葉が増えていっている。
小さな蕾に似たものがあってぞっとしたが、それよりも先にこちらが終わりそうだ。
「千、百三十」
「おっと、もうすぐだね」
「ウィリアム、……………予兆はないかい?」
「ええ。今のところは大丈夫です」
それは、終焉の予兆を警戒しているのだろうか。
もはや苦痛を隠しきれずに浅く息を刻み、アルテアが無言で伸ばした手に、ノアがホーリートの色鉛筆を渡した。
(ホーリートの色鉛筆だわ)
真っ白な紙の上に青みのある綺麗な緑色が引かれ、その美しさに目を奪われる。
アルテアの手元の紙は新しいものになっており、その色鉛筆を使った後にまた新しい紙に変えたので、資質の違うホーリートの色鉛筆だけは紙を変えたのかもしれない。
「最後の色鉛筆だな。………移るといいんだが」
「まだ結んでいないようだね。でも、そろそろかな」
「よーし、いけそうだね」
「……………これで終いか」
最後にアルテアの声が続き、ネアはほっとした。
ホーリートの後に残されていた色鉛筆が、白い紙に試し書きされる。
そして、アルテアが顔を上げた。
こちらを見た眼差しには感情が窺えず、ネアを見て何を思っているのかも掴めない。
少なくとも知らない人を見る目ではないなと考え、水晶の庭園の中で凄艶な魔物の赤紫色の瞳を見返す。
「私のお気に入りの色鉛筆が、分かったでしょうか?」
「…………これだな」
アルテアがこちらに向けたのは、最後に使ってそのまま手に持っていたくすんだ青色の色鉛筆だ。
紺色と水色の間くらいの柔らかな色は嫌いな色ではなかったし、どちらかと言えば好きな色だが、もっと特別な縁を感じる色もいくらでもあった。
おまけに直前には、ネアの大好きなホーリートの緑の色鉛筆も使ったばかり。
それでも、アルテアはこの色鉛筆を選んだ。
「ええ。それが私の特別な色鉛筆です。箱に入れて餌にされてしまうのが残念ですが、そのお役目を果たしてくれるからこそ、私にとっての特別な色鉛筆なのでしょう」
「……………ああ。そうなんだろう」
低く掠れたような声で呟き、アルテアは手に持っていた最後の色鉛筆を木箱に入れた。
すかさずウィリアムが蓋をしてしまえば、びしりと音がして木箱全体が結晶化する。
そして、音を立てて小さな黒い鉱石の木が育ち、たちまち見事な程に葉をつけた。
蕾がふくらみ真っ白な花が咲くと、部屋の中に生い茂っていた黒い木々や床を覆っていた苔がざあっと掻き消える。
その直後にノアが取り出したのは、美しい塩の結晶で出来たような一冊の魔術書だった。
じゃりんと音がしてはっと振り向けば、いつの間にか離されていたディノの手には錫杖がある。
魔術書を開いたノアが、聞いたこともないような言葉で短い詠唱を唱えれば、木箱に生えていた黒い木は、木箱ごともろもろと崩れて灰になってしまった。
最後は、ウィリアムがその灰を白い炎で燃やしてしまい、跡形もなくなる。
「……………終わったのでしょうか?」
「ああ。これで終わりだ。……………アルテア、大丈夫ですか?」
真っ先にアルテアに声をかけたのは隣に座っていたウィリアムで、ネアはその返答を祈るような思いで見守る。
アルテアは無言で眉を寄せていたが、ややあって、深い深い息を吐いた。
「……………戻らない範囲も、残るには残るだろうな。とは言え、それは数日程度で済むくらいだな。……………ただ、この部屋に入ってから食われた部分の回帰が定着には時間がかかりそうだ」
「…………やっぱりですか。俺の時もそうでしたからね」
「ってことは、数日間はここで静養かな。…………ネアのことって分かる?」
「……………ああ。欠けた部分も追々戻るだろ」
「むむ。……この感じで、少なくともここ一年程のものがいない感じがします」
「どうだかな」
ゆっくりと立ち上がったアルテアが、部屋の中を見回している。
この部屋に来る迄の事さえも忘れてしまったのだろうかと観察していると、こちらを見て少し嫌そうな顔をする。
「……………ふぇぐ」
「ったく。……………お前を屋敷に入れたことくらいは覚えている」
「使い魔さんのままです?」
「どうだかな」
「こ、これはもう、きりんさんで脅してもう一度……」
「やめろ!それは問題ない」
「きりんさんを出そうとして、アルテアさんが本気で焦っていたのも、一年くらい前まででしょうか。くすん………」
