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城郭都市と夜紡ぎの剣 2




スノーという名前の城郭都市がある。

古くはスーノルフェという肥沃な大地を示す地名だったが、土地に住む人間達の呼んだスノーという愛称が定着し、そのまま呼ばれるようになったそうだ。



土地の全てを見事な入江の祝福鉱石の煉瓦で作った城壁で囲まれ、なだらかな丘陵地には見事な葡萄畑が広がっている。


城郭都市として、百年ほど前迄は川を挟んだ向こう岸の小国を見張る役目を持つ領地だったのだが、その対岸の国が侵略されて自国の一部となった今は、人々はのんびりと暮らせるようになり、美味しい葡萄酒が有名な観光地になっている。



「勿論、対岸の土地が侵略を受ければ、ここは再び最終前線の国境域となる。だが、………緊張感を維持しろと言っても難しいのだろうな」



そう呟いたリシャードは、葡萄酒の入ったグラスを傾けぐいっと煽る。

このような場所で酔わないでいただきたいとネアは思うのだが、本人曰くこの程度で酔う程に軟弱ではないそうだ。



(でも、酔い回りの早さは精神状態にも左右されるのでは…………)




この店に入るまでに何があったかは、もはや語るまい。



ネアはお祭りの人波でもみくちゃにされてきゃっとなっただけだったが、どこからか取り出したフード付きの上着やストールで巧みに顔を隠していたにもかかわらず、ノアとリシャードは、荒ぶるご婦人方に何度も攫われそうになった。



(ノアも震えてたくらいだから、恋のお作法が混じる社交全般がとても嫌いだというリシャードさんは、かなり辛かったのでは………)



ガーウィンでの邂逅の後、ウィリアムや、彼をよく知るアルテアからは、独特の趣味を除けば隙のない人物だと教えられていた。


そんな高位の精霊が、虚ろな目をしてグラスの中の葡萄酒を見つめているのだから、ネアは死の精霊の王弟の思わぬ無防備さを目撃してしまっているのかもしれない。



「…………この街ごと滅ぼしてしまえれば、どれ程いいことか」

「わーお、ナインがここまで追い詰められるの珍しくない?」

「グラスを持つ手が震えているぞ、ノアベルト」

「…………え、君だってさっきから手が震えてオリーブ食べれないでいるよね?」



(リシャードさんは、途中までは、こんな事故もなかなかに愉快な暇潰しかもしれないって表情だったくらいだから、あれさえなければこんな風に弱ってしまう事もなかったのではないかしら………)



人波に踏み込んだ瞬間の気配を一言で察するのなら、殺気としか言いようがないだろう。


街の財源ともなる祭りに観光客が来なくならないようになされた配慮だろうが、スフィアの呪いについては緘口令が敷かれているらしい。


理由を説明出来ないからこそ、無言で向けられる視線の強さは刃物のようだった。



(でも、そうなるのも当然だと思う…………)



スフィアの呪いの期限まで二月のこの祭りの夜は、残された女達にとっては身を切るような覚悟の日に違いない。

強いられて伴侶を得る事がどれ程の苦痛であるかは想像に難くないし、そんな中で胸を焦がすような見知らぬ美しい旅人が姿を現わせば、誰だって歴戦の狩人のような目になるだろう。


正攻法で話しかけるだけに留まらず、人混みに押されてぶつかってしまいました技が次々と繰り返され、麻痺毒で連れ去ろうとした集団もいた。

髪の毛を引っこ抜いて両思いの媚薬魔術に使おうとする輩も含め、ネアは今晩、お祭りの賑わいの匿名性を盾にしたありとあらゆるご婦人方の猛攻を見たように思う。



そんな中での初戦においてのリシャードの敗因は、高位の精霊であるが故に、苦手とする女性達の猛攻をこれまでは容易く退けられていたことだとネアは思う。


人間に擬態していても魔術は勿論使えるのだが、祭りが終わるまではこの街で過ごさなければいけないという条件のせいで、過分な対処など制限される事も多い。

ひとまず、旅人らしく食事をしてダンスを楽しむまでは、回避行動も非常に限られてくる。



同じように顔色は悪いものの、ノアの女性達の躱し方は程よく力が抜けており、この男性は厄介そうだぞと手を引かせるのが上手だった。



(まだ、よく刺されてしまうノアの方が、この種の騒ぎには耐性があるのかも………?)



