262 歌劇場は繰り返します(本編)
クラヴィスのウィームに、青い青い夕闇が落ちると、いよいよ歌劇場に向かう時間になる。
そんな美しい夕闇の中、リノアールで思いがけない大散財をしてしまったネアは、歓喜と動揺という相反する感情に振り回されながら、ウィリアムに髪を結って貰っていた。
「…………お財布の先取りをしたのは、初めてでした」
しょんぼりとそう呟けば、鏡の中で目の合ったウィリアムが、くすりと微笑む。
今夜は前髪を上げ、珍しい漆黒の盛装姿なので、はっとするような男性的な色香があった。
「俺はいいと思うぞ。嗜好に合った品物が、いつだって手に入る訳でもないだろう。多少不便でも、使っている内に手に馴染むかもしれない」
「ふぁい。…………私は、何という贅沢な人間になってしまったのでしょう。年明けは、カワセミ狩りに行ってきますね。何か、珍しい白いものでも狩れればいいなと思います」
「ネア、白いものは少ないし危ないから、カワセミだけにしておこうか」
「ディノ………」
ぴゃっとなった伴侶の魔物に窘められ、ネアはそわそわしたまま頷く。
とは言え、同じだけの金額分のカワセミを狩る迄は、まだ少し心がざわついたままだろう。
(お財布を買ったばかりなのに、迷っていたもう一つも買ってしまった……!)
それは、一つの品物を大事に大事に使いたいネアにとって、自分史に記しておかねばいけないくらいに、大きな事件だった。
実は先日、ここ数年使っていたお財布を銀貨に化けていた財布食いの妖精に破られてしまうという悲しい事件があり、ちょっぴり奮発して財布食いが入れない加工をした革のお財布を買ったばかりなのだ。
新しいお財布は、ウィームの雪曇りの朝に育った結晶石を砕いて作った染料で染めた、僅かに青みの白灰色の素敵なお財布だ。
上品な金色の金具がアクセントになっており、こちらも充分に気に入っている。
だが、その時に最後まで迷ったのが素晴らしい青緑色のお財布だった。
こちらはリノアール内に本店を構える工房のもので、それぞれの品物が一点ものである。
ネアが目を奪われたのは、外革が飾り木の葉やホーリートの葉、或いは、少しだけヒルドの羽を思わせる美しい青緑、内側はしっかり熟成させたウィスキーのような赤みがかった深い茶色のお財布だった。
(でも、あのお財布は小さ過ぎて………)
色や形は絶対にそちらだったのに、ネアが購入を断念したのはその大きさにあった。
屋台などが多いウィームでは硬貨も持っていたいが、お財布を二個に分けるのは御免であるというネアにとって、必要なだけのものが入るかどうか分からない上品なお財布だったのだ。
かくしてネアは、白灰色のお財布を買った。
そして、悪い人間なので、小さなオーナメントを買い足してしまうかもしれないぞという気持ちで出掛けた先のリノアールで、青緑のお財布をじっと見ていた灰色の髪の男性を見付けて蹴散らし、どう言う訳か、青緑色のお財布も買ってしまったのだ。
「……………むぐ。今のお財布をしっかりたっぷり使い切り、その後に、今日買ったお財布に変えますね」
「うん。それでいいのではないかな」
「………ただし、硬貨が入らずに破滅する可能性もあります」
「ネアは破滅しない………」
「どうせ重複して買うなら、その工房で、見合った大きさのものを注文すれば良かったんじゃないのか?」
「ぎゃ!!」
ここでアルテアが最も口にしてはいけないことを言ってしまい、ネアの心はばらばらになった。
わなわなと震えるネアがじっと見上げていると、さすがの使い魔も失言を悟ったらしい。
ぎくりとしたように体を揺らし、そんな財布を注文してやろうかと提案してくる。
