冬朝の眠りと窓の向こうで崩れるもの
どこか遠くで、鐘の音が聞こえる。
これは大聖堂の鐘の音なので、今日は音が良く通るのだなとその響きをうっとりと聞きながら目を開くと、閉め忘れたカーテンから朝の光が差し込んでいた。
雪の日の朝だ。
灰色がかった淡い光には明瞭なばかりの昼の光では得られない密やかさがあり、はらはらはと舞い落ちる雪が影の中にも彩りを添える。
青みの白灰色は、どこか上等なカシミヤのよう。
こんな朝は早くに起きて、とっておきのミルクティーを飲みながら何も考えずに庭や森を見ていたい。
(ああ、でも今日は雪降る街の景色が見たいな)
たった一度だけ、ネアはそんな朝を迎えた事があった。
父の仕事に家族で同行した異国の都市で、ホテル部屋から雪の降る朝の街を見ていた事がある。
朝の支度をしながらその景色をぼんやり見ていただけで何も特別な事などなかった筈なのに、青みがかかった灰色の光に包まれた冬の日の朝の景色を、ネアはその後何度も思い出した。
(あの日は確か、何かの国際的な授賞式への参加のお仕事だった。その国に駐在している大使の方が病気で参加が難しくなって、けれども外交的な匙加減で、その部下の方々では他国からの参加者との釣り合いが取れなかったのだったかな…………)
そこで白羽の矢が立ったのが、ネアの父だった。
自国から選ばれた受賞者が音楽家だったこともあり、母の仕事繋がりで不足のない代理人として指名され、家族でその国に出掛けてゆくことになったような記憶がある。
国の名前とその時期から恐らくはこの賞だったのではないかというような推理は出来るものの、当時のネアはまだ幼かったので、確証となるようなことまでは覚えていない。
ただ、ホテルの窓から見た朝の街並みの景色がとても美しかった事だけを、こんなに時間の経った今でも思い出すのだから不思議な事だ。
どうして思い出したのかなと考えていると、ダムオンからの列車の旅で窓から見た風景が似ていたからかもしれない。
そして、この美しい鐘の音と。
(……………いつか、あんな景色の見える窓があるどこかのホテルの部屋に、泊まってみようかな)
これまでは、金銭的にも肉体的にも出来ない事が多く、何かを余分に得ようとするのは難しかった。
でも、今はもう、多くの事がずっと自由になっているので、あの日と同じような景色を見る為だけに、街中のホテルに泊まってみてもいいのかもしれない。
以前に暮らしていた屋敷やこのリーエンベルクの部屋からでは、街の景色は見えないのだ。
そんなことを考えていたら、思っていたよりもしっかり目が覚めた。
寝台の中で毛布の下の温かな空気が逃げないようにごろりと動き、隣で眠っているディノの寝顔をしげしげと見つめる。
長い真珠色の睫毛の影に、はらりと落ちた同じ色の髪の毛の束。
なんて綺麗な魔物なのだろうと思うと少し嬉しくなってしまい、ネアは、もにゅりと唇を緩める。
こんな風に、大切なものを得られるとは思わなかった。
ずっとずっと、世界から弾き出されたままで、寂しくて寄る辺なくけれども静かなままだとばかり。
誰かが側に居る喜びを取り戻したり、一人ではないという贅沢さに胸が震えるような日々はもう二度と来ないと思っていたのに、ネアはいつの間にかこの魔物の伴侶になっていて、ウィームの住人になっている。
その変化に気付いてはっとする度に、あまりの安堵に息が止まりそうになるのだ。
そっと手を伸ばしてディノの首元に触れると、少しだけ緊張した。
他の誰かは違うのかもしれないけれど、ネアは未だに、我が物顔で伴侶に触れる事にさえ慣れないままの一瞬がある。
この魔物は自分のものなのだという誇らしさはあるのに、こうして躊躇ってしまうのはなぜなのだろう。
気質的なものなのかまだ慣れていないだけなのかを考えながら、アウルが金属の棒のようなもので貫いた辺りにそっと指先で触れる。
(……………温かい)
微かに上下する胸と、幸せそうにすやすやと眠っている寝顔。
こんなに美しくて優しい生き物が、当たり前のように隣で安心して眠ってくれるのはなんて素敵なのだろう。
ネアは、ディノがもうどこにも怪我をしていなくて、触っても起きないくらいにぐっすりと隣で眠っているだけのことを、全世界に自慢したくなってしまった。
(狐さんが、膝の上で丸くなる為にくるくると回るのも好きだな)
