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265. 橇遊びに現れます(本編)



イブメリアの夜になった。



雪の降り方は少し落ち着いたが、積もったばかりの雪がふかふかしている。

その中でちかりと光るのは、新雪に潜り込んだ小さな妖精か、或いは雪の中で育った祝福結晶だろう。

掘り起こせば素敵な結晶が手に入るかもしれないが、場合によっては丸まって眠っていた妖精を起こしてしまい呪われる可能性もあるので要注意だ。



大聖堂の前には大きな飾り木があり、赤い実を模した結晶石や白磁に青い絵付け模様のあるウィーム陶器を模したものなど、様々なオーナメントがかけられている。


大きな飾り木は、魔術の火を灯した飾りや光を孕む結晶石などもかけられているので、あちこちがきらきらと光り、領民達や観光客達の目を楽しませていた。




(こんなに綺麗なものが、…………あと少しで燃やされてしまうなんて…………)



送り火の激しさを思うと何とも言えない気分にもなるが、儀式の始まりと同時に、教会兵たちが飾られているオーナメントを取り外し、火を点ける準備をする。

その際、飾り木の中に潜り込んでいた小さな生き物達にも、退避勧告がなされるのだとか。


ただ、ごく稀にイブメリアの日に命を落とした小さな妖精などを、家族の妖精達が飾り木の中に安置していることもある。

眠っている生き物と間違えられないように、その場合は、体のどこかに飾り木近くに置かれている籠の中にある黒いリボンを結ぶのが習わしであった。


美しい飾り木を棺桶代わりに出来るのは、イブメリアの日に旅立ったものばかり。


なので、ウィーム中央に暮らす小さな生き物達にとっては、どうせならこの日に旅立ちたいと願うものも多いのだそうだ。

ただし、あまりにも火力が強いのでまったくの事故でじゅわっと燃えてしまうものもいるので、生きているもの達にとっては要注意の送り火である。




夜の大聖堂は、美しかった。




鐘の音が鳴り響く中、ゆっくりと祭壇に向けて進む列。

柱ごとに設けられた小さな祭壇には、魔術の火を灯した蝋燭が置かれており、ゆらゆらと光りの影が伸びている。


円形のシャンデリアを木枝で飾ってリースにしているその上には、ステンドグラスからの雪明りが色影を滲ませるようにして煌めいていて、高い天井の石造りの聖堂の中に不思議な光の層を作っていた。



清しい森の香りに、蝋燭の溶ける匂い。

花と果実の香りに、雪とイブメリアの香り。

燭台の火がぼうっと揺らめく度に小さな祝福の煌めきがきらきらと弾け、やはりここでも今年のイブメリアの祝福の強さが窺えた。



勿論、美しいのは、イブメリアの夜とその飾りつけのある大聖堂だけではない。

儀式に参加する人外者達の佇まいもまた、儀式を見守る者達にとっては一枚の絵のような美しさだ。


今年は漆黒の装いで揃えた雪竜達は、長い髪を複雑に結い上げたジゼルも、その隣に立つ黒髪のワイアートも、儀式的な装いであることを示す銀糸の刺繍装飾とどこか軍服的な雰囲気の装いの硬質さの対比が、何とも素敵ではないか。


ダリルは艶やかな深い青色のドレスで、ヒルドは深い青緑色の盛装姿である。

色味は違うがどちらも深い色なので、白に近い色を纏う、信仰の魔物やエーダリアの装いが引き立っていた。



王都からの参列はすっかりウィーム中央でのイブメリアの夜を気に入ってしまったらしい、ヴェルリア侯爵の子息と、王都の騎士団長であるオフェトリウスとなっている。


第一王子とその契約の竜は、漂流物の犠牲の多かった王都での儀式で、今年は小さな演説を控えているようだ。

以前であればヴェンツェル王子の代わりに誰が参加するのかで気を揉む場面だが、思いがけないところでウィームに好意的な代理人が生まれたので、今後はこちらの運用でもいいのだろう。



とぷとぷと満ちてゆくように、聖歌隊の歌声が大聖堂の中に響いてゆく。


祭壇の横に立ったグレイシアの赤い篝火の瞳は薄闇で尾を引くような鮮やかさで、観光客だと思われる家族がほうっと感嘆の溜め息を吐いている姿もあった。



この聖歌が終わればもう、イブメリアの夜を締めくくる詠唱に入る。



そう思えばやはりの寂しさがあったが、ネアは、ディノの贈り物の事を思って小さく胸を温めた。



(でも、……………やっぱり寂しいな)


