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お城の家と誕生日のケーキ 3



選択の魔物がご執心だったオークルのテーブルの上からは、食べ終えてしまった料理の皿が片付けられた。

まだ少しのローストビーフと蛸揚げ、ハムやチーズなどは残っており、ネアはローストビーフをたっぷり持たせてくれたリーエンベルクの料理人に心より感謝する。

しっかりしたグレービーソース系のソースを卒業し、ケーキをいただいた後にそれでも少しつまむのであれば、酸味のある熟成葡萄酢のソースだ。



はらりと、窓の向こうの雪影がテーブルの上の白磁の花瓶に落ち、清廉な水色の薔薇が揺れた。

雪の中にある静謐な湖を思わせる色に、ほろりと心の端が柔らかくなる。



だからだろうか。


小さな頃に、雪の日に、屋敷の音楽室でピアノを弾いていた誰かの後ろ姿を思い出した。

部屋の中は僅かに肌寒く、無心にピアノを弾いている誰かを扉の影から見ている。

それが、母の養父だったのか或いは父だったのか、それすらももう思い出せない。

覚えているのは、白いシャツに黒いサスペンダーだけで、男性だったことをぼんやりと。



ああ、これが郷愁や感傷の揃えなのだなと思えば、テーブルの向こうでエーダリアが鳶色の瞳を細めて淡く微笑んだ。


「……………不思議だな。王都で過ごした、雪の慰霊祭の日を思い出してしまった」


エーダリアが思い出すのはその日なのだなと思い、ネアは、はらはらと落ちる雪影をそっと指先でなぞる。


「今日の祝いの席で組んでいる術式はさ、幾つか、相似性を重ねられるように郷愁や感傷の揃えもあるんだよ。僕がさっき開けた、巨人の酒なんかはそうだね。……………あ、僕の妹は絶対に飲まないように」

「むぅ。あれを飲んだらお祝いがどうにかなりそうですので、飲みません…………」

「今日はグローヴァーじゃなくて、ノーレライムだけどね」

「それは、どんなお酒なのですか?」

「雪の日の朝っていう酒なんだ。同じく郷愁の庭で作られていて、この酒を飲むと雪が降るらしい。…………ほら、こんな風にね。さっきより、雪が強く」

「真夏に飲むとどうなるのでしょう……………」

「それが不思議と、夏場には飲みたくならないらしいよ。僕も何本か持っているけど、夏はね、何だか違うなぁって思っちゃうんだよね」



それでも夏にノーレライムを飲んでしまった者は、ふいと姿を消してしまうのだそうだ。

その理由は知られていないが、ずっと行方不明になっている訳でもなく、何年かするとひょっこり戻ってきたりもするらしい。


そんな話を聞いていると、何となくだが、その季節にないものを願ってしまったことで、ここではないどこかに迷い込んでいたのではないかとさえ思う。



「不思議な気持ちですね。…………どこか寂しいような、温かいような。でも、こうして大事な人達がここにいるので、何とも言えない安心感もあるのです。お酒を飲んでいない私ですらこうなのですから、きっとディノ達はもっと心が動いているのではありませんか?」

「……………そうだね。あまり、一人でいる時に飲みたい酒ではないかな。でも、……………今日は不思議といい気分だよ」

「僕はやっぱり、ネアと出会ったあのラベンダー畑を思い出すんだなぁ。ヒルドは?」

「……………私は、王宮でのことでしょうか。エーダリア様が、真夜中に部屋を抜け出して王宮の中庭に落ちる星を窓から見ていた夜のことなども思い出しますね」

「…………っ!……見ていたのか?!」

「ええ。星祭りの日でしたから」



はらりはらりと降る雪に、小さな思い出の欠片が宿るよう。


ネアは、もう一人の主賓はどんなことを思い出すのかなと思ってウィリアムの方を見たところ、顔を上げたウィリアムとばっちり目が合ってしまった。



(……………わ)


それは、どきりとするような透明な瞳だった。


絶望や慟哭だけではない何かもっと静かなものが湛えられていて、けれどもとても穏やかなのだ。

ふっと花びらがほころぶように深く微笑んだ終焉の魔物は、例えようもなく繊細で美しかった。


そして、どこか危うい色には、見てはいけないものを覗いてしまったような密やかさがあった。



(きっと、聞かない方がいいこともあるのだろう)



