258. 今年のバベルクレアは延期です(本編)
「という事なのだ。バベルクレアも延期であるので、その旨を承知しておいて欲しい」
その日、ネアは衝撃のお知らせを受け取った。
何と、バベルクレアであった筈の日の朝一番のことである。
「……………まぁ。舎弟は、既に脱走済なのですか?」
「……ああ。教会側で付けていた警備兵が失踪を隠していたが、二日前にはいなくなっていたようだ」
「絶対におかしかったよね。まだまだ、イブメリアって感じがしなかったし…………」
「祝祭の魔術が結ばれないから、バベルクレアにはならないのだろうと思っていたけれど、いないことを、隠してしまっていたのだね………」
何かを察していた様子に、ネアがぎりぎりとそちらを見ると、ディノがさっと三つ編みを差し出した。
奥に座っているノアも椅子の上で飛び上がり、このまま祝祭の期間に入らないようだと気付いて、エーダリアと話をしていたのだと告白してくれる。
「私は、はつみみでした…………」
「ええと、…………ほら、僕の妹はこの季節が大好きだからさ。運行に不備があるって知ったら不安になるかもしれないしね」
「ディノとノアベルトから話を聞き、ダリルを交えて原因を探っていたのだ」
「因みにそれが、二日前のことかな」
「ふつかまえ…………?祝祭のサイダーをみんなで美味しく飲んだ日の、翌日なのですね?」
「わーお。怒っているぞ………」
「ご主人様……………」
祝祭の運行に一番影響を与えるのは、その系譜の高位者の失踪だ。
有り体に言えば、グレイシアが逃げ出すと季節が後退するので、ダリルはすぐさま大聖堂に確認を取ったららしい。
しかしその時は、今年はまだ逃げ出していないという回答だったという。
「でもそうなると、理由がないんだよね」
「…………ああ。ダリルもその割にはグレイシアの姿が見えないと追及したようだが、のらりくらりと逃げられていたようでな。………ただ、ダリルの場合は、信仰の魔物が私情を挟んでいる可能性もあって、判断がつかなかったのだ」
「で、エーダリアが直接問い合わせたら、教会側でも何かがおかしいってなったみたいでね。内部調査をしたら、警備兵が嘘を吐いている事が分かったんだ」
「…………ほわ」
かくして本日は、バベルクレアだよと言ってしまったが為にそれらしいことは行うが、実際には欠片もバベルクレアではない一日である。
では、明日のアルテアの誕生日はどうなるのだろうと思いはしたが、こちらはそもそも自由設定日なので、明日でもいいではないかという運びになっているのが、せめてもの幸いであった。
近年、バベルクレアの花火を見た後に使い魔の誕生日会を行ってきたネアからすると、何だかいつもと違うなという気もするが、明日も美味しいご馳走が食べられるというのであれば何ら支障はない。
そもそも、だいたい毎年このくらいでグレイシアが脱走するので、延期そのものには慣れっこである。
そう考えかけ、ネアははっとした。
「このような場合、花火は打ち上げるのですか?」
「リーエンベルクからのものは、今回は上げない事になった。やはり、正式なバベルクレアとして認識してしまうと、祝祭の運行に触りが出る。……………ディノ、そちらはどうだっただろうか?」
エーダリアが不安げに尋ねたのは、ディノが、祝祭の王でもあるクロムフェルツと会い、この件の話をしてくれたからだと言う。
ご主人様に知らせずにクロムフェルツと話をしたというディノだが、どう考えても外出をしていた時間はなかった筈なので、先日見たような会い方をしたのだろうか。
じいっと見つめていると、伴侶な魔物はもじもじしてしまい、そっと爪先を差し出してきた。
「ぐぬぅ…………」
「クロムフェルツは、グレイシアが逃げた時から知っていたようだよ」