「買ったばかりの素敵なお財布を使いこなせるかの自信もないのに、更に増やしたりはしません。少なくとも来年いっぱいは、今のお財布を大事に使う予定なのですよ………」
「アルテアのことは、後で叱っておくからな。……さて、これでどうだ?」
「まぁ………!」
ケープを外し、出来上がった髪型と今年のイブメリア用のドレスの対比を鏡の中で確かめる。
今年のネアが着ているのは、灰色がかった柔らかい水色の天鵞絨のドレスで、額縁のような美しいカットの襟元が首回りを綺麗に見せてくれるものだ。
ここに、ディノから貰った真珠の首飾りをかけ、首回りだけを覆う白灰色の毛皮の襟巻を、白い薔薇のリースのブローチで留めて貰う。
実はこのドレスは新しく仕立て直したものではないのだが、真珠の首飾りと組み合わせてもう一度の登場となっている。
なお、毛皮の襟巻は、お気に入りのイブメリアのブローチコレクションの話を聞いたシシィが作ってくれたのだ。
ブローチの針で穴を開けず留められるようなリボンループがついていて、ネアは密かに、リノアールに量産品を卸せばひと商売出来るのではないだろうかと思っている。
「そろそろ出かけるかい?」
「ええ。お財布事件で少ししょんぼりでしたが、ウィリアムさんが今日のドレスと真珠の首飾りにぴったりの素敵な髪型にしてくれたので、元気が出ました!」
「ウィリアムなんて……………」
振り返ると、アルテアはまだ遠い目をしていたので、罰として、挽肉のソースが入ったポテトパイを所望しておいた。
「エーダリア様、ヒルドさん、ノア、出掛けてきますね」
「ああ。何かを狩ってしまわないよう、気を付けるのだぞ」
「エーダリア様…………。ネア様、とてもよくお似合いですよ。どうぞ楽しい夜を過ごされますよう」
「はい!ウィリアムさんに、真珠の髪飾りを使った素敵な髪型にして貰いました」
「うん。いいね。今年の舞台にぴったりの、大事にしたい女の子って感じかな」
ノアがそう言ってくれたように、今年のクラヴィスの夜からイブメリアにかけての舞台は、古典的な演出方法が採用されているのだとか。
視点や演出を変えて繰り返してゆくこの夜の定番の舞台は、作品の初上演時の演出こそが古典であるという認識なのだとか。
今年の演出は、人気の脚本家を採用したりというような特別な話題性はないかもしれないが、家族で受け継ぐ美しい宝石ような夜を約束するという宣伝文句を見れば、こちらも観ておかずにはいられない演出なのだった。
「雪が降り始めましたね」
「今夜は少し積もるそうだ。ただ、誰かが沢山降らせてしまっている訳ではないようだよ」
「交通網が遮断さえされなければ、こんな夜も素敵かもしれませんね」
ディノに渡された三つ編みを引っ張って弾むように歩けば、大事な魔物は目元を染めて頷いている。
リーエンベルクの前で待っていてくれた妖精馬の馬車を見て、ネアは、物語のような夜への期待に目を輝かせた。
(真珠の首飾りに、古典的な演出。雪の夜のイブメリアに、正門前の素晴らしいリース)
上質な祝祭の彩りにぴったりのものがあちこちにあって、今夜のネアは気品ある淑女の気分である。
妖精馬の手綱は深い青緑色で、それを見たネアは深く頷き、あのお財布も運命だったのだと思うことにした。
リーエンベルクから、街までの道はイブメリアの輝きに満ちていた。
しんしんと降り積もる雪の中でリーエンベルク前広場には、正門中の大きな飾り木の煌めきが落ちる。
青い青い夕闇を残した雪明りの夜の入り口で、美しい飾り木の上に輝く星飾りはまるで灯台の光のようだ。