コポコポと音がして、リシャードはまたグラスに葡萄酒を注いだようだ。


うっかり酔っ払って見ず知らずのお嬢さんと結婚してしまわないよう、慎重に限界を見極めて欲しいと思わずにはいられない。



その時、扉を叩く音が聞こえ、ノアとリシャードの顔が緊張に強張った。


けれども二人ともすぐさま高位の人外者特有の傲慢さとしたたかさをその気配に纏うのだから、ネアは、男たちの健気な姿にほほうと感心してしまう。



扉を開けて入って来たのはこの店の女主人で、店は厨房に立つ夫君と夫婦で切り盛りしているようなので、こちらの女性からノア達が求婚されてしまう事はなさそうである。



「はいよ。これが全種類盛りだね。マスタードが三種に、チーズソースも添えてあるよ。…………で、どちらがお嬢さんの旦那なんだい?」



テーブルの上にごとりと置かれたのは、様々な種類のソーセージが山盛りになった大皿だ。


椅子の上で弾んだネアがさっと木製のフォークを手にする中、料理を運んで来た女主人の興味は、はっと目を惹く美貌を持つ二人の男性にあるらしい。


ネア達は、静かに食事が出来るようにと高位の人外者の財産に物を言わせて高貴なお客のお忍び用の個室を押さえたが、おやっと思って扉近くを見ると、頼んだ他の料理を持って来たらしい年若い女性がいるではないか。


ネアがそちらを見たからか、女主人は自慢の娘なのだと教えてくれる。

リシャードが溜め息を吐くだけで文句を言わないのは、このくらいの事はあると諦めていたからだろう。


これでは、個室を選ぶに至った安全性は半減してしまうと言いたいところだが、女主人の娘も、料理を運んで来てくれしっかりと仕事をしているので、微妙に文句が言い難い狡猾な参戦である。



「…………私の旦那様ですか?」

「その魔術付与の指輪は、魔物の結婚指輪だろう?この辺りは、新酒の時期には人外者の観光客も多いから見れば分かるさ。なぁに、ただの好奇心だよ」



陽気な微笑みを浮かべ、個室を指定したお客にも怯むことなく朗らかに問いかけた店主の無遠慮さにリシャードは顔を顰めたが、ノアは鷹揚に微笑んでみせた。



「もしかしてその質問は、嫁取りの呪いが理由かい?」


その問いかけに目を瞠り、女主人は苦笑してみせた。


ここで誤魔化したりしないところを見ると、スフィアの呪いが隠されているとは言え、露見してもお咎めはないのだろう。



「何だ、知ってたのかい。………まぁ、あんた達なら、ここまで来る迄にも大騒ぎだったろうから、呪いの話くらいとうに耳に入っているかもしれないね」

「スノーも大変だよね。僕達も似たような問題を個人的に抱えていてさ、スフィアの呪いが使えないかなと思って、わざわざこの祭りに来たんだ」

「…………似たような呪い?」



不思議そうに問い返した女主人に、扉の手前に控えたその娘も目を瞠る。

普通の旅人にも見えないだろうが、人懐こい微笑みを浮かべた青灰色の髪の旅人が、老獪な白持ちの魔物だとは思うまい。



「僕とこいつはさ、諸事情で、この子以外の女の子を選ぶと殺すしかなくなる状態にあってね。だからさ、そろそろ彼女にも受け入れて欲しいんだけど、ほら、この通りこの子には既に伴侶がいるもんだから、なかなか頷いてくれないんだよね。この葡萄祭りの雰囲気でどうにかしようと、わざわざここ迄来たんだよ」

