266. 誕生日は分割です(本編)
ネアはその日、とても悲しいお知らせを受け取り、わなわなと震えていた。
世界最大級の悲しみを以て、伴侶と使い魔、義兄と騎士を見上げていたが、全員がそっと首を横に振るではないか。
すかさずエーダリアの方を見たが、こちらはなぜか熱心に窓の方を見ている。
少しも目が合わないので、ネアは憤り足踏みした。
最後にヒルドを見ると、優しい森と湖のシーは、祝い料理にはならないがせめて少しでもお好きな料理を揃えましょうと慰めてくれる。
「…………私は、昨年のお誕生日も無下にされたのです」
ぽそりとそう呟くと、ディノが水紺色の瞳を揺らし悲しそうに真珠色の睫毛を震わせる。
とても綺麗なので、いっそうに悲しげであった。
「うん。………ごめんね、ネア。恐らく、もうこちらでは使っていない名前だから、誕生日を延期にする必要迄はないのだと思うのだけど、念の為に用心しておこうか」
「ぐるる…………」
「ご主人様………」
「そこまで厳密に延期にする必要はないが、ある程度は誕生祝いの形を崩す必要がある。ケーキぐらいなら焼いてやるから我慢しろ」
「果物やクリームたっぷりの、誕生日ケーキみたいなやつでふ…………」
すかさずそう強請ったネアに、アルテアが肩を竦める。
「ったく。…………グラタンも作ってやる」
「では、厨房にはローストビーフを頼んでおきましょう。ネア様、他に食べたいものなどはありますか?」
「前に出た、キノコのメランジェ風のスープが飲みたいです…………。出来るでしょうか?」
「おや。それくらいであれば、問題ない筈ですよ。もう何品か用意出来ますが、他にもご注文があれば」
「ふぁい………。大きな料理ではありませんが、殻を器にして食べるとろとろ茹で卵も食べたいでふ」
くしゅんと項垂れたネアに、僕の誕生日も延期だからさと微笑みかけるノアが、手を繋いでくれた。
とは言えそちらは今月中に誕生日を一度やっているではないかと、その誕生日をわざわざ延期してくれた魔物に対してあんまりな憤りを抱いてしまい、ネアはふすんと息を吐く。
予め言われていればまだ良かったのだが、当日にいきなりの誕生日の延期はとても悲しいのだ。
ついつい、大切な伴侶に体当たりしたくなってしまう。
「それにしても、誕生の祝福がこのような場面でも影響するのだな…………」
ネアがじっと見つめなくなったからか、やっとエーダリアが会話に加わった。
ノアが頷き、ひらりと片手を振る。
「ネアの場合はさ、名前に夏至祭に纏わるものの紐付けがあるから、ちょっと特殊なんだよね。本来であれば、練り直しもあるしそこまで引っ張らない筈なんだけど、夏至祭はこちらの世界層にもある祝祭だし、今年の漂流物には祝祭が重なって出たから、うっかり大晦日の揺らぎ近くで夏至祭なんかを引っ張ると事だからさ」
「………加えて、ネアの持つ名付けの祝福には、ただの夏至祭というには、俺の資質に近いような要素もあるからな」
困ったように微笑んだウィリアムからは、自分との契約もその懸念材料になりかねないと謝られた。
かつてのネアハーレイが備えていたものの代わりに、ウィリアムやヒルドの資質が生かされているのはこの世界に根付くという意味では良いことなのだが、同時にそれは、中身が入れ替わっても同じ枠組みが残るということでもある。
昨晩の日付が変わるまで魔物達は様子を見ていてくれたそうだが、問題ないと言い切れるだけの要素が観測されないままだった。
なので、どの程度の影響があり、どんな反応が出るか分からない以上はと、大事を取っての誕生日延期とされたのだった。
「おかしいと思ったのですよ。ディノは、日付が変わった後すぐにお祝いをしてくれる事が多いのに、昨晩はずっとそわそわしているだけでした。なぜだろうと問い詰めたところ、まさかの………えぐ」
かくしてネアは、やはり何かがおかしいぞと早朝に伴侶を問い詰め、誕生日が祝えない事を知ってしまったのだ。
「ネア…………」
「むぅ。…………安全の為だと理解はしているので、ちょっぴり落ち込んでいるだけです。今日は、美味しいものを食べて元気を出しますね」
「うん。…………アルテアをちびふわにして撫でるかい?」
「まぁ。使い魔さんが、ちびふわになってくれるのです?」
「やめろ」
悲しみに暮れる乙女が、とは言え現実を受け入れていることを知って安心したように、魔物たちがほっとした様子を見せた。
(…………もしかして)