「……………やはりそうだったか」
考えてみれば当然なのだが、イブメリアを司る人なのだ。
おまけに、様々な場所に存在していて、祝祭の運行や祝祭の愛し子達を見守っているような御仁なので、大聖堂などは見えていて当然というところだろうか。
ディノが聞いたところによれば、送り火の魔物の脱走は当日から把握しており、送り火の魔物の脱走を隠蔽した警備兵が、祝祭の運行の日程を変えたくないが為に嘘を吐いていた事も知っていたらしい。
「まぁ。その方は、何か大事な予定でもあったのでしょうか?」
「イブメリアの日に休みを取りたかったようだ。このままいけばイブメリアに休めるところを、祝祭の運行が変わると当日に休みを取れなくなるかもしれないと考え、失踪を隠していたらしい」
「ありゃ。イブメリアの日に休みを取りたいから隠していたのかぁ…………」
「やれやれ。当番制だったのでしょうが、そんなことをしても、祝祭の魔術が動かなければすぐに露見するでしょうに………」
呆れた様子のヒルドに、ネアもこくりと頷く。
何かを隠すにしても、こればかりはさすがに無理がある。
「あーあ。そういうところが、教会組織の連中って感じだよね」
「クロムフェルツによると、過去にも三回ほどこのようなことがあったそうだ。祝祭を心待ちにしてのことなので、祝祭の運行そのものに被害が出なければ、特に気分を害したりするようなことではないそうだ」
「……………それを聞いて、安心した」
ガーウィン有する教会派閥の警備兵とは言え、問題の人物はウィームに駐在している。
問題となった警備兵はガーウィンの所属だと言っても、その事情を汲んでくれるのは人間だけだ。
もし、クロムフェルツの機嫌を損ねていた場合は、三祝祭に日付が変わるまで送り火の魔物の失踪に気付けていなかったウィーム側でも責を負わねばならないので、エーダリアはかなり緊張していたらしい。
重ねてディノから、季節の後退そのものは好ましくないものの、祝祭期間が延びるということは決して悪い事ではないというクロムフェルツの言葉を聞かされ、へなへなと椅子に座り込んでいる。
「まぁ、こっちでも漂流物対策でイブメリアの魔術を借りていたから、ひやっとするよね」
「そうなのだ。……………もし、折角二人同時に行ってくれた誕生日などが、これで無駄になってしまったらと考えてな。元々、送り火の魔物が失踪しても問題はないと聞いていたが、今回の一件でイブメリアの主人の気分を害してしまったら、何か問題が出たかもしれない…………」
「ネイ。そちらについては、本当に問題ないのでしょうか?」
「うん。グレイシアがひと月以内に見付かれば、バベルクレア近くまで進んだってこともあって、冬が明ける程の季節の後退はないからね。寧ろ、その期間内ずっと祝祭の時期ってことで、クロムフェルツが言うように祝福の蓄積は大きくなるくらいだよ」
「そうだったか………」
「ほわ。エーダリア様がくしゃくしゃになりました…………」
珍しくテーブルに突っ伏してしまったエーダリアによれば、人間の側で犯した失態であるので、もしそれでクロムフェルツの気分を害していたらという恐怖と、ウィリアムとノアの誕生日会が無駄になったのかもしれないという不安を抱き、尚且つ、もしかして今夜は取り敢えず花火を上げなければいけないのではという懸念も残っていたようだ。
三方向からの不安に押し潰されそうになっていたエーダリアは、安堵のあまり、深い深い溜め息を吐いていた。
「でも、送り火の魔物の失踪を隠していた警備兵は、こちらで引き取っておいた方がいいだろうね。ガーウィンの側に話を通してるって聞いたけど、準備は整ったかい?」
にっこり微笑んでそう言ったのは、ノアだった。