「わーお。どんどん特定していくぞ…………」
「ネア、クッキーを食べるかい?」
「ふぁい。アルテアさんの作ってくれたものです。……………っ?!」
クッキーを口に入れて貰おうとして立ち上がりかけ、ネアはそのまま体を屈めて呻いた。
痛めつけられた背中がまだ強張るようで、いきなり動いてはいけなかったようだ。
慌ててしまったのはディノで、すぐに膝の上に抱え上げてくれる。
もう終わったのだと油断してしまったせいで、どっと痛みへの抵抗力がなくなったようだ。
痛む背中に触れたディノの手の温度にほっとしながら、ネアは、冷や汗が出るような苦痛にはくはくと息を刻んだ。
「…………まさか、………呪いの盤上で負荷をかけられたのか?」
呆然と問いかけたのはアルテアだ。
無防備なくらいに目を丸くしている。
「むぐ。…………なにやつかに、背中をぎりぎりされました」
「くそ、早く言え!!」
「なぜにアルテアさんにまで叱られたのだ…………」
「え、これってまさか、……………アルテアと同じように、呪いの回帰がないと痛みも消えないやつ?」
「…………お、おのれ庭園水晶め」
「シルハーン、ひとまず部屋に運びますか?」
「うん。私が抱いていくよ」
ネアはその後、幸いにも直接的な負傷はなかったものの、魔術の障りによる損傷の痕跡が発見されてしまい、すぐさま痛み止めの魔術をかけられ、寝かしつけられることになった。
だとしても、何とか横になれるくらいの緩和である。
たまたまディノにその後大丈夫だったかどうかを尋ねてくれたアレクシスが、そんな症状を聞き、すぐに呪いの回帰定着のスープを作ってくれることになる。
とは言えそんなスープは、材料が特殊なので明日の正午までかかるそうだ。
「……………いいか、スープの魔術師のスープが来るまでは、下手に起き上がるなよ」
「ぶどうぜり………」
夜明け前に、痛みが引かずに眠れずにいたネアに、アルテアが葡萄ゼリーを届けてくれた。
汗の滲む目を開き、ネアは残された体力の限り、目をきらきらさせる。
今にもぱたんと倒れてしまいそうだが、何とも言えない目でこちらを見ているアルテアに、どうしても聞いてみたいことがあった。
「…………最後に使った色鉛筆が私の特別なものだと、今のアルテアさんでもわかったのでしょうか?」
「……………今の俺だったら、ホーリートを選んだだろうな」
「………絶交」
「やめろ。…………だが、あの作業を始める前に、呪いの剥離を終える最後の一本を選ぶと決めてあった。食われた部分の回帰が済めば、その理由も分かる筈だ」
最後は低く呟くようにそう言い、アルテアは部屋を出ていった。
枕元に椅子を置き座っていてくれたディノが、そっとおでこに手を当ててくれる。
「今のアルテアさんには、分からなかったようです………」
「うん。明日の昼には、また理解出来るようになっているだろう。彼を救えることが決まってからの最後の一本だからこそ、君にとって特別だったのだよね」
「はい!……………ぐぬ。……………背中がびきびきしますが、ぶどうぜり…………」
「起こしてあげるよ。…………ネア、今日は頑張ったね。………有難う」
ネアは、呪いを受けたのはアルテアだったのに、こんな風にお礼を言ってくれる優しい魔物に微笑んだ。
ずきりと背中が痛むと表情が強張ってしまうが、それでもこれは名誉の負傷である。
傷がある訳ではないので負傷かどうかは審議であったが、大切な者を守ってくれたのであれば安いものだ。
カーテンの向こうには、花びらのように降りしきる雪の影があった。
いつの間にか雪が激しくなったようで、降り積もったばかりの雪に青白く染まる森は明るい。
この静かな静かな夜に、ウィームで千二百本の色鉛筆が一つの厄介な呪いを退けたことを知る者は、今はまだ、ネア達くらいのものだろう。
授けてくれたのが秋の系譜だと思えば、この季節に働いてくれるのは不思議な感じがしたが、その列車に乗る前にネアがたっぷり狩っておいたリズモの祝福が収穫であることを思えば、あの秋の豊かな贈り物は、庭園水晶にとっても魅力的な御馳走だったのかもしれない。
ネアは、まだ痛みのせいで少し震えてしまう手で葡萄ゼリーをぱくりと食べた。
それは最近のゼリーより甘め味の、初めてのインヘルの頃にアルテアが作ってくれていた葡萄ゼリーの味だった。