大好きだった屋台や、街のそこかしこに建てられていた美しい飾り木がなくなる。

赤いインスの実を飾ったリースや、あちこちの店に並んでいたオーナメントやイブメリアのカード。

そんな大好きな季節が、もう終わってしまうなんて信じられない。



それでも今年も、祝祭の幕を引く儀式詠唱が始まるのだ。



まずは司教の詠唱が始まり、伸びやかな声が広がってゆく。

さすがに三回目となればもう慣れた様子で、ネアも、その詠唱の美しさを好きになった。

以前の司祭のふくよかな声とはまた違う、伸びやかで力強い詠唱だ。



(…………次は、エーダリア様だわ)



その次の詠唱は、これはもう言うまでもなく素晴らしいウィーム領主の詠唱だ。

エーダリアの声には静謐な美しさの他に、ほんの僅かな情感があって、何とも言えず心を打つ。


今夜の装いは白灰色の盛装姿で、飾り帯の祝福石やその周りの刺繍で色を添えている。

大きな青紫色の宝石の周囲に、ウィーム紋章にも使われている薔薇枝を模した青緑色の祝福石の刺繍があるのだが、それらの石が誰から提供されたのかは、エーダリアの隣を見ればいいだろう。



そして、最後の詠唱を受け持つ信仰の魔物、レイラが祭壇の上で両手を広げた。



白茶色の髪が耳下で揺れ、耳飾りは艶消しの金色の結晶石のようだ。

今年は髪色と同じ色合いの装いである為、刺繍や襟飾りなどの差し色になっている金色がよく映える。

薄緑色の瞳に聖堂内の魔術の煌めきを映して立てば、中性的な美貌のレイラの姿は如何にも信仰そのものの清廉さを具現化したように見えた。


エーダリアのの白灰色とのレイラの白茶色の装いが、銀と金にも見えるのも、絵のような配列だ。

ネアは、厳かな気持ちで最後の詠唱を聞く。



「かの夜に現れし偉大なるもの、この夜に宿りし静かなるもの。この夜に立ち去りし美しきもの。イブメリアよ、その祝祭の名において祝福を齎し、この地に妙なる恩寵を敷かんことを。立ち去る御身のその裳裾に、我らの信仰をもって忠誠と感謝の口付けを贈ろう」



そしてとうとう、高らかに最後の詠唱を終えたレイラが飾り木の小枝に口づけを落とし、イブメリアの終幕を宣言した。



ゆったりとした歩調で歩み寄った送り火の魔物のグレイシアが頭の上の王冠を外し、両手で祭壇の上にそっと置いた瞬間の事だ。

一瞬、ゆらりと深い影がさざめくように、大聖堂の中に大きな飾り木の影が落ちた。



(……………あ)



今のは、イブメリアの系譜からの返答だろうか。

気付いた者達が息を呑む気配があったが、その途端に胸の奥が温かくなるような感覚と共に、大聖堂内の魔術の火が明るくなったので、良い兆しのもののようだ。


グレイシアは動じずに一つ頷き、手のひらに戻された、大聖堂の尖塔に灯されていた祝祭の送り火を受け取っている。

赤々と燃えるその日を大聖堂横の大きな飾り木に移せば、苛烈な送り火の儀式を以てイブメリアの夜の終幕となる。



ゆっくりと中央の通路を歩いてゆくグレイシアと僅かに目が合ったが、今日ばかりは美しい男性姿の送り火の魔物は艶やかに微笑み僅かに会釈をすると、薔薇色の毛皮の縁取りのある漆黒のケープを揺らして大聖堂の外へと歩いていった。


相変わらずこの夜の送り火の魔物への観光客の人気はかなりのもので、出て行った先で、わっと歓声が上がっている。

特に年若いお嬢さん達が多いらしく、グレイシアを見る為だけに他領から泊りがけでやってくる者達も少なくないのだとか。



「…………始まりましたね」

「……………うん。始まったようだね」



やがて、ステンドグラスの窓越しに、やはり今年も大火災かなという凄まじい炎の影が映る。

ヴェルリアから来ている侯爵子息は、周囲の者達への挨拶もそこそこに、目を輝かせて外に走り出していった。



「今年もあの通りのようですので、どうぞご安心を」



こちらに来てそう微笑んだのは、青緑の瞳の剣の魔物だ。

今日は王都の騎士団長としての訪問なので、漆黒の騎士服である。

けぶるような金糸の髪は魔物としての姿より幾分か色が濃く、少しばかり遠い目で窓の向こうの火の影を見ている。



「ノアベルトから話を聞いたよ。………何か、懸念があるのかい?」

「こればかりはもう、僕の騎士としての経験と勘のようなものでして。今夜はお邪魔させていただきます」

「……………む?」


ディノと話しているのは何のことだろうかと首を傾げると、こちらを見たオフェトリウスが、まずはネアの羽織っている自慢のケープを褒めてくれてから、実は橇遊びに参加する事になったのだと教えてくれた。



