城郭都市と夜紡ぎの剣 3
「さてと、これでゆっくり説明出来…」
「むぎゃ?!なぜにここで上を着替えるのだ!!脱ぐ場合は物陰でやって下さい!」
我が儘な人間に上を着るように言われてしまったリシャードは、羽織っていたガウンをばさりと脱いだところで、今度は浴室の扉の影にぐいぐいと追い込まれた。
なぜか、そこまでかと呟いて困惑したようにネアの方を見るので、これだから一人暮らしの長過ぎる独身精霊はと思うしかない。
「…………ふぅ。これで視界の中の肌色汚染物を排除しました」
「………もしかして、本気でああいうの嫌い?僕も酔っ払うと脱いじゃうけど、本当は結構怒ってる?」
「ノアは家族なので、怒るというよりは困るくらいでしょうか。しかし、リシャードさんについては、ご自身のお部屋でならば構いませんが、ほぼ他人の前であの格好で出てくる方は、人間の場合ですと変態か露出狂ですとご説明したく………」
「わーお。目に毒とかでもなく、本気の穢れ扱いだ」
どこか面白がるように笑ったノアに眉を顰めかけてふと、ネアは、ついつい人間の枢機卿としての出会いがあったのでそちらの基準に寄せてしまうが、リシャードは高位の精霊だったことを思い出した。
(よく考えたら、気体になれる精霊さんという事は、………普段からあまり服は着ていないのかも…………?)
気体になる精霊の着衣問題は前にも悩んだ事があるが、何となく矮小な人間の頭では服を着たままでは、気体になりきれないような気がする。
その場合はやはり服を脱いでから気体になるのかもしれず、先程のネアの反応は、野生の獣に無理やり洋服を着せてしまう人間の傲慢さとも言えるのではないだろうか。
そんな事に今更思い至り、ネアは、何て酷い事を言ってしまったのだろうとふしゅんと項垂れた。
おやっと目を瞠ったノアに、自分の浅慮さを打ち明けてみる。
「……………しかし、人間とは違う生き物なのでしょうから、裸を主とする精霊さんをこうして物陰に隠してしまうのは人間の我が儘ですよね。なお、肌色が隠されれば、たいへんに結構なお姿の精霊さんだとは思います…………」
「え、ナインが好み?っていうか、精霊って裸が主なんだっけ?」
「リシャードさんは、一般的にはとても綺麗な方だと思いますよ。ただ、好みかと言われると、異性としての嗜好であればあまり………」
よりにもよってここで戻って来てしまったリシャードが眉を持ち上げたので、ネアは、今の会話は聞かれていないと信じている体でさらりと流し、立ち上がってぺこりと頭を下げた。
「上に羽織ってくださって、有難うございました。考えてみれば、リシャードさんは普段から裸のことも多いのかもしれません。ご無理を言ってしまいましたよね」
「…………待て。何だその思考は」
「リシャードさんは気体になれる精霊さんだと、ウィリアムさんから伺いました。であれば、普段はお外でも裸の筈なので服を着るのはきっと窮屈なのでしょう」
「あ、だからそう思っちゃったんだ………」
ネアは大真面目で謝罪したのだが、なぜかノアは肩を震わせて笑っているし、リシャードは、目を見開いてどこか打ちのめされたような無防備な目をこちらに向けるではないか。
けれどもその不安そうな姿に、ネアは自分が他の種族とは違うのだと気付いてしまった幼気な悲しみを見たようで、胸がきりきりと痛む。
ディノもそうだが、高位の人外者達にはとても無垢なところがあって、そのような寄る辺なさを傷付けるような人間にはなりたくなかったのに。