守り給えのサインでお尻を足に押し当てたり、爪先の上に座ってしまったりするのも好きだ。
疲れている時のヒルドが考え事をする時に、唇に人差し指の第二関節を当ててふうっと息を吐く、僅かに投げやりで男性的な様子を見せるのも好きだし、ふとした折りにエーダリアを見つめて幸せそうに微笑んでいるのも好きだ。
(エーダリア様が、珍しいものの採取で回りが見えなくなっているときの横顔や、ヒルドさんやノアが幸せそうにしている姿を見ている時になぜか誇らしげにしているのを見るのも好き)
そんな、ネアだけがこっそり知っている素敵なところも、全世界に自慢してもいいだろう。
他の誰かには想像もつかないような些細な日常の切れ端が、堪らなく愛おしく胸を打つ。
だが、そう考えて満足気に頷いたところで、ネアは、義兄の好きなところが銀狐姿に偏っている事に気付き、慌てて人型の塩の魔物の好きなところも追加で計上した。
ここで、ちりんちりんと涼やかな水晶のベルの音が響き、ネアはくあっと欠伸をする。
このお報せベルは、部屋にウィリアムとアルテアが来るのでと、約束の時間の少し前に目が覚めるように昨晩設定しておいたものだ。
今日は、リルベンの町の一件で昨日遅くまで忙しくしていたエーダリア達も朝食の時間を遅くしているので、二人の魔物からの定時検診が終われば二度寝の時間になる。
とは言え、こちらは粛然たる乙女なので、起き上がってせめて髪の毛は梳かしておかねばならず、その為に目覚ましをかけておいたのだ。
だがネアは、何とか上半身は起こしたものの、一度だけと思い目を閉じてから起き出そうとしたまま、少しだけ眠ってしまっていたようだ。
こつこつと響いたノックの音に寝惚けたままどうぞと言ってしまい、またうつらうつらしてからはっとする。
「……………ぐぅ」
「ったく。声からしてこの調子だろうとは思ったが…………」
「……………ふぁ。……………アルテアさんでふ。先程まではしっかり起きていたのでふよ」
いつもの部屋にいないのでと寝室まで入ってきたアルテアが、呆れたような顔でこちらを見ている。
ネアは、これはまずいぞと思いながらも、ちょうどの一番眠いところで目を開いてしまったが故に、どうしても瞼が落ちてきてしまう。
「シルハーンは、眠っているな。……………ここに来る前にヒルドと話したんだが、ノアベルトも眠っているそうだ」
「ふあむ。…………二人共、ぐったりなのかもしれませんね」
微笑んでそう教えてくれたウィリアムに、ネアはむにゅむにゅしたままこくりと頷いた。
ウィリアムがくすりと笑い、体が揺れてしまっているネアの為に、枕の一つを背中の後ろに差し込んで固定してくれた。
「……………アルテア、どうですか?」
「こいつの場合は、ただの気疲れだろうな。…………シルハーン達は、やはり、あの傷薬を飲んでも回復しきれない魔術的な消耗があるんだろう。………剥離手で対岸の魔術を扱う魔術師だ。あの程度の被害で収める為に、どれだけの調整を重ねていたのかは、当人が把握している以外にも無意識下で行っていたものもあるんだろう」
「……………むぐ。おいきずぐすりします?」
「やめろ。余計に長く寝込ませたいのか」
「むぐぅ……………」
「ネア。どちらかと言えば、肉体疲労のようなものだから安心してくれ。二人共、自分達が思っているよりもずっと疲れているんだろう。疲労回復の水薬ならいいかもしれないが、それも、起きた後で疲労感が抜けないようならという感じかな」
それを聞いてネアはほっとしたが、頷こうとして前のめりになってしまい、手を伸ばしたアルテアに支えて貰う羽目になった。
もはや介護なのでとても申し訳ないのだが、どうしても眠たいのだ。
いい支柱を見付けたぞとずるずるとそちら側に傾くと、よく出来た使い魔は溜め息を吐きながらもネアが丁度いい形で体を支えてくれた。
「……………お前な。自分が何を枕代わりにしているのか、考えてみろ」
「つかいまさんなので、問題はありませむ。……………ぐぅ」
「言っておくが、俺がいつでも……………いや、いい」
「森に帰る時は、申請書を出して下さいね」
「なんでだよ」
「……………その割には、上機嫌ですね」
「お前は黙っていろ」
当たり前のように聞こえてくるウィリアムとアルテアの会話も好きなものの一つだったなと考えながら、ネアは、先程までよりは硬くなった枕の寝心地もなかなかのものであると、ふうっと息を吐く。