「ただ混ざりたいだけではなく、何かご心配事があるのですか?」

「アルバンの山の雪の色が、一部だけ褪せているような気がするんだ。君達が滑った後で、僕が連れてきた侯爵家の息子も同じ山で滑るようだからね。同行の許可を貰って、先んじて何もないかどうか調べさせて貰うことにした」

「まぁ。……………ディノ、大丈夫でしょうか?」

「ノアベルト達とも話をしたのだけれど、恒例行事のようなものだから変更はない方がいいだろう。ウィリアムとアルテアもいるし、オフェトリウスも来るのであれば、多少の事であれば対応出来る筈だ。ただし、麓で待つヒルドの周囲にも、ノアベルトが排他結界を残してゆくそうだよ」

「また、橇食いさんが現れなければいいのですが…………」

「誰かが、食べられてしまうのかな……」



イブメリア大好きな乙女は、最後まで祝祭の儀式を素直に楽しませてくれない運命を呪ったが、大聖堂を出たところの燃え盛る飾り木の周囲で、ハツ爺さん達と楽し気に踊っているヴェルリア侯爵子息を発見し、おやいつも通りかなと半眼になる。


ヴェルリアからのお客人は、今年は顔を緑に塗るだけでは飽き足らず、謎の星飾り帽子まで被ってしまっている。

心から楽しんでいるのは間違いないし、限定のイブメリアのマグカップを買ってホットワインをぐびぐび飲んでいる姿はまるで童心に返ったようなので、幸せな光景なのかもしれない。


炎の中で大きな枝が燃え落ちると、ウィーム領民達と一緒に雄叫びを上げていて、この送り火の儀式に慣れていない観光客達からは怯えを含んだ目で見られているが、当人が幸せならいいのだろう。



「ディノ。橇遊びに何か事情があるのなら、ランタンはもうどなたかが取りに行ってくれているのでしょうか?」

「うん。ウィリアムとヒルドが並んでくれている筈だよ。ああ、戻ってたようだ」


その言葉に顔を上げると、こちらに歩いてくるヒルドが見えた。

目が合うと微笑んでくれ、その姿を通りすがりで見てしまった観光客が胸を押さえている。



「ネア様。今年は橇遊びに警戒が必要なようなので、早めにランタンを確保しました。こちらから選んでいただいても宜しいですか?」

「はい。有難うございます。……………まぁ。今年のランタンの模様は、鈴蘭なのですねぇ」

「ええ。昨年より人気のようで、儀式終了と同時に並ぶ者達が多かったようです」

「むむ。そう言えば確かに、儀式が終わるなり駆け出していったご婦人方が何人かいましたね………」



燃え盛る飾り木の向こうに、今年のランタンを貰う為に並んでいる人々が見えた。


丁度、目を向けた時に、わぁっと歓声が上がって一人のご婦人が飛び跳ねていたので、限定の金色の絵付けのランタンが出たのかもしれない。


ネアは、鈴蘭の花の付き方がころんとしていて可愛いランタンを貰い、笑顔で掲げ持った。

内側に収めた送り火の炎は、やはりいつもより明るいだろうか。

ウィームの雪の夜を照らすランタンに、繊細な鈴蘭の彫り模様が綺麗に浮かび上がる。



(綺麗だなぁ…………)



美しいランタンにほっこりしてしまってから、ネアは周囲を見回した。



「…………そう言えば、ウィリアムさんとアルテアさんの姿がありませんね」

「二人は、先にアルバンの山に入っているよ。オフェトリウスの懸念を受けて、問題がないかどうか調べているようだ。……………ただ、今のところは異変はないようだから、変化が現れるにはまだ早いのかもしれないね」



