帰り道とサンタールのチェスト 1
ダムオンの国からの帰り道、ネア達は大きな湖の湖畔の町にいた。
これは、素敵な景色を楽しみながらな昼食でもという気分になったからではなく、列車の運行に乱れがあったので行程の一部を湖経由の船の移動に変えたのだ。
ざわりと風が通り抜ける木製の桟橋に降り立ち、ネアは湖の向こうの重たい灰色の雲を眺める。
こちら側の空は晴れているが湖の中央あたりは雨が降っていたし、更にその向こう側は既に嵐になっているようだ。
船の周りの水がひたひたと揺れ、けれどもまだこの辺りは穏やかだった。
「………あちらにあるという町は大丈夫でしょうか」
「幾つ候補地があるが、そこで何かを開けたか、崩したかしたようだな。…………境界になるものを幾つか渡っておけば問題はないだろうが、シルハーン、証跡は切れていそうか?」
「…………断定は出来ない状況かもしれないね。何の蓋が開いたのかが分からない以上は、最適な手を打つのは難しい。それにここまで届く程の異変がその結果だとすると少し気掛かりかな。…………ただ、あちらには近付かない方がいい」
「…………俺が確かめて来た方が早いだろうが、今回はそうだろうな」
魔物達のやり取りの不穏さに、ネアは眉を寄せた。
ディノが、列車が遅れている理由を聞いた途端にすぐに船に乗り換えると言ったので驚いたが、今迄は、復旧の見通しが立たないと判断したのかなと思っていたのだ。
だが、何やら深刻な事情があるらしい。
(…………今の会話だと、ディノが、アルテアさんにそちらの状況を確かめに行かないようにと釘を刺したみたいだった。という事はまさか…………)
漂流物だろうかとひやりとしたが、ネアが眉を下げていることに気付いたディノがすぐにその懸念は否定してくれた。
頬に触れた手のひらの温度に安堵の息を吐くと、ディノが優しく微笑んでくれる。
「この辺りの土地は、魔術基盤の関係で滅多に漂流物は現れないんだ。魔術の動きがゆるやかで重いと言えばいいのかな。長期的に何かを育むのには向いているけれど、違う層から上がってくるものには息苦しく入り込めない土地だと言われている。…………その代わりに、古い災いや魔術の残滓が、封じられたその時のまま残っている事も多い」
「………その掴みだけで、厄介なものがありそうな気がします」
「うん。………とは言え普段から何か問題がある訳ではないのだけれど、………今回のように、どこかでその蓋を開いてしまうと随分古い時代のものが現れることもある」
「この距離だと、嵐で守護や鎮魂を崩したのか、扉が開いて嵐になったのかも区別がつけ難いな」
顔を顰めて遠くを見たアルテアの前髪を、湖を渡ってきた風が揺らした。
ネア達が乗ってきたのは、大きな湖を経由する唯一の交通手段となる船なので、桟橋はそれなりに賑わっている。
下船用の階段は外されていたが、まだ周囲には荷下ろしを待つ乗客達の姿があった。
船員達が作業や補給を急いでいるのは、次の便では、停まっている列車からこちらの経路に切り替えたお客が増えると見越してのことだろう。
ネア達は、列車を降りた駅から転移で湖の方へ移動出来たので、一便早い船に乗れたのだ。
「この後は、どのような経路で帰るのでしょうか?」
「転移を踏んでもいいのだけれど、経由地や境界の切り替えを幾つか挟んだ方がいいだろう。まだ随分と離れているけれど、今回の問題が起きているであろう土地からは、線路と街道が少し困った位置に伸びているんだ」
「線路は、………こちらにも伸びていますね」
「ああ。有体に言えば、それが災いの誘導路になり兼ねない」
「ぎゃ!」
ディノ達は暫く桟橋から湖の向こうの暗い空を見ていたが、ここから一度右手に方向転換をし、北にある小さな国を経由してからヴェルクレアに入る事になった。
「今回は、街道がヴェルクレアに繋がっていることも問題かな。こちら側にいる私達が道を付けてしまうようになると、災いがついてきてしまうかもしれないからね」
