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城郭都市と夜紡ぎの剣 1




がこんがこんと、重たい物を引き摺る音が聞こえてきて、ネアは小さな溜め息を吐いた。


指先で触れた石畳はひんやりと冷たく、路地裏から望む夜空に浮かび上がるのは、この道の先にある大きな聖堂のシルエットだ。

ふわりと香るのは、嗅ぎ慣れない甘い花の香り。



ここからは夜だった。

ゆっくりと暮れてゆく空は、妖精の作るインクのように青い。



仕立てはいいものの飾り気のない濃紺のドレスを着たネアは、現在、とある諸事情により、路地裏の突き当たりの壁に設けられた小さな祭壇の前にあるベンチに腰掛けている。



微かな風にふぁさりとスカートが揺れ、隣に座った男性をちらりと盗み見る。

ぞくりとするような美貌は高位の生き物らしいものだが、どこか気怠げな酷薄さは他人行儀で、その上で悪巧みをしている見慣れない気配でもあった。



その銀髪が微かに揺れ、視線に気付いたのかぞくりとする鮮やかな紫の瞳がこちらを見る。



「………何か?」

「………怒っていらっしゃいます?」

「まぁ、多少はうんざりしているな。貴女もそうだろう?」



以前に対面した時と声に宿る温度が違うのは、ここが彼の領域ではなく、ネアの隣に彼が敬意を払う必要のある魔物達がいないからかもしれない。


或いは、望まない事に巻き込まれてしまったが故の不快感がそうさせるのだろうか。



「………私は、残念ながらこのような事故は珍しくはないんです。さてどうしようかと考えはしますが、今は偵察に出た魔物に任せようと思っています」

「そうか」



会話はそこで途切れたが、そもそもさしたる知り合いではないのだ。

ネアとしては、この男性は確実に信用出来るとも考えてはいない。


けれどもこうして二人でいるのは、今は席を外している魔物が、この男性がネアを損なえないような魔術を敷いていってくれたからだ。


男達は魔術に長けた者同士らしく、僅かに交わした言葉でそこまでの誓約を結んでしまい、ネアは、とある秘密を胸にハラハラしながらも、こうして安心してベンチに座っているのだった。



(だから私も、この人への憎しみを今だけは忘れよう……………)



人間はとても利己的な生き物だが、個人的な感情を優先させるべき時と、そうではない時くらいの判断はつく。


見知らぬ土地に迷い込んでいるこの状況下なのだ。

会った事のある人物がここに居たことの幸運に感謝し、憎しみを捨てて歩み寄り協力せねばなるまい。




夕暮れを告げる鐘の音が鳴り響いている。


ネアの記憶の中にある暗さに触れるような音ではなく、複数の軽い音が重なる心地よい響きで、独特の硬質な余韻があるので特殊な素材の鐘なのかもしれない。



(葡萄畑のある美しい港町にある、大聖堂の鐘の音…………なんてね)



ふと、遠い昔に見たオリーブ畑のあるあの島を思い出し、そんな事を考えた。


ここは港町ではなさそうだし、海が近いとも思えない。

だが、すぐ近くに葡萄畑はあるようだ。

先程から、詰めたばかりの葡萄酒の瓶が詰め込まれた木箱を運ぶ男達が行き来している。


表通りの方の喧騒からすると、今夜はこの街でお祭りのようなものがあるらしい。


だが、しっかりと封印を施した葡萄酒の木箱を何箱も運んでゆく男達の様子からすると、それらはどこかに出荷されてゆくのだろう。

その場合、見えているだけのものが存在しているのではなく、ここには他にも街がある可能性もある。



(ここはどんな街なのかしら。運河がある事と、大きな聖堂がある事、階段や細い路地が多い、街の中に高低差がある土地である事は見て取れるけれど、…………)




今はこうして路地裏に身を潜め、街の様子を探りに出てくれている魔物の帰りを待っている。


葡萄酒の木箱を運ぶ男達や通行人達を観察出来るのは、僅かに表通りが見える壁の隙間からなのだが、街を行き交う人々の装いはウィームの街に似ているようだ。


がらがらと音を立てて走ってゆく立派な馬車も見えたくらいなので、それなりに大きな街なのは間違いなく、生活水準もそれなりに思えた。

見えているシルエットからすると、この道の先にある大聖堂はかなり立派なものだと想定される。



(…………この街の規模なら、今日は帰れないと言われても、泊まれる場所はあるかもしれない………)