ネアはその微笑みにふと、他にも何かあるのだろうかと眉を寄せる。
「ああ。……………ダリルがガーウィンの枢機卿を通して話を纏めたそうだ。今日の昼のミサに、ガーウィンの枢機卿が三人も来ると聞いている。……………もしものことがあるといけないので、教え子は参加出来ないと聞いていたが、何があるのだろうか」
「クロムフェルツは寛容だけど、それは彼が王だからだよって話。シルが直接話をしているから、僕達やウィームは無罪放免だけど、祝祭の運行に傷を付けた当人はそうもいかないだろうね。…………贈り物をくれて、願いを叶えてくれる慈悲深い王を欺いた訳だからさ」
それを聞いたネアは、少しばかりぞくりとしてしまった。
エーダリアも同じだったようで、鳶色の瞳を揺らし、ノアの方を見ている。
「さてと。やって来る枢機卿が、知り合いかどうかだね。……………多分、連中も今回の事態を軽視はしないと思うけど」
そう呟いたノアが瞳を細めたので、ネアはとても嫌な予感がした。
「……………やっぱりです!」
そして、祝祭用の盛装ではなくてもいいが、それなりに儀式に対応出来る装いをと言われたネアが、大事な贈り物のケープを羽織って訪れた先には、案の定、ネアの天敵である片眼鏡の枢機卿がいるではないか。
見られていることに気付くとふっと唇の端を持ち上げたが、こちらを構いに来るほど暇ではないらしい。
それに気付き、ネアは少しだけ荒ぶりを収める。
ネア達がいるのは、ウィームの大聖堂だ。
儀式前の香炉を焚いていないため、煙くはないがそれでも聖域独自の不思議な香りがする。
雪が降り止み、雲を陽光が薄っすらと透かしているせいか、淡い銀色の光が窓から差し込んでいた。
祭壇の奥に見える大きな薔薇窓にも鮮やかな色が入り、祭壇の両脇に置かれている飾り木の白いリボンに美しい影を落としている。
その緑と白の清廉な佇まいの飾り木に、ネアはなぜか妙に心惹かれた。
不思議な静謐さだ。
これから、いつもの大聖堂の昼のミサが行われるのだが、本日に限り、祝祭の運行に障りを出しかねなかったことへの祝祭の系譜への贖罪を兼ねた儀式となるので、領民達の受け入れは行われていない。
とは言え、今朝になって突然バベルクレアではなくなりましたと発表がなされたので、領民達は大忙しなのだろう。
今のところ、不満の声は上がっていないと聞く。
(でも、ウィームの住人の方々も、薄々バベルクレアが延期になるだろうなと感じていたようで、大きな仕入れなどは控えていたみたいで良かったな………)
だが、バベルクレアがあるかもしれないという準備もしておかねばならなかった為に、現在のウィーム中央では、花火の観客席の解体や、屋台料理などの保存魔術がけなどが急ぎ行われているそうだ。
商店や飲食店で損失が出る場合は、ウィーム中央では補填金が出ると聞けば、やはり良い領地である。
また、保存魔術などで済ませられるものであれば、幾つかある問い合わせ口に連絡すると、無償で保存魔術が使える魔術師を派遣してくれるのだという。
これは、グレイシアの脱走が珍しくない為に以前からある運用なのだとか。
だが、そのように手を打てば、次にやってくるバベルクレアに商品を取り置けることは承知の上で、折角準備したお酒や料理があるからと、一足早いお祭り騒ぎになっている領民も少なくない。
そちらについては、橇遊びや傘祭りなどで見せる荒々しいウィーム領民の一面が、ほんの少し覗いてしまうようだ。
よって本日のウィーム中央は、バベルクレアの準備の撤収をする者達と、バベルクレアの代わりにと始まる謎の大賑わいを見せる者達という、二大勢力に分かれているのだった。
送り火の魔物の脱走も毎年の事なので、荒ぶるものはいても悲壮な気配はない。
大聖堂までの道中でそんな様子を確認し、ネアはこれならエーダリアも安心だろうと胸を撫で下ろしていた。