円形のリーエンベルク前広場の向こうには、小さな住人達が木々に飾ったオーナメントや、リーエンベルクから持ち出されて飾られている祝祭飾りが細やかで複雑な色を添え、祝祭の夜が楽しみでならない小さな生き物達がきらきらちかちかと淡い光を重ねてゆく。
白い雪の中に様々な光の影が細やかに重なると、ネアは、小さな結晶石や祝福石を縫い込んだディノの装いのようだとこっそり自分事にしてしまうのだった。
うっとりするような美しさに溜め息を吐き、ネアは胸をいっぱいにしたまま、今年も歌劇場に連れて行ってくれる妖精馬達に挨拶をした。
ご機嫌で鬣を揺らした馬達を管理する妖精曰く、この妖精馬達は、すっかり恒例になったクラヴィスの夜の仕事がお気に入りなのだとか。
美しいリーエンベルクの飾り木の前で特別なお客を乗せ、豊かなその魔術に触れることや、この先の並木道を歩き抜けて、祝祭に賑わうウィーム中央の街中を進むのは、妖精馬達にとっても楽しいことであるらしい。
数日前から早く出掛けるのだと足踏みを始めると聞き、ネアは何だか嬉しくなってしまった。
備え付けの引き下ろし型の階段を踏み、馬車の中に入る。
先に入っていたアルテアがドレスのスカートがくしゃくしゃにならないように持ち上げてくれて、ネアはそのままお気に入りの窓際の席に腰を下ろした。
四人乗りの馬車なので、ウィリアムとアルテアは進行方向を背にする席、そして、ネアとディノは有難く進行方向を向いた席に座らせて貰っている。
ぱたんと扉が閉じ、からからと車輪が回る音が聞こえてきた。
リーエンベルク前広場に集まった領民達が、目にすると幸運が訪れるという妖精馬が八頭立てで牽く馬車を笑顔で見送ってくれる。
馬車が走り始めると、窓の向こうに、絵のような景色が次々と流れてゆく。
飾り木の並木道のような真っ直ぐな道は勿論、街中に入れば、小さな商店の扉にかけられたリースの佇まいや、街角の小さなホットワインの屋台に並ぶ人々。
まだ駆け込みでの買い物が間に合う、祝祭飾りを売る店や、小さな硝子の飾り木を飾った飾り窓。
ネアは、息をするのも忘れそうになりながら、窓に齧りついていた。
ここは優雅にお喋りでもしながら歌劇場に向かいたいところだが、歩道を歩くのとはまた違う見え方をする街並みに、毎年すっかり夢中になってしまうのだ。
「綺麗ですねぇ………」
「うん。とても綺麗だね。………ネア?」
「…………かちこちのパンの魔物さんが、歩道に立てかけられていました。もしや、あのまま春を迎えるのでしょうか…………」
「…………溶かして貰えないのかな」
お喋りをしながらいつもの道を通り抜け、やがて、馬車はいつもの歌劇場の前に到着した。
歌劇場前の広場の噴水には、凍えてしまいそうな薄物を着て楽しそうに飛び回っている妖精達がいて、噴水の水盤の中からこちらを見てきゃあきゃあと声を上げている。
魔物達が馬車から降りると、行き交う人々の中でお辞儀をする者もいるので、やはりウィーム中央の雑踏にはそれなりに高位の生き物達がさり気なく混ざっているようだ。
深い深い青色の絨毯の前で待っていた劇場の支配人が、深々とお辞儀をしてくれる。
ネアはいつもこの支配人の襟や胸元を飾るブローチを見るのを楽しみにしているのだが、今年はなんと、コモレの刺繍ボールのモチーフだろうか。
銀狐の会の会員であることを、隠さぬようになってきたらしい。
「ようこそおいで下さいました。今年は、例年より雪が降っておりますので、祝祭の街の見え方が少しばかり違っていたでしょうか。帰りは是非、街灯周りなどをご覧下さい。しっかりと雪が降る年の、イブメリアになったばかりの真夜中は、街灯の光の丸い輪の縁に僅かに虹が入るそうですよ」