でもそれは、簡単には帰れないという事なのだった。




冷静に置かれた状況を理解しようとしていたのに、そう考えると胸が苦しくなる。

リーエンベルクでは、きっと今頃、大きな騒ぎになっている筈だ。


腰掛けたベンチの上に乗せたくすんだ紺色の革のトランクを一瞥し、その中に入っていた重ねた紙を中央で縫い綴じた冊子を膝の上でぱたりと閉じると、隣に座った人物がこちらを向く気配を感じる。



「…………寒くはないか?」

「いえ。でもここは、気候的には晩秋のようなので、薄いコートを羽織った方が目立たないでしょうか?」

「かもしれないが、装いには国や街ごとに作法がある。ノアベルトの帰りを待ってからにしよう」



そう言ったリシャードに、ネアはこくりと頷き、居心地の悪い沈黙を誤魔化す為に、もう一度、トランクに入っていた冊子を広げ直す。


なお、この精霊には本当の名前があり、リシャードというのは彼が教会組織の中で使う通り名の一つなのだが、本来の名前には死の精霊としての資質が滲む為、あまり呼ばない方がいいと言われてこちらの名前で呼んでいる。




事の始まりは、それはもう突然だった。




リーエンベルクの騎士棟に不思議な品物が届いたのは、ネアの体感では二時間ほど前のことだ。



たまたまその輪の横を通ったネアは、求婚をお断りした見知らぬ女性からの菓子折りが届いたとたいへん怯えている青年騎士の姿が見えたので、ひょいっと覗き込んだ。

そして、その瞬間に菓子折りが爆発したのだ。



その直後の光景は、ネアがこの世界で見た奇妙な光景の中でも、屈指の異質さだったと言えよう。

飛び散る焼き菓子がしゅわりと黒い霧を纏い、ネアは、それをスローモーションのようにぽかんと見上げていた。


隣を歩いていた筈のディノの気配がふっと遠くなり、焼き菓子の輪の中で先程まで焼き菓子の箱を前に青くなっていた青年騎士と顔を見合わせる。


何て理不尽な事故だろうと思わないでもなかったが、今迄の経験からすると、ネアが近付いた事で、あの菓子折りに隠された魔術の何らかの条件を満たしてしまったのかもしれない。




『シル、僕が入れ替わる!』



くらりと揺れた暗闇の中でノアの鋭い声が聞こえた直後、青い目を見張って呆然としていた青年騎士の姿が搔き消え、そこには擬態したらしい髪色のノアがいた。



『ネア!』

『ノア………』


慌ててノアにしがみついたネアは、自分を抱き締めたノアが、苦しげに顔を顰めるのが見えた時、またしても厄介な事に巻き込まれてしまったのだと自覚せざるを得なかった。


爆散した焼き菓子の輪の中に囚われているというたいへん奇妙な状況だが、事態としてはかなり切迫しているに違いない。



『…………この術式なら、後は聖職者か。聖職者の知り合いなんていたかな?!』


そして、ノアの切羽詰まったような声でネアが思い浮かべたのが、ガーウィンの潜入調査で出会ったとある枢機卿の姿であった。



『え?!魔術が結び終わったってこと?!………っ、シル!僕達が一時間で戻らなかったら、アルテアかグレアムを呼んで…』



ここでぱたりと闇が閉じた。

ネアは、焼き菓子に誘拐されるなんてあんまりだと思いながらも、ノアにしっかりとしがみつき、真っ暗闇を落ちていった。




(そうしてここにいる訳で…………)