ここでネアは、忙しい筈だという気がする年末にかけて、ウィリアムやアルテアがリーエンベルクに来ていたのは、疲れているからだとか、大晦日に備えているだとか、そんな理由ばかりではなかったのだと気付いてしまう。
きっと、このネアの誕生日についても、状況を見ながら皆で相談していてくれたのだろう。
(それなら、私がいつまでも落ち込んでいたら困らせてしまうわ………)
まだ少し悲しくてくすんと鼻を鳴らしはしたが、ネアは感謝を忘れない人間でありたかったので、全員が揃っている内にお礼を言ってしまうことにした。
「年末の忙しい時期に、ご心配をおかけしました。もし良ければ、年明けの落ち着いた頃にでも、一緒にお食事などをしてくれると嬉しいです」
しかしなぜか、ネアがそう言った途端、室内が奇妙な静けさに包まれるではないか。
「……………ネア。今のところは鳥籠に入るような仕事はなさそうだから、俺はここにいるからな?」
「ケーキとグラタンを作ってやると言っただろうが。………そうだな。氷河の酒も出してやる」
「ええと、僕の妹の誕生会は、年明けで早急に設定しようね」
「ギモーブを食べるかい?」
「なぜ、宥められ始めたのでしょう……」
「ご主人様……………」
丁寧にお礼を言ったせいで何やら誤解を受けたような気がするのだが、とは言えネアはギモーブをいただき、ウィリアムと一緒に食事が出来る事を喜んだ。
楽しみにしていた贈り物を受け取る事は出来ないが、幸いにも、イブメリアに貰ったばかりの素敵な贈り物が手元にある。
本来ならイブメリアと誕生日の一本化は断固として許さない派の人間であるが、今年ばかりは、イブメリアの素敵な贈り物を眺めたりして心を慰めよう。
(私としたことが、イブメリアと誕生日が近い事に感謝する日がくるなんて………)
ふっと苦く微笑んだのは、ネアが、クリスマスと誕生日の一本化に警鐘を鳴らし続けてきた人間だからだ。
世界中の人々と同じように、それは年に二回の恩恵であるべきだ。
でなければ、人間の心など容易く闇に傾いてしまう。
ネアの家族はきちんと分けてお祝いしてくれたが、とは言え、ご馳走を食べる日からご馳走を食べる日までの間隔の短さや、一年の大半はお祝い待ちだったという事実は揺るがず、どことなく不公平さが残っていた。
だが、かつてはお祝いの均等な配分を願った在りし日の記憶を持つネアが、今はこうして誕生日がイブメリアの直後だったことに感謝している。
何とも皮肉な話だと思い、苦く微笑んだのだ。
「か、代わりの日が決まったらまたちゃんとやろうよ。それにさ、今日だって、僕の妹の好きな美味しい料理が沢山出るからね!誕生日のご馳走を少しだけ先に受け取ったって感じなら、名前の繋ぎにも引っ掛からない程度じゃないかな?!だよね、アルテア!」
「………ああ。分割で受け取るようなものだな。僅かであれ、それらしい雰囲気は残るだろう」
「ネア。どこか連れて行って欲しい場所があるなら、連れて行くぞ?」
「……………引き続きとても宥められている感じですが、さすがの私も、今回のような理由で誕生日が延期になったとて、それで怒り狂ったりはしません………」
「ご主人様………」
ネアは意識して穏やかに微笑んでみせたが、なぜか魔物達はいっそうに顔色を悪くした。
エーダリアもおろおろしてしまい、唯一、ヒルドだけはくすりと笑っている。
ディノはアルテアとこそこそと話し合った後で、どこからともなく初めて見る小箱を取り出すではないか。
そっと差し出してくれた箱を開けば、中には四角いクッキーが入っていた。
震える手で差し出すどうにも鎮めの供物のような渡され方だが、美味しそうなクッキーを受け取るのは吝かではない。
ネアは厳かに頷いてからクッキーを受け取ると、箱から出した一枚を小さく齧り、シナモン味の固焼きクッキーの美味しさにかっと目を見開いた。
「こ、これは!」
「気に入ったかい?」
「このクッキーであれば、籠いっぱいいただいても問題なさそうです」
「アルテアが、ギモーブだけではそろそろ飽きてしまうだろうと言って、焼いてくれたものなんだ」
「むぐ!」
「わーお。そういうとこ、アルテアって気が回るよね…………」
「もしかして、かなりの頻度でネアの為に備蓄をしているんですか…………?」
ノアとウィリアムに見つめられたアルテアは、つんとしているが、とても良く出来た使い魔なのは間違いない。
ネアは、二枚目の素朴な茶色の四角いクッキーを大事に取り上げ、美味しさを噛み締める為に、再びちびちびと齧った。
(……………美味しい!)
