254. 冬告げの舞踏会はあの会場です(本編)
その日の朝は、ウィームの山間部では薄っすらと粉雪が降ったらしい。
禁足地の森のあたりにも雪の痕跡があったので、夜間から夜明けにかけて雪が降ったのだろう。
いよいよ、冬の系譜の者達の季節になった。
「お互いに、今年は少しいつもとは違う装いだな」
鏡台の前に座ったネアにそう告げるのは、ひやりとするような純白の盛装服のウィリアムである。
いつもの軍服風のエッセンスもなくぐっと無駄を削ぎ落した装いは、その生地一つで終焉の魔物の美貌を引き立てるのだろう。
(…………王様だわ)
終焉の系譜の王なのでそれも間違いではないのだが、今日ばかりは、なぜか強くそう思った。
死の精霊達には教会関係者が多いが、彼等の先頭に立つ終焉の魔物は軍服姿だ。
戦場に出る終焉の系譜の者達の中には軍装の人外者も多いので違和感はなかったが、こうしてどこか静謐な装いに身を包んだウィリアムを見て、ネアは納得してしまった。
(いつものウィリアムさんは軍服で、恐らくあの姿がこの世界の終焉の魔物の本質なのだろう。それに、いつもの舞踏会での盛装姿もとても素敵だけれど、あの装いがどれだけ特別に思えても今日の装いとは身に纏う気配がまるで違うのだわ)
多分、今日の終焉の魔物は、終焉の中の王としての資質を意識した盛装姿なのだ。
上手く言えないが、そんな風に感じてしまった。
いつもは前面に出さない何かの要素を、今日は敢えて前面に出しているのだと。
聖衣を思わせる詰襟の上着は、禁欲的なまでに無駄がない。
鎖骨下程までぴったりと留められ、腰のすぐ上のあたりでひらりと大きく広がる仕様である。
何枚かの帯状に広がる上着にはエーダリアの魔術書で見たような複雑だが美しい模様が織り込まれていて、裾部分にだけモミの木の枝のような植物の精緻な刺繍が施されていた。
他の装飾は一切ない。
前髪を上げ、いつもの水晶の小枝のような王冠をかぶり、けれどもその姿はこれまでになく荘厳なのだ。
細身のパンツは上着と同じ織り柄の白い生地であるが、模様があまり目立たないようになっているらしい。
同じ柄の織物を、糸を変えて織っているのだろう。
詰襟の襟元のカットや、服裾に使われる繊細な曲線の輪郭からなのか、直線的な強さよりは優美な印象を得るのも特徴的だ。
(朝日に照らされた新雪のような白に、織り模様の部分だけ複雑な青みの入る白い糸が使われているのだけれど、………見る角度によって色味を変える不思議な色をしている)
どちらかと言えば、ディノの装いに使われそうな白と多色性の白を組み合わせた織布は、終焉の様々な資質を織り上げたものなのだとか。
仕立て妖精の女王が仕上げたものですらなく、ウィリアムが魔物として持つ装いの一つである。
「俺の軍服や、シルハーンの普段の装いと同じようなものだな。魔物でも数柱だけだが、その役割に応じた装いを持つ者がいる。俺の場合は、今の姿と普段の軍服なんだ」
「…………ずっと、どうして死の精霊さん達には聖職者に混ざる方が多いのかなと思っていましたが、今日のウィリアムさんを見ると、そちらを選ぶのも不思議はない気がします」
「ああ。王族としての姿でもあるのに、どうしてだかそちらの要素もあるとよく言われる」
「ええ。とても、…………王様という感じがするのに、信仰や聖域や、…………何かそのような台座の上の方にも感じられてしまうのが不思議です」
この素敵さをどう言えばいいのだろうと、荒ぶる思いに両手を握り締めたネアの姿にくすりと笑えば、いつものウィリアムにも見える。
けれども、ふっと目を伏せるだけで、何を考えているのか分からない人ならざる者という感じがした。
ふと、いつもより髪が少し長い気がしたのだが、髪型自体を変えているので定かではない。
(錫杖を持っている時のディノが、みんなが言う、シルハーンという感じなのだとしたら、今日のウィリアムさんは、気安く触れてはいけない終焉を示す名前の方が似合うのかしら)
「おっと。…………あまりじっと見つめられると、少し照れるな」
「いつもとは違う装いには、理由があるのですか?」