つまり、ネア達はリーエンベルクの騎士宛の荷物から事件に巻き込まれ、現在、ネアの隣に座っているリシャードはただの巻き込まれ事故である。


気付けば、ネア達はこの路地裏に見覚えのない革のトランクをそれぞれに持って立ち尽くしていた。

ネア達と同じ位置に立っていたリシャードがそこに居た理由など、巻き込まれてしまった以外に考えられない。


しかし、本来なら思い浮かべてしまい大変申し訳ありませんと頭を下げてお詫びしなければならない状況なのだが、今回、ネアは奇跡的な幸運に恵まれた。




「リシャードさんも、呪われてしまったりするのですね………」

「私の職業では珍しくはない。特に信仰の系譜の魔術には幾重にも謎かけや、試練が隠されている事が多いからな」



また不機嫌そうに眉を顰めたリシャードは刃物のような眼差しだったが、ネアは先述の事情によりとても穏やかな気持ちで隣に座っている。



(………偶然にも、同じような効果が出る種類の、殆ど同じ呪いをたまたま処理してくれていて、本当に良かった!)



そんな安堵だけで、何だか得をしたような気分になるのだから、人間は何て単純な生き物なのだろう。


そもそも、ネアも巻き込まれた被害者なのだが、リーエンベルクの事となれば身内の事故という範疇なので、やはりこちらの不手際で、となってしまうところだったのだ。



(ここまで都合よく巻き込まれてくれたのだから、リシャードさんの運の悪さに感謝しつつ、あの日の憎しみは胸の奥にしまっておこう…………)



そんな自分の健気さに感心しつつ、軽い足音にはっとして顔を上げる。




「お待たせ、色々と仕入れて来たよ」

「ノア!」

「ありゃ、…………喧嘩した?」

「……………む?リシャードさん?」

「…………いや、こちらの事情が顔に出ただけだ。気にしないでくれ。あの菓子箱を持ち込んだのは、これ迄にも何回か厄介な代物を持ち込んだ軽薄な司教でな。…………戻ったら、あの男とはじっくり話し合う必要がありそうだ…………」



たいそう不穏な微笑みを浮かべたリシャードに、ネアはそっとノアの方を窺う。


こちらに落とされた事情を聞いたところ、自分の過失を言わなくて済みそうなのでと、リシャードには本当の事を伝えない方針を固めたネアだったが、密談する機会を得られないながらも奇跡の意思疎通でそんな状況を共有している二人は、重々しく頷き合う。



(完全に無関係ではなかったからこそ、リシャードさんも不自然さは感じていないみたいだもの…………)



どうやら、リシャードがその司教から受け取ったものも、ネア達の前で爆散した菓子折りと同じようなものだったらしい。


こちらも同じような品物で巻き込まれたと話し合い、タイミング的には同じ女性が届けたものである可能性も高そうだと結論付けたばかりなのだ。



(あの暗闇で、ノアは聖職者も必要だと話していたから、ここに落とされる人員に指定があるものだったのではないかしら…………)



恐らく標的は決まっていたのだろう。

ノアが飛び込んできて、入れ替えてくれなければ、あの青年騎士がここにいた筈だ。




「…………で、ここはスノーの城郭都市か?」

「うん。君はおおよその見当は付いてたのかな。スノーで間違いないし、あわいでも影絵でもない。所謂、呪いの中にある試練の回廊だね」

「……………試練の種類は?」

「見当違いの獲物を取り込んだから、きちんと機能してないみたいだね。魔術の繋ぎを断つ為に、指定された場が崩れるまでここに留まれば帰れるんじゃないかな」

「という事は、ここが意味を持つ日なのは間違いないか。…………何日必要になる?」

「今日の正午から二日間が、スノーの収穫祭だ。祭が終われば帰れると思うよ」



男達は互いに納得したようで、首を傾げたネアが一人残された。

どうやら、リシャードとノアの相性はあまり悪くないらしく、会話の進行がとても早い。



(それに、仲良しとまではいかなくても、この二人は知り合いのような気もする…………)



でも、なぜだろう。


ネアは、ノアとリシャードの表情の暗さが気になった。


今の会話では、とりたてて危険はなさそうなのだが、男達の表情がやけに暗い。

薄く整えた表層では淡々としていても、その裏側ではかなり不愉快そうでもあり、見間違いでなければ少しの怯えにも似た気配まである。



「…………呪いの中にある試練、なのですね?」

「うん。君が僕に出会った時のようで、尚且つ雪食い鳥の試練みたいなものだね。ここは影絵でもあわいでもない、特定の魔術に紐付く過去の中で、指定された役割を果たして試練を乗り越えれば帰れる呪いって感じかな。………ってことは、物語のあわいにも近いのかぁ…………」