感傷の奥に覗く在りし日は、必ずしも幸福なばかりではない筈だ。

ウィリアムも、多分、ディノも。

でも、それはもう過去だからと微笑んでくれる。


だからネアは、大事な魔物にどしんと体を寄せて寄りかかってしまい、ウィリアムにはにっこり微笑みかけておく。

僅かに瞳を揺らしたウィリアムが、つられたようにいつもの微笑みに戻った。



「さてと、そろそろアルテアに林檎のクレープ作って貰う?」

「おい………」

「いえ、その前に贈り物を渡してしまいましょう!ノアはきっと、最後まで泣ききってから美味しいパラチンケンを食べた方がいいと思いますから」

「わーお。僕は泣く前提になっているぞ………」

「では、まずはウィリアムからかな」

「ええ。まずはこちらなのです!」

「……………まさか」



はっとしたのは、ウィリアムよりもアルテアが早かったようだ。


ネアがばばんと取り出したのは、一見、これは何だろうという小さな小冊子であった。

くすんだ灰色の革の装丁で、黒いピアノの絵が描かれている。


そのページを開くと、中には見開きの頁が一枚ある限り。

そしてそこには、とあるピアノを終焉の魔物に寄贈するというウィームからの正式な文章があった。



「……………それは、……………一族で受け継がれるものだろう」


ややあって、ウィリアムがそんなことを言う。

低い声は僅かに動揺を残していて、白金の瞳を丸くしている姿はいっそ無防備な程だ。



「ああ。本来はそうなのだろう。……………だが、私はあまりピアノを弾く事はないし、ネアも、このピアノを弾くには……………少々可動域が足りなくてな」

「じょうひんなだけなのですよ………」

「ご主人様…………」

「とは言え、リーエンベルクの外に出して著名な音楽家に預けるのも、何かが違うと思っていてな。………ウィリアムであればもう、…………何と言うか、同じ屋根の下に暮らせる相手であるし、一族に引き継ぐようなものだろう」

「…………っ」



またしても自覚なく一人の魔物の心をぎゅっと掴んでしまいながら、エーダリアは、どこか照れたような困り顔で微笑む。


ウィリアムは言葉を失っていて、そんな終焉の魔物をにやにやと見つめているのはノアだ。

アルテアは額に手を当てて項垂れているので、こちらのピアノにもご執心だったのだろうか。



「ネアが、あの部屋やリーエンベルクを、疲れた時にだけ泊まりに来る部屋にはしたくないと言っていてな。親しい者や、…………その身内の別宅であれば、食べて眠る以外の事を楽しむ部屋もあるべきだと話しているので、では、このピアノはどうだろうと提案させて貰った」

「…………私は最初、狩り場や砂風呂を作り付けようとしたのですが、エーダリア様が無理だと思うと仰っていたので、では音楽はどうだろうと思いました」

「そう、……………なんだな。それで、…………ウィームの鍵盤を、俺に?」

「そのような名前の、ウィーム王家にだけ引き継がれる素敵なピアノなのですよね。こちらのピアノは男性用で、統一戦争の時に守り切れずに流出してしまった女性用のピアノは、なんとグラフィーツさんのお宅にあるのだとか。対になるピアノなのですよ」

