グレット
ずっとずっと昔に、大切な友達がいた。
もう名前も覚えておらず、その時の自分がどんなものなのかも覚えていない。
ただ、その男の子が笑うととても幸せだった。
青い瞳の綺麗な男の子は、青空の日の夜明けのような綺麗な顔で笑う。
ああ、大好き。
大好きよ、私の友達。
あなたが笑うだけで、世界が綺麗に晴れ渡る。
だから、ずっと幸せでいて。
「やぁ、グレット。今日は何して遊ぶ?」
「あのね、小川の横に咲いてる花で花輪を作るの」
「うん。じゃあ、小川に行こうか。転ばないように手を繋ごうよ」
「うん!」
その頃のグレットの世界は当たり前のように優しく穏やかで、グレットはいつだって満ち足りていた。
それが子供だということなのだと誰かが言い、頭を撫でてくれた優しい手のひらを覚えている。
グレットは、両親のことも大好きだった。
ばたん。
ある日、お城の扉が音を立てて閉まり、大人達がさめざめと泣いている日があった。
小さな王城を訪ねてきたのは、この国の上に立つ隣国の王都から来た騎士たちで、こちらもまた沈痛な面持ちであった。
息を吸うのも怖いような重苦しい空気の中で、手を差し出してくれたのはいつもの青い瞳の友達だった。
グレットは大好きな男の子の手を取り、杏の木のある立派な庭園に出ると、咲いたばかりの薔薇を見ながらお喋りをする。
あの重苦しい部屋から出られてほっとしたが、なぜみんながあんな風に怯えていたのかが気掛かりだった。
「少し前から父上が話していたんだ。………隣国と戦争になるらしいと。………いよいよ、始まってしまうのだね。………僕は、まだこんな子供だけれど、これから訪れる困難や悲しみの中で、苦しんでいる民達を救うような事が出来るだろうか」
「出来ると思う。だって は、いつだって優しくて素敵だから」
グレットがすぐさまそう言えば、青い瞳の男の子ははっとしたように顔を上げて、くしゃりと笑った。
瞳の端に滲んだ涙がきらきらと光り、グレットは思わずその手をぎゅっと握り締める。
「そうかな」
「そうだよ!きっと大丈夫。私がいつだって一緒にいるわ」
「………うん。でも、ここは危なくなるかもしれないから、グレットは安全なところにいてね。そこでもし誰かが困っていたら、僕にしてくれたように助けてあげてくれるかい?」
「一緒にはいられないの?」
「うん。戦争だからね……」
「困っている人というのは、どんな人かしら?」
「…………そうだね。怪我をしていたり、泣いていたりする人かな」
「私、まだ子供だけど、………怪我を治すのはどうしたらいいの?」
そう尋ねると、男の子は困ってしまったようだ。
そう言えば二人とも子供であったと沢山悩んでしまい、手を繋いで薔薇の庭園の中を歩く。
「戦争は、何が起こるの?」
「……………敵対している人達が戦って、殺し合うようになる。国や森が壊されて、怪我をする人達がいたり、家や国を失う人達がいたり、お腹を空かせていたりする」
「……………大人がすることは難しいわね」
「うん。………じゃあさ、子供のことであれば、僕達の目線からも何か出来るかな」
「うーん。じゃあ、お腹を空かせた子供に、美味しいものを分けてあげるのはどう?」
「うん!それはいいね!グレットは、食べ物を沢山揃えられる祝福があるから」
「そうなの。じゃあ私は、お腹を空かせた子供達に食べ物を配るわ!そうしたら、きっとまた小川の横で花を摘めるようになると思うから」
「……………うん。きっとそうなるよ」
ざあっと風が吹き抜け、男の子の金色の髪がさらさらと揺れた。
青い瞳は美しく、いつも晴れた空に例えていた瞳なのに、星を映したようだと思う。
大好きな友達と手を繋ぎ、グレットはにっこりと微笑んだ。
「 も、またお腹が空いていたら、食べ物を持ってきてあげる」
「じゃあ、僕はスープがいいな。それか、この前君が持ってきてくれたお粥はどうだろう?」
「温かいものがいいのよね」