「端的に言えば、漂流物を冬告げの領域に入れない為だ。…………どこでもない場所で季節を切り替えるという行為そのものが、一つの境界や対岸として確立することがある。ネアも、あわいを彷徨う者達に、季節の舞踏会の外周で再会したことがあるだろう?」
「師匠たちに会った事があります!」
「そうして、結び易いものなんだ。だからこそ今年は、招待を受けていない者は一人として入れない冬告げの舞踏会になっている。…………ネアが知っているこれ迄のものよりは、儀式的な側面が強いかな」
「むむ!」
何度か連れて行って貰っても、季節の舞踏会はいつだって特別な場所だった。
一つとして同じものではなかったし、ある程度の想像を持っても見惚れてしまう程に美しい。
季節そのものの美貌だけでなく、知り得ないそのふくよかさをも見せる、素晴らしい舞踏会である。
だが、そんな舞踏会がまた新しい側面を見せてくれると聞けば、この季節が大好きなネアは目をきらきらさせてしまうより他にない。
「例えば、これが春や秋なら、君を連れて行く事は出来なかった。でも、今年の会場はダムトクラムになっているからな。イブメリアの庭の愛し子として、ネアも正式な資格者となる」
「と、ということは、またあの素晴らしい飾り木が見られてしまうのですね!」
「ああ。十日ほど前までは確定ではなかったんだが、ダムトクラムに決まってくれて良かった。ネアは、クロムフェルツとの相性がいいからな」
「もしかして、この髪飾りになったのもそのような理由があるのでしょうか?」
「ああ。このくらい主張してもいいだろうと、各所との連携が取れたんだ。やっと使えるようになった」
「かくしょ…………」
それは一体どこなのだろうと首を傾げ、ネアは鏡の中の自分を見つめた。
本日の髪型は、結い上げずに下ろしてある。
耳上の髪を取って編み込みハーフアップのようにしてあるが、敢えて下ろしてあるのは美しい髪飾りを生かした髪型にする為なのだそうだ。
(……………綺麗。どこか、祝祭の乙女のような雰囲気で、でも温かみがあって)
自分で言うのもおかしな話だが、そう思ってしまうような仕上げをして貰った。
本日の髪飾りは、水晶にインクを落としたように青緑に色付く結晶石の枝葉を使ったものなのだ。
頭の曲線に這わせるようにして左側を覆っており、枝葉はモミの木とホーリートを合わせてあるのだとか。
実際の枝葉を夜と冬とイブメリアの祝福で結晶化させたものだと聞けば、その作成に一年かかったと聞いてもさもありなんというものである。
それだけ前からウィリアムがこの髪飾りを手配してくれていたのも嬉しいし、クロムフェルツが、髪飾りを作る為にホーリートの小枝をくれたという情報も素敵ではないか。
「………こうして髪に飾ると、思っていたよりも髪色に馴染むので、ずっと大好きになりました。結晶石に透明な色が入るので繊細な印象ですし、ホーリートの赤い実の部分の輝きが宝石のようで、けれども紫がかった深い赤なので上品だと思いませんか?細いリボンを色とりどりに垂らした下部分の飾りも、飾り木にかけるリボンタッセルのようですね……………」
髪飾りは耳の下あたりまで枝葉を伸ばし、その下で枝部分を束ねるリボンのような、リボン飾りが下がっている。
極彩色と言えばけばけばしく聞こえるが、こちらのリボン飾りは、ぐっと纏まっていて驚く程に上品に見えるのはどうしてだろう。
ふくよかな青緑に深いロイヤルブルー、熟した林檎のような深い赤に、清廉な白と淡い水色や菫色まで。
そこに結晶石を飾った飾り紐も組み合わせると、イブメリアの小枝をオーナメントごと貰ってきて髪飾りにしたようではないか。
大好きな祝祭の髪飾りを貰ってしまったネアは、すっかりご満悦であった。
「こんなに素敵なものを、有難うございます。……この髪飾りは、またどこかで使いたいです……」
「ああ。これだけの祝福を結晶化出来ることは滅多にないから、また使ってくれ」
「わーお。これでもかと押し込んできたなぁ………」
「お前は、いつの間にクロムフェルツに交渉したんだ……」
「ウィリアムなんて………」
魔物達はなぜかざわざわしているが、ネアはあまりにも気に入り過ぎて、何度も鏡の中で頭を傾けていたので、苦笑したウィリアムに首を痛めないようになと頭の位置を戻されてしまった。
