270. 新年は金色の訪れがあります(本編)
しんしんと雪の降る朝、ウィームは新年を迎えていた。
紫紺に滲む夜明けの空の端にけぶるような淡い金色の光が見えていたが、朝陽として明るく地上を照らし上げていたのはほんの僅かな時間だけ。
だが、その僅かな時間だけを、朝陽は河川や用水路から立ち昇る靄や霧を金色に染め上げた。
世界の色相ががらりと変わるような鮮やかさにネアが目を瞬いていると、なぜか窓の向こうの冬ライラックの枝の上にいたむくむくの毛玉妖精と栗鼠妖精がわしゃわしゃと動くと、素早くどこかに走り去っていってしまう。
それを見て首を傾げていると、ディノが小さく息を吐いた。
「ネア。今年は、暖炉の部屋はやめておこうか」
「木の上の妖精さん達の動きも変ですが、………何か起こるのですか?」
「境界となる朝に金色の霞が出ると、雪明けの行列が現れるんだ。悪いものではないけれど、あまり履歴が明らかではないものだから、接触はないようにしておこう」
「………まぁ。お出かけのエーダリア様達は、大丈夫でしょうか?」
「ノアベルトも起きただろう。出発を早めるのではないかな」
「…………昨日は沢山酔っぱらってしまっていましたし、裸になるくらいでしたが、起きられそうでしょうか?」
「……………どうなのかな」
少し不安になったので、二人でノアを起こしに行き、残念ながらくうくう寝ていた塩の魔物は新年早々に家族に寝台から引き摺り出された。
「………ありゃ。何で僕、シル達に寝台の外に出されたのかな」
「雪明けの行列が現れそうだから、ヴェルリアへの出発を早めた方がいいのではないかい?」
「え、あれが出たんだ。………ふぁぁ。漂流物の年は面倒なものばかりだなぁ。………って、あれ。漂流物終わり?!」
「む?!終わりなのです?」
「新しい漂着の波は終わったようだね。昨晩のあわいの波が切り離しの揺らぎだろうから、残留物がなければ、大きな問題はないだろう」
それを聞いてネアは、歓喜のあまりに両手をぱっと持ち上げてしまい、驚いたディノが目を丸くしている。
「おさらばです!」
「離婚はしない………」
「あら。ディノとではないのですからね?」
「………ご主人様」
「………よいしょ。まだまだ寝ていたいところだけれど、僕は大嫌いなヴェルリアの王宮に、エーダリアとヒルドのお供で行かなきゃだね。何しろ家族を守る為だから仕方ないかな」
くしゃくしゃの髪でぐいんと伸びをしたノアが、はっとするような鮮やかな青紫色の瞳を細めて微笑む。
あまりにも幸せそうに微笑むので、ネアも幸せな気持ちになってしまった。
なお、昨晩寝かせる前にヒルドが服を着せてくれていたので、裸のままではないところも嬉しい。
「ふふ。ノアはご機嫌なのですね?」
「勿論。僕がどれだけ、あの王宮でヴェルリア王族から守護を毟り取っていたと思うのさ。あの頃は、どれだけあいつ等を呪っても、僕の大事なものは何も残ってなかったんだ。………そりゃあ惨めな気持ちだったんだよ。………でも、今はそこに、僕の家族と行くんだから気分はいいよね」
だから、どれだけ酔っ払って服も脱ぎ捨てて眠ってしまっていても、ノアは新年の朝はぴしゃりと目を覚ますらしい。
とても幸せな朝なので、張り切ってしまうのだそうだ。
「でも、気恥ずかしいから、エーダリアとヒルドには内緒だからね」
「まぁ。それはちょっと手遅れかもしれません?」
「え………?」
まだくしゃくしゃの髪の毛のままのノアが振り返ると、そこには、ヒルドが雪明けの行列のことを知っていたらしくノアを迎えにきたばかりの家族が立っていた。
ヒルドは苦笑しているだけだが、そっと目を逸らしたエーダリアは僅かに目元が赤いので、こちらも照れてしまったらしい。
「…………ありゃ。僕どうしよう」