固焼きだが、齧るとじゅわっとざらりと崩れるような食感は、ネアの大好きな味わいだ。
市販品で売っているクッキーの中にも似たようなクッキーがあるが、こちらは、ディノの持っている円筒形の箱に入っている推定枚数からしても、味わいの上品さからしても、その上位商品という感じである。
少しずついただくような枚数なので、大切に齧りながら小さく足踏みして喜びを示していると、ふっとアルテアが微笑む気配があった。
「ネア。どこか、食事をしたい場所はあるかい?」
「ディノ…………?」
「テーブルを出して、内装の華やかな広間で食事をしてはどうだろう。君が持っている土地でもいいのかな」
「まぁ。…………ご迷惑になりません?」
ネアはついついエーダリアとヒルドの方を振り返ってしまったが、二人共微笑んで頷いてくれる。
であればと、アルテアに貰ったばかりの森がいいかもしれないと考えていたところで、ばたんとどこかで扉が開く音がした。
「……………む」
「ありゃ。場所が用意されたみたいだぞ…………」
「そろそろ慣れてきたが、リーエンベルクは凄いところだな……」
明らかにリーエンベルクからの会場提案だったので、一体どちらの部屋だろうかと、ノアが会食堂を出て調べに行ってくれる。
そして、すぐに戻ってきた塩の魔物は若干遠い目をしていた。
「ノア、新しいお部屋でした?」
「……………なんかもうね、……………すごいところだよ。影絵と郷愁の魔術かな。………っていうかここ、誰が作ったんだったっけ…………。少なくとも僕達じゃない筈だから、それでこんなのって…………」
すっかり混乱しているノアの様子に、ネア達は顔を見合わせた。
一体どこに部屋が現れたのだろうかと尋ねると、なんと、会食堂のお隣だと言うではないか。
「おかしいです。お隣には、時々石炭などを置いてある倉庫が現れたり、見た事のない素敵な茶器のあるお部屋が現れるくらいなのですよ」
「……………ま、待て。私は、茶器の部屋は知らないぞ?!」
「おや。ご存知ありませんでしたか?」
「え、…………僕もそんな部屋知らないんだけど」
ネアは、今更であるが、茶器の部屋を知らない家族がいることに驚いた。
エーダリアとノアは知らず、アルテアは見た事があるという。
なぜアルテアには扉を開いたのだろうと思えば、どうやら、茶器を必要とする者の前に現れるようだ。
とは言えまずは、ノアが見てきたお隣の部屋の確認だろう。
そう考えて全員で会食堂を出ると、確かに廊下の少し先に見たことのない扉がある。
「まぁ。なんて綺麗な扉なのでしょう!」
「見事な扉だな。私も、見るのは初めてだ……」
透かし彫りになっている夜菫色の結晶のレリーフを重ねた両開きの扉は、灰紫がかった木製のものだ。
結晶石の部分を固定するのに足りるどっしりとした重たそうな扉なのだが、触れられそうなくらいに柔らかな質感を感じさせるヴェールの彫刻が美しい。
「まるで本物の薄布のような、素晴らしい彫刻です!」
「………この彫刻の癖を見るのは、初めてだな」
「ということは、アルテアさんも知らないような職人さんがいたのでしょうか?」
「この造形で木製なのか。薔薇のアーチに薄布のカーテンをかけたような意匠になっているんだな。アルテアが好きそうですね」
「………この手の彫刻が流行った時代となると、ウィーム王朝時代かもしれないな」
「これは美しいですね。……………エーダリア様、魔術刻印を探すにしても後にされては?」
「………っ、そうだな」
あまりにも素晴らしい扉に、エーダリアは扉を作った職人の魔術刻印を探そうと、屈み込んでしまったようだ。
呆れ顔のヒルドに声をかけられて慌てて立ち上がっていたが、こちらでも選択の魔物が同じ動きをしているので、魔術刻印があればアルテアが発見してくれるだろう。