昨晩から、早朝に健康診断を行うと話していたウィリアムとアルテアは、ディノ達がどれだけ疲れているのかを知っていたのだろう。
こうしてわざわざリーエンベルクに泊まり気にかけてくれるのが、とても有難い。
「そう言えば、巡礼者達が魔術を持つ特殊な剥離手の体を得られないか試していたようだという話を、していましたよね」
「ああ。シルハーンが、蝕の時の巡礼者の持っていた本の中に、その表記を見付けたと話していたな。まさかここで、そんな個体が実在すると判明するとは思わなかったが」
「……………リンジンか」
「むが!あやつは滅ぼします!」
「………ったく。寝惚けるな」
「……………ぐるる。……………ぐぅ」
ネアは許せない名前が出てきたぞと飛び起きかけ、溜め息を吐いた使い魔に寝かしつけられてしまう。
それでも少しだけ威嚇していたが、特に異常や危険はなさそうなので、もう一度目を閉じることにした。
「それが成功していたらと思うと、ぞっとしますね」
「ああ。…………恐らくだが、あの剥離手が扱えていた魔術は、こちら側のものではないんだろう。この世界層の魔術を剥離させるという特性はそのまま残しているお陰で、攻撃や守護を無効化される変わりに、より面倒な連中が剥離手を素材にすることは防げそうだな」
「それは、仮面の魔物と呼ばれるあなたでも?」
「ああ。辻毒の素材にすることですら無理だろう。作家の魔術にも不可能だったと思えば、後はグレアムくらいか」
「グレアムも、剥離手を使うのは難しいと言っていました」
「それなら、……当面は懸念対象から外して良さそうだな。……………集約が過ぎると今回のようなものが生まれると判明した以上は、剥離手が多く生まれる土地の警戒は続けておいた方が良さそうだが」
(………これからの話をしているのだわ)
ぼんやりと二人の会話を聞きながら、ネアは心の中で頷いた。
目を開けるのはちょっと難しいと思うが、冷静な嗜好を保てているので、決して眠っている訳ではない。
高位の生き物達は、こうして世界の調律や剪定を行うようだ。
人間のように世界の片隅を素早く通り過ぎるばかりではなく、長く生きるからこその対策なのだろう。
「呪いの側面からの取り込みも避けたいので、リルベンの町で、あの絵本の呪いが剥離手にも影響を及ぼしていたのかを知りたかったですね」
「…………ああ。あの暗闇を有利な領域として利用していたあいつにとっては、町から出られないままの方が都合が良かった筈だ。出ようとしなかったことで、出られなかったどうかの検証が出来ないままになったのが惜しかった。今回はノアベルトもダリルも後手に回ったからな」
「あの二人が状況を見誤るのは珍しいですが、ダリルが珍しくドレスではなかったとなると………状況的に、戦闘があるかもしれないという懸念は覚えてはいたのかもしれませんね」
「ああ。今回は、一手ですら惜しい状況だった筈だ。ダリルが武装していたのも幸いだったな」
低く息を吐く音。
そして、小さな衣擦れの音。
「……………向こうの王家は、どのような様子だったんですか?」
「命じたのは、絵本の奪取だけのようだ。あの剥離手が魔術を扱えるようになって以来、あいつが仕える王族も、暗闇で力を発揮しやすいことに気付いていたらしい。手持ちの剥離手の強化を図る為の補助的な魔術具として、当人に取って来させるつもりだったようだ」
「確かに、排他結界を無効化する剥離手ほど、ウィームのような魔術の潤沢な地への対処に向いた者はいませんからね…………」
その言葉に、ネアはひやりとした。
それはつまり、このリーエンベルクの守護をすり抜けて建物の中に入り込めてしまったり、その上で誰かを狙うような事が可能だということだろうか。
「……………むぐ。ここにも入ってきてしまいます?」
「ったく。お前は寝てろ。ここには入って来られないぞ」
「む。……………そうなのです?」
「ネア、リーエンベルクのような場所は、敢えて魔術的な領域として構築してあるんだ。リーエンベルクの地下に魔術基盤があるのは知っているだろう?」
「むむ!」
「そうすることで、一般の建物とは違う魔術特異点のような扱いにもなっている。古くからある、漂流物や剥離手への対策だな」
「ふぁ。もう対策が取られていました」