「…………どのような状態であれ、常に服は着ている。先程は、教会内での入浴後の鍛錬が習慣付いていたのであのような…」
ここでネアが、慈愛に満ちた微笑みで頷きかけてやれば、リシャードは、ソファで笑い転げているノアの方をぞっとしたように見ている。
綺麗な紫色の瞳が絶望に満ちていたので、振り返ったネアは、腰に手を当ててノアをめっと叱りつけた。
「いけませんよ、ノア。最初に考えが至らず無神経なお願いをしてしまったのは私ですが、違う生き物同士なのですから、まるで違う習性もあるでしょう。リシャードさんが困ってしまうので、この問題はもう触れずにいてあげて下さいね」
「うん、君がそう言うなら、もう二度とこの話題に触れるのはやめよう。ナイン、僕も理解者だよ。君が外で全裸でも、アルテアに言いつけたりはしないからさ」
「……っ!ま、待て!ここで話を終わらせるな!!」
「ご一緒している間は、不自由な思いをさせてしまいますが、お一人の時は、是非に精霊さんらしく伸びやかに過ごして下さいね」
ネアがそっと歩み寄り、その肩をぽんと叩くとリシャードは声もなく首をふるふると横に振った。
先程の肌色率高めの時にも思ったが、着痩せするのか、こうして触れるとしっかりとした体の頑強さを感じた。
貴族的に見える容貌でありながらも実戦に出る者らしい筋肉の付き方は、どこかウィリアムと似ている。
「………で、ええと、今回の事件には裏がありそうだっていう話だけどね」
「むむ、待って下さい。今お隣に座りますね。そしてこちらは、隠し持っていたおつまみチーズの盛り合わせと、味見して気に入った、こちらの街の屋台で買った美味しい朝露香の燻製サラミです」
「え、いつの間に屋台で買い物したんだろう……。試食までしてるんだけど…………」
ネアは首飾りの金庫から出して準備をしておいた保存食をふるまいつつ、冷たく冷えた白葡萄酒を注いだグラスを片手に、ノアの隣に腰かけた。
みなさんでどうぞという感じに広げたので、何も言わずとも、ノアが繋ぎの魔術を切ってくれる。
念の為にと、ネアが試食してしまったサラミにおかしなものが仕込まれていないかどうかも調べてくれた。
ふんわりふかふかとしたソファは、ウィームで主流の椅子の足の部分が独立している長椅子とは違い、もふんと埋まって横になれるタイプの作りでクッションを背もたれとの間に挟まないと体が沈んでしまう。
「…………まずは、その話からだ。だが、終わったら、あらためて話しておきたいことがある」
「いや、その話題はもういいかな」
「ノアベルト…………!」
「はいはい、始めるよ。端的に言うとね、このスノーにいる筈のないヴェルクレアの住人を何組か見かけた。僕達と同じようにして、ここに落とされたようだね」
ノアに重ねて何かを言おうとしていたリシャードは、その言葉に深く溜め息を吐くと、ネア達の向かいのソファに深々と腰かけた。
ネアが買って貰った白葡萄酒をグラスに注いでくっと呷ってはいるが、このような事をしても人外者らしい所作はどこまでも優美なのだ。
濡らしてから掻き上げたらしい銀髪が束になっており、麻素材の簡素な白いシャツに先程の下履きを穿いている。
鍛錬用に着ているものだと話していたが、確かに屋内での運動には向いた装いで、この枢機卿は思ったよりも武闘派なのかもしれない。
そんな事をちらりと考え、ネアはノアの言葉の意味を考える。
(……………でもここは、リーエンベルクに届いた菓子折りから迷い込んだ、その呪いの先だった筈、なのよね…………?)