ゴーンと、鐘の音が鳴る。
隣に立っているディノが小さく息を吐いた。
「ナインと、ダリルの弟子が来たようだね。………もう一人の枢機卿は手配がつかなかったのかな」
「………ディノ?」
どこか憂鬱そうな声は低く美しくて、ネアがそっと見上げると困ったように淡く微笑んだ。
「ネア。…………私達は、ずっと漂流物を警戒してきたけれど、この世界層には、こちらの理とは違う規則性を持ち、より厄介なものが幾つかある。…………冬夜の行列などもそうだけれど、未だに役割や属性が明らかになっていない者達も多いと話したのを覚えているかい?」
「………ええ。そのようなものが、来てしまうのですか?………もしかして、イブメリアの系譜の方々でしょうか?」
「その可能性は否定出来ないと思っている。……………だから、罪を犯した者が同席することが不可欠だったんだ。教会側でも、このミサの重要性を理解しているのだろう。あちら側の者達が不快感を示すのであれば、…………少しでも人間を減らした方がいい」
(…………人間を)
理由を察せた訳ではないのだが、ぎくりとしてしまったネアは小さく息を呑んだ。
浪々と響き渡る詠唱は、ウィームの大聖堂を任されている司祭のものだ。
そこにエーダリアが詠唱を重ね、ただのミサというよりはやはり、儀式的な気配が強くなる。
祭壇には、ホーリートに似た赤い実を付けている枝が置かれていて、水晶の鉢いっぱいに赤い林檎が盛られていた。
深い青色のリボンで束ねた真っ白な雪薔薇と、どうしてこんなところに置かれているのだろうという違和感を抱かせない、イブメリアを思わせる白いクリームと赤い苺のケーキ。
なぜ、ノアが騎士服を着てエーダリアの隣に立っているのか。
なぜ、ガーウィンから招かれた枢機卿の中に、リシャードとリーベルがいて、ヒルドとダリルが硬い表情でエーダリアの背後に控えているのか。
その答えは、詠唱が終わったところでばさりと揺れた、ふくよかな緑のカーテンが教えてくれた。
「……っ」
タッセル飾りのある天鵞絨の布は、歌劇場の天幕を思わせた。
それが突然、祭壇の頭上にまるで生き物のように大きく翻り、その布の中から何かが現れたのだ。
すかさずディノの腕の中に抱き込まれ、ネアは目を丸くする。
頭上にうねる天幕の中に現れたのは一人が背の高い男性、もう一つの影が、獣の頭を持つ騎士服の生き物のように見えた。
男性の表情はこちらからは逆光になっていて見えないが、僅かに褐色がかった肌に白銀色の髪をしている。
ふわりと広がる黒い上着は異国風だが聖衣のようにも見え、精緻な金糸の刺繍がなんとも艶やかだ。
上着の下の白いシャツがはっとする程に鮮やかに見え、ネアはまた息を呑む。
(………あ)
その男性が、僅かにこちらを見たような気がした。
けれどもディノがしっかりと抱き寄せてくれたので、その視線からは逃れることが出来た。
(まるで、聖人画のようだわ)
現れた者達の背後からしゃわんと光の筋が広がるのを見て、ネアは、教会の聖人画に見る光輪のようだと思った。
けれどもそんな悠長な事を考えていられたのは、その光の筋が、鋭い矢のようになって降り注ぐまでだ。
突然のことに驚いて息を詰めたネアの視界の先で、降り注いだ光の矢はなぜか、一部の者達の周囲でだけ細やかな光の粒になって消えてしまう。
どこかでぎゃっと悲鳴が上がったのでぞっとしたが、祭壇の前に立っているエーダリア達も無事のようだ。
悲鳴の位置的に、実際に矢を受けたのはこの場に連れて来られていた警備兵だろうかと考えていると、ガーウィンから来た枢機卿の一人も、片腕を押さえて顔を顰めているのが見えた。
(でも、リシャード枢機卿と、リーベルさんも無事のようだわ……!)