「封印庫やシカトラームもそのようなものだな。因みに、魔物の領域、屋敷や城もそういうものだ。極端な話をすれば、あいつらがどれだけ厄介でもその特性故にパンの魔物の巣にも入れないという側面がある」
「……………パンの魔物さん」
以前の騒ぎの時に、剥離手用に何らかの防衛策があるのは聞いていたものの、アウルのような者が現れた以上は危ういのかと思っていたが、立ち入り禁止というよりは剥離手側の体質を利用した措置なのだろう。
ただしその運用は、同じ魔術特異点でも森や湖などのような自然のものには必ずしも適用されないそうだ。
同じものが見えていて、同じ道を歩けるかどうかという疑問は残るが、剥離手でも、自然派生の魔術特異点を通過及び認識することは出来るらしい。
あくまでも、魔術的に誰かの管理下にある領域には触れられないということのようだ。
「ずっと昔は、そんな対策も出来ていなかったからな。それこそラエタの時代には、海沿いに会った小さな王国に他の人間達を憎む剥離手が入り込み、王宮の中にいた人々が虐殺されるという凄惨な事件もあったんだ。そのような事件から学び、壁や屋根を設けて雨風を凌ぐようにして対策が重ねられてきているからな」
「……………私が呼び落されたのが、この時代で良かったでふ」
話題が話題なので、ネアとしてはいつものように理知的な受け答えをしているつもりなのだが、どうしても語尾がふにゃふにゃになってしまう。
受け答えの時だけ頑張って目を開けているが、すぐにまた瞼が落ちてきた。
「今回の件で、あいつらの崩し方が見えた。……………結果としては、こちらの利益になった事件だな。お前はもう少し寝ておけ」
「ふぁい。トマトの王様が私を守ってくれたのですよ。いつだってトマトは、間違いなく美味しいのでふ」
「……………ネアは名前を正しく呼ばなくてもいいらしいと知っていても、少しひやりとしますね」
「……………何でこいつは、あの後でも問題なく食えるんだ……………」
とは言え、毎回トマトに助力を仰ぐ訳にはいかないので何か他の対策を練るのだろう。
これまでは魔術的な措置が全て無効化されると思われてきたが、人間の体である以上は、人間という生き物が生命維持出来ない状況に追い込めばいいということなのだ。
食べたものを起点として体内に何かを送り込むという手法は、新しい着眼点になりそうだ。
剥離手は、魔術的な祝福や付与を受け取れないだけで、それを取り込んだり身に纏うことは出来る。
衣服は検証が必要だということのようだが、食べ物が有効だと判明したことは大きいのだろう。
(そう言えば、……………あの人はなぜ、怪物でも見るかのように私を見ていたのかしら)
ふと、そんな事を考えた。
さすがにもう全く心当たりがないという訳でもないので、もしかするとネアの良く知るどこかからこちらに流れ着いたものだったかもしれない梟には、ネアが悍ましいものに見えたのだろうか。
だとすれば、万象の練り直しを経ても増えない可動域など、ネア自身にもここではないどこかから来た者としての特性があって、それはきっと彼等と近しい部分なのだろう。
(……………でも、私は、祝福が受け取れる体で良かったな。可動域は少ないしこの世界での運命を持たないけれど、ここで生きていくのには充分なだけのものを手に取れるくらいには、受け皿がある)
そう思えば、ネアの持病などを取り除く為であり、こちら側のものを少しでも多く受け取れるようにする為の練り直しだったのかもしれない。
万象の魔物だからこそこじ開けられたのがあの可動域だったのだろうかと思えば、あらためてこの魔物に見付けて貰えた幸運を思ってしまう。
(ずっと欲しかった魔法は使えないままだったけれど、代わりに私は今の人生がある)
であれば、魔法なんてなくて良かったのだ。
決して短くはない時間を明日などなければいいのにという怖さを噛み締めて生きてきたけれど、その中で育んだ長い祈りこそが今を象っているのかもしれない。
(……………おいでおいで、優しい子)
父の真似をして呟いたあのおまじないは、ディノにも届いたのだろうか。
ネアの魔物が誰よりも優しいのは、あのおまじないがそんな魔物を見付けてくれたからだろうか。
「……………むぐ。……………ディノが大好きでふ」
「虐待した……………」
しかし、充足感に満ちた幸せな眠りの入り口でそう呟くと、なぜか隣で眠っていた筈の魔物が目を覚ましていて、くしゃりと蹲ってしまう。