「あらあら、それを本人の前で言ってしまうのはどうなのでしょうね。私個人の計画としては、お祭りを楽しむだけ楽しんで後はぽいです!」

「わーお、残虐だなぁ。でも僕は、そんな君が大好きだよ」



ノアはそう微笑むと、早速、白ソーセージを取り皿に確保しているネアの為に、他の種類のものも切り分けてくれる。

ソーセージは切り分けると肉汁が失われるのでやめ給え派のネアは、慌ててそんなノアを止めなければならなかった。



「………はは、そりゃ難儀な事だねぇ」



からりと笑って女店主は部屋を出て行ったが、あの笑い方は、そんな事もあるのだろうかと考えながらも、まだ完全に納得してはいないのだろう。


あえて人気店に入り、作り上げた設定を漏らすのがネア達の作戦の一部であるのだが、こちらの話した事を完全に信じさせる必要もないのだそうだ。



ぱたんと扉が閉まると、ノアはすかさず音の壁の魔術を閉じ直したようだ。



「ごめんごめん、ほら、仲睦まじい感じを出すにはやっぱり、食べ物を取り分けないとね」

「むぐる。茹でたてソーセージを輪切りにするなど、大切な肉汁様を逃してしまう許されざる行為だと理解して下さい」

「うん、もうしないよ。………お、こりゃ美味しいなぁ」

「むぐ!このソーセージは、香草の香りがふわっとして、中のお肉がムースのような滑らかな食感なのが堪りませんよね。こちらのものは、お肉の質感が残っているじゅわ旨食感が格別です」

「うん。スノーは美食の街としても有名なんだ。この店は知らなかったけれど、期待以上だった」

「どなたかが旅行鞄に入れてくれたパンフレットでも、ここは一押しのお店のようでしたが、この様子だと、他に記載されていたお店も期待出来そうです………」



ふと視線を感じて顔を上げれば、じっとこちらを見ているリシャードがいる。

首を傾げたネアに対し、なぜか彼は怪訝そうに眉を寄せた。



「…………少しも動じていないのか」

「ええ。あのお祭りの人波を歩いてみた感じで、私はさして注目されていませんでした。指輪をこれでもかと示していたのは確かですが、喜ばしいくらいの空気っぷりでしたので、後はもう美味しいものをこの二日間で堪能するばかりでしょう」



しかし、ここでネアの楽観的な予測は少しばかり外れたようだ。




「トーマス!久し振り!!十年ぶりくらいかしら!!………トーマス?」



ばぁんと扉が開かれ、見た事もない三人の少女が部屋に押しかけて来たのだ。

突然の侵入者に、ネアは焼き茄子のピリ辛香辛料ソースがけを頬張ったまま固まる。



「………人違いだ。出て行ってくれ」

「…………その、私のことを覚えていないかしら?小さい頃にお隣だった…」



(あ、知り合いだと思ったけど、別人でしたごめんなさい作戦だ…………)



きっかけ作りとしては古典的な手法だが、リシャードの冷ややかな眼差しには耐えられなかったようだ。

少女達の主張はしゅんと萎んでしまい、口籠るように謝罪をすると忙しなく立ち去ってゆく。



「…………びっくりしましたね。なかなか情熱的です。………ノア?」

「…………やっぱり、僕が君の伴侶ってことにしよう」

「しかし、これは魔物の伴侶を持つ指輪なので、お二人には適応されないのでしょう?だからこそ、あの若干弱めな謎設定を考えたのではありませんか」

「え、あの設定弱い………?八割くらいの信憑性で押し通せない?」

「伴侶選びという人生の最大の岐路を前にしたご婦人方に対し、あの薄弱な設定で納得されると思っているのであれば、あまりにも目算が甘いと言わざるを得ません。それは怖いので近付かないようにしようが二割の、取り敢えず仲良くなってみようが六割、残り二割は命の危険があってもこれ程の旦那様が得られるのなら吝かではないという内訳くらいに考えるべきなのでは…………」