ノアも既にエーダリアを連れて移動したというので、ネア達もアルバンの山に向かう事になった。


立ち去り際にわっふーという謎の奇声を発して踊っている侯爵子息を見てしまい、充分に異常な状態のものには触れた気もするのだが、まだまだこの夜には何かが起こりそうだ。





びゅおん。



「ぎゃ!…………今夜は冷えますね」

「風が直接当たらないようにしようか。…………確かに、いつもよりも気温が低いね」


淡い薄闇を踏んで転移した直後に冷たい風に吹かれ、ネアは、アルバンの山に到着するなり震え上がってしまった。


慌ててディノにいつもの魔術更衣室を立ち上げて貰い、橇遊びに相応しい装いに着替えてくる。

儀式用のケープは美しいし、見た目に反する守護の分厚さでもあるが、風にひらりと膨らむので防寒という意味ではいささか心許ないのだ。




びゅおるると、また強い風の音がする。



風が雲を吹き飛ばしたのか、アルバンの山の上には月明かりが落ちていて、既に橇の準備までを終えた魔物達がいた。


ネア達は、エーダリアとアルテアの間に入らせて貰う事になり、奥から順に、ノア、エーダリア、ネア達を挟んでアルテア、ウィリアムとなる。


先に到着していた面々の橇や装いを見る限り、ノア以外の者達は、現れるかもしれない異変を警戒しているというよりも、今年こそ橇遊びで優勝してみせるという熱意しか感じ取れなかった。


ヒルドもそう思ったのか、額に片手を当てて溜め息を吐いている。



「エーダリア様。今夜は懸案事項があるようですので、くれぐれも無理はなされませんよう」

「勿論だ。儀式的に中止にする訳にもいかないので、如何に早く滑り終えられるかどうかも、対策として数えておくことにした」

「……………追われるばかりとは限らないでしょう。いざという時には、順位への拘りは捨て、皆様方の指示に従うようにして下さい」

「あ、ああ。…………勿論、そのつもりなのだからな」



ここでちょっぴり後ろめたい顔をしてしまったので、必要であれば順位を落とすという選択肢は、うっかり忘れられていたようだ。


どんな異変が現れるのかは未知数だが、もしそのようなものが現れた際には、背後から迫ってくるだけではなく、滑り下りてゆく先などの、橇の速度を落とさねばいけない場所かもしれないのだ。



「大丈夫。僕がしっかり見ているよ。……………オフェトリウス、今のところは何もないけれど、クロムフェルツの本隊がウィームにいたから、その余波かもしれないね」

「僕もその可能性が高いと思っている。…………ところで、…………ウィリアムとアルテアの装いは、いつもこうなのだろうか」



剣の魔物は、終焉の魔物と選択の魔物が、思っていた以上に真剣勝負の装いでいることに驚きを隠せなかったようだ。


なお、そのようにして、橇遊びの勝敗に並々ならぬ熱意を見せているのは、上から二席と三席の魔物である。

対するオフェトリウスは儀式に参加していた時の騎士服のままで、用意した橇もごく一般的なもののように見えた。



「お前が持ち込んだ理由的に参加するのはやむを得ないが、道具に拘らなかったのなら、後は魔術調整でどうにかしろよ」

「最後尾だと、橇食いに食べられる恐れがあるからな。…………俺としては、あれだけは避けたい」

「ん…………?まさか、あれに出会ったんですか?!」



今度のオフェトリウスの驚きは、まさか魔物の二席や三席が橇食いに襲われてはいないだろうというようなものだったので、奥にいたノアも含め、魔物達は酷く暗い表情になった。