「それは、聞かなくても良かったような気がするな…………」

「なぬ」


グラフィーツと揃いのピアノであることはあまり嬉しくないようだったが、ウィリアムは、差し出されたピアノの権利書を手に取って、暫くじっと眺めていた。


「………まるで、家族になったみたいだな」

「ふふ。もはやそこでもいいかなと思ってしまいますね。ただし、私の騎士さんであることも譲れません!」

「はは。確かにそうだ」



小さく笑い、ウィリアムは大事そうにピアノの権利書を撫でる。


ディアニムスでの演奏会などもあったので、この魔物が音楽に造詣が深い事は言うまでもない。

けれども、きっとそれだけではなく、ウィリアムにとっての音楽は、何かの発露でもあるのだろう。


その為に必要な鍵盤を得て、リーエンベルクでももっと自由に過ごして欲しいと思って用意したのが、今回のネア達からの贈り物であった。



「まずは、再調律をネア様とディノ様が。ピアノ本体の手入れと、魔術の再調整を、我々が行っております」

「まさかとは思うが、ネアも調律に関わったのか?」

「いえ。ディノが、アレッシオさんの伝手から調律妖精の王様に頼んでくれました」

「そうか。……………良かった」

「むむ?」


なぜかウィリアムが酷く安堵しているので、ネアはぎりりと眉を寄せる。

さすがにネアも、楽器の調律は専門的な知識がある者に任せるべきであることくらいは知っているのだ。


ましてや、もう随分と長く使われていなかったピアノでもあるので、修理が必要な箇所などにも気付いてくれるような専門家を選んで貰った。



「……………大事にしないとだな。これを、……………俺に預けられるということを含めて」

「自由に弾いて貰いつつも、時々、私がこっそり聴きにいきますね!」

「ああ。いつでも聴きに来てくれ。……………と言いたいところだが、部屋の遮蔽などは大丈夫だろうか」

「元々ピアノを置いていた部屋が、かなりの魔術遮蔽だったようだ。私とノアベルトで調べたけれど、君がピアノを弾いても問題ない設備だろう」

「であれば、安心して弾かせていただきましょう」

「…………そこは、グレアムが使っていた部屋だな」

「まぁ。グレアムがさんが使っていたお部屋なのですか?」


アルテアによると、そんな万全の魔術防音と遮蔽を誇るピアノ部屋は、以前、ウィーム王家に仕える魔術師をしていた頃の犠牲の魔物が作った部屋であるらしい。


本人にはあまり自覚はないが、グレアムは少し独特な歌声ということもあり、魔術遮蔽を徹底している内にかなり頑丈なものが出来上がってしまったようだ。



「そう言えば、グレアムは歌うのも好きだったな…………」

「うん。案外、そういう異能持ちの方が、歌うのが好きだったりするよね…………」

「ぐるる…………」

「良かったな。お前にも歌える部屋があったようだぞ」

「ぐるる!!」



(……………勿論、ディアニムスにあるお屋敷での演奏も、続けていて欲しいし、ウィリアムさんが戦場で弾くというバイオリンは、他の演奏とは比較にならない特別なものなのだろう)


だからこれは、あくまでも別宅に滞在している間に楽しんで貰いたい趣味の時間用のピアノなのだ。


ウィームの鍵盤と呼ばれるピアノは特別なものだが、楽器としての階位は、他にもっと高いものもある。

このピアノは、ウィーム王家にしか引き継がれない特別な楽器だからこその付加価値の方が、高いと言われていた。



「……………親しい者に引き継がれる楽器だからこそ、君にと思ったようだ」

「……………ええ。…………そのようなものを手にしたのは、初めてです。前回の贈り物を受け取った時に、これ以上に素晴らしいものはないだろうと思いましたが、…………今年の贈り物も素晴らしいですね」

「うん。君が喜んでくれると、ネア達も喜ぶのだろう。……………私も、良かったと思う」



ディノにそう言われたウィリアムは、暫く無言になってしまった。

どこか無垢な眼差しで権利書を見つめ、安堵にも似た不思議に穏やかな微笑みを浮かべている。



(さっきの微笑みも言葉にならないくらいに美しかったけれど…………)



でも、この微笑みの方がずっといいのだと、ネアは誇らしさでいっぱいになった。

そして、ウィリアムが落ち着くまでの間にアルテアにこのピアノへの思いを訊ねてみると、何と、選択の魔物がピアノの制作そのものに関わっている事が判明する。



「ほわ。それは、想定外でした…………」

「おや。ピアノを作らせたのは、アルテアだったのだね」

「賭けに勝てば俺のものになる筈だったが、あの代のウィーム王はしたたかだったからな。……………まぁ、悪くない賭けだったが」

「むむ。ピアノを取られたアルテアさんにそう言わせるくらいの方です。きっと、秘められた恋物語などが隠れていたり……」

「ほお。俺は今、王だと言わなかったか?」

「…………ぎゅむ。ディノ越しに頬っぺたを摘まむのはやめるのだ」

「アルテアなんて……」



ウィームの鍵盤と呼ばれるピアノは、ウィーム王家からとある魔術書を回収しようとしていたアルテアの手で発注され、当時の最高峰の職人達の手で作られた物であったらしい。

アルテアは、このピアノを餌にして、勝った方が相手の持ち物を交換するという賭けをウィーム王としたのだそうだ。


結果として選択の魔物からこのピアノを巻き上げた事も凄いし、まんまとしてやられたアルテアが相手を称賛するのも珍しいので、その時のウィーム王は、なかなか魅力的な人物だったのではないだろうか。