「わーお。やっぱり僕達、結婚するしかないのかな…………」

「結婚しなくても死なないのですから、残りの時間を耐え忍んで下さいね。………ふむ。この白葡萄酒もきりりとした味わいで、けれども果実の爽やかさもあって美味しいですね」



ネアはここで、先ほどより少しだけ椅子をこちらに寄せたリシャードに気付いた。

そつなく先程の少女達を追い返した様子を見て安心していたが、なかなかに怯えてしまっている。



(………旅人の立場で揉め事を起こすのも得策とは言えないから、煩わしさにご婦人方の大殺戮を始める訳にもいかないし、不必要に高位の魔術を切り出して、この地にいる他の高位の生き物達に目をつけられることも避けなければならない………)



それはきっと、ネアが頼もしい武器達や戦闘靴なしに森に狩りに出かけるようなものなのだろう。


そう考えると悄然とする二人が不憫になってしまい、食事が終わるまではあの扉が開きませんようにと祈るばかりだ。



「アバン!いつこの街に帰って来たの?!あらやだ、人違い?」

「ぎゃ!また来ました!!」



結局、ネアが美味しいソーセージを堪能しきるまでに、三回の突撃訪問があり、一度の店主のお嬢さんによる明日街を案内しましょうか攻撃があった。


バランス良く食事とお酒を楽しんだネアに対し、ノアとリシャードの摂取は、葡萄酒に傾いていたように思う。


食堂を出ると、リシャードが人々の記憶を僅かに改竄する魔術を展開し、店でネア達を見かけた誰かが追いかけてくるというような事は未然に防がれた。


雑踏の中でこの魔術を使えないのは、独特な祝祭の魔術や、スフィアの呪いに触れるからであるらしい。

その上から押し込む事は可能だが、帰り道を損なっては元も子もない。




祭りの夜らしく、そこかしこから、陽気な音楽が聞こえてきた。

街中の石畳はきちんと整備されており、こんな夜でも躓くことなく歩き易い。


夜闇をぼうっと丸く切り取る街灯の明かりに、飲食店やカフェは外にもテーブルを出してお客を集めている。


どの店にどんな葡萄酒が出ていて、ここの樽にはこんな香りがありますと、幾つもの看板が店の前に出ていて、歩くだけでも楽しかった。


晩秋の並木道は、乾いた葉がかさかさと風に鳴り、道行く人々の向こうにふっと妖精が紛れていたりもする。



美しく楽しい夜だ。



最初に潜伏していたところから街の中心近くに移動するまでには人通りの多い通りも歩かねばならなかったが、ここまで来ればもう、一番賑やかな通りは避けて歩けるので、ノア達は今のところはまだ余裕があるように見える。


それでも何回かは、擦れ違う女性達に声を掛けられていた。



「ところで、我々は今夜、どこに泊まるのですか?」

「街の様子を見に行った時に、お祭りだって分かったから、スノーにあるアクス直営の宿泊施設を押さえておいたよ。そこなら、特定の顧客の依頼であれば、併設空間で部屋を足してくれるから、満室でしたって事はないからさ」