ディノは何も言わず、祭壇の上で硬い表情をしていたエーダリアは、隣に立っている騎士姿のノアに何かを耳打ちされ、現れた者達に向かって深々と頭を下げる。
一緒に祭壇に上がっていた司祭も、慌ててそれに倣った。
枢機卿たちも次々と頭を下げてゆくので、ネアも慌てて真似しようと思ったのだが、耳元でディノにしなくていいよと言われてむぐっと踏み留まる。
「君は私の伴侶で、クロムフェルツの愛し子だからね。………ノアベルトも、あちらの者達には正体を隠していないから、頭を下げはしない」
「は、はい……………」
よく見れば、儀式に参加していた者達の中でも、何人かはそのまま立っていた。
前に立っていた教会関係者がお辞儀をしたことで奥まで見えるようになったのだが、どうやらガーウィンからのお客の他にも、ウィームから参加している者達が奥に何人かいたようだ。
頭を下げていない者達は、どうすればいいのか分からないというのではなく、頭を下げずにいていいのだと理解しているように見える。
大丈夫かなともう一度頭上に視線を戻したネアは、そこにはもう誰もいないことに気付いてどきりとした。
その時だった。
「……………成る程。これはまたイブメリアの愛し子に相応しい、まっさらな好意だ」
そんな声が聞こえ、ネアは竦み上がってしまう。
ディノの腕の中にいるお陰で角度的に見えないものの、背中の側に誰かが立っているようだ。
この状況下で話しかけてくるとなると、どう考えても儀式の参加者ではない筈だ。
「危ない真似をする。君達が欲しているのは、祝祭の運行を妨げかねなかったものだろう」
「ええ。勿論です。咎人はこちらで回収すると言ったところ、王からも、くれぐれも自分の愛し子や、ウィームの者達を傷付けないようにと言われております。………ですので、これは俺からの謝罪として」
「……………成る程。…………クロムフェルツがこの無作法を許したのは、君からの謝罪をこちらに切り出す為かな」
「俺達の気質を知っておられるでしょうから、そうかもしれませんね。………この子供がウィームに来た時、真っ先に城に招いた程に気に入っておられるようですから。………あなたが娶った人間は、実によく理解している。イブメリアは、心を弾ませて楽しむものです。賛美だけではなく安堵や愛情を抱き、愛する者達の幸福と自身の幸福を祈るのが本来の在り方。…………そして、無垢な憧れでその明かりを欲する者にこそ、最良の贈り物を齎すもの」
ディノと話している男性の声は、穏やかな雪曇りの空のようだった。
敵意や悪意を向けてはいないようだし、ディノにも敬意を払ってくれているのでと安堵していたネアは、思いがけずこちらにも好意的だぞと目を瞬く。
「長い長い月日の願いと憧れが、小さな子供の切実さで蓄えられている。そんな子供が祝祭を愛するのに、我々がその子供を愛さぬ筈もないでしょう。…………王の愛し子よ、イブメリアは願いを叶え、安らぎを齎すもの。もし何かがあれば、一度だけお前を助けよう」
「……………え」
思いがけない申し出に慌ててディノの腕の中から顔を出すと、白銀の髪の男性はもう立ち去ってゆくところだった。
その背中を見て呆然としていると、ふっと体を寄せたディノがふうっと息を吐く。
「イブメリアの系譜の者達は、贈り物を好むんだ。…………クロムフェルツは、自分の愛し子である君への無作法を詫びる為に、あの者が今のような謝罪を切り出すと分かっていて、今回の顕現を止めなかったのだろう」
「……………そうなのですね。…………っ、エーダリア様達は…………」
もう一人、ふさふさとした毛並みの狼のような姿の生き物がいた筈だと慌てて視線を巡らせたネアは、ここで、思いがけないものを見てしまった。
白緑に深い赤色の装飾が美しい騎士服の狼のような生き物が、エーダリアに何かを差し出している。