(髪の毛をふわふわに巻いて貰っているから、この髪飾りの雰囲気が、より引き立つのだわ)
髪型が甘やかな代わりに、今年の冬告げの舞踏会のドレスには、こちらもどこか聖衣めいた趣がある。
なんと今年のネアのドレスは、初めてのパンツスタイルだった。
髪を下ろして少女的な装いにする代わり、ドレスのスカートではなく足首を綺麗に見せる位置までの細身のパンツ姿なのだ。
しかし、折り返したような帯状の襟はぐっと両肩や胸元を見せていて、ぴったりとした肘上までの袖や、腰回りなどが女性らしい輪郭を却って引き立ててくれる。
お尻の上あたりから広げて引き摺るトレーンのような背面スカートは、薔薇の花びらを重ねたようなフリルが繊細な美しさを示しながら、圧巻のボリュームであった。
(短め丈で足首が綺麗に見えていて、でもとても暖かくて、真珠飾りのある白い靴も合わせると何て美しいのかしら)
足の甲に回すストラップのある靴は、どこかバレエシューズやダンスシューズを思わせる。
だが同時に、男装的な美麗さに少女めいた印象を重ね、不思議な危うさを添えてくれた。
ただし、前面は腰回りの形がぴったり出るので、ある意味、ドレスよりも腰回りが無防備になる。
妖精のご婦人の横に立つのだけはやめておこうと、ネアはそっと腰を手のひらで覆った。
「ディノ、どうでしょう?髪の毛も終わりました!」
「ずるい……………」
鏡台の椅子から立ち上がると、まずは、カーテンの後ろに隠れてしまっている伴侶の魔物を捕まえに行くことにする。
ぱたぱたと駆け寄るときゃっとなって震えているが、いつも引っ張り出されてしまう魔物だ。
一緒にノアも隠れていたので、ネアは、諸共捕まえてしまおうとカーテンをえいっと剥いでしまった。
「ディノ、今回のドレスは………ドレス?は、どうでしょう?試着の日にも見て貰いましたが、髪の毛をやって貰うとこんなにも印象が変わるのですよ!」
「虐待した………」
「髪飾りがとても素敵なので、こちら側からも見て欲しいです!………不思議ですよね。ドレスのスカート姿よりも、この装いの方がなぜか儚げに見えてしまうのですよ」
「虐待する…………」
「むぅ。残虐な人間のように言うのはやめるのだ」
ディノはなかなか褒めてくれずに目元を染めて震えているばかりなので、ネアは、その隣にいる義兄にも自慢してみることにした。
「ノア。いつもと違うドレス………もう、区分が分からないのでドレスと言いますね!…………この感じも素敵だと思いませんか?」
「……………何でだろう。煽情的なドレスよりも、危うい感じがするよね。結婚しよう」
「ノアは私の義兄なので、結婚はやめておきましょうか」
「ありゃ。…………え、体斜めにしないで。何だろう、胸の下から腰の輪郭が虐待?」
「ネイ…………」
「ヒルドに睨まれたぞ………」
ネアは、見送りに来てくれたヒルドの前でもくるりと回ってみせ、妖精の目にもたいへん好ましい装いであるという褒め言葉を貰った。
なお、エーダリアはこの形式の舞踏会用の装いがあることに驚いており、ウィリアムにこちらの形で仕立てを頼んでくれた理由の魔術的な部分を説明されてから、一生懸命手帳に記している。
夏闇の竜問題でゼノーシュが不在にしており、リャムラなお言葉を貰えない乙女としては、こちらを見てお世辞でもいいので褒め給えと足踏みをしたが、気付いてくれる様子はなかった。
「アルテアさんだって、時には素直な言葉で褒めてくれてもいいのですからね?」
次にネアが標的としたのは、本日はリーエンベルクから一緒に出かける選択の魔物だ。
こちらはウィリアムに比べるとずっと華やかな盛装姿だが、やはり本人の嗜好らしく特別に華美な装いではない。
前髪を上げ、銀白色の毛皮の襟飾りのある片側の肩だけを覆う形のケープと、真っ白なクラヴァットが鮮やかな赤紫色の瞳を引き立てていた。
ジレや腰回りを巻いている腰帯には僅かに異国風なエッセンスもあったが、ヴェルリア風の夜会服を模してあるのだそうだ。
ウィリアムの装いの純白と比べると、僅かに薔薇色がかった温かみの白である。
「…………ウィリアムの執念深さがよく出ている装いだな」
「謎の評価が訪れました……。ディノは、褒めてくれないのですか?」