驚いて目を開いたネアは、やっと目を覚ましたばかりの伴侶を再び寝台に沈めてしまった人間として、ウィリアムとアルテアに叱られる羽目になった。
アルテアがディノに体調を尋ねても、もはやご主人様が虐待したので胸が苦しいといしか言わなくなったので致し方ないかもしれないが、どうぞそろそろ耐性をつけて欲しい。
「今のは、意図せぬ事故だったのですよ?」
「そうだな。……………ただ、もう少しだけ待ってくれると、良かったんだが」
「ふぁい…………」
「おい。お前は起き抜けに何を食べようとしているんだ…………」
「燻製ちび卵です?」
「おかしいだろ。朝食前だぞ」
「塩味を摂りたくなった時用に、こちらと一口サラミ、つぶつぶチーズは常に用意してあるのです」
「もう少し何かあるだろ………」
「なぜ頭を抱えられたのだ。因みに、ローストビーフやタルタルも吝かではありません。ジッタさんのオリーブパンの味も好きなのですが、そちらは定められた容量を守るようにという規制が設けられています…………」
アルテアがとても顔を顰めているので、ネアは、魔物には起き抜けでも塩分が欲しい時はないのかなと首を傾げた。
とは言えこちらも、朝食前の爽やかなひと時に相応しいかもしれなくても、果物やヨーグルトなどという爽やかさでは物足りないので、そういうものだと割り切って欲しい。
「そして、まだずっとお部屋に居てくれるのですか?紅茶でも飲みます?」
「……………お前が、俺を枕にしているからだろうな。それを食うなら、せめて寝台から降りろ」
「なぬ……………。普通に目を覚ましてお喋りしていたので、すっかり起きている気分でしたが、アルテアさんを背もたれにしていたようです…………」
さすがに寝台での飲食はあまり望ましくないので、ネアは素直に寝台から下りようとして指先を見つめた。
燻製卵をつまんだ指先で寝具には触れたくないので、これは濡れお絞りなどが必要である。
なお、背もたれ兼枕になっている使い魔が、素敵に立たせてくれても構わないのだが。
「おっと。それじゃ起き難いな」
「まぁ。ウィリアムさんが持ち上げて下ろしてくれました!」
「……………ウィリアムなんて」
「ディノも、そろそろ起きますか?こんな素敵な冬の朝なので、ミルクティーを淹れようと思うのですが、もう少しゆっくりしていてもいいので、言って下さいね」
「手料理かな……………」
「飲み物なのでちょっと違うかもしれませんね」
「……………起きる」
「では、ディノの分も淹れますね。ウィリアムさんとアルテアさんも、ミルクティーで良ければ一緒に作ってしまいますが、あちらのポットに普通の紅茶もありますよ」
「俺の分も頼んでいいか?」
「仕方ないな。砂糖は少なめにしろ」
寝台から立ち上がると、そこはいつもの部屋でいつもの朝だった。
在りし日の願い事やここに至るまでの嗜好はぽいと投げ捨て、ネアは、今日もまた訪れたイブメリアの季節の大事な日に何をして過ごそうかなと考える。
大きな窓に歩み寄り、軽やかな気持ちでカーテンを開けた。
そして、窓の外を見たネアは、びゃんと飛び上がった。
「な、なにやつ…………!!」
窓の上から、もさもさけばけばした捩れタオルのような謎生物がだらんと垂れ下がっているではないか。
ネアの声に気付いて慌てて駆け寄ってくれたアルテアが、途端に虚ろな目になる。
明らかにこんな生き物は知らないし、知っていても関りたくないという表情であったので、苦笑したウィリアムが一度外に出ると、窓の上の段差に引っかかていた謎生物を取り外し、森に捨ててきてくれた。
幸いにも、脅威となるような生き物ではなかったらしく、後でエーダリアに訊いてみると雪崩れの妖精の一種なのだという。
冬の朝に、屋根などから崩れ落ちる雪に混じっているだけの無害な妖精だが、その瞬間にネアがカーテンを開けてしまったので驚いて窓の上に引っかかってしまったのだろうという事だった。
か弱い人間としては、もはやどんな派生理由の生き物がいても諦めの境地であるが、大事な自分の部屋の窓先にそんな得体のしれないものがいるのかもしれないと知り、何とも言えない気持ちになってしまう。
毎回潜んでいる訳ではなく、あちこちの家の屋根を渡り歩く生き物のようなので、森から戻ってきてもどこか別の場所で崩れ落ちていて欲しいと祈るばかりだ。