「おや。イブメリアの祝福が、そのように可視化されるのだね」
「まぁ。それは是非見てみようと思います!」
「昨年が少し話題性に寄りましたので、今年の演出は上演初年と同じものとなっております。古典的な手法を用いる場面も多いですが、この時代でも遜色のない美しさをお約束いたしましょう。お料理は、引き続きザハからご提供させていただきました。今年は、数少ないイチイの魔物の酒も入っておりますので、お食事の前に小さなグラスでどうぞ」
「ほお。イチイの酒を用意したのか。豪勢な事だな」
かねてよりネア達がクラヴィスの夜に使う薔薇のロージェを愛用してきた選択の魔物は、劇場の支配人とは顔見知りであるらしい。
そんなアルテアとも短く言葉を交わすと、支配人は深々と一礼し、劇場の中に案内してくれた。
(…………今年の飾り木も、とても素敵だわ)
歌劇場前のアプローチを上ると、劇場内のエントランスホールに置かれた見事な飾り木が、入り口を額縁にしたイブメリアカードのように見えてくる。
今年は、淡い金色の薄い板に見事な透かし彫りを施した葉飾りをふんだんに重ね、その上に光の加減で白にも見える白灰色のリボンや、結晶石のオーナメントを飾っていた。
初めて見る葉飾りにネアはすっかり興奮してしまい、アルテアから、このクラヴィスの夜の演目が初めて上演された時代の流行りなのだと教えて貰った。
「この、薄い燈火結晶に、透かし彫りをするのが流行ったからな」
「むむ。これは、燈火の結晶なのですね。飾り木全体の色合いが白金色に見えて、繊細なのにとても華やかな印象です!」
「そう言えば、この燈火結晶の職人達も、最近は見かけなくなりましたね」
「加工に必要な術式が重過ぎたせいで、今は下火になった技術だな。どちらかと言えば、装飾品の分野に散らばったようだが、…………多少の無理をしてでも、やはりこのくらいの分量の方が見栄えがいい」
ウィリアムが首を傾げ、アルテアが説明をしているのは、この葉飾りを作った職人達の盛衰であるらしい。
こちらの二人はとても仲良しであると微笑んだネアは、そんな二人の姿になぜかアルビクロムでの修行の日の思い出を重ねてしまい、慌てて心の奥の不用意に開けてはならない扉の中に押し込んでおいた。
ロージェの前まで来ると、待っていた劇場の係員が恭しく扉を開いてくれる。
支配人は一礼し、良い夜をお過ごし下さいと退出した。
勝手知ったるクラヴィスの歌劇場なので、ここからは余分な説明などせずにネア達だけにしてくれるのも、支配人なりの心遣いである。
「……………ふぁ!」
ロージェに入り、ウィリアムにコートを脱がせて貰いながら、ネアは小さく飛び跳ねた。
アルテアが見ていない隙を狙って、感動を示したのだ。
ロージェの中には小さな飾り木があり、星飾りと白いリボンの飾りがある。
また、小さなカップ咲きの白い薔薇をふんだんに付けた蔓薔薇が這い、薄っすらと雪が積もっていた。
薔薇と雪となると古典的な演出と言えばそうなのだが、やはりこの定番の内装が堪らなく美しい。
「白薔薇なのは、このロージェだけなのでしょうか。外の客席に咲いている薔薇は、淡い紫色のようです。そして、客席に降る雪はやはり欠かせないのですね……!」
「当時の演出のそのままだな。まだ、客席に触れる前に消える雪が、淡く光って消えるような魔術演出は出来なかった頃だ。ただ消えるだけになっている」
「むむ。………さては、その当時も劇場に来ていたのですね」
「初公演の日はこのロージェにいたぞ。座席などの内装は、もう変わっているがな」
こけら落とし公演だったというクラヴィスからイブメリアの夜にかけての公演が行われた際には、この歌劇場のシートは深い緑色だったそうだ。