「役割があるからでしょうか?」

「うん。………ただし、本来の試練の形が崩れているから、それは然程問題じゃない。この祭りの期間を問題なく過ごせれば普通に帰れるよ」

「……………ふぁ。ほっとしました」



直近で落とされた場所はどこも厄介な場所であった為、またそのような場所なのだろうかと不安になって詳しく尋ねてみたのだが、やはり身に迫るような類の危険はないようだ。


安堵に息を吐いたネアの隣で、リシャードはどこからか取り出した手帳を開くと、恐ろしい程にみっしりと書き込みがある頁を慣れた様子で捲る。



(でも、なぜその指が震えているのだろう…………?)



訝しげにその様子を見ていると、心なしかネアの手を掴んでいるノアも震えてはいないだろうか。




「だが、運ばれていた葡萄酒の木箱の焼印から、この時代はドニア暦の百五十年。…………クルフェの嫁取りの年にあたる」

「……………う、うん。だよねぇ。…………僕達の運が最低なのか、試練の欠け残りがあるのかな。…………ってことで、ネア、僕と結婚しよう!」

「既に兄妹ですのでご遠慮下さい」

「ありゃ、ふられた」

「……………兄妹なのか?」

「魔術的に繋いだ義理の兄妹だよ。つまり、僕の妹に何かをしたら、君の蒐集品に何があるか分からないって考えておいてね」

「…………面倒な事になった」



頭を抱えてしまったリシャードに目を瞠り、ネアは、慌ててノアにこそこそと耳打ちした。



「ノア、リシャードさんは、ウィリアムさんやディノとも会っていますし、諸々の私の事情をご存知の方なので、威嚇せずとも良いのではありませんか?」

「うーん、だとしても精霊って気紛れなんだよね。特に、不利益や不都合が生じかねない環境下で、君への配慮で身を削れと言うのは少々危うい」

「…………リシャードさんが指摘した年のこの街は、危ういところなのですね?」



そう尋ねたネアに対し、ノアは青紫色の瞳にふっと微笑みを滲ませて頷いた。


白いシャツに黒いロングコートがはたはたと風に揺れ、擬態して青灰色にした髪を縛るリボンはネアとお揃いの濃紺のものだ。


ネア達を巻き込んだ魔術は、人間しか取り込まないものだったようで、現在のノアは人間の魔術師に擬態している。

かなり精密な擬態を必要とされたのだと教えられ、だからディノではなく、擬態を得意とするノアが飛び込んだのだと腑に落ちた。



「そう。この街にかけられたクルフェの嫁取りって呪いはね、疫病の系譜の呪いの一種なんだよね。ここは城郭都市ながらに住人達の気質も陽気でいいところなんだけど、この年は兎に角、嫁取りをしないと命の危険があるものだから大変だったらしい。因みに僕は、その呪いが解けるまでは、絶対にこの街に近付かないようにしていた………」

「…………何となく、たいへんに厄介な状況らしいとは理解出来ました。ですが、そのクルフェの嫁取りとやらの概要がさっぱり分かりません」



眉を寄せたネアに対し、説明を引き継いでくれたのはリシャードだ。


こちらに呼び落とされた直後は枢機卿の装束だったが、服装を変える自由は許されたようで、今は聖職者めいた雰囲気のある漆黒の長衣に装いを変えている。


リシャード枢機卿としての擬態を解きかけ、色彩を本来の自分のものに戻しかけた時にこちらに引き摺り落とされたので、銀糸の髪に紫の瞳のままらしいが、その色彩の鮮やかさと冷たさは例えようもない。



「その年に、この地に暮らしていた葡萄のシーの一人が、婚約者による婚約破棄の後、伴侶を得られずに自らの命を断った。彼女は、伴侶を得られない苦しみを多くの者達にも共有させるべく、期限を設け、その期日までに伴侶がいないと疫病にかかる呪いをスノーにかけて死んだんだ」