アレクシスやジッタがウィーム旧王家の血を引いていると聞いていたネアは、あんな感じかなと、名前も分からないウィーム王を想像しておいた。



なお、グラフィーツが持っているピアノとは正式に対とはなっておらず、こちらが男性用あちらが女性用という程度の揃えなのだという。

ウィリアムは、それを聞いてほっとしたようだ。



「さすがにこちらに持ち込むのは現実的ではなかったので、今日はその書類だけを渡させて貰った。部屋の承認魔術はノアベルトが書き換え済なので、自由に使って欲しい」

「ああ。このまま何の仕事も入らなければ、明日にでも触れさせてくれ。………ネアも来るか?」

「は、はい!」

「程々にしておけよ。こいつの演奏は、…………無節操だからな」

「うーん。アルテアには言われたくないですけれどね…………。おっと。……エーダリアも来るか?」

「いいのだろうか…………」

「勿論だ。試し弾きの段階だと、あまりこれぞという演奏は聴かせられないかもしれないが、部屋の遮蔽の質的に、恐らくエーダリアが聴いてもあまり負担のないように調整してくれるだろう」

「僕の契約者に何もないよう、見張りに行くからね」

「ノアベルトも来るのか…………」



ノアはぴりぴりしていたが、このあたり、ディノは少しばかり鷹揚である。


ネアの過去の履歴なども踏まえ、音楽鑑賞はご主人様の大事な趣味であることを承知しているのだ。

ただし、歌って貰うことなどにはちょっぴり荒ぶるので、ディノなりに線引きがあるらしい。

とは言え、ディアニムスでの演奏会の時には少しそわそわしていた事を思えば、あの段階を踏んで、ウィリアムならいいだろうと考えたようだ。



(おや…………)



ここでネアは、エーダリアが酷く思い詰めた表情でいることに気付いた。

どうしたのだろうと考え、すぐにはっとする。

ディノも緊張した面持ちなので、皆が懸念することは同じなのだろう。



「次は、ノアベルトへの贈り物だな。……………ネア」

「はい。ノアはまず、ハンカチを用意して下さいね」

「ありゃ…………」

「そして、こちらの贈り物はちょっと画期的なものなのですが、ただしその、……アルテアさんには少し刺激が強いかもしれません……」

「……………は?」



怪訝そうな顔になったアルテアを見て、気まずそうにこほりと咳をしたのはエーダリアだった。


そして、おもむろに取り出したのは魔術併設用の小さな扉である。

美しい細工のある、少し大きめの図鑑くらいの大きさのものだ。

色は綺麗な白みのラベンダー色で、上から仕上げ材として雪結晶を使ったニスを塗りこんである。

僅かに掠れたようなマットな風合いが美しく、美術品としても価値が出そうな一品だった。



「……………そのだな。………銀狐用なのだ」

「………わーお。何となくどんな感じか分かったぞ……」

「……………は?」

「ノアベルトは、…………銀狐は、冬場でも、誰かの部屋を訪ねようとしたまま廊下などで眠ってしまう事が多くてだな。朝に見付けて抱き上げると、随分体が冷えている事もある。…………丸まって眠ってくれればいいのだが、…………お前はその、……………仰向けに寝るだろう」

「ええ。我々はこれ迄にも数々の対策をしてきましたが、そうなってからの保護では遅いと言う結論に達しました」

「ありゃ……………」



そんな深刻な事情あってのこの贈り物なのだが、エーダリアが丁寧な説明を始めてしまうと、ネアは、慌ててディノの隣に座っているアルテアの表情を確認しなければならなかった。

ディノがこくりと頷き、いつの間にか手に持っていたカタログをそっと選択の魔物の膝の上に置いている。



「なのでこれは、お前がどこかへ向かう途中に廊下で眠たくなってしまってしまわないように、特別な魔術通路を作り付けた扉なのだ」

「……………もしかして、リーエンベルク内で?…………あそこ、結構転移系の魔術の繋ぎって、厳しいよね。僕ですら上手く使えない事があるんだけど」

「バンルが、以前に王宮で暮らしていた者を知っていたらしく、小さな使い魔などの為の通路であれば、家事妖精の使う作業用の転移箱と同じ仕組みで増設する事が出来ると教えてくれまして。ご存知でしょうが、今も小さなものでしたらありますからね」