「うん。…………温かくて、柔らかいものがいいな」
その言葉の意味を、どうして幼いグレットは考えなかったのだろう。
あの友達が、王子様なのにいつもお腹を空かせている理由や、どうしてひどく痩せていて、いつも傷だらけなのかも。
王子様なのに一人でお城を抜け出して小川に出かけられるくらいに孤独だったその男の子は、王が旅回りで国を訪れた武器職人に産ませた子供だったらしい。
血統を重んじる小さな国の庶子として、王城内での扱いは凄惨を極め、食べ物さえ満足に与えられていなかったと言う。
けれども彼は、自分の立場を蔑ろにはせず、これから始まる戦争を憂い国の人達を案じていた。
(そこは、とても小さな国だった)
近くにある国の属国として成り立ち、戦争などがあれば容易く下げ渡される、立場の弱い国だった。
数々の国を知る今のグレットなら、国と言うよりは小さな領地のようなところだったと思うだろう。
だが、古い血を守る誇り高い者達がいて、だからこそグレットの友達はその国では軽んじられ続けていた。
小さな国ということが災いして、誰もが彼を知っており、そのせいで彼はどこにも行けなかった。
戦争が始まると聞いたグレットの両親はその国を半年程離れる事にしたので、グレットは、夕暮れの庭園で手を振っていた友達と暫くお別れをした。
また来るねと手を振れば、大好きな友達がにっこりと微笑む。
そして彼は、開戦からふた月後に敗戦の代償に下げ渡された小さな国の王子として、少しだけ大きな国で祖国の名前を背負って処刑されたという。
その王家から出された、唯一の犠牲者であった。
「ねぇ、 。………あったかいスープ、もっと飲ませてあげれば良かったね。麦のお粥も、沢山持ってきてあげたのに。………もう、いらないよね」
処刑が行われた広場で、グレットは晒されている友達の亡骸の前で立ち尽くしていた。
そっと手を伸ばしてもうなんの面影もない頬に触れ、大好きな男の子の魂は、この体から離れてどこかに行けただろうかと考える。
「あのね、………約束守れなくなっちゃった。だってもう、スープもお粥も食べられないでしょう?だから、もう一つの約束は………必ず守るからね」
冷たい石の広場。
ばらばらと雨が降ってきて、その雨がやがて雪になる。
あまりにも酷い景色を白い雪が覆い始めると、グレットはとてもほっとした。
大好きな男の子の亡骸を覆う雪に、冷たい筈なのに極上の毛布を掛けてあげたような気持ちになれたのだ。
「…………雪は凄いわ。私は、冬が好き」
(………だいすき。………ずっとずっと、大好きよ)
一緒に歩いた薔薇園も、二人で花を摘んだ小川も戦に蹴散らされてなくなった。
グレットの家族はその後に続いた大国の戦に巻き込まれ、市場に出かけたまま二度と帰らなかった。
グレットの友達をこの国に売り払った小さな国の人達も、その後に訪れた戦乱の余波の疫病で滅びたという。
花びらの舞い散る美しい夏の日や、大好きな男の子の青い瞳を思う。
家族を喪いひとりぼっちになったグレットは、これから訪れるイブメリアで彼に一緒にいて貰おうと考えて、その消息を追ったのだった。
でも、彼ももういなかった。
誰も、いなくなってしまった。
「……………イブメリアには、美味しいスープを用意するつもりだったの。お粥だって、ほかほか湯気を立てていたらご馳走よ。もっと早く、私の持っている祝福でお腹をいっぱいにしてあげられたら、あなたは、その怖くて悲しいところから逃げ出せたかしら」
雪が降っているのに、ぽつりぽつりとまだ雨が降っていた。
なぜだろうと思い頬に触れると、こぼれ落ちているのは涙のようだ。
「……………ああ、みんなどこに行ってしまったのだろう」
どうしてグレットだけは、人間に生まれられなかったのだろう。
同じ人間なら、両親や大好きな男の子がどこに行ったのか分かったかもしれないのに。
それなのに、拾われて育てられた竜の子供には、人間がどこに行くのかは分からない。