「…………何て迷惑な妖精さんなのでしょう。…………つまり、その呪いがあるので、この城郭都市の皆さんは兎にも角にも結婚しなければならないのですか?」

「そう言うことだな。侵食型の呪いなので、死んだ妖精より階位の低かった者達だけでなく、その呪いがかけられた夜に栓を開けた葡萄酒を飲んだ全ての者にも呪いがかけられている。嫁取りに参加したのは人間だけではない」



苦々しくそう呟いたリシャードに、ネアはどこか苦しげな表情の男性二人の顔を見比べ、重々しく頷いた。



「…………つまり、ここで危険に晒されているのは、よりにもよってそんな土地に放り込まれてしまった、独身のお二人なのですね?」

「貴女もだろうな。人間は複数の伴侶を得られる。指輪の一つくらいでは、虫除けにもならないだろう」

「…………むぐ。となると、我々三人はその種の危険に晒されながら、お祭りの終わりまでここに滞在しなければならない…………?」

「そう言うことだね。因みに、僕とナインは人間の擬態を固定させたまま呼び落とされたから、その擬態を解くことは出来ない。この試練、本来は人間用なんだよね。それと、役割が固定されたから擬態を変えて醜男になる事も出来ない」

「難易度が上がってきました。………解くとどうなってしまうのですか?」

「うーん、ここから弾き出されるんじゃないかな。君を一人にしたくない僕と違って、彼はその方がいいように思えるけど、呪いってさ、どんなものもきちんと解かないで抜け出すと拗れるんだよね……………」

「……………つまり、とても不愉快な思いをしなければならない滞在でも、我慢する方がまだいいという判断をせざるを得ないのですね………?」



そのネアの言葉に、リシャードはとても暗い目をして顔を上げた。


人間に擬態していても色彩を精霊としてのものに戻してしまったからか、ぞくりとするような怜悧な美貌でそんな表情をすると、見知らぬ高位の人外者の眼差しに背筋が寒くなる。


ネアの見慣れた魔物達の美貌とは、どこか温度が違うようだ。



「だから僕はさ、君には手を出さないようにって念を押した訳」

「…………私に?」

「彼は、…………ええと、何て言えばいいのかな。有名なくらいの社交嫌いの趣味人だから、面倒になったら取り敢えず君を盾にすればいいやって考えかねないんだよ。精霊だからね」

「精霊さんだから、なのですか?」

「そうそう。精霊ってさ、不機嫌になると極端な事をしかねないんだ。ほら、ネアは…………ナインの嗜好の一つは満たしているみたいだし、彼が、その才能目当てであっても誰か気に入るのって珍しいんだよ」

「……………かいめつしていません」



暗い声でそう呟いたネアに対し、幸いにもリシャードはその問題には触れず、掻き上げていた前髪を崩しているようだ。


恐らく、その美貌が悪目立ちしないようにしているのだろうが、いち人間としての目線で指摘させていただけば、残念ながら身に纏う雰囲気だけで目敏い女達は彼が美しい男だと見抜くだろう。



そんな事を悲しく思い、ノアの懸念を頭の中で整理する。



(…………つまり、リシャードさんにとっては元々苦手な分野での脅威が迫っていて、許容量を超えると、自暴自棄になって私でいいやと言い出しかねない?)



精霊だからという理論は乱暴だが、確かに精霊はわあっとなると自分諸共損なうような荒ぶり方をする。




「では、お祭りが終わるまでは、どこかに隠れていればいいのではないでしょうか?耐久戦のようなものですよね?」

「ほお、この荷物を見てもそう言えるのか?」

「む………、精霊さんが既に荒んでおります………」



さっとノアの影に隠れたネアに、リシャードは、なぜかここに落とされた時に各自が手にしていた革のトランクのようなものを持ち上げてみせた。


気付いたら手にしていたので、最低限のご厚意かと考えていたネアだが、どうやらそうでもないらしい。



「中身を確認したところ、旅人の荷物だな」

「僕達も確認してみたよ。旅券に、簡単な着替え、それから葡萄祭りの案内図………」

「それが最悪の指標だ。要するに、この呪いの条件指定として、祭りを楽しむことも必要となる」

「……………まぁ。お祭りを楽しみつつ、二日間ここで過ごすのですね…………」



ネアはごくりと息を飲み、密かにその葡萄祭りの案内図に載っていた料理店の一つに目を付けている事に気付かれぬよう、こっそり拳を握った。


件の案内図は、街の地図と祭りの概要が記された観光パンフレットのようなもので、ノアが街中に情報収集に出ていた間、沈黙が気にならないようにベンチでしっかりと拝読させていただいたばかりだ。