「この扉、……………どこに繋げてくれたんだい?」

「私達のお部屋と、エーダリア様のお部屋、そしてヒルドさんのお部屋です!家族用の突撃通路ですからね」

「………いいの?」



既にもうあまり喋れなくなってきているノアに、エーダリアが微笑んで頷く。

呆れたような微笑み方であったが、ヒルドの眼差しも優しいものだった。


「今更でしょう。あなたは、どちらにせよ真夜中に訪ねてきますし、そうなった場合の殆どは、私かエーダリア様の寝台で眠ってしまうでしょう」

「うん………」

「ディノ、アルテアさんの背中をさすってあげて下さい」

「うん。…………大丈夫かい?」



ノアが喜びにくしゃくしゃになる一方で、どうしてこの贈り物を選ぶに至ったのかの背景を聞いているだけの選択の魔物も違う意味でくしゃくしゃになるのが凄まじい。


アルテアは、ディノにそっと背中をさすられるとさすが我に返っていたが、この様子だとまた慰安旅行が必要になってしまうかもしれない。


「人型のノアだとやはりノックは必要ですが、狐さんであれば、夜中に急に寂しくなったり、ジュースの中に顔を突っ込んでびしゃびしゃになったり、顔からトマトソースに挑んでしまいべたべたになったりしても、いつだって助けを求めに来られますからね」

「…………うん。凄い家族っぽいね」

「うむ。家族だからこそ、この運用なのですよ。大事なノアが、廊下で寝ていて健康を損なったら大変ですから!」

「……………こうして聞いているだけでも、物凄い理由だな。……………アルテア、大丈夫ですか?」

「……………そろそろ、パラチンケンを作るか。林檎は来るときに通った厨房の部屋か?」

「ええ。一緒に行きましょうか?」



ウィリアムは銀狐問題の影響を案じたのだろうが、立ち上がった第三席の魔物は冷ややかな目をしたので、苦笑して首を横に振っている。


こんな時、当たり前のように屋敷の中を自由に歩かせてしまえる関係もまた、何だか素敵なものであった。



「……………アルテアさんは、大丈夫でしょうか?」

「様子を見てくるかい?」

「むぅ。ちょっと行ってきますね!」


ネアはここで、立ち上がって厨房に向かった使い魔を追いかけてみることにした。


なぜかウィリアムが一緒に立ち上がったのでおやっと思っていると、特に魔術的な仕掛けのない屋敷ではあるが、感傷の魔術などの影響があるといけないのでと一緒に行ってくれるらしい。



「まぁ。いいのですか?ウィリアムさんは今日の主賓なのですが……」

「少し酔い醒ましにもなるしな。…………思いのほかはしゃいでるみたいだ。少し飲み過ぎたかもしれない」

「ふふ。お誕生日の日なのですから、それでいいのではないでしょうか」

「そう言ってくれる相手が出来た事が、一番嬉しいのかもな」



そう笑ったウィリアムが手を差し出してくれたので、ネアは、ディノにきりりと頷きかけてから部屋を出た。



しんしんと、窓の向こうでは雪が降り続けている。

廊下には雪影が落ち、柔らかな印象の壁紙がこの静謐さにやはり良く似合う。

先程よりも林檎の香りが強いのは、アルテアがデザート作りに入ったからだろうか。



「……………ずっと昔に、こんな屋敷に住んでいた人間と、………知り合いだったことがある」



ふいに、ウィリアムがそんな話を始め、ネアは、おやっと思ったものの微笑んで頷いた。


繋いだ手はじんわりと染み込む温もりが魔物らしいもので、こうしていても落ち着かなくなることはない。

それくらいにもう、一緒にいることに慣れたのだろう。



「きっと、大切な方だったのではないでしょうか?」

「ああ。……………そうだったんだろう。どこかで線を引けてしまったのも確かだが、そうなる迄は大切な人だった。共に生きるつもりはなかったが、共に過ごしている時間が特別だったのは間違いない。…………最後は憎まれていたけどな」

「今でも、その方を思い出したりしてしまいます?」

「……………いや。久し振りに思い出したんだ。この屋敷への憧れは、あの思い出を取り戻そうとしたのではないにせよ、…………あの時に失ったようなものこそを理想として欲したのかもしれないと思ってな。………だから、今日はここで誕生日会が出来て良かった。これからは、今日のことの方を思い出すだろうからな」