ノアはすっかり恥じらってしまい、やれやれと微笑んだヒルドに髪の毛を綺麗に梳かして貰ってリボンで結ぶと、騎士服に擬態して王都に出かけて行った。
出かけていく家族を見送ろうと転移の間まで付いて行こうとしたネアは、にっこり微笑んだヒルドに部屋に戻されてしまい首を傾げていたが、寝間着にガウンを羽織っただけだったのが良くなかったらしい。
「むむ。急いでノアを起こしに行ったので、着替えがまだでしたね」
「…………ずるい」
「あらあら。新年早々の謎活用なのです?」
ディノと一緒に廊下を歩きながら、そんな話をしていた時のことだった。
しゃりん。
涼やかで硬質な音がどこかから聞こえてきて、少し先の廊下の窓の端から金色の光が漏れる。
ネアはぎくりとしてディノに掴まってしまい、伴侶な魔物はすぐに持ち上げてくれた。
「雪明けの行列が、あちらの側を通るようだね。ヒルドが既にウィーム中央の各所には連絡を入れたと話していたけれど、今日が安息日で良かったようだ」
「先程話していた行列なのです?」
「うん。どうやら、禁足地の森を通るようだ。………このようなものの通り道を考えると、ウィーム王族がこの土地に王宮を建てたのは、領民達との間に壁を作る意味もあったのかもしれないね」
「壁と言うと、このリーエンベルクそのものを盾のようにして、不思議なものとの境界にしていたのでしょうか?」
そう問いかけてから、ネアはぎくりとした。
よく分からないけれど、このリーエンベルクに起こる数々の不思議や、ウィーム王族の飛び抜けた特異さの答えがその中に隠されているような気がしたのだ。
(例えば、…………このリーエンベルク自体が、初めから境界として機能しているもので、代々のウィーム王族の方々は、元々そちらの役割に長けた人達なのだとしたら)
この世界層ではないようなので参考にはならないかもしれないけれど、昨晩出会った黒髪の男性がよく現れると言われていたような特性を持つ者達こそが、そんな特性を強く受け継いでいるのだとしたら。
それは決して怖い事ではないのだが、散々漂流物絡みで境界について考えさせられたばかりのネアにとっては、とても重大な事のように思えてしまう。
そして、ディノはやはり頷いた。
「意図的なものなのか育まれたものなのかは分からないけれどね。………人間の中には、ごく稀に境界に立つことに長けた者達が現れる。それは魔術的な資質ではなく、………運命や因果と呼ばれる資質なのだろう。ウィームには、かつての王家の者達がより顕著だったとは言え、市井に下りた者達も含めてそのような資質の人間が多い。そう言えば、エーダリアが親しくしている者達にも、その傾向があるかな。ただ、境界を超えるという役割の者もいるけれど、そのようなものもまた境界に立つ者とされるから」
「むむ?………エーダリア様が仲良くしている方々ですか?」
「ダー………ウェルバと、ランシーンの魔術師もそちらの特性に長けた者達だ。共に、境界に触れる運命を得ていただろう?」
ルドヴィークは、かつてのウィーム王族寄りで、人間の領域と人ならざる者達の領域の境界となるような土地に代々暮らし、それぞれの生き方を尊重出来る人間だ。
元々は、古い時代の生き物も残る土地なので、そんな人ならざる者達との境界を守る為にあの地に暮らし始めた者がおり、その末裔なのだろうと言われると、さもありなんという気がする。
ウェルバについつては、少し特異な例だ。
生者と死者の国の間の境界に橋をかけてしまい、その代価に近い形で、人間の領域から世界の裏側に落とされて縛られるような苦難に満ちた運命を得た魔術師だ。
境界を守るのではなく、それを踏み越えた者という扱いになる
(そうか。形は違えど、………どちらも、普通に人間の側の領域の中でだけ暮らしていく人達ではないのは確かだわ)