「まぁ、この土地にもアクスのご商売があるのですね」

「その種の商いは、人と情報を集める事に向いているからな。どこよりも早くアクスが着手した事業だ。一部屋にしたんだろうな?」

「勿論、一部屋だよね。部屋があるのは有難いけれど、このスフィアの騒ぎにアイザックが介入していたら、いい獲物にされる」

「…………こちらにおわす淑女に対して、何という仕打ちなのだ………」

「ほら、お兄ちゃんが拐われたら悲しいよね?」

「むぐぅ。リシャードさんは…」

「帰れなくなっても構わないのか?」



人通りが少しまばらになる裏通りを歩いているので、ネア達は目立たないように三人で並んで歩くのは避けていた。

ネアとノアは腕を組み、一歩前を歩くのがリシャードだ。

なおこの布陣は、リシャードが一歩後ろだと拐われかねないのでその予防策である。


会話については音の壁を立てているが、魔術の道は、高位の者に遭遇しないようにと敢えて避けていた。



「む、熟成肉のお店を発見しました!」

「よし、そこは明日の夜にしようか。今夜は到着したばかりの夜だからね。祭りの雰囲気を楽しんで有名店で食事もしたし、まずは旅の疲れをゆっくり取ろう!」

「……………熟成肉さんは……」



慌てたようにそう言われてしまい、お祭りの夜なのだから二軒目もあるに違いないと信じていた人間は、へにゃりと眉を下げる。


素早く熟成肉の店に駆け込もうとしたネアの腕を離さずに済んだのは、ひとえにノアの経験則によるものだろう。


しかし、我が儘な人間の振る舞いに冷ややかな苛立ちの目をしたリシャードは、残忍な人間が離れたところを歩いていた女性達の方を意味ありげに一瞥すると、はっと息を飲む。



「いいか、明日まで待て。飲み足りないのなら、部屋で飲む葡萄酒を買ってやる」

「…………しゅわりとした、辛口で爽やかな白がいいです。むむ、あちらでお持ち帰り葡萄酒を売っていますよ!」

「ちょ、屋台がある方の道は反対だな!ほら、こっちの高級メゾンの葡萄酒を買ってあげるから、これにしよう!」


ネアは、色とりどりのテント屋根の屋台で売られている安価な新酒の瓶が並べられたお店が見たかったのだが、ノアが提案したのは、柔らかな橙の明かりに高級感が滲む、艶のある漆黒の石造りの高価そうな店構で、高価な葡萄酒を取り揃えた店だった。


リシャードも無言で頷いたので多数決で負けてしまい、ネアはお祭りの夜はこういう気分ではないのだと思いながらも、黒服のソムリエがお勧めの葡萄酒選びを一緒に手伝ってくれる店に入らざるを得なかった。


とは言え、品揃いは間違いがないお店であったので、ノアとリシャードからそれぞれに美味しそうな葡萄酒を買って貰い、ネア自身もお土産の葡萄酒を三本購入出来たので、ほくほくとした気持ちで、街の中心の喧騒からは少し外れた区画にあるアクス直営の高級ホテルにチェックインする。




「ほわ、…………古い建物なのでしょうか。見事なエントランスですねぇ……」



アクス商会の魔術の粋は、このような大国ではない土地のホテルにも反映されているらしい。


吹き抜けで大きな円柱が目立つ神殿のような造りのエントランスには、ネア達以外にもお客が何組かいたのだが、焦点を合わせられずに風景が滲むように、彼らがどんな姿をしているのかが認識出来ない魔術が敷かれていた。


大きな大理石の台座に置かれた花器と、そこに生けられた花のふくよかな香りに、どこからか水音が聞こえてきて心が和らいだ。



(街のお祭りの雰囲気のままに、一階が食堂になっているような街の安宿に泊まって、部屋からもお祭りの喧騒を楽しむのも楽しそうだけれど…………)



さすがにネアも、泊まる部屋にまで踏み込まれるのはご遠慮願いたい。

旅先の街でのお祭りの雰囲気を楽しみたいのなら、また今度、自分の意思で訪れる街で試してみればいいのだ。



「さて、部屋に行こうか。荷物も多くないし、部屋までの案内は断ったよ。部屋は続き間になったふたつの寝室がある部屋で、浴室は二つだけど、寝台は三つあるからね」



チェックインの間、ネアをリシャードに預けていたノアはすぐに戻って来て、緑柱石で出来たような美しい鍵を見せてくれた。

部屋番号らしい数字が刻印されているが、こちらの世界に十二階建てのホテルがあるとは思えない。



(と言う事は、この十二の数字は別のことを表すものなのかな?)