だが、その後どんな演目にも映えるようにと、青や銀灰色などで何回か張り替えられている。
こんこんとノックの音が響き、ザハのおじさま給仕姿のグレアムがロージェを訪ねたのは、大興奮のネアが着席した直後だ。
からからと夜鉱石のワゴンを押してきて、座席で楽しむシュプリを運んで来てくれる。
「少し懐かしい銘柄ですが、祝祭の夜に仕込んだ、満月の雪原の薔薇の香りをつけたものにいたしました。古典的な演出を踏襲しているので、こちらのシュプリの銘柄を重ねることで魔術の結びの永続的な繁栄を願うという祝福も込めて」
にっこり微笑んで出してくれたのは、ネアとディノが伴侶になった年に、この薔薇のロージェで飲んだシュプリと同じラベルの、昨年仕込まれたものだ。
変わらずに今も価値のあるものという今年の公演の謳い文句に、今の幸福が変わらずに続くという祝福をシュプリからも重ねてくれている。
粋な計らいであるのは勿論のこと、ネアにとっては思い出のシュプリをもう一度飲める喜びでもあって、ディノと顔を見合わせてニッコリと微笑んだ。
細長いグラスの中でしゅわしゅわと立ち昇る細かい泡には、歌劇場の明かりが映ってる。
それが、堪らなく綺麗に見えた。
「あの日と同じ銘柄だね…………」
「ええ。ディノが婚約者だった最後のイブメリアの日に飲んだ、思い出のシュプリです。こんな素敵な歌劇場で歌ったのは、あの日が初めてでした」
「うん。……………君が歌ってくれた」
目元を染めて嬉しそうに微笑んだディノの足下には、小さな鉱石の花が育ってしまっている。
今は犠牲の魔物の姿ではないので涙を拭いはしないが、それでも、おじさま給仕は涙を浮かべていた。
そんな友人の姿に、ウィリアムも微笑みを深めているのだから、なんて素敵な時間だろう。
ディノにお礼を言われて微笑みを深くすると、給仕姿のグレアムはここで一度退出だ。
薔薇の香りと果実の香りに心満たされながら、きりりと冷えたシュプリを飲んでいる内に開演となる。
(わぁ………!)
薄暗い劇場の中に灯るのは、不思議な蝋燭の光だ。
魔術の光をさざ波のように揺らすのではなく、予め置いてあった蝋燭に魔術の火を灯したのだろう。
風の音に、ばさりと雪が落ちる音。
そんな少しだけ恐ろしい冬夜の森の中を、少女がゆっくりと歩いてゆく。
物語が進めば、最初の脚本では、冬の王は他の王達よりも年長者の設定であったようだ。
静かな声で教えを説く聖職者のような言動は理知的だが、だからこそ深い孤独が窺える。
だが、そんな冬の王が見初めた少女は、優しい春の王に恋をするのだった。
(………何となくだけれど、この部分の演出が変わったのは分かるような気がする)
いつだって、叶わない恋は心を揺さぶるし、寄る辺ないものが微笑んでいる姿にはどこか胸を打つ美しさもある。
しかし、初演時の脚本のままのこの物語は、主人公である少女が幸せになればなるほど、観客の視線が冬の王に向かってしまうような気がした。
そんな心配で胸を痛めていると、あっという間に森に集まった不可思議な者達の余興が始まっている。
「ネア。料理が来るようだよ」
「……………は!思わず息を詰めてしまっていました。今夜の舞台もいつもとは見え方が違いますね」
「イブメリアの祝福に適ったものに、少しずつ変えていったのだろう。こちらの方が好きかい?」
そう問いかけたディノに考えるような様子があったので、ネアは丁寧に答えるようにした。
「魅力的な演出だと思います。ただ、毎年観て楽しむ歌劇としては、最近のものの方がいいでしょうか。私は、どちらかと言えば、幸せな物語を観たぞという感じで終われる作品の方が好きなのかもしれません」