「………人間が他者と親しくなる場合は、どこかに自分と似ている部分を見付けるからであることが多いのです。もしかしたら、そのような部分も三人が仲良しになった理由なのかもしれませんね」
「ウェルバあたりは、そのようなことも理解しているだろう。………ネア。部屋に帰るのは、行列が立ち去ってからにしようか。カーテンを開けてきてしまったから、もしもがあるといけないからね」
そちらの話に戻り、ディノがそう教えてくれる。
そう言えば確かに、窓の外の不思議な金色の朝陽を見ようと思ってカーテンを開けてしまっていた。
急いでノアを起こさねばと思ったので、そのままで部屋を出たのだ。
「はい。………それでディノは、方向を変えたのですね」
「うん。ウィリアムとアルテアのいる外客棟で過ごそうか。君はまだ、朝の支度もしていないだろう?」
「むむ。………確かに、飲み物のポットのあるお部屋で、尚且つタオルなどが用意されているところがいいです………」
身支度を済ませた後ならどの部屋でも良かったのだが、ネアはまだ寝間着のままだったし、顔すら洗っていない。
リーエンベルクの家事妖精達は既に安息日のお休みに入っているので、使われていない客間に準備を頼むのも難しくなる。
よって、既に稼働しているウィリアムかアルテアの部屋を借りるのが、最善の策と思われた。
「まだまだ、この世界には履歴が分からないようなものも沢山いるのですね」
「そうだね。そうして混ざり合う部分は、今代の世界だからこそのものも少なくない。今日の雪明かりの行列は、この世界で生まれたものなのだけれど、古い時代のものなので履歴が失われてしまったんだ」
「そういうものは、他の層では現れ難いのでしょうか?」
「一つ前の世界層では、履歴を失ったものをは滅び易かった。名前を失ったものが現れる事がない代わりに、その仕組みで失われる者も多かったそうだ。…………望まれない者や家族を喪った者も壊れやすく、多様性や変化の資質を持つ者は階位が低く虐げられていたらしい。前の万象は、私とはあまり似ていなかったようだしね」
いつもよりずっと静かな廊下を歩きながら、そんな話をする。
家事妖精達が安息日に入る今日は、いつも姿が見えている訳ではないのに、気配までがなくなるとこんなに静かなのだなと思ってしまう。
エーダリア達が出掛け、すっぽりと隔離結界に覆われたリーエンベルクは、外的な要素を取り込むことはない。
なので、近くを雪明けの行列が通っても大丈夫な筈なのだが、それでもと警戒するのは、まだ魔術の理にも揺らぎのあった古い時代には、接触ではなく知覚を浸食の足掛かりにする生き物もいるからなのだそうだ。
「以前の万象の方は、全てを満たしていなければならなかったと聞いた事があります」
「うん。私とは違い、完成だけを司っていたのが以前の万象なんだ。初めから満たされたもの、変わらないものだけを持ち続けるということは、……………とても不自由だったのではないかな」
そう話してディノに、ネアはこくりと頷いた。
きっと出会ったばかりの頃のディノは、その寂しさを感じ取れてはいても、言語化するのは難しかっただろうという気がする。
どちらが正しいかということではなく、ディノの中に、自身の価値観を補強するに足りる経験則が増えたということなのだろう。
(そんな万象が得た伴侶の方は、……………恐らく、その世界では在り得ない相手だったのではないかしら)
ディノと伴侶になろうとしていた時、ネアもまた世界の調整に幾度となく晒された。
そう思えば、何もかもを持っていた万象の魔物が最後に望んだその相手は、不足など何もない筈の魔物がずっと隠してきた欠落を満たす人でありながらも、その世界では決して相容れる事の許されない、調整対象であったのかもしれない。
「……………むぐ!」
「ネア?」