「ウィーム王族の手製だそうだ」
「…………ほわ。まさかの、本職の方でもないのです?」
「王家の者が、この扉を作ったのだな……」
お目当ての刻印を見付けた後、アルテアは、何とも言えない表情で立ち上がった。
素直に感動して目を輝かせているエーダリアに対し、魔物達はとんでもないスープを持って来てくれる時のアレクシスを見るような表情になってしまっている。
アルテアによると、その王族は継承を辞退して息子達と共に市井に下りている筈なので、現在もウィーム中央で暮らす領民に血が引き継がれている可能性が高いのだとか。
「素敵ですねぇ。この扉を作った方の子孫が、今はウィーム中央で、スープを作ったりパンを焼いたりされているのかもしれません!」
「魔術資質として引き継ぐなら、道具作りの方だろうがな」
「という事は、アレクセイさんなどでしょうか…………。なお、ネイアさんも狩りの道具は自分でも作るそうですよ」
「木製の細工品となると、在り得なくはないか…………。あの人間も、間違いなくその系統だろうからな」
なお、すっかり扉で足止めされてしまったが、目的地はこの向こうである。
ネア達は、気を取り直して扉の向こうに向かう事にした。
そして、優美な取っ手を掴んでノアが扉を開けてくれると、そこには更に、ネアが目を丸くしてしまうような景色が広がっていたのだ。
ふわりと、柔らかな風が吹き抜ける。
冷たくはなく、心地良いばかりの温度のない風だ。
「……………温室……………いえ、硝子で覆われたバルコニーです?」
「魔術観測用のバルコニーだな。…………この遮蔽は、泉結晶か」
「びっくりするぐらいに頑丈で、おまけに薄いんだよね。しかも、曇らないように温度管理の魔術がかけてあるんだけど」
「………広い硝子で覆われたバルコニーの向こうに、ウィームの景色があります。こんな素敵なお部屋………?があったのですね!」
そこには、大きなテーブルを置いてみんなでパーティが出来るくらいの広さの、石造りのバルコニーがあった。
扉の向こうにいきなり現れるので、一瞬、外に出てしまったのかなと困惑するような空間である。
おまけに、廊下に対して建物の内側に開く扉であるのに、バルコニーの向こうにはウィームの街並みを望む美しい冬の森の景色が広がっているのだ。
バルコニーの形状は半円形で、その側面や天井は限りなく透明な泉結晶で覆われ、不思議な温室のような造りになっている。
なので勿論、向こう側に見えるのが夜明けの森と雪の中のウィームの街並みであっても、少しも寒くはないのだった。
「この景色は、封印庫前の公園から、美術館とその向こうの通りを眺める角度ではないだろうか」
「ああ。その辺りだろうな。景色そのものを影絵として切り出して定着させているようだ。…………年の為に言っておくが、これは通年で切り出されているものだぞ。………季節に見合った運行も備えている影絵だ」
「むむ。となると、いずれは春や夏の景色も見れてしまうのですねぇ」
「可愛い。弾んでる………」
「……………わーお。こりゃ凄いや。…………祝祭の運行の乱れなんかで時差が出るから、こっちと時間がずれているんだと思うけど、…………ありゃ。自立型の調整機能までついてない?」
「この形を見ている限り、魔術工房のようだね。研究や術式の構築の為に、このような形にしたのだろう」
「まぁ!この素敵なバルコニーが、工房だったのですか?」
寧ろ景色を楽しむ為の場所でもおかしくないように見えるのだが、ディノから、恐らくは季節の運行と天候などの魔術の研究をしていた者の工房だったのだろうと言われ、ネアは驚いてしまった。
エーダリアはもはや声もなくあちこちを見回り、ほうっと感嘆の溜め息を吐いている。