落とされたという表現からすると、その人物達はネア達と同じ時代の人なのだろう。
である以上、スフィアの嫁取りの呪いに嫌な奴を放り込む仕返しが流行っていない限り、同じような仕掛けが幾つもあったとしか考えられなくなる。
楽しくお喋りをしようよとでも言っているかのように微笑んだノアに対し、リシャードは泰然としていながらも不機嫌そうな冷静な表情をしている。
ネアがガーウィンで見たリシャードは朗らかにしていたが、それは心が満ち足りていたからであるらしい。
愛煙家の煙草のように、リシャードの場合は趣味の成分が不足してくると、どんどん無表情になってくるのだと、先程ノアが教えてくれた。
「………ああ。ニコラウスなら気配を感じたな」
「うん。そこは、バーンディアと白樺と教え子の組だね。後は、ガーウィンの領主一族の護衛と侍女だ。ここは、聖職者は確認出来なかったけれど、君もよく知っている領主贔屓の青年だよ。………ほら、こうして並べると、選出がかなり作為的な気配がしないかい?」
「そちらはウィームの領主館だったか。王都、ガーウィン、ウィーム、………ふむ、この並びであればアルビクロムにも送り付けられた可能性が高いな」
「うん、そう思うよね。って事は、僕とこの子の聞いていた見ず知らずの求婚者からの贈り物ってところまでの一連の流れが、全部仕組まれたものである可能性も高い」
男達の会話は、謎解きとしては間違っていないのだが、到底聞き流せないような名前が混じっていたので、ネアとしては、まず一度立ち止まっていただきたい。
片手を上げて発言申請をすると、こちらを見た二人の人外者におずおずお尋ねてみる。
「…………その、仕組まれた事件だったという驚きよりも先に、さらりと国王様の名前が出たような気がするのですが………」
「いたよ。あの人間がそこにいて、その身に呪いをかけた僕が見落とす事はないからね。白樺は人間の女の子に擬態していたけれど、迂闊に引っかかる事は考えられないから、罠だと分かった上で覗きに来たんだろう」
「国王様なのに、体を張り過ぎなのではないでしょうか。なお、とても面ど…………恐れ多くてお会いしたくないので、そちらがより良い帰還方法をご存知でもない限りは、遭遇しないようにしたいです。きっとご自分達で帰れますよね?」
「はは、僕の妹のそんなところが、僕は大好きだよ」
ノアは微笑んで、白樺の魔物が一緒なのでヴェルクレア王の心配はないと保証してくれたので、ネアは王様な参加者については早々に記憶から削除する事にした。
これでも、昨年のイブメリアのそり遊びの時に受けた宰相の訪問の狡猾さを忘れてはいないのだ。
関わればそれだけに棘が絡みつくような印象を受ける中央との接点は、エーダリアに由縁する要素が避けられない分、ネア達の分量は出来る限り少ない方がいい。
「私の推測ではあるが、この状況を作り出した者はここにはいないな。となれば、今回の対象者には、害意はないのだろう。国内の要所に同時に仕掛け魔術を届けるとなると、………守護魔術の濃度の確認か」
「うん。僕も君の意見に賛成だ。街を歩きながらあれこれ考えたけれど、ここで展開しうるどの手が生きても、僕達に仕掛けられたものでは詰めが甘い。だからこれは、実験のようなものなのだと思うよ」
「同時に展開するという状況を確かめるのであれば、運頼りの要素が多過ぎるな」
「僕は、各領に仕掛けられた呪いのどれか一つが、その土地の警備体制と展開出来る呪いの種類を確認する為の本命なんだろうと考えている。………今回の呪いで調査結果を得た後、この事件を仕組んだ誰かは、四領の内のどこかに同種の呪いを仕掛けようとしているんじゃないかな………」
ここまでの会話を聞き終え、ネアは戦略と対策を論じる者達の観察力に圧倒されてしまった。
あれだけのご婦人方に猛攻を受けながらも、この二人は街を観察し、今回の事件について幾つもの可能性を思案していたのだ。
リシャードは、結構容赦なくおつまみを削るので、自分の分のチーズは確保しつつ、ネアは続きの議論を見守る。
「………万が一にでも、こちらに罠がしかけられている可能性はあると思うか?」
「いや、ないと断言出来ると思うよ。………その事に僕達よりも早く気付いているのが、バーンディア達だ。まぁ、彼等は暇潰しも兼ねて入り込んだみたいだから、予めあの菓子箱に目を付けていたのかもしれないけれどね」