かつての万象の伴侶が失われたのが、唯の不幸な事故ではなく、そんな万象の魔物の最後の願いすら叶えさせない強制力のようなものがあったのかもしれないという話を思い出して怖くなってしまったネアは、慌てて大事な伴侶にしがみついた。
驚いたディノがおろおろしているが、これはネアの大事な宝物なので、絶対に一人にしてはいけないものなのである。
「ディノには、私がいますからね。絶対にどこかに行ったりしないので、安心していて下さいね」
「………虐待した」
「その代わりに、ディノもどこかに行ってはいけないのですよ?」
「……………ネア」
めそめそしていた魔物は、そう言われると少しだけきりりとしたが、それでもぎゅっと抱き締められてまた体が傾いてしまう。
(規格に合わないものや、望まれないものがこぼれ落ちる世界なら、……………私は、そこには残れなかっただろうという気がする)
そうして弾き出されて消えてゆくものの中には、今、近くを通っているらしい雪明けの行列のような者も含まれるのかもしれないが、失われてゆくものの中にだって、誰かのたった一つがあるのだろう。
ここは、多くを許容するが故に全てを知り得る事は出来ない世界で、ディノにだって苦手なことが沢山あるままなのだけれど、だからこそこの世界は彩り豊かなままでいられるのではないだろうか。
(豊かさ故に失われる者も沢山ある筈なのだけれど、私はきっと粛清される側だったような気がするから、私がいるのが今のこの世界で良かったな)
ふと、窓に映った今の自分の姿を見て、ネアは小さく微笑んだ。
きっとこの世界だからこそ、ネアはこの姿で、大きな国家事業に携わることもなく、薬の魔物の歌乞いとして日々の仕事をしながら、のんびりと美しいウィームで暮らせているのだろう。
世界の捉え方や価値観で在り方すらが変わるのであれば、昨晩のここではないどこかに迷い込んでいたら、そこが同じウィームであったとしても、今のようには生きられなかったかもしれない。
エーダリアの瞳の中に見た白い髪の誰かは、今のネアよりずっと特別なものになったかもしれないけれど、そこでは、こうして安息日はくたくたになって過ごしたいというネアの願いは叶えられなかったのではないだろうか。
「ディノ。……………昨晩、私とエーダリア様が避難させられていた場所では、私の姿が違っていたのかもしれないという話をしましたよね」
「……………うん。恐らく、君が育った土地で重ねられていたことを、成果として反映してしまう場所なのだろう」
「まぁ。そう言葉にして貰うと、まさにその通りだという気がします!これは私流の表現になりますが、…………あの場所であれば、………私は主人公になれたのかもしれませんが、ここで、その他大勢として大事な家族や仲間達とわいわい暮らせる方が、ずっと幸せなのだと思います」
「その他大勢……………」
表現の仕方が悪かったようで魔物がしゅんとしてしまったので、ネアは、少しだけ考えてとてもいい言葉を見付けてきた。
「輪の内側と言い換えますね!ここに暮らしている私は、もうどこにも追いやられていない、みんなと同じテーブルに付いている幸せな私なのですよ。勿論、ディノもその隣に居てくれるので、これからも一緒にみんなとわいわいしていましょうね」
次の解釈は、ディノにも呑み込みやすかったようだ。
真珠色の睫毛を揺らして水紺の瞳を瞠ると、ゆっくりと頷いた。
ぽぽんと、カーテンの織り柄が花を咲かせてしまえば、この魔物にとっても素敵なことなのだと分かる。
茨の中に閉じ込められた怪物を、正とするか負とするか。
災いでも祝福でも、例えどちらも災いであっても、その災いこそを評価する場所があったなら。
けれども、異端なままであり続ければ、ネアはずっと大きな輪の外側にいなければいけなかったのだろう。