何かを察したらしく、オフェトリウスも無言になる。



「……………では、私は麓に下りております。ネイ、守護結界の座標は変わっていませんね」

「うん。予め伝えておいた位置だから、そこから離れないようにね」

「エーダリア様のことは頼みましたよ」

「勿論。そっちでも何かあったらすぐに声をかけてね」

「ヒルドさん、きりん札を持っていきます?」

「……………いえ。雪の色の異変が出ていたのは、山頂近くだと聞いておりますので、そこまでの備えは必要ないでしょう」



ネアはそれでも危機対策として持っていて欲しかったが、きりんはあまり望ましくないようなので、べたべた玉と謎倍率の傷薬を小分けにしたものを渡しておいた。


ヒルドが転移で麓に下りてしまえば、いよいよ、橇遊びの開始である。



「それで、アルテアは今年も橇食いの口の中に入るんでしたっけ?」

「ほお?他人の事を言えた口か?」

「一位を取る為には、多少の冒険もしなければならないな…………」

「ありゃ。ヒルドがいなくなった途端、みんなの本音が見え始めたぞ…………」

「順位のことしか考えていない様子ですが、出来れば、しっかり警戒を怠らずにいて欲しいです………」



ネアがそう呟くと、ディノも心配そうに頷いている。

オフェトリウスは呆気にとられたように目を瞬いてから、小さく微笑んだ。



今年は、それぞれの橇が昨年と変わらないもののようだ。


恐らく、昨年の段階で皆がこれぞという橇を選び出していて、今後はそこに魔術的な調整や部品などを加えてゆく段階なのだろう。

大きくモデルチェンジをする者がいなかった分、よけいに真剣さが窺えてしまい、ネアは静かに慄いた。



「…………ディノ。こちらの橇にも無事にランタン吊るし終えましたので、乗り込みますね」

「おいで、ネア」

「………むぐ。……………いつもより雪がふかふかなので、歩くのが大変です」

「積雪の状態からすれば、今年は橇の扱いが難しいだろうな。………お前は、くれぐれも橇から落ちるなよ」

「アルテアさんが思うより、私は落ちないし転ばないのですよ……」

「ネアは落とさない……」




目立った異変もないまま、皆が橇に乗り込んだその時であった。




ぶるると、生き物が声を震わせるような音が背後から聞こえた。


ひたりと落ちた巨大な影に、月明かりが遮られ急に体感気温が下がる。

ぎょっとしたネアが振り返ると、そこには、奇妙な生き物がいた。




(……………橇食い……………じゃない)



巨大な毛皮の尻尾お化けのような、橇食いに形としては似ているような気がする。

だが、上向きに沿った尾の先には、鯨尻尾かなという特徴的な造形があった。


毛皮に覆われているが、僅かに開いた口元もどことなく鯨に似ている。

そして、雪を押し潰すような質量はまるで感じられないのに、見上げる程の大きさであった。



「……………紙人形か」



最初に呟いたのはオフェトリウスで、はっと息を呑んだエーダリアにも、その名称に覚えがあるようだ。



「紙人形が以前にウィームに現れたのは、記録にある限りでは統一戦争直後だった筈だが…………」

「それで間違いないだろう。その時は、僕が対処したからな。……………これは、面倒なものが出たな」

「ちょっと色々気になるのですが、橇食いさんより厄介なものなのでしょうか」



名称から掴めるのは、ふわりと浮かぶような軽さを感じる理由くらいだったので、ネアは思わずそんなことを尋ねてしまった。


何しろ、背後に現れた紙人形とやらは、今のところ動く様子はない。

ただ、ネア達の後ろに静かに佇んでいるだけだ。



「あちらは、祝祭の系譜のものなのだが、…………これは、野生の紙人形だ」

「紙人形さん………」



もはや野生の紙人形とは何だろうという気もするし、振り返った先に居る生き物は少しの紙っぽさはあるとは言え、どう見てもやや平べったい毛皮の鯨である。

どちらにせよ、紙人形感は皆無であった。



とても分からない。



「イブメリアが終わった途端にこれか………。いいか、お前は絶対に最後尾に付くなよ」

「俺とオフェトリウスが、最後尾がいいでしょうね。…………エーダリア、この紙人形…………?の、習性のようなものは他に何か記録されているのか?」



ここで、ウィリアムの言葉が疑問形になったので、自分と同じように紙人形さを呑み込めていないのだと知り、ネアは少しだけほっとした。


こちらの世界では鳥類にもかなり謎が多いのだが、そちらのように、これが当然紙人形であると言われてしまえば、冷静になるべき場面だというのに動揺を収められなさそうだったのだ。



「この紙人形は、人間やその他の様々な生き物を捕食するそうだ。…………橇食いに擬態していると聞いたので、恐らくは、狩りの仕方も橇食いと揃えてくる可能性が高いとされている。遭遇した際の対処法としては、雪食い鳥の試練に近いので正攻法で受け流すしかない。………すまない。リーエンベルクに残されている記録にはそれしか記載がなかった」

「ああ。それで間違いない。……………僕が対応した時は、騎士が三人食われたからね。なぜ橇食いの擬態をしているのかは謎だが、祝祭の系譜の擬態をする事で狩りの成功率を高めているのか、……………それとも、祝祭からこぼれた生き物にあたるのかのどちらかだろう」