「あるとしても、それはこの地に元よりある不確定要素迄か。確認さえ済めば、私達が無事に帰還をする必要もない。………だが、確認用のものだからこそ、考えうる限り、最も馬鹿馬鹿しい呪いの地を選んだな…………」
「だろうね。馬鹿な奴だなぁ。この国には、人間のふりをした生き物があちこちにいる事を知らなかったんだろう」
ネアが首を傾げると、ノアが愉快そうに魔物らしい微笑みを閃かせる。
「実験用の獲物を人間に指定したのは、報復や追跡を退ける為にだと思うよ。この種の呪いの証跡を辿るには、呪いに引き落とされた者でなければならないんだ」
「つまり、犯人はどこかの領の、それも今回の実験が行われた場所に相当する警備が敷かれた場所、もしくは今回の犯行現場で、呪いを使って悪さをしようとしている、あまりヴェルクレアの内情に詳しくない多分異国のどなたかなのですね?」
ネアがそう言えば、リシャードが飲み込みは悪くないなと呟いた。
「各領の要所に不審な品物が送りつけられたのであれば、あの種のちょっと過激な贈り物に慣れたリーエンベルク以外の場所では、専門部署に持ち込まれる可能性も高い筈です。そこに、人間に紛れた人外者が働いているかもと考えられないのは、国外の人の可能性が高いのではないかと思いますから」
それは、ネアが賢いから考えられる事ではなく、ヴェルクレアの民であれば簡単に想像出来る事だ。
飾らない言葉で言うのなら、この国のそのような場所であれば魑魅魍魎、人間のふりをした人間ではない者達がそこかしこにいるに違いないと考えて当然なのである。
(ウィームは人外者の隣人が多いからそのまま混ざっているけれど、ガーウィンやヴェルリアでは、人間に擬態して仕事をしている人達が多いと聞いているし、それは国民であれば誰しもが暗黙の了解として認識している筈…………)
その先に本命の目的があるのならば、うっかり証跡を辿られて捕まりましたでは済まされない。
大丈夫だと考えたからこそ、犯人は今回の実験を決行したのだろう。
(であるなら、これは誤算でなければいけない…………)
色々な事が鮮明になり、頭の中がすっきりしたネアは、お酒が入っている事もあり、自分の心の中の締めの言葉にふんすと胸を張る。
少しばかり探偵な気分を味わえたので、なかなか悪くない。
「そう言う事だから、今はこの街にはあまり好ましくない知り合いが多い。ここで呪いが解けるのを待つ事自体にはさして危険はないけれど、面倒な知り合いを作らないようにね」
「はい。後で、王様達の今のお姿を教えて下さいね。…………ノア?」
「うん、君はそこに備えよう。そして僕達は、…………何とか祭りの終わりまで生き延びる…………」
「…………せめて魔術の道を使えればいいのだがな…………」
「ほわ、お二人の目が死んでいます………」
人間に擬態しているとは言え、ノアもリシャードも、人間としても特等の魔術が扱えるようにはしてある筈だ。
やけに目立たない事に徹するなと不思議に思っていたのだが、同じようにこの土地に迷い込んだ人達の話を聞けば、納得出来た。
早々に他の参加者の存在に気付いたからこそ、ノア達は大きな魔術を使う事と、魔術の道に入る事を避けたに違いない。
(国王様達は、魔術の道を使えるのなら、躊躇わずそちらに入る筈だわ。同階位の人達が使う魔術の道は同じものだと言うし、こちらも使ってしまえば、遭遇する可能性は高くなる…………)
加えてノアもリシャードも、擬態の下には幾つもの秘密を隠している。
このような状況下だからこそ、会いたくないのも間違いない。
ゴーンゴーンと、鐘の音が聞こえた。
さざめくような歌声と、輪になって踊る人影が石畳をくるくると回る。
花びらが散らされ、ちかちかと不思議な光が揺れ惑う。
(ああ、まだお祭りがやっているのだ………)
真夜中にそんな事を思い、閉じた瞼の裏で賑やかで寂しい光景をぼんやり眺めていた。
すると、ネアの前にふっと誰かの影が落ちた。
「やぁ、お嬢さん。楽しい祭りの夜だろう?この輪に入るとずっと踊っていられるんだ」
誰か美しい人がそう言い、こちらに手を差し出した。
繊細なレース飾りのある袖口は見えるのだが、なぜか、その人物の顔が見えない。
ただ、夜風に揺れた長い葡萄色の髪が視界に入ったので、きちんと頭はついているのだろう。
相変わらず、足元の石畳には楽しげに踊る人達の影が映っている。
しかしこちらも、気付けば踊る人達の姿は見えないようだ。
(でも、とても楽しそうだからこれでいいのではないかしら…………?)