「つまり、人目を避けて不自然な行動を取ると、試練に引っかかるかもしれないんだよね。…………ありゃ、ネア?」

「仕方がありません。まずはこのお店で、蔵出し葡萄酒などを楽しみつつ、専門店の腸詰めとチーズをいただきましょう!」

「わーお、楽しむ気満々だぞ…………」

「念の為に確認しますが、お二人は、ここにいる間にどなたかを伴侶にする必要があるのですか?」

「ないだろうね。そもそも期限は年末までだから、あと二月は猶予がある」

「ふむ。であれば、我慢するだけなのですね?お二人であればご婦人方の好意をさらりと躱すのもお上手そうですから、私は安心してひっそりお店の端っこで腸詰めを楽しめます」

「…………え、もしかして僕達を盾にしようとしてる?」

「む?」



首を傾げて、取り出して掲げてみせたパンフレットを広げたまま小さく弾めば、ノアは、天を仰いでからふーっと深い溜め息を吐いた。



「うーん、でもまぁ、策を弄そうにもそれしか手段がないのも確かなんだよなぁ………」

「…………ああ。擬態は解けず、状態維持の為に擬態を変える事も出来ない。選抜魔術に弾かせるのも得策ではなく、旅人として祭りを楽しむ必要もある…………。何だ、この呪いは…………」



憮然とするリシャードに対し、ネアはこの呪いの目的が理解出来た気がした。



(これ、………あの騎士さんと試練を利用して結婚しようとしたか、或いはあの騎士さんを無理やり誰かと結婚させようとしたのかのどちらかなのだろうな…………)



その為の聖職者かもしれないが、ノアが聖職者が必要になると知っていたからには、有名な試練として知られた既存の魔術に違いない。




げに恐ろしきは、見知らぬ思い詰めたご婦人からの呪いの菓子折りである。



聞いていた事情からすると、実際にどんな言葉選びをしたのかは謎だが、まだ結婚は考えていないというお断りの言葉は、その女性をとても怒らせたようだ。



(………多分、狙いは後者の方かしら。あの場にその女性がいなかった事からして、呪いに強いられる形で望まない結婚をさせてしまおうとしたのかもしれない…………)



期限までは、二月ぽっちとはいえ余裕があるようなので、不特定多数のご婦人方から求婚されて怖い思いをさせるだけでも良かったのかもしれないが、どちらにせよ、あの騎士の青年の精神を削るのが目的なのだろう。



そんな理由であるのだから、リシャードが、この呪いが組まれた動機がさっぱり分からないのも致し方あるまい。

ネアは、この精霊が少しだけ不憫になった。



ネアがなぜこれほどまでに冷静かと言えば、やはり魔物の指輪がある事が大きく、尚且つ、同族からはあんまり評価が高くない己の容姿を熟知しているからである。


恐らくこの冒険は、女性達に群がられる気の毒な同行者を見守る旅になるのではないだろうか。




「………何でもいい。何か歌ってくれ」

「かいめつしていません」

「え、事案になるからここではやめようか。それと、この子は万象の歌乞いだからね?君の為に歌わせる訳にはいかないから」

「か、かいめつしていません!!」

「ここで歌わずして、その存在意義はあるのか………?」



こちらを見た鮮やかな紫の瞳にあるのは、ガーウィンの執務室でこちらを見たリシャード枢機卿とはまた違う人外者らしい表情で、ネアは、やはり高位の人外者とはこういう生き物なのだなと得心する。