案の定、迷いのない足取りでノアが先導してくれたのは、十二個目の扉の向こうというなかなかに奥まった位置にある部屋だった。


部屋のある廊下に出る扉を抜けると、そこにはどこまでも続く廊下と、祭りの夜に賑わう街並みが見下ろせる窓が続いているものの、他には客室はないようだ。



(併設空間という話をしていたから、この扉の向こうの空間ごと、私達の客室のプライベートスペースとなっているのかもしれない………)



アクス経営の高級ホテルでこの部屋となると、かなりの出費だったのは間違いない。

ネアは心配になってノアの横顔を窺ったが、視線に気付いてこちらを見たノアはにっこりと微笑んでくれた。


義兄の懐具合が心配にはなるが、他の宿泊客と行き合う可能性がないので、周囲を警戒して素早く部屋に入る必要がないのはやはり有り難い。



かちゃりと扉を開いて部屋に入ると、まずは、ノアとリシャードによる、無言で部屋を隔離結界にして強化する時間が設けられた。



ややあって、二人の男達はふうっと息を吐く。



「………………うん。これでもう、誰にも侵入されないぞ」

「許可なく部屋に侵入しようとした場合は、灰になるようにしてある。街中では控えたが、アクスの領域下であれば問題ないだろう」



そう言いながら、擬態してもなおぞくりとするような美貌を持つ男達は、部屋の中央にあるソファセットに力なく座り込んでしまう。


祝祭の街を歩いた心地よい気怠さを感じつつ、ネアもそちらに歩いていって、ノアの隣にぼふんと座る。



「疲れただろう。少し休むかい?」

「お祭り気分がまだ残っているので、窓からの景色を眺めつつ、買って貰った白葡萄酒をくいっとやる予定ですが、お二人は早目に休みますか?」



心配そうに顔を覗き込んだノアに、そう微笑みかける。


ネアはまだまだ元気一杯なのだが、歩いた距離は同じでも、一秒たりとも気を抜けずにいたノアは疲れているかもしれない。



「ありゃ、まだ寝ないよ。作戦会議もここからが本番だからね」

「むむ、悪いお顔をしているので、今回の事にはまだ秘密があるのですか?」

「僕の妹は相変わらず勘がいいなぁ。何かね、今回の事故には裏がありそうだなって思えてきたんだよね………」

「裏…………」

「少し席を外すぞ」



ここで、すっと立ち上がったリシャードが隣の部屋に歩いて行ったが、ノアは何も言わずに見送った。


聞こえて来た扉の開閉の音からすると、浴室の方に行ったようだ。



「…………彼は入浴が先かな。あれで割と潔癖だからね。変わり者だよって、シルやウィリアムから聞いているよね?」

「リシャードさんは、人混みで大勢の人にぐいぐいやられるのが苦手なのですか?」

「生き物の好き嫌いが激しいからね。アルテアにちょっと雰囲気が似ているかもだけど、彼には、あそこまで柔軟さはないかな。死の精霊には大まかに分けると二つの気質があるけれど、彼が齎す死は殺戮や蹂躙のそれだ。賑やかな場所は好まない男だね」



だから聖域で働いているのだろうかと考え、ネアはこくりと頷いた。


信仰の魔術は独特なものだと散々耳にしたが、あの聖域の空気にも特別なものがある。

その安らかさや規則正しい静けさを好み暮らす人には、祭りの夜に人混みでもみくちゃにされるのは辛かろう。



「ナインが入浴している間に、君も手や顔を洗ってしまうかい?」

「ええ、そうさせていただきます。お風呂に入っていると、作戦会議には間に合わなさそうですから、それはまた後で…」

「それとごめん、ここは影絵やあわいじゃないから、ネアは帰るまで入浴は禁止するよ。その代わりに魔術で綺麗にしてあげるから、少しの間我慢してね」

「………………お風呂に、入れないのですか?」



思いがけない禁止令に、ネアは愕然とした。

しかし、ここが影絵でもあわいでもない、過去のスノーの街である以上、可動域の低いネアが入浴で土地の水に触れ過ぎるのは問題になるのだと言う。



「ほら、可動域的な侵食魔術があると危ないだろう?」

「お部屋に立派な浴室があり、ノアやリシャードさんは楽しんでいるのに、私だけお風呂禁止だなんて…………。おのれ、あの菓子折りを届けたやつめが見付かったら、ご婦人とて容赦はしません。この苦しみを何倍にもした上で思い知らせてくれる」