「私も、このお屋敷でお祝いが出来てしまって、また一つ素敵なものを知ってしまいました」



その言葉に頷き、ウィリアムはほんの少しだけほっとしたように笑ってから、淡い白灰色の扉に手をかける。


扉を開けると、林檎とバターの香りだけでなく、じゅわっという調理の音が聞こえてきて、ネアは小さく弾んだ。

袖を綺麗に折り上げて、調理をしていたアルテアがこちらを振り返る。


「……………まだだぞ」

「アルテアさんがしょんぼりしていないか、様子を見に来たのですからね?」

「いらん。…………お前はお前で、欠片も取り分を逃さないな」

「いやだな。これでも、俺もアルテアを心配して一緒に来たんですよ?」



先程までの憂いはさらりと流し、にっこりと微笑んだウィリアムに、アルテアは顔を顰めている。

ネアは、その隙に、じゅわっとバターと香りづけのお酒と共に煮詰められている林檎を覗き込んだ。



浅いフライパンのようなものに、綺麗な櫛形に切った林檎が円形に並べられている。

既に火が入ってくったりしており、ネアは期待と興奮のあまりに小さく足踏みしてしまう。


クレープ生地も同じように火にかけて、バターとお砂糖、そして林檎にも使っているお酒で風味付けをし、最後に煮込んだ林檎を添えれば完成のようだ。



「じゅるり…………」

「………この林檎が、また食べられるようになるとは思わなかったな」

「一度、途絶えてしまったものなのですか?」

「ああ。その土地に住んでいた人間達がいなくなってしまったんだ。後から妖精達が入植したんだが、まさかこんなに早く林檎の収穫が始まるとは思ってもいなかった。五年くらいしたら、見に行ってみようとは思っていたんだが…………」

「グレアムさんは、早くウィリアムさんに安心して欲しくて、この林檎を届けてくれたのかもしれませんね」

「そうだな。……………アルテア、本当に大丈夫ですか?」


ここで、何かを思い出しかけたのか、ふーっと深い息を吐いているアルテアに、ウィリアムはさすがに心配になったらしい。

だが、心配されてしまった魔物は、隣に立ってしまったウィリアムに顔を顰めた。



「お前は向こうに戻っていろよ…………」

「ん?何で俺だけ帰そうとしているんですか」

「アルテアさん、その、……………ノアは、有りのままの自分でいられるようになったので、すっかりはしゃいでいるのだと思います」

「なんのことだ…………」


暗い目でそう呟いたアルテアに、ネアはウィリアムと顔を見合わせた。

なかったことにしてしまうのも考えものだが、こうして心を守っているのかもしれないと思えば、暫くは本人のやり方でもいいのかもしれない。



「……………アルテア、出来上がったものを運ぶのを手伝いますよ」

「わ、私もお手伝いします!」

「お前はやめておけ。転びかねないだろうが」

「なぜ、物凄く転ぶ設定がなされてるのだ………」



付与魔術を警戒し、今回の誕生日会のカードバトルなどはなしとなる。

ネア達は、美味しい林檎のパラチンケンをはふはふといただき、穏やかな雪の日をウィリアムの屋敷で過ごした。


久し振りにじっくりと皆で語らったせいか、若干お酒が進んだのも事実だろう。

ちょっと言わなければ良かったなと本人が後悔しかねない思い出話なども飛び出したが、それは本人の名誉の為にも秘密としておこう。



こうして、特別な事は何もないけれど特別なお誕生日の日が、ゆっくりと過ぎていった。




なお、リーエンベルクに戻ってからウィリアムは、さっそくウィームの鍵盤でピアノを弾いてくれた。


感傷の魔術に触れた余波なのか、胸を打つような素晴らしい演奏をたっぷりと聞き、ネアは贅沢な気持ちで寝台に入れたので、何とも素晴らしい贈り物だと思う。


銀狐は、早速贈り物を使ってみたようで、真夜中に突然部屋の中にムギャワーと飛び込んで来て、再び戻っていくという大騒ぎがあった。

最終的にはヒルドの部屋に引き取られていったようなので、こちらの家族にとっても素晴らしい贈り物だったのだろう。










書籍繁忙期につき、明日の更新は少なめとなります。

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