「さてと。ってことは、今日はここで僕の大事な女の子の為に、みんなでご馳走を食べるのかな」
「ふぁ!氷河のお酒もあるのですよ!」
「いいか。今年は市場に出た数が少ないんだ。味わって飲めよ」
「はい!」
「テーブルは僕が………って、アルテアに先越された」
「アルテアなんて…………」
「ディノ、この内扉の鍵で、厨房を繋げられるでしょうか?」
「影絵を貼り込んでいるから、別の入り口を用意した方がいいだろう。鍵穴のある扉を出してあげるよ」
「むむ。扉だけがしゅわんと現れました」
バルコニーから望むウィームの街では、ゆっくりと夜が明け始めていた。
僅かに空の縁が薔薇色に染まり、けれどこも今日の天気では雪の方が勝るようだ。
薔薇明かりの色というよりは、より青みを重ねて淡い淡い菫色に染まる景色は言葉に出来ない程の美しさで、ネアは、ぎゅっとディノの手を掴んでしまう。
「良かったね、ネア」
「ええ。こんなに素敵な場所で、お食事が出来るなんてわくわくしてしまいますね!お誕生日もとても大切ですが、分割のお祝いになったからこそこの部屋に出会えたのでしょう」
「そうかもしれないね。……………虐待」
「むぅ。ここは、感動のあまり伴侶の手を握ってしまう場面ですので、もう少しだけ頑張って下さいね」
また手をぎゅっとされてふるふるしている伴侶を励ましつつ、ネアは気付いていた。
遠くの建物の横に、きらきら光る飾り木が見える。
つまり、この影絵の中はまだイブメリアが終わっていないのだろう。
それがまるで、もう一度のイブメリア気分の贈り物を貰ったようで、先程迄の悔しさなどはどこかにいってしまい、ネアは飛び跳ねるように精緻な彫刻の石の手摺に近付くと、その向こうを眺めた。
「……………綺麗ですねぇ。きっと、私達も知っているウィームの街並みのままなのですが、それでもなんて綺麗なのでしょう」
「うん。…………君が喜ぶようなものが現れてくれて、良かった」
「私にはこんなに素敵な家族や仲間がいて、みんなが分割でもお祝いに近いことをと思ってくれたからこそ、リーエンベルクさんがこのお部屋への扉を開いてくれたのかもしれません!」
「可愛い。ぶつかってくる…………」
「むふぅ!何だか気持ちが昂ってしまい、思わず伴侶に体当たりしてしまいました」
やがて、アルテアの所有らしい側面に優美な彫刻トリミングがあるテーブルには、沢山の料理が並んだ。
声を大にして誕生日は祝えないが、それでも今日は、誕生日の分割のお祝いである。
このくらいならいいだろうと、誕生日ケーキのような素晴らしいケーキが用意され、ネアは、注文を受けてからこれだけのケーキを作ってくれたアルテアと、魔術の叡智に感謝した。
きゅぽんと音を立てて、氷河の酒のコルクが抜かれる。
特製のローストビーフだけではなく、ネアの所望したとろとろ茹で卵は、スプーンでいただくとろりとした美味しさが堪らない。
香草の香りを付け、薔薇塩で食べるものだ。
アルテアのグラタンは、アルバンのチーズたっぷりの、マッシュポテトとコンビーフのシンプルなものだが、実はネアはこれが大好きなのである。
焼き立てのパンはブリオッシュと干し葡萄パンに、ふかふか牛乳パン。
ウィリアムが買い出しに行ってくれた、美味しいソースが決め手のサナアークの串焼き肉まで。
サラダには、小さく切った干し林檎と濃い味が美味しさを加速させる黄色いチーズをばらばらと載せて、さっぱりめだが美味しさは譲らないドレッシングでしっかり和えられている。
「まだ、空に星が見えるのですね」
「星の配列は随分と古いものだね。今はもうない星が幾つかある」
「その星さんはどうなったのですか?」
「空から落ちて、割れてしまったのではなかったかな」
「西の花星は竜でしたからね。伴侶に逃げられて姿を消したそうですよ」