折角だから誘いを受けようかなと思いかけ、ネアは、夏至祭の夜には輪になった場所に入ってはいけなかった事を思い出した。
ここにはいないけれど、あの美しい魔物が悲しい目をしているのが見えるようで、ネアはそっと首を横に振った。
「いいえ。私は伴侶がおりますので、大切な魔物がいないところでは、ダンスはあまり」
そう答えたネアに、こちらに差し出された手がざらりと崩れた。
そのままはらはらと花びらになって風に解け、その花びらが夜空でくるりと輪の形になる。
「ああ、口惜しい。この地を治める者は、私を捨てたあの女よりも美しいのに。それなのに、伴侶がいるとは口惜しい」
夜空でくるくる回る花びらの輪は、ネアではなくて誰か違う人を見ているようだ。
その誰かへの恋慕と憎しみをつらつらとこぼし、またざあっと砕け散る。
「では、このスノーの男も女も、皆が私と同じ苦しみを味わえばいい。あの女も、あの男も、決して私を愛しはしなかったのだから………」
そんな囁きが聞こえた気がして目を瞬くと、ふっと柔らかなものが額に触れた。
それはまるで、聖なるもののように額に染み込むのだ。
「…………むぐ?」
「ネア、誰かの夢に迷い込まないようにね」
ぱちりと目を開けると、ホテルの天井が見える。
(今のは、夢………?)
瞬きをしながら眉を寄せていると、そう言えばあの後に作戦会議はお開きになり、この部屋で眠った筈だったことを思い出した。
隣に寄り添う気配はノアに違いなく、ぼうっとした頭で、どうやらネアの義兄は寝台の端に腰掛けてネアに寄り添ってくれているらしいと考える。
「…………夢の中で、どなたかにダンスに誘われましたが、ディノが荒ぶるといけないのでお断りしました」
「うん。実害を出すような力のあるものではないけれど、土地の記憶が君の方を向いていたようだ。でも、焦げ付いた記憶の残滓がどんな魔術になったとしても、僕の妹を勝手にダンスに誘うのは許せないな」
ゆっくりと声の方を見ると、薄闇で光るような青紫色の瞳が眇められた。
擬態していてもなお、人ならざる者の瞳の美しさは眩しい程に暗く、どうやら今のノアはとても不機嫌なようだ。
ネアは手を伸ばしてそんな魔物の袖をくいっと引っ張り、葡萄酒を沢山飲んでいい気分のくたりとした眠さの中で、こちらを見た魔物の腕をそっと撫でてやる。
「え、可愛いんだけど、まさかこれって噂のご褒美?」
「…………むぐ、………ノアは、眠れないのですか?」
「僕は眠らなくてもいいんだよ。もしかして、心配してくれたのかい?」
「…………そして、このスフィアの呪いをかけた妖精さんは、男性の方だったのですか?」
「もしかして、その妖精を見たのかな…………?」
いつもの口調なのにひやりとするような静かな問いかけに、ネアは、妖精のようなものを見ただろうかと考えた。
だが、先程の夢を辿り直してみたものの、それらしき姿だとはっきりと分かるようなものは見ていない。
「…………羽が見えたり、妖精さんらしい言動はなかったので別人かもしれないのですが、ふと、その妖精さんの事を知りたくなりました」
「うーん、……知る事は知られる事だからね。もし、怨嗟や障りとして残る欠片がこの土地の呪い以外にもあるなら、あまり知らない方がいいかもしれないんだ…………」
「おでこに、口付けしてくれました?」
「ありゃ、起きてた?」
「殆ど眠っていましたが、何だかそれがとても素敵なお守りに思えたんです」
そう言えば淡く微笑む気配がして、今度は上機嫌になった魔物が、優しい手でさりさりと頭を撫でてくれる。
(私の寝台の端に腰掛けているのかしら。でも、そんな所にいたらノアは眠れないのに…………)
「君は僕の大事な女の子だから、大切に守らないとね」
「むむ、その場合私もノアを守らなければなので、ノアもゆっくり休んで下さいね?