オフェトリウスがエーダリアの説明を引き取り、魔物達はそれぞれに息を吐く。

残念ながら今年は、食べられると戻ってくることが難しい相手が背後についたらしい。




「ってことは、橇食いへの対処方を踏襲するしかなさそうだね。麓の少し手前までは順位を付けておいて、後は全員が並ぶようにして滑り降りるのがいいかな」

「………いや。念の為に、ネアとシルハーンとエーダリアを先に下ろして、二班に分けるべきだろうな。万が一にでも差が出れば面倒なことになる」

「そうでしょうね。俺もアルテアに賛成です」

「ふむ。という事は、エーダリアとネア達を先に下ろして、僕達が橇を揃えるんだね。オフェトリウス、合わせられるかい?」

「合わせるしかなさそうだね。問題ない」



ここで、とても邪悪な人間は、最後尾の者を呑み込もうとした紙人形の口に激辛香辛料油でも放り込んでおけばいいのではないかと考えた。


だが、相手に雪食い鳥のような資質があると聞けば、それは悪手だろう。


因果の魔術などで何を縛られるのか分からないし、階位や力の有無に関わらず相手を縛る力だ。

色々なものに出会い、様々な事件に巻き込まれてきた今になって思えば、雪食い鳥の持つ試練というものは魔術の理に於いてかなり厄介なものなのだった。



しゃわんと冬夜の風が吹き抜ける。



降り積ったばかりの雪が雪煙になり、まだしっかりと重なっていない雪面は崩れ易い。

つい先程まで、橇遊びの条件としても難しい状態だと話していたばかりなのに、なんと、滑り下りる速度を揃えなければいけなくなってしまった。

それがどれだけ難しい事なのかは、想像に難くない。



(でも、この橇遊びには家族の安全や健康もかかっているのだわ。絶対に成し遂げなくてはならない!)



きりりとしたネアは、橇に乗り込み後ろからしっかりと抱き締めてくれたディノにも怖気づいていないと分かるように、凛々しく頷いておいた。

気付いてくれたディノが、耳元で大丈夫だよと言ってくれる。



「最後尾を任せる皆さんが心配ですが、私達とエーダリア様もしっかりと橇を合わせなければなりませんものね」

「その調整は私がするから、君はしっかり掴まっておいで」

「はい!ディノに任せてしまいますね」

「エーダリア。君は自分の速度で滑って構わないよ。…………きっと、意識してゆっくりと滑らせても何かの規則に触れるのではないかな」

「だが………」

「私が君の橇に合わせるようにしよう。こちらや背後は気にしなくていい」

「……………分かった。宜しく頼む」



一瞬躊躇いを見せたが、すぐに自分の役割に気付いたのだろう。

エーダリアもしっかりと頷き、ゴーグルをしっかりと下ろした。



「さてと。じゃあ、始めようか。ネア、合図を頼んでいいかい?」

「分かりました。では、三つ数えてから開始と言いますね」

「今回ばかりは、リズモを見て手を伸ばすなよ」

「ふぐ。しません…………!」



すうっと息を吸い込み、ネアはしっかりと前を向いた。


今日は頑張って前を向いておき、暴れたり騒いだりしてディノの手元を狂わせないようにしなければだ。

ちらりとエーダリアの方を見ると、先頭を切らなければならないのはやはり不安なのか、酷く張り詰めた表情である。



「では、………」

「……………失礼。相乗りをさせてくれ」


いざ合図をしようとしたその時、聞き覚えのない声が割り込み、ネアはぱちりと瞬きをする。

ぎょっとして声のした方を見れば、エーダリアの橇に乗り込む狼頭の男性が見えた。



(……………あの方は)



ふわりと雪明りに翻った白緑に深い赤色の装飾の騎士服といい、どう見ても、先日お見掛けしたばかりの狼頭の騎士ではないか。



「え、ちょっと。僕の契約者なんだけど!!」


あまりにも突然の相乗りの申し出に、当然だがノアが声を上げた。


エーダリアに近付かれた事に対して危険や不安を感じている様子はないが、不愉快であるという言い方だ。

そして、いきなりイブメリアの系譜の騎士に橇に乗り込まれそうになっているエーダリアは、目を丸くしたまま固まっているように見えた。


狼頭の騎士はこちらに背を向けるようにして、ノアの方を見ているので表情までは伺えない。

そんな狼騎士を見上げているエーダリアは、こちら側に顔を向けている構図だ。


「すまないが、俺がいた方がいいだろう。…………背後のものは、このあたりの土地では見慣れないものだとは思うが、祝祭の進行を司る行列の外周によく出る生き物だ。もしものことだけは防いでおいた方がいい」