展開としては魅力があるものの、何度も呑み込めない物語というものがある。
そのようなお話の中には、心を震わせるような素晴らしいものだが、受け止める側の体力が削られるというようなものも少なくない。
繰り返し楽しむ為に必要な程度の都合の良さというものが、物語にもあるのだろう。
今年の脚本はとても魅力的だが、誰か冬の王を幸せにしてくれ給えと声を上げたくなるので、来年もまた再来年もとなると少し苦しい。
「音楽も、主旋律は変えずにその周りを少し変えてあったんだな。そう言えばこのような歌だったと、久し振りに思い出した」
「まぁ。ウィリアムさんも当初のものをご存知だったのですね」
「最初の年は観ていないんだが、その翌年か翌々年の舞台を見た筈だ。…ギードがチケットを取ってくれたんだったかな。シルハーンはグレアムと行っていましたよね」
「うん」
ちょっぴり誇らしげに頷いたディノを見て、ネアは密かに安堵した。
そんな風に観劇に誘って貰えていたのだなと思えば、やはり頼もしいのはグレアムである。
「では、ディノのこれからは、私が全部予約してしまいますね」
「可愛い………」
とは言え、自分の取り分もしっかりと主張する事を忘れなかった人間にこれから先をがさっと押さえ込まれてしまい、ディノが恥じらっているところで料理が運び込まれてしまった。
嬉しそうにしているディノを見て、おじさま給仕な犠牲の魔物が、はっとするような優しい目をする。
「今年のメニューは、フォアグフと雪木苺の小さなタルト、冬栗茸と棘豚のパテのパイ包み、氷河鮭花盛りの三点盛りの前菜、南瓜のクリームスープ、………これはクラヴィスには少し珍しいものですが、クロウウィンの日に住人達の助けとなったものですので敬意を込めて特別に。魚料理は星鱒の蒸し料理に林檎のバターソースで、肉料理は夜渡りの鴨のオレンジソースとなります。こちらは、片方だけをしっかりとした量で選ぶことも可能ですが、どうされますか?」
「私は両方にします!」
「ネアと同じでいいかな……」
「俺は、鴨だけにしてくれ」
「俺は両方でいい」
今年はメインが二品なので、好みに合った食べ方が出来るようだ。
「それと、食前酒として、イチイの酒をお持ちしました」
「イチイのお酒です!」
ネアは、イチイのお酒を大切な伴侶や、使い魔や騎士達と美味しく飲んだ。
フォアグフのタルトの美味しさに身震いし、パイ包みのパテに笑顔になり、あつあつのスープも含めあっという間に食べ進んでしまう。
舞台の上では、バレエのような素晴らしいダンスを踊る樹氷の妖精達がいた。
ふわりと翻る水色の衣装に、同じ色の羽が星屑のシャンデリアにきらきらと光る。
その次に現れたのは、弦の魔物であるらしい。
長い飴色の髪の美しい女性で、ちょこちょこと付いてきたどちらかと言えば兎かなという二足歩行の謎生物から手渡されたチェロを、優雅な微笑みと共に弾き始める。
雪と、薔薇と、イブメリアを控えた歌劇場の高揚感と。
劇場の中の装飾や大きなシャンデリアが落とす光の煌めきの美しさは格別だったが、何よりも素晴らしいのは、劇場の中に敷き詰められたわくわくと弾むようなその瞬間への期待に満ちた幸福感だ。
シュプリはいつ飲んでも最高の冷たさで、ふわりと抜ける薔薇の香りは果実の香りと重なるので、料理にぴったりの爽やかさになる。
甘酸っぱいが果実味だけにならずしっかりと魚料理のソースでいてくれる林檎のバターソースと、こちらは冒険などはしていないが、だからこそ素晴らしい美味しさを約束してくれる伝統の鴨のオレンジソースまで。