エーダリアのことはしっかりと腕を回したノアが守っているようだが、目を丸くしているのであちらも驚いているようだ。
「狼さんでしょうか………。頭の部分だけ狼さんで、凛々しい騎士さん風の素敵な雰囲気です………!」
「浮気………」
「は!尻尾もありました…………ふさふさですね」
「ご主人様……………」
荒ぶったディノにいっそうにぎゅっと抱き締められてしまったが、残念ながらそちらの生き物は、ネアには何の興味もないようだった。
エーダリアに差し出している本のようなものは、贈り物かと思えばそうではないらしい。
おずおずとエーダリアが一度受け取り、なぜか、もう一度狼頭の騎士に戻している。
すると見事な尻尾がぶんぶん振られたので、騎士服の狼はとても喜んでいるようだ。
そして、代わりに何か青みがかった白灰色の箱のものを取り出すと、エーダリアに渡していた。
今度こそ贈り物だろうかと凝視していると、何やら見覚えのある箱に思え、ネアは首を傾げる。
片手を胸に当て、狼頭の騎士がエーダリアに深々とお辞儀をすると、先程の白銀の髪の男性が、どこからともなく現れた際に見えた白緑色の大きな布を虚空から引き摺り出すではないか。
そして、まるでカーテンを引くようにその中に姿を消してしまった。
その男性がカーテンの陰に入った際に死角になっていた狼頭の騎士も、一緒に立ち去ったのだろう。
ばさりと音がしてその布が揺れ、景色に溶け込むように消えてしまうと、いつの間にかそちらもいなくなっていた。
「……………終わったのでしょうか」
「うん。あの警備兵を連れて行ったようだ」
「グレイシアさんの脱走を隠していた方は、連れていかれてしまったのですね」
何となくだが、その兵士はもう戻って来ないような気がした。
ぶるりと身震いしてしまい、ディノがひょいと片腕で持ち上げてくれる。
「怖かったかい?」
「…………何が起こっているのかが分からないところが、少し怖かったです。ですが、…………こちらや、エーダリア様には好意的なようでしたね」
「……………エーダリアに対しては、何でなのかな」
現れたのは、やはりイブメリアの系譜の者達だという。
記録や情報が少ないので多くは知られていないようだが、ディノと話していたのはクロムフェルツの直属の騎士のような立場の階位の高い者なのだとか。
「エーダリア様と話していた方も、騎士服でしたね」
「あの服は飾り木を守る騎士だろう。イブメリアの領域には、幾つか象徴的な飾り木があって、それを守る騎士がいるそうだ」
「狼さん…………!」
「あんな騎士なんて…………」
負傷をした枢機卿と、何人かのガーウィン側の騎士や聖職者達は大聖堂の控室に移り、傷の手当てをする事になった。
幸いにも、枢機卿もあまり重症ではないそうで、治療が可能な程度の傷だったという。
「だとしても、あんまり負傷者を出す訳にもいかないからね。ガーウィン側に入り込んでいる人外者達も、イブメリアの系譜の者達が咎人を回収に来ると考えて、その際に削られ難い人選をしたってところかな」
リーエンベルクに戻ってからそう教えてくれたのは、きっちり着込んでいた騎士服からいつもの装いに戻ったノアだ。
「それで、……………リシャード枢機卿や、リーベルさんだったのですね」
「ナインは、枢機卿として来ているから頭は下げたけど、本来は死の精霊だしね。もう一人は、身内にリーエンベルクの騎士がいる。イブメリアの統括地でもあるウィームに身内がいるってことは、結構手堅いんじゃないかな。…………おまけに、あっちの騎士にも、エーダリアの会の会員がいたし」
「……………ちょっとよく聞こえなかったので、もう一度言ってくれますか?」
「エーダリアの会の会員だったみたいだよ。…………バンルに聞いたら、いつもは擬態しているようだけど、疑わしい会員が何人かいるってさ」
「エーダリア様の、会のかいいん……………」