「……………ノアベルト。彼の申し出を受け入れておいた方がいい。祝祭の外周の扱いであれば、祝祭の庭の者達の方が対処方を知っているだろう」

「……………ああ!……………今回だけだよ!」



ふうっと息を吐いたディノは、イブメリアの系譜の騎士を受け入れるべきだと考えているらしい。

ここにきてまた祝祭関連の何かなのかとネアははらはらしたが、どうもこちらは無関係のようだぞとすぐに知れた。



「今年は、クロムフェルツ様がウィームの旧王都で過ごす時間を長く取っていた為に、イブメリアの祝福に少しでも預かろうと、紙人形がこの地に現れたのだろう。…………不躾な申し出になるが、橇の操作を任せて貰ってもいいだろうか」

「…………あ、ああ。それは構わないのだが、二人乗りではないので狭くないだろうか」

「なに。この手の乗り物には慣れている。立っていても操作は可能なので、そのまま座っていてくれ。…………これでも、冬の祝祭の庭の騎士だからな」



今の言葉はちょっと格好いいぞとネアが密かに思っていると、背後で、うぉぉんと鈍い雄叫びが聞こえた。

深いところでずしりと響くような声は、やはり鯨の鳴き声に似ている。




「では始めようか。ネア、合図が出来そうかい?」

「はい!」



(………そう言えば、あの狼騎士さんが現れた時、ウィリアムさんもアルテアさんも、オフェトリウスさんまで何も言わなかった)


いきなり見知らぬ人が橇遊びに参加するのだから、本来であれば何か声を上げても不思議はない。


だが、開始の合図を促したディノの声があまりにも静かだったので、ネアは、他の魔物達が喋らずにいたのは、それだけ事態が切迫しているからだと気付いてしまった。



となれば、一刻の猶予もないのだろう。

祝祭の外周が何なのかは、後で教えて貰えばいい。




「さん、にい、いち、開始です!」



躊躇わず、迷わないようにした。

無駄な時間を使わないように、ネアはすぐさま合図を出す。

直後、ばさんと大きく雪が揺れた。



「ぎゃふ?!」


びゅおんと滑り出した橇が、アルバンの雪山を滑り下りてゆく。

橇にかけられたランタンが激しく揺れるが、転がり落ちるような事はない。

そして、見間違いでなければ、狼頭の騎士が来てから火の燃え方が大きくなったようだ。



(それはやはり、イブメリアの系譜の騎士さんだからなのだろうか)



ぎゅんぎゅんと周囲の景色が背後に飛び去ってゆくの状況下で、ネアはそんな事を考える。

そもそも、あの形状の場合は手足も狼風なのだろうか。

同じ橇に乗るとなると、ちょっぴり獣臭がしたりするのかもしれない。



この状況下に相応しくない呑気な考え事に思えるだろうが、その時のネアにはそう思う事しか出来なかった。



(………だって、音楽が)



ひたりと、冷たい汗が背筋を伝う。

震え上がりそうになり、指先が痺れるように怖さが這い上がってきた。




背後から、賑やかな音楽が聴こえてくる。




大聖堂で聴こえる聖歌にも似ているが、夏至祭やクロウウィンで聴こえてくるような不可思議な音楽を思わせるそら恐ろしさもあって、でも、不思議とイブメリアの音楽だと思える音楽だ。


がおんがおんと、祝祭儀式で煙をたなびかせる香炉を振り回す音。

ふっと混ざった誰かの歌声は、あのウィームの歌劇場で集められた音なのかもしれない。

そんな風に、沢山のイブメリアの音をパッチワークにしたような、不思議な不思議な、そして楽しげで恐ろしい音楽が背後から風に乗って聞こえてくるのだ。




橇は、勢いをつけ、ぎゅんぎゅんと雪山を滑り降りてゆく。



木々が迫り、段差のある部分でばぁんと空を飛び、けれどもいつもの橇遊びのような高揚感はなく、そもそもネアは、いつだってこの橇遊びでは恐怖に縮こまったままがちがちになっているのだ。



それなのに今年は、水路にやってくる恐ろしい小舟のような音楽が背後から聴こえてくるのだから、堪ったものではない。



息を詰めるように前を見据え、両手や両足に痛む程に力を入れたまま、腰に回されたディノの腕の温度を感じている。


頬を嬲るような冷たい冬の外気に、走ってもいないのに肺が熱くなった。

あと少し、あと少しと祈るような気持ちで橇に乗っていると、ふっと視界が開ける。




(……………麓だわ!)