「わーお。僕の妹が、もの凄く悪役っぽいぞ………」



ネアはとてもむしゃくしゃしたが、その事で我が儘を言うのは控えた。

無事に帰る事こそを一番とするのだから、小さな事に拘って、わざわざ危険を冒すつもりはない。


汚れたまま寝台で休まなければならないのなら大問題だが、ノアが魔術で綺麗にしてくれるのなら二日くらい我慢しよう。



(ノアのお陰で、安心してこのホテルで眠れるのだもの。寧ろ、見ず知らずの街でお湯を使って手と顔が洗えるだけでも良しとしなければ…………)



部屋の中ではあるのだが、用心の為にノアに一緒に来て貰って洗えるところを洗ってしまうと、それだけでも人心地ついてほっとした。


ついでに、首飾りのいざという時の事故用装備からゆったりと寛げる部屋着に着替えると、残っていた心の強張りが解けるような気がする。


やはりネアも、少し疲れていたのだろう。



「僕達の部屋はこっちで、リシャードは向こうだね。共有の部屋で繋がっているけど、ある程度の隔たりは取れるかな」

「ふふ、ノアが同じお部屋なので安心です!」

「…………何だろう。男として頑張らなきゃって思った」

「兄なのでは………」

「ほら、そんな関係も背徳的でいいかもよ?ここはいっそ………ごめんなさい。きりんはやめて………」



ネア達が使うのは主寝室だが、寝台は並んで二つ置かれている親切設計だ。

柔らかな水色を基調とした上品な部屋で、菫色がかった砂色の石床に敷かれた絨毯は、はっと目を惹く瑠璃色の糸で織られた見事な模様が美しい。



先程座ったソファセットのある応接室を中央にし、それぞれの寝室や浴室がある。

何となく見知らぬどこからか渡された物感が強いので、旅支度の入った革のトランクは寝室に持ち込むのはやめておいた。



ノアは、作戦会議が終わってから入浴するそうで、脱いだコートをどこかにふわりとしまっている。




「落ち着いたら、飲みながらゆっくり話をしよう」



腕輪の金庫から取り出した白葡萄酒をノアに魔術できりりと冷やして貰い、ネアはどこからともなくグラスを取り出した魔物に目を瞠った。


「まぁ、グラスが現れました。これで…………ぎゃふ?!ガウンの前を閉めて下さい!!!」



まだ祭りの夜の高揚感が抜けず、うきうきとした気分で金庫からおつまみを取り出そうとしたネアは、お風呂上がりにガウンの前を閉めない悪い精霊に遭遇してしまい、慌ててノアの方に逃げ込む。


はだけているのは上だけなのだが、簡素な下履きの腰位置が低く、却って扇情的に見えてしまう。

男性としてはこのくらいはありなのだろうが、ほとんど他人に近い淑女を前にしているのだから、もう少し気を遣っていただかねばなるまい。


枢機卿としても、今夜も、ぴっちりと首筋までを覆うような禁欲的な服装しか見ていなかったので、この開放度がネアの心へかける負担はとても大きかった。


しかし、飛び上がったネアに対し、こちらを見たリシャードは冷ややかな様子ではないか。



「成る程、街での事といい、人間の女は自意識過剰の傾向があるようだな。貴女にそのような欲求は抱かないので、気にしなくていい」

「……………むぐ、その心配は私もしておりません。然し乍ら、視覚的な肌色汚染の確認をここに宣言します」

「汚染…………?」



ネアとしては肌色をしまっていただきたかったのだが、リシャードはなぜか呆然とこちらを見ている。



「あはは、君程度じゃ汚染だってさ。無頓着なのは勝手だけど、僕の妹の視界を汚さないでね」



愉快そうに笑ったノアの影で、ネアは造形の嗜好ではなく、親しくもない人の肌色率に対する訴えなのだと悲しい思いで眉を下げた。






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