「ほわ。竜さん………」
「あっちにあった薄緑の星はさ、死の精霊が落としたんじゃなかったっけ?」
「ああ。ナインだな。十年近く揉めていて、こちらの仕事にも影響が出ていた」
少しだけ飲めるカップ提供のグヤーシュもあり、ディノははふはふしながら美味しそうに飲んでいる。
小さなガラスに注がれた氷河の酒の甘い香りには、ノアが切ってくれた氷雨と雪梨のサラミが合うだろう。
焼き立てのグラタンからはほかほかと湯気が立ち昇り、素朴なグラタンの美味しさはやはり焼き立てをすぐに食べる事だ。
このグラタンとローストビーフ、串焼き肉だけで永久運動が出来そうだった。
「………飢餓感のようなものは、ないかい?」
むぐむぐと串焼き肉を頬張っていると、ディノがそんな事を聞いたので、ネアはにっこりと微笑んだ。
「あのフィンベリアを貰ってから、そのような怖さや不快感は少しも感じなくなりました。ディノのお陰でしょうか」
「………良かった。今回の措置は不可避なものではなくて予防に近いものだけれど、………それでまた、君から欠けるものがあると困るからね」
「大切な人達が一緒にいてくれて、リーエンベルクのご馳走は勿論、サナアークからの串焼き肉や、お誕生日ケーキのような立派なケーキもあるので、すっかり楽しくなってきてしまいました」
「離婚も家出もしないかい?」
「…………なぜそんなにも怯えているのだ」
ネアは怖々と尋ねた魔物に、どちらもしないと安心させてから、ネアは、椅子に座ったまま伸び上がってディノの頭を丁寧に撫でておいた。
(…………私の、誕生日)
ひとりぼっちの部屋で、小さな丸いクッキーを齧って涙を堪えていたあの日。
通院予定を放り投げ、奮発してチケットを買った歌劇を楽しんだ帰り道で、クリスマス近い賑やかな街並みの中に自分だけが一人でいるように思えた遠い日。
あの頃のネアハーレイは、もう少しだけ世界から大事にして欲しかった。
みんなが持っている素敵なものをこの手の中にも落としてくれたなら、きっと生涯大切にするのにと考えながら、おとぎ話の魔法が世界を変えてくれない街を歩き、誰もいない屋敷に帰った。
(でも今は、分割のお祝いでもこんなに賑やかで、とっても幸せ………)
専用ベルトで腰に装着するボールホルダーを自慢したノアに、アルテアが呆然としていたり、ウィリアムが頭を抱えていたりする。
串焼き肉を頬張るエーダリアを見ながら、ヒルドが、騎士棟からの連絡で、門の間に挟まったムグリスの救出活動が無事に終わったと教えてくれたりする。
ここはとても賑やかで、優しくて暖かい。
その全てがどうしようもなく愛おしく素晴らしいのだけれど、人間はとても現実的な生き物なので、こんなに素敵な時間は一秒だって取りこぼしたくないのだ。
なのでネアは、しっかりと残りの予定も立てておく事にした。
「この楽しさと素敵さを三分の一として、残りの三分の二を年明けの再設定としますね!」
「そうだね。贈り物もその時に渡そう」
「はい!」
「離婚はしない………」
「まぁ。私としても、離婚は絶対にしたくないので、お揃いです?」
「ご主人様!」
また、来年。
これからもまだまだ。
そうして続くものがあって、この先も共にいる約束がある。
そんな風に思える楽しみが残るのも、ちょっとした贅沢なのかもしれない。
目下の野望は、使い魔のケーキをふた切れ以上手に入れることなのだが、今日ばかりはきっとその願いも叶うのではないだろうか。
何しろここはウィームで、この世界にはおとぎ話の魔法をくしゃくしゃにする程の宝物が沢山あるのだから。
書籍作業の為、明日12/29の更新はお休みとなります。TwitterにてSSを書かせていただきますので、宜しければご覧下さい!