「……………おや。どうして泣いているんだい?」
さめざめと泣いていると後ろから誰かに声をかけられ、グレットは振り返った。
そこには、ふさふさとした長い髪の、美しい女性が立っていて、複雑に編み込んだ髪や、そこに飾られた髪飾りを見ているとなぜか、イブメリアの飾り木を思い出した。
「家族や、友達がいなくなってしまったの。…………それと、戦争で苦しむ子供達にスープを届けるには、どうしたらいいのか分からないの」
「それは困ったね。似たような役割を持っている者がいるから、今度紹介してあげよう。……………でも、君は少しお眠り。その小さな体で、長い長い旅をしたようだ。次に目を覚ます時には、また別の祝福を授かって目を覚ますだろう」
優しい手で頭を撫でて貰い、グレットは、ぼろぼろになった翼を畳んだ。
鱗も殆ど剥がれ落ちてしまい、友達の身に訪れた不幸を知って慌てて戦火の中を飛び抜けた際に体を焼かれたせいか、あちこちがひりひりする。
(でも、大好きな友達の隣で眠るのなら、寂しくないわ………)
どうしたらまた会えるのか分からないくせに、そんなことを考えたような気がする。
そして、次に目を覚ました時には今の姿だった。
食べ物を好きなだけ授かる祝福を失った代わりに、食べ物を必要な者のところへ素早く届ける祝福を得たようだ。
「それはいい。その祝福を俺にも授けてくれれば、お前さんが配る粥は俺が提供してやろう」
悩みを打ち明けたグレットに、そう言ってくれたのは偶然出会った旅の料理人だった。
まさかそんな出会いがあるなんてと驚いていたが、グレットの持つ祝福は料理人達にとっては嬉しいものだったようだ。
その後も、何人もの料理人達と懇意になった。
「せっかくの祝祭の日に、私の子供達がお腹を空かせていてはいけない。私からもお願いしよう」
そう言ってくれたクロムフェルツに頷けば、彼女から授かった冬の祝福も得ることになる。
大好きな男の子との約束の通りに、戦で飢えている子供達にスープやお粥を届け続ければ、その祝福は、ひと冬を幸運に過ごせるものに階位を上げた。
「ああ。それなのに、クロムフェルツの愛し子がどこかで飢えていたなんて。可哀想に。今はもう食べ物に困っていなくても、きっと寂しくて怖かったでしょう。気付いてあげられなくて、ごめんなさいね」
冬告げの舞踏会で出会った女の子を見て、グレットは驚いてしまった。
迷子になったところを助けてくれて氷竜に、是非お世話になった人に祝福を与えて欲しいと紹介されたのだが、その子供には、可哀想なくらいに飢えていた孤独な祝祭の記憶が見えたのだ。
戦に巻き込まれた子供ではないが、この子の家族は誰かに殺されたらしい。
(なぜだか、私にはそんなものが見える)
だからその子には、十年ほど前から協力関係にあるウィームのスープ屋のスープを届けることにした。
アレクシスのスープなら、きっとこの子を守ってくれるだろう。
「美味しいスープを飲んで、元気になってちょうだいね!」
そう言って子供達にスープやお粥を届ける度に、今はもう名前も忘れてしまった大好きな男の子と手を繋いで歩いた幸せな日や、両親に頭を撫でて貰えた日の記憶が甦る。
だから、その度にグレットは心の中で呼びかけるのだ。
大好き。
大好きよ。
だからきっと、この世界のどこかにまた生まれてくる大好きな人達が子供の時に飢えずに済むように、これからも子供達に美味しいものを沢山届けるわ。
これが、グレットの大切な約束と願いである限り。
ただし、冬告げの舞踏会でその後に紹介された雪竜の子供には、祝福を渡さなかった。
彼には飢えた記憶はなかったし、ご主人様に踏んで欲しいけれど言えないという、よく分からない願いしか持っていなかったからだ。
だからどうか、クロムフェルツの愛し子に妙な真似をしないで欲しいと、心から願っている。
本日は短め更新となります!
引き続き原稿作業中にて、明日も少し短めの更新が続きます。