「……………凄く綺麗だよ。……………でも、何かが虐待する」
「ふむ。虐待要素不明は、初めての事例ですね………」
そんなやり取りを経て、いよいよ、冬告げの会場に向かう事になった。
出掛けている間の伴侶が寂しくないように、ネアはとっておきの砂糖菓子をディノに渡し、最近素敵な便箋を見付けたのでと、書いておいた手紙も渡しておく。
手紙まで貰った魔物は傾いてしまったので、そんなディノを支える役目はノアに任せておこう。
「では、行ってきますね!」
「…………うん。楽しんでおいで」
「シルハーン。今日は、ネアから決して手を離さないようにしますので、ご安心を」
「ウィリアムなんて…………」
「おい。片手はこっちだ。お前は、転移ですら事故りかねないからな」
「アルテア。今日は俺の同伴者なので、会場に着いたら一人で行動して下さいね」
「お前の信奉者の中に、単身での参加者がいなければだがな」
「あれ。面倒な相手がいても、ネアからは離れませんよ?」
なお、今年の冬告げの舞踏会は、特例的に一人参加が許されている。
漂流物の余波を受け、冬の系譜やイブメリアの庭に属さない者達の参加をぐっと減らしているのだ。
統括の魔物や、高位の人外者達はそれでも参加するが、余分な資質を持ち込まないように同伴者には厳しい選定がある。
そして選択の魔物は、これ幸いという感じでお一人参加を決めたのだった。
ふつりと揺れ落ち、窓辺に落ちる光の欠片のように、薄闇に青が滲む。
転移を踏んで会場に向かえば、やはりこの会場への訪れの際には、いつもの転移よりも青い闇を踏むようだ。
(……………周囲の温度が変わった)
ふわりと頬に触れるのは冬の冷気だが、不思議と凍えてしまうような寒さはない。
ただ、冴え冴えとした空気の清涼感だけが肌に触れて、ああ、いよいよ冬告げの舞踏会なのだと、その心地よさにうっとりとしてしまった。
「この会場が夜なのは、やはりイブメリアだからなのでしょうか」
「ああ。イブメリアの最央はやはり夜だからな。それに、夜には俺の、終焉の資質もある」
「夜は終焉にも近しいものだと、以前にミカさんが話していました」
「今回は、そのミカも参加する。これも特例的なことだな」
「舞踏会の会場を閉じて、冬の祝祭の魔術階位を上げるのですよね。ディノに教えて貰いました」
今年の冬告げの舞踏会は、真夜中の座の精霊王も参加するらしい。
ハザーナやディートリンデ達などの冬の系譜のいつものお客に、氷の魔物や雪の魔物は勿論のこと、今年はいつもなら参加しない階位の雪竜や氷竜も参加するのだそうだ。
だが、そんな竜達は会場の外周の森に集まるそうなので、王子の護衛で参加するというベージに会う事はないだろうと予め教えられていた。
ジゼルは別にいいのだが、ベージの盛装姿はとても気になっていたネアは消沈したが、会場の外周のホーリートの森の魔術を安定させるのが、そうして参加する雪竜や氷竜達の役割である。
他にも、氷の精霊や雪の精霊の王や王妃に満たない者達もそちら側なのだとか。
「今日の舞踏会は、二重の円環なのですよね」
「ああ。外側の円環の安定の為に、ジョーイはそちらに加わるそうだ」
「まぁ。ジョーイさんもそちらに行かれるのですね」
「ネビアはこちらだな。ヨシュアがどちらに加わるかは知らないが…………、おっと」
こうっと、雪混じりの風が小さく渦巻いた。
いつもはない歓迎にネアが目を瞠っていると、苦笑したウィリアムが、雪風の妖精が張り切って森に向かったのだろうと教えてくれる。
雪風の妖精は、まさか自分の進路に重なるように、終焉の魔物が現れるとは思わなかったのだろう。
目を真ん丸にして走り去ってゆく銀灰色の狼が見え、ネアは、初めましての妖精のもふもふ具合に打ち震えた。
「………も、もふもふ!」
「ネア、今日の同伴者は俺だろう?余所見はしないようにな」
「あんなに素晴らしい毛皮なのに、森の方の会場だなんて…………」
そして、相変わらず、イブメリアの森に囲まれた会場は美しかった。
葉先の丸いホーリートのような木々に囲まれており、その森では、冬夜のどこか優しげな闇の中で赤い実がぼうっと光っている。
会場には高低差があって、二階部分にあたる場所には大きな飾り木があった。