彼があの部屋でネアに向けた、理由はともあれ好意的にも思えた興味は、所詮彼の趣味の範囲でのものだ。


趣味を尊ぶどころではない不愉快な状況に置かれてしまえば、幾つもある彼の興味ある品物の一つでしかないネアに対しての言動は、ここまで温度が低く粗雑になる。



気紛れで残忍で、朗らかに微笑んでいてもひらりと身を翻すようにして気配を変えてしまう。


当然と言えば当然なのだが、このような気質の精霊と相対するのはネアも初めてで、慣れない温度の推移に気持ちを引き締めた。



(…………リシャードさんは、これまでに会ってきた精霊さん達の中では、アルテアさんに近い気質という感じがする。でも、魔物の酷薄さや残忍さと、精霊のそれはかなり違うのだと思っておいた方が良さそう………。感情的な資質が前提としてある分、粗雑に扱いつつも感情の温度が伴うというとても分かり難い感じというか………)




「あのさ、旅人が楽しむべきものって、何だと思う?取り零しがないようにしないとだからね」

「…………観光はせずとも、土地のものを食べることぐらいはするだろうな。葡萄祭りは、葡萄酒と食事を楽しむ祭りだ。………それとダンスか」

「よし、それじゃぁ、食事とダンスは必須だね。試練が定められた通りに機能していれば、勝手に道筋が示されるんだけど、中途半端に強制力がない代わりに、読み取って動かなきゃいけないのが面倒だなぁ…………」



そう肩を竦めてみせたノアは、こちらを見ると安心させるように微笑んでくれた。



「大丈夫だよ。…………僕とナインの心は死ぬかもしれないけれど、そこまでの危険はない筈だ。あの箱に敷かれていた魔術からすると、僕たちの二日間は向こう側では一瞬なんだと思う。条件付けを満たせば、ぱっとあの場所に戻れるから、シルをそこまで不安がらせる事はないからね」

「…………ふぁい。それを聞いて何よりもほっとしました。お二人とも、二日間どうぞ宜しくお願いします」

「これから、祭りが始まって賑わう街中に出てこの店まで行くけれど、僕の手を絶対に離さないように。出来れば、熱烈な恋人同士みたいな感じで歩いてくれるかい?」

「そのように振舞って、ノアの危険を減らすのですね?…………む、リシャードさんに腕を組まれました」

「僕の妹に勝手に触れないで欲しいんだけど…………」

「二人の男女と聖職者。これは、調印の呪いによる試練だろう。必要な要素として役割を果たす私が損なわれれば、お前達も戻れなくなるぞ」

「……………うん。帰ったら、この呪いの送り主は絶対に殺そう…………」




(…………でも、どれだけ切羽詰まっているとは言え、伴侶の欲しい人達が沢山いるだけなのだろうし、そもそも私達の役割が旅人なら、すぐにこの街から去ってしまうような相手は伴侶候補としては価値が低いのではないだろうか。…………言うほどに危険があるのかしら?)



首飾りの金庫の中のカードを思ったが、このように表側との時間の流れが同一ではない所では、メッセージを送っても意味がない事をネアは知っている。


先程、ノアがご婦人には秘密の儀式があるんだよと、光る鉱石を持たせてわざとらしくコートの内側に入れてくれたので、ネアはその隙にカードからメッセージを送っておいたが、ディノがそれを見る頃には帰れている筈なのだ。




(…………少しの不安もあるけれど、ノアがいてくれて良かったわ。後はもう、くよくよしないようにして、強制観光ツアーだとでも思って、無事にリーエンベルクに帰る事を考えよう…………)




かくして、ネア達の、二泊三日なスノー城郭都市のお祭り堪能ツアーが始まった。


この二日間の予定としては、葡萄祭りで美味しいご飯と葡萄酒を堪能し、時には祭りの楽しみの一つであるダンスなども踊りながら、伴侶探しが激化しているこの土地で生き抜く事である。



強欲な人間は、持って帰れるのなら、パンフレットにあったロゼのシュプリをお土産にしたいし、二軒目は葡萄を食べて育った葡萄牛の熟成肉の置かれた美術館通りのバーがいいなと思いながら、人目を避けて潜伏していた路地裏を仲間達と出たのだった。






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