「少し気になったのですが、…………それは、私達を標的にしてついて来てしまうようなものなのですか?」
「……ご主人様」
ネアがそんな問いかけをすると、ディノは悲しそうにしゅんと項垂れてしまう。
短く溜め息を吐いて説明を引き取ってくれたのは、アルテアだった。
「解放されたものが古いものかもしれないと話したな。…………俺やシルハーンが懸念する規模となると、階位によっては、こちらに気付いたときに見知ったものとして追いかけてくる可能性がある。……こちらを知るほどのものの残骸だという可能性があると言った方がいいかもしれないが」
「…………ぎゃふ。ぎ、擬態で隠れてしまえばいいのです」
いつもの気配などの調整では、意味がないのだろうかと思ったネアだったが、それが叶わない理由もあるようだ。
「今回は、異変に気付くのが遅れたんだ。ダムオンがその手の変異や災いを退ける防御策に長けているせいで、あの国を離れるまで死角になっていたからな」
「既に捕捉されているかもしれないと考えておいた方がいいだろう。ただ、認識阻害の術式は既に敷いてあるよ」
「ああ。………無駄かもしれないが念の為にな」
「もう少し早く気付けば、ダムオンに戻ってやり過ごした方が良かったのだろう。けれども、今からそちらに戻るのはもはや悪手だね。………それに、私達の移動から、この規模のものをヴェルクレアに呼び込むのは避けたい。今回の事件の動きを注視しながら、災いの注意を引かないように境界を挟むのがいいのだろう」
(そうか。だから、湖だったのだわ。……転移だと、物理的な距離を稼げても、境界を挟んだという認識にはならないのかもしれない?)
はたはたとスカートの裾を揺らす風は、心なしか先程よりも強くなってきたようだ。
であればこんな場所からは一刻も早く飛び出したいのだが、この先の動きは盤上の駒を動かすようなものであるらしい。
慎重に駒を動かさないと、後戻りが出来なくなる。
だからこそ、ディノとアルテアは先程から議論を重ねているのだ。
「近くに渓谷があるだろう。あれはどうだ?」
「いや、あの渓谷は橋の精霊の領地だから、却って招き入れてしまう可能性もある」
「確かに、……繋ぎか断絶かの精霊の資質を確かめている時間はないか。………雨の系譜の土地判別が難しいな」
「うん。境界になるような橋であれば、助けにもなるものだけれどね」
「となれば、手っ取り早いのはやはり国境だな」
「………そうなるだろう。ネア、場合によっては帰りが一日伸びるかもしれない。カードを借りてもいいかい?」
「は、はい!」
ネアが慌てて首飾りの金庫からカードを取り出すと、ディノはそれをアルテアに預けた。
どうやら伝達はそちらに任せるようで、代わりにネアをひょいと持ち上げる。
「少しだけ転移を挟むよ。線の違う列車に乗り換えて、そこから公共の転移門を使ってこの国の国境を超えよう。足の早いものではないといいのだけれど」
そう呟いたディノが、淡い薄闇を踏む。
転移独特の温度のない風にふわりと服裾が広がり、ぎゅっとディノの肩に掴まればもう、そこは美しい湖畔の風景から大きな駅の中に切り替わっている。
どことなく、サンクレイドルブルクの駅に似ているその場所は、商人達の経由地にもなっているのかとても賑やかだった。
どっと押し寄せるように駅舎の中の喧騒が届き、珈琲の香りや刷り立ての新聞のようなインクの匂いもする。
(………初めて見る大きな駅だわ)
ドーム状の屋根は硝子張りで、骨組みを隠さずに見せる建築技法のようだ。
とは言えそれが優美に見えるのだから、名のある建築家の仕事なのかもしれない。
行き交う人々は様々で、女性達の装いもどこか職業婦人的な凛々しさであった。
金髪の人達が多いので、そのような土地なのだろう。