見事なオーナメントを吊るした枝を伸ばして天蓋のようにかかるその飾り木を、ぐるりと囲むように豊かな祝祭の森があるのだ。
「あの、森の切れ目から雪原が見えるのがとても好きなのです」
「おい、弾むな…………」
「ぐぬ。まだ、ウィリアムさんとアルテアさんしかいないのに……」
会場の入り口にはまだ人影がなかった。
だが、そのままゆっくりと進んでいくと、夢から覚めたように舞踏会の喧噪が伝わってくる。
ほんの数歩の距離の中に、きっと魔術的な境界があったのだろう。
ネア達が会場に入ると、入り口近くに立っていた者達が深々とお辞儀をした。
いつもより参加者が少ないと聞いていたが、それでも数多くの参加者達が一斉に挨拶をする様子は圧巻で、色とりどりのドレスがあちこちでふわりと翻る。
だが、人外者達は酷薄で高慢だ。
彼等が頭を下げているのはあくまでも終焉の魔物へであって、その隣にいるネアは、他の季節の系譜の者達よりは好意的にせよ、ちっぽけな人間の一人に過ぎない。
それを理解しているネアは、いつも、この時の表情に困ってしまうのだった。
こちらは添え物だと存じておりますと釈明しながら歩く訳にもいかないので、今日は大きな飾り木のオーナメントを必死で見ているふりをしておいたが、何とか誤魔化せただろうか。
しかし、そんな風に余所見をしていたせいで、ついつい周囲への気配りが疎かになってしまった。
視線を逸らす為に見上げていたオーナメントがあまりにも綺麗で、どうしても頬が緩んでしまう。
未だに魔術的な叡智を紐解けるだけの才を持たない人間は、いつだってこんな景色に心を奪われてしまうのだ。
そして、視線を下げた。
「……………む」
「おい、何をしたんだ…………」
「ん?…………なんでニエークが蹲っているんだ?」
「天蓋になっている飾り木から視線を下ろした際に、目が合ってしまったところ、あのようになったのです。…………ちょっと様子がおかしいのですが、大丈夫でしょうか」
「うーん、放っておくしかないんだろうな。……………元々、少し特殊だった筈だ」
「本当に、目が合った以外の事はしていないんだな?」
「とても疑われていますが、目が合う以外の何がここから出来るというのでしょう…………」
だがしかし、それ以外にも出来る事はあった。
美しい飾り木に目を奪われていたネアは、視線を下げてゆく中で料理のテーブルを発見していたのだ。
ついつい、まだたっぷり料理の載っているテーブルを凝視してしまい、尚且つ、その周囲に食いしん坊そうな敵がいないだろうかと視線で威嚇してしまう。
即ち雪の魔物は、たまたま料理のテーブルの近くにいた為に、少しだけ気の昂った人間に威嚇されたのである。
怯えてしまったようだが、そこはいい大人なので一人で立ち直って貰おう。
(……これもまた、狩りの女王としての宿命なのだろう)
狡猾な人間は何もなかったことにしてしまい、にっこり微笑んだウィリアムを見上げる。
すると、そんなネアのエスコートをしてくれている魔物は、ふっと薄く微笑み、ダンスの輪に誘ってくれた。
「ネア、飲み物もまだだが、今年は早めに季節の祝福を得ておこう。……………アルテア、俺達は踊ってきますが、一人で大丈夫ですか?」
「…………本気で言っているなら、二度と訊くな」
「言ってみただけですよ。……では」
くすりと微笑み、アルテアの側を離れる。
ネアは、一人参加の使い魔が寂しくなりませんようにという願いを込めて手をぎゅっとしてから離してみたのだが、なぜか余計な事を覚えるなと叱られてしまうではないか。
だが、そんなアルテアにはすぐに声をかけに行っている女性がいたので、ネアはよしよしと頷いておいた。
アルテアを見て目を輝かせたのは透けるような淡い金色の髪に綺麗な水色の瞳の女性で、ウィリアムによると冬星の系譜の妖精であるらしい。
普段はあまりこのような場所には出て来ない系譜だが、今年の漂流物対策も兼ねた冬告げの舞踏会には、必要な参加者として呼ばれているのではないかということだった。
「今年も踊ってくれるか?」
「はい。こちらこそ、宜しくお願いします」
微笑んで手を差し出してくれる終焉の魔物の王冠に、淡く淡く、頭上のオーナメントの煌めきが落ちる。