大聖堂に現れた者達のように、祝祭の主人と行動を共にして世界の表層にはあまり現れない祝祭の系譜の者達は、ディノにさえよく分からない存在なのだ。
その中の一人が、どこをどうやったら、ウィーム領主の支持者会に入っているのだろう。
おまけに、ネアが見た本の受け渡しは、自分の持っている最新の会報に触れて欲しいというお願いだったようだ。
巧妙に学術書にしか見えない装丁なのでエーダリアは気付かなかったようだが、それでも、いきなりこの本を一度持ってみて下さいとお願いされたら、さぞかし困惑するだろう。
あのダリルでさえ、とんでもない会員がいたねと呆然としていたと聞けば、どれだけ驚くべきことなのかが理解出来るだろうか。
「その会報は………」
「持って帰って、飾るんだって。……僕の契約者に何をさせるつもりかと思ったけど、エーダリアが触れるだけでいいって言われて、ちょっと困ったよね」
「………場合によっては、その程度で済む方の方が症状が重いのですよ…………」
「わーお。そんな気がしてきたぞ…………。僕の妹は、さすが、立派な会を持っているだけあるなぁ」
「かいなどありません…………」
会食堂に差し込む午後の光に、テーブルの上に置かれた青みがかった白灰色の箱を飾る金色の箔押しの模様が淡く煌めく。
こちらの小箱は、ネアも買ったことのあるシャーリック妖精蝋燭工房とウィーム商工会の共同商品である、イブメリアの香りの蝋燭だ。
外箱のウィーム紋章に似た紋章は、ギルドの共同開発品のみにつけられるものなのだとか。
「そして、なぜこれをエーダリア様にくれたのでしょう?」
「…………私が買い損ねていたのを、知っていたようだ。イブメリアの城にあったものを買い取ってきてくれたらしい」
「ほわ………。ほ、本物のひとです!」
「ネア?」
「わーお。本格的な会員だなぁ………」
「考えようによっては、そちらにもいるのは良いことかもしれませんがね」
「な、何の話をしているのだ………?」
(この蝋燭なら、私の部屋にまだ一箱残っていたのにな………)
バンルが代表となっているギルドの商品でもあるので意外だったのだが、エーダリアは、開発段階のサンプルの確認をした際に欲しいと言えないまま、店頭品が完売してしまい手に入れ損ねていたのだとか。
「お前が、マリミレーの絵画の中のイブメリアの城の香りだと話していたので、より欲しくなったのだが間に合わなくてな………」
「まぁ。私に言ってくれれば、買い溜めの二個目のものを譲ったのですよ?」
「あの頃はまだ、言えなかったのだろう………」
くすりと微笑み、エーダリアは小箱を撫でている。
とても嬉しそうな様子に、ノアやヒルドは、会員からの手渡し品だがまぁいいかと思ったようだ。
イブメリアの飾り木を守る騎士からのものなので、きっと素敵な祝福付きかもしれない。
ネアとしては、クロムフェルツの系譜の者達が、ウィームの街でお買い物をしていたのかなという事の方が驚きであった。
バベルクレアではなくなったし、バベルクレアの花火は打ち上がらなかったが、リーエンベルクでは、エーダリアが箱に入った香り付きの蝋燭に火を灯していた。
そんな話をどこからか聞いてきたギルドとシャーリック妖精蝋燭工房では、大事なウィーム領主の為に、数年前に完売したイブメリアの香りの蝋燭を来年に向けて復刻するそうだ。
ネアは、ウィーム領民に大人気な家族のお陰で、予備を増やしておけることになりそうだぞと、にんまりとする。
この祝祭の季節のどこかで、あの狼頭の騎士も蝋燭に火を点けているのかもしれない。
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本日のお話は、TOブックスさんから発売になった、薬の魔物のアロマキャンドルと、付属の小冊子のエピソードが少しだけ登場しています!