澄んだ冬の日差しを思わせる銀色のフォークとナイフで切り分け、ぱくりといただく。
美味しさに頬を緩めて、またシュプリを飲む。
それが、どれだけ幸福なことか。
「むぐ!今年のパンは、酸味のある黒パンと、ふかふかローズマリーパンです。…………一階の客席のサンドイッチは、もしかしてシュニッツェルサンドですか?」
「おい。大人しく座って食べろ」
「シュニッツェルを使ったものなのか。それも美味しそうだな」
「み、見た事もない白いソースがかかっているので、是非にどんなソースだったのかを調査しなければなりません!」
「お前な………」
そのソースは、チーズマスタードソースで、中のシュニッツェルは少し厚め、お肉はレアだと教えてくれたグレアムが持ってきてくれたのは、白いクリームの模様が美しい、砂糖酒と雪窓のシロップのシンプルなクリームケーキである。
おや、ゼノーシュの憧れのやつかなという白さだが、スポンジ部分がお酒の香りの効いたフルーツケーキになっていて、甘さ控えめのクリームと共に食べると素晴らしくイブメリアな気持ちになった。
やがて、舞台の上の余興が終わり、季節の王達が舞台に戻ってくる。
貧しさと孤独に喘いでいた少女には春の王が指輪を贈り、冬の王はひっそりと微笑み、若い二人を祝福する。
そして、恋の成就のダンスを踊る二人の上に、白い花びらのような雪を降らせてあげるのだ。
(か、………かなしい!!)
ネアは、その優しさにきゅっとなってしまい、胸を押さえて、冬の王様だってきっと幸せになるのだと自分に言い聞かせた。
少なくとも、春の王と森に迷い込んだ主人公より幸せにならなければ、ここにいる荒ぶる乙女は許さないだろう。
最後に、春の王がにっこりと微笑み、高らかに恋の歌を歌う。
舞い散る花びらが客席にも落ち、歌劇場の中を飾っていた薔薇の花がいっせいに満開になった。
明かりを落としていたシャンデリアが煌々と輝き、客席に降る雪の中にダイヤモンドダストが混ざる。
ネアは、いつもと展開が違うのでどこで乾杯するのかなとそわそわしていたが、ダンスを終えた春の王が優雅にお辞儀をすると、劇場の中はわあっと喝采に満ちた。
「イブメリアの夜に!」
「素晴らしきイブメリアの祝福を!」
「この祝祭の庭に!」
「イブメリアの庭に!」
(………おや?)
グラスを片手に笑顔で参加していたネアは、ふと、聞き慣れない言葉が混ざっていることに気付いた。
みんなの乾杯の言葉が少しだけいつもと違うのは、本日の演出に関係あるのだろうか。
だが、乾杯の直後にしゃりんと音を立てて舞い落ちる花びらが花火のようなきらきらになって弾けると、劇場内の人々の大興奮の声に飲まれるようにして大はしゃぎしてしまう。
「は、花びらが!」
「おや。これは、祝祭の祝福を集めた魔術だね。上演中の演出を抑えた分、こちらでいつものような効果もいれたのだろう」
「…………ああ、これはいい祝福だな。クロムフェルツがウィームにいることもあるんだろうが、魔術の質がいい」
「蓄えた魔術を、イブメリアになった瞬間から僅かにずらす事で今年の祝祭に結んだか。………かなり緻密な構成だな」
「ディノ!花びらが手のひらに落ちてきても、しゃりんとなりますよ……!」
「可愛い、ぶつかってくる………」
それは、美しくて普遍的なイブメリアの夜の始まりだった。
歌声と花びらと魔術の煌めきの満ちる歌劇場の中で、ネアは、たっぷりと祝祭の夜の豊かさに身を浸して酔いしれる。
なお、あまりにも大満足で帰路に就いてしまい、街灯の光の輪の虹を見損ねたネアは、御者にお願いして、少しだけ馬車を戻して貰ったのだった。