会場には粉雪が降っているが、その雪の結晶が参加者の肌や服に触れる事はない。
積もらずにきらきらと光って消えてしまう、不思議な雪なのだ。
差し伸べられた手に指先を預け直せば、深く微笑んだウィリアムはやはり美しかった。
いつもとは違うぞくりとするような見慣れない魔物の美麗さもあって、その無駄のない装いが、この会場の中で特別な存在なのだと知らしめるかのよう。
装飾過多の華美な宝剣ではなく、ただただ刃の美しい剣のようだと思ってしまい、ネアは、なぜ剣に例えてしまったのかなと慌てて首を振った。
すっと指先が切れそうなほどに怜悧な眼差しと、ウィリアムが剣を持つ魔物だからこそ連想したのだが、魔物には剣を司る御仁もいるので今の例え話は決して表には出さないようにしなければだ。
そして、オーケストラが音楽を奏で、最初のダンスが始まった。
まだ誰とも挨拶をしておらず、グラス一杯のシュプリすら口にしていない。
けれども、こんな風にダンスから始めるばかりの冬告げの舞踏会があってもいいのだろう。
雪と飾り木と、会場を囲む美しい祝祭の森と。
その中で、ああ素敵だなと思える音楽に体を預け、美しい魔物と踊る。
心が蕩けるような陶酔感はやはり、この会場の美しさが、ネアにとっての最上のものでもあるからだろうか。
何となくだが、ここが他の季節の舞踏会であった場合は、どれだけ美しい会場でもシュプリくらいは飲んでから踊り始めたような気がする。
「……………俺の左手の奥で踊っている竜達が見えるか?」
「はい。………初めてお見掛けする方々ですね」
「ああ。冬闇の竜の王と王妃だ。…………彼等も、舞踏会を儀式化する為だけに呼ばれた者達だな。いつもは見かけない参加者も多いから、俺の側を離れないようにな」
「黒髪に銀色の瞳の、とても綺麗な方々ですね。…………はい。今日はウィリアムさんから離れないようにします」
「……………手を離さずにいるくらいなら、意外に簡単だけれどな」
ネアが、食事の時は大丈夫かなと少し眉を寄せてしまえば、微笑みを深めたウィリアムに、ステップに合わせて耳朶に唇を寄せられ、そう呟かれる。
確かに、ネアの知る魔物達はダンスが大好きなので、踊っていればあっという間に終わってしまうということなのかもしれない。
だが、あまり器用ではない人間は、お皿の上いっぱいの料理をいただく際には、どうしても両手が必要になるのだ。
しゃりんと、頭上の枝でオーナメントが揺れた。
よく見れば結晶化しかけている飾り木の枝にも細やかな魔術の煌めきが落ちていて、こぼれおちる祝福の光が雪に転じて降っているのかもしれなかった。
いつもより足捌きは軽いが、スカートに相当する部分がふわりと翻る楽しさもある。
首元はディノから貰った真珠の首飾りにして、髪飾りとは反対側の耳に付けたヒルドの耳飾りは、透明感のある乳白色の石に擬態してあった。
「リンデルを付けてくれているのですね」
「ああ。これは外せないからな。戦場と違って、損なわれる危険がないのがいい」
禁欲的な装いのウィリアムの指には、皆で贈ったリンデルが鈍く輝いている。
その輝きに宿る温度が、どういう訳か色香のようなものになって冴え冴えとした静謐な装いを色付けるのだ。
(…………あ)
ふっと、体を屈めたウィリアムが、口付けを一つ落とした。
会場に来た時に感じた、清廉さを覚えた冬の冷気を思い出し、ネアは小さく唇の端を持ち上げる。
ふと、眩暈のように翳ったこの世界のどこかの裏側で、降り積もらない雪の代わりに足元に降り積もった白い花びらを踏んで、一人で踊っているような気がした。
けれどもそこは、見上げても大好きな飾り木がない静かで暗いばかりの森だったので、一つ瞬きをして、こちら側に意識を引き戻す。
「そうだね。君はこちら側にいるといい。やっと、正しい祝福の庭に戻って来られたのだから、私の治めるこれからの季節は安心して寛いでおいで。君にかけられた願いの輪に戻るのは、私の手が届かない時だけでいいだろう。……………今はもうない、遠い遠い昔の祝祭だ」
誰かの優しい声が、そんなことを言ってくれたと思ったのだが、気のせいだったのかもしれない。