………むぐ、…………ぐう」
「この上なく贅沢に休んでいるよ。ほら、こんな風に大事な君を守るのって、僕にとってはとても幸せな事だからね」
「…………ぐう。…………は!…………ノアも、寝ないと…………いけなふのです」
一瞬、夢の向こう側でケーキが何種類も乗った大皿を見たのだが、その幸せな夢を振り切り、ネアは何とか眠気に逆らって目を開ける。
すると、呆れたような柔らかな微笑みの気配がして、誰かの指先が頬に触れた。
「無理して起きようとしなくていいのに。…………君が夢で見たのは、厄介なものだったのかい?」
「女性に捨てられてしまった、葡萄色の髪のどなたかが、その女性より綺麗な方を見付けたもののその方は既婚者だったと嘆いていました」
「わーお、それが多分スフィアの嫁取りの呪いをかけた妖精だ。…………夢で触れたみたいだから言うけど、その男は、婚約者だった夜鳩の妖精の女の子に捨てられて、このスノーの城主に求婚したんだ。因みに、城主は男だからね。ただし、呪いを残した妖精はあまり知られていなかった妖精で、男装した女の子だったとも言われていて諸説あるかな」
「…………なぬ。突然の高度な展開に、眠気が吹き飛びました………」
「まぁ、つまり男女問わず対象にしてたんだと思うよ。だから、嫁取りの呪いと言われていても、男女問わずに適応される呪いなんだろうね」
そう教えてくれたノアが、顔を上げた。
直後、コツコツと扉をノックする音が聞こえてきて、ネアはぎくりとする。
「…………こちらの寝室に何の用だい?」
「ノアベルト、この年のスノーに、アルテアがいたかどうかを覚えているか?」
「いや、僕はそもそも、スフィアの呪いが敷かれたスノーには、近付かないようにしていたからね。………もしかして、彼の気配があったのかい?」
「一瞬、感じたような気がしたんだが、断定は出来ないな。ただ、これだけ特殊な場を形成するこの土地であれば、訪れていても不思議はないだろう……………」
「うーん、この時代のアルテアがいると、面倒なことになってきそうだ………」
(使い魔さんが、ここにいる…………?)
“ひとり、ふたり。私の妹達にやっと良い縁組が出来る。…………ああ、その女の子も可愛いね”
またうつらうつらとしたネアの意識の向こう側で、誰かがそっと囁く。
真っ白な封筒に蜜蝋で封印がなされ、きっちりとした燕尾服の従者が白い手袋でその封印を手に取る。
暗がりを歩いて来たその人物が扉の隙間に封筒を差し入れると、ノアとリシャードがはっとしたように顔をそちらに向けたような気がした。
「…………信仰の系譜の術式か。考えてみれば、この土地は先代の信仰の魔物の最終経由地であったな」
「そっか、だからスノーはあの顛末だったんだなぁ。…………それにしても、何でこうなったかなぁ。最悪なんだけど…………」
眠りの淵でまた踏みとどまり、薄っすらと目を開けたネアは、いつの間にか寝室にリシャードもいるようだと気付いた。
どうやら男達は寝ないで密談をする事にしたらしく、ネアの寝台の近くで低い声で話し込んでいる。
「………頭痛がしてきた。彼女を起こして歌わせられないのか」
「いや、起こさないし、楽しめるのは君だけで、僕もこの子も何の得もしないから」
「お前は部屋を出ていればいいだろう」
「あのね、そういう規模じゃ済まないからね。部屋にかけた隔離魔術もひび割れるかもしれないし………」
「………今夜はやめておこう」
開いた瞳がまた閉じてしまい、ネアは、何だかたいへん不本意な会話が聞こえてくるようだぞと思いながらも諦めて眠る事にした。
いつもであればもっとしゃんとしているのだが、身に迫る危険はないと聞いている上に、こうしてノアが側にいるとすっかり安心してしまう。
(で、でも、………二人が明日の予定を決めてしまう前に、何とか…………これだけは、伝えておかないと……………)
何やら新しい展開があったようなのだが、ネアにも、この街でなさねばならない重要な任務がある。
何とかそれだけは伝えておかなければと、悲壮な思いで唇を動かした。
「……………むぐ。熟成肉……………」
死力を尽くしたネアは、何とかこちらの意志を伝える事には成功し、ネアは、一泊目のスノーの夜で無事に穏やかな眠りについたのだった。