(でもここでは、私はウィームの一領民になれて、特別に大きな力や役目を持たない代わりに、お休みの日を好きなように過ごして、新年の安息日におかしなものが現れても、見ないようにお部屋を変えるだけで済むのだわ)
それはなんて幸せな事だろうと思い、ネアはむふんと頬を緩める。
勿論、履歴が履歴だけに普通の人とは違う部分もありはするのだが、個体としての特異さで言えば、街のスープ屋さんやパン屋さんの方がずっと凄い。
そんな場所に呼び落されて、本当に良かった。
「という訳ですので、お二人どちらかのお部屋に少しだけ滞在させて下さい」
雪明けの行列の訪れを察知して様子を見に来てくれたウィリアムとアルテアに廊下で遭遇し、そう言いながらもまた、ネアは密かに誇らしさを噛み締める。
この二人の魔物との関係だって、きっと、今以上に素敵なものはない筈だ。
ネアがウィームにやって来てから、沢山の事件や事故を経て出来上がった、大切な関りである。
「ひとまず、そちらの寝間着を着たのは褒めてやる」
「む。アルテアさんに貰ったものです!今日は朝寝坊する予定でしたので、ごろごろし易い方にしました」
「うーん。ネア用のものを揃えられるとなると、アルテアの部屋の方ですかね」
「だろうな。……………何でお前までこっちに来るんだよ」
「俺も一緒に行きますよ。何もないとは思いますが、雪明けの行列が通り過ぎるまでは、固まっていた方がいいでしょう」
そう微笑んだウィリアムは、安息日の朝らしい寛いだ服装だ。
若干、シャツだけで寒くないかなと思うのだが、しっかりしなやかな筋肉を感じさせる立ち姿に、成る程、武人枠であれば何となく基礎体温が高そうだと感じさせてくれる。
対するアルテアは、少し毛足が長めの黒いセーターを着ており、お洒落な男性の休日スタイルという雰囲気があった。
とても美味しい朝食などを作ってくれそうなので、ネアは、予定を変更して朝食は使い魔にお任せしてもいいのかなとほくそ笑む。
「朝食は、ほかほかサンドが食べたいです!」
「……………お前な。何でも作ると思うなよ」
「ディノは、何か温かいスープでも飲みますか?」
「グヤーシュかな……」
「おい………」
「それなら、サンドイッチは俺が作りましょう。グヤーシュはアルテアが作っては?」
「……………一人でやった方が早い。お前は手を出すな」
「やれやれ。素直じゃありませんね」
かくして、ネア達はアルテアの部屋にお邪魔することになった。
部屋に入ると、アルテアが指先を動かしただけでぱたんと閉まった見慣れない扉があったので、魔術併設したという工房への扉なのかもしれない。
ウィームにある屋敷程ではないが、とは言えこの部屋も過ごしやすいように少しずつ手を加えているようだ。
「洗顔はこれだ。終わったら、化粧水からクリームの順番だ。ブラシはこれを使え」
「…………なぬ」
「タオルはこっちだ。いいか。くぐれぐれも、洗顔後の手入れをさぼるなよ?」
「さぼりません…………」
ネアはすぐに朝の支度に送り出され、いつもとは違う香料をくんくんしながら、顔を洗った。
ネアの部屋にあるようなものとは違うが使い込まれている風合いを見ると、こちらはアルテアがいつも顔を洗っている石鹸なのだろうか。
高位の魔物の身支度は魔術で調えられるので不思議ではあったが、手入れこそを好むのかもしれない。
監視役を申し付けられてしまったディノに見守られながら化粧水とクリームを塗り終えると、ブラシがけはウィリアムがやってくれた。
とても素敵な気分でお任せしてしまい、その後は大事な伴侶の長い髪を三つ編みにしてやる。
アルテアには言えなかったが、実は、ブラシ類は首飾りの金庫にも備えがあるのだ。
「はい。出来ましたよ!」
「有難う、ネア」
「今日は、このお誕生日のリボンなのですね」