そこには、ゴール地点で待っていてくれるヒルドの姿が見えた。


ヒルドもネア達の背後のものを見たようで、はっとしたように剣を抜いたが、その直後の反応を見ると、誰かが剣を収めるように伝えたのだろうか。


ばささっと雪の上を横滑りする橇の音に、降ったばかりの雪がもうもうと雪煙になる。

あっという間に周囲が見えなくなり、ネアは心臓がばすんと飛び跳ねそうになった。



「……………ふぇぐ」



雪煙が落ち、晴れた夜空が見えた。

星がまたたき、月が明るい。


辺りは異様な静寂に包まれていて、かしゃんと響いたのはヒルドが剣を鞘に戻す音だろうか。



「いなくなったようだね」

「……………み、みんなは……………」


ディノの声に安堵の溜め息を吐きかけ、ネアは慌てて立ち上がる。


雪原には全員分の橇があり、ウィリアムとオフェトリウスが橇の上に立ち、後方を見据えて剣を抜いていたが、ネア達の背後にいた筈の紙人形はもうどこにも姿がなかった。


そして、呆然と橇の上に座ったままでいるエーダリアの周囲には、あの狼頭の騎士の姿もない。



「……………終わったのでしょうか」

「うん。食べられるものがなかったので、この場を離れたのだろう。あのクロムフェルツの騎士が追いかけていったようだから、被害を出さないような土地に誘導するのではないかな」

「……………はぁ。僕達の場合は、橇に乗ったところで後ろに付かれたから、こうするしかなかったってことかな。全員無事で良かったよ」

「ヒルド?!…………わ、私は問題ない。下ろしてくれ!!」



奥で、すぐさまヒルドに抱き上げられているエーダリアを見て、ノアが苦笑している。

ウィリアムとオフェトリウスは剣を収め、ふうっと息を吐いた。



「……………とても疲れたので、打ち上げに行くしかありません?」

「おい……………」

「やれやれ。被害を出さずに済んだようだな。……………オフェトリウス、君は戻るか?」

「そうですね。僕はあの侯爵子息に付いていた方が良さそうだ。紙人形となると、事前に排除して済ませられるようなものではないので、あちらにも現れた場合に備えて、付き添っているしかないでしょう。……………まぁ、ハツ爺さんがいれば平気そうですけれどね」



橇から降りたオフェトリウスが、木製の橇をどこかにしゅわんと仕舞っている。

こちらを向くとディノに深々とお辞儀をして、お邪魔しましたとすぐさま転移を踏んで消えてしまった。



「さっと合流してさっと帰ってしまいましたね…………」

「あの人間がいつ橇遊びを始めるか分からないので、急いで追いかけたのだろう」

「狼騎士さんも、あのふさふさ尻尾をもっと近くで見たいと思っていたのですが、いなくなってしまいました…………」

「浮気…………」




なお、紙人形は案の定、ヴェルリア侯爵子息たちの背後にも現れたが、頭に星飾りのある帽子を被り顔を緑に塗った人間達を見て、唸り声を上げるとどこかに消えてしまったようだ。


意外にも食の嗜好が煩いようだが、紙人形対策で顔を緑に塗るかどうかは難しいような気もする。




それぞれの祝祭の進行の外周には、その季節に損なわれた者達の怨嗟や障りが、どうしても集まるのだそうだ。

煌びやかで美しい光の輪の外側には必ず、今回の紙人形のように、その祝祭のおこぼれを狙う暗がりの生き物がいるのだとか。



紙人形は、イブメリアの季節に祝祭の王が最も長く滞在した土地には現れやすいようで、後々にグレアムに確認を取ったところ、旧王家の資料には詳しい対処法などの記録が沢山あったらしい。

残念ながら、王家の書物であったので統一戦争時の焚書で失われてしまい、今後は、グレアムの記憶を借りて、エーダリアが記録を残すという。



ネアは、イブメリアの夜を終えてどこかに帰って行く祝祭の行列の後ろに、あの紙人形のような奇妙で恐ろしい生き物達が続く様子を思い描き、すぐさま首を振った。



この世界にはまだまだ見知らぬ領域が沢山あるのかもしれないが、今は、焼きハムと林檎のコンポートのチーズ蜂蜜がけを食べているので、考察は、またの機会でいいだろう。


そう考えて頷いた乙女は、例年よりも体に力を入れていたので翌朝の筋肉痛が大変なことになる可能性には、その時はまだ気付いていなかった。






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