「うん。ネアが懐いていたからかな…………」
「私は、こちらの楽々ニットドレスです!」
「可愛い。弾んでしまうのだね」
「あちらの扉の向こうからいい匂いがしてきましたので、思いがけず使い魔さんの朝食に導いてくれた雪明けの行列さんには、感謝をしてもいいのかもしれません!」
「ネア、紅茶を淹れたが牛乳も用意するか?」
「まぁ。着替えている間に、ウィリアムさんがお茶の準備をしてくれたのですね。はい。牛乳も欲しいです!」
にっこり微笑んで食卓の準備を整えてくれるウィリアムには、少しだけお父さん的な雰囲気もある。
となると、出来たばかりの朝食を運んできたアルテアはお母さんなのかなと思ったが、それもちょっと違うような気がした。
「お二人は、お仕事は大丈夫そうなのですか?」
「俺は書類仕事だけだ。夕方からは屋敷に戻るが今はここで問題ない」
「俺は、夜には仕事に出る羽目になりそうだな。……………誰かがこんな日に革命を仕掛けたらしい」
「まぁ。もうお仕事なのですね」
微笑んではいたがあまり目は笑っていないウィリアムに、ネアは紅茶のお代わりを注ぐ。
朝食のテーブルには、チェダーチーズのような黄色いチーズとチャツネのものと、とろとろポテトグラタンなホットサンドが並び、スープカップにはほこほこと湯気を立てるグヤーシュも用意された。
サラダを省いた代わりにグヤーシュに野菜がたっぷり入っており、食後にはさくらんぼの焼き立てタルトがつく贅沢さである。
ネア達は、雪明けの行列がどこかに行ってしまってもその部屋でゆっくりさせていただき、昼食には、ネアが奮起しておかずフレンチトーストを準備した。
「ふぁふ。何もしなくていい素敵な日でした」
「ネアが可愛い………」
「おい。いい加減に部屋に戻れ。俺はもう出かけるぞ」
「むぐぅ……………」
「お前は、戦場に向かえよ」
「……………はぁ。俺が行かないという手も、あるにはあるんですが、戦が長引くんですよね」
「まぁ。こんな日に騒ぎ始めた方々のところへは、いっそきりんさんを放り込んで全滅させておきます?」
「いいか、絶対にやめろ」
「ご主人様…………」
気付けば、金色の朝陽に忙しなく起き出した一日も、夕闇の色が染め始めている。
ネアは、ふかふかの長椅子から立ち上がろうとしたがすっかり怠けた体が言う事を聞かず、もう一度ぽすんと座ってしまい、このままでもいいかなと遠い目になった。
「……………ったく」
「むむ。アルテアさんに立たされました……」
「ネア、部屋まで運んであげるよ」
「甘やかし過ぎだぞ。こいつは、朝から食ってばかりだろうが」
「こ、腰はちゃんとあるのですよ!」
「どうせ行くなら、手っ取り早く片付けてくるか……………」
「ウィリアム。お前は今の顔をこいつに見せてみろよ」
「はは。嫌ですよ」
「む?」
新年の安息日に現れるのは、雪明けの行列だけではない。
寧ろ、本来現れるのは別の者達なのだが、その日のウィーム中央では、そんな不思議な者達の調査に出掛けてしまった魔術師が五人程行方不明になったようだ。
幸いにもどちらも数日後に戻ってきたが、雪明けの行列の輝きに触れてしまったという魔術師は、とてもかぶれたので二度と近付かないと言っているそうだ。
ネアは、得体の知れなさの割にかぶれるだけで済むことに驚いてしまったが、よく考えたらかなり嫌な反応なので、絶対に近付かないようにしようと心に誓う。
なお、調査に出た訳ではなく倉庫管理で出勤せざるを得なかった牛乳商人も一人行方不明になったが、十日後に戻ってきて、牛乳を盗んだ犯人を捕まえられなかったとたいそう腹を立てていたという。
そんな話を聞けば、ネアは、やはりここで暮らす自分はその他大勢なのだなと何だかほっとしてしまうのだった。
明日1/2、明後日1/3の更新はお休みとなります。