「このような場合はね、水辺を超えることと、雑踏に紛れること。繋がらない線や、反対側のものを退ける為の境界として備えられたものを超えるのも有効なんだ。完全に捕捉されているのであれば、身代わりを残しておくのがいいのだけれど、こちらに気付いていない場合は却って状況を悪化させてしまうかな」
「そのような手を打つ為に、ここから列車に乗るのですね。切符が売っていそうなのは…」
「いや、この駅からであれば、三駅分の切符を俺が数枚持っている。元々、何かと使い勝手のいい駅だからな」
カードを閉じたアルテアがそう言い、ディノも頷いた。
湖畔を渡る風の冷たさはもう感じないが、賑やかな駅舎の中はどこか無関心さにも似た冷たさがあった。
薄曇りの日だからか、冬の入りということもあり窓から差し込む陽光は暗い。
どこか、冬の朝を思わせる灰色の光であった。
ネアはすぐに、手慣れた様子で改札に向かったアルテアに続き、人波を抜けて大きな円天井の駅舎を抜けると、ディノに持ち上げられたままホームに出た。
切符は列車に乗る際に確認する仕様で、濃紺の制服の駅員が出された切符にぱちりと切れ込みを入れる。
(…………ほんの少し前までは、ダムオンの工房で最後の買い物をして、出国手続きをしていたのに)
昨晩は美味しい料理を食べてぐっすり眠り、ネア達は、朝早くに起きて美しいアルバの街を楽しんだ。
開いたばかりの薔薇の蕾や朝の光にきらきらと輝く運河の水面を見ながら歩き、アルテアの買い物を済ませると、三人で地元では有名だと教えて貰った珈琲の店にも立ち寄っている。
その店の珈琲と、バターたっぷりのクロワッサンに似たパンに薔薇の棟蜜をかけたものをいただき、焼き立ての白ソーセージも添えて大満足でダムオンを出た筈だったのだが。
「………こうして、突然風向きが変わってしまう事もあるのですね」
「人為的な災厄は、出先の天気よりも読めないからな」
「以前にも、この辺りで似たような事が起きていたね。………同じ季節ではなかったかな」
「恐らくだが、この辺りの連中は、冬の蓄えをする際に余計な場所の蓋や扉を開けるんだろうよ。伝承や規則は、思いもかけず引き継がれずに途切れることも多いが、土地の冬の蓄えが大掛かりだというのも理由かもしれないな」
鉄製かなというタラップを踏んで黒塗りの木の列車に乗り込むと、こちらではあまり縁のない火薬のような匂いがした。
この列車の動力は黒薪石と呼ばれる石炭のようなもので、炉に入れると、火薬に似た独特な臭気を放つ。
少し鼻につくが、この匂いが列車のお客や荷物を狙う生き物を遠ざけるようで、敢えて改良などはしないのだそうだ。
(この列車で国境域まで。………そして、その向こうの国まで)
先程までダムオンから乗っていた列車とは繋がらない路線なので、そこで繋がりが途切れるという魔術的な認識を挟むことが出来る。
まずはこれで逃げ切れるのであれば、上々ということなのだろう。
だが、そんな列車に乗った時のことだった。
カードを開いたアルテアが、小さく唸るとざわりと擬態をかけ直して、旅の装いから見慣れた黒いスリーピース姿になるではないか。
白い杖まで持っていることが、とても不穏に思えた。
「アルテア?」
「開けられたのは、サンタールのチェストだ。駐在者がいたらしいな。外交筋を通してヴェルクレアにも通達があったらしい。ノアベルトには、こちら側の国境域を閉じるように伝えてあるが、………アルビクロムだと備えが手薄いかもしれないぞ」
「サンタールだったのだね。………どこかのあわいに流れたのだと思っていたけれど」
「という事は、あいつが目を覚ましたのか」
「…………む。なぜ二人で私を見るのですか?」
じりりと発車のベルが鳴る。
どこか生まれ育った国の風景を思わせるばかりか、このベルの音もあちら側のものに似ているのだなと思ったが、この土地がヴェルクレアで言うアルビクロムのような土地なのだと聞けば納得だった。
魔術的な要素が少ない為に、作られるものが人間の領域で偏るのだろう。
「サンタールはね、チェストの魔物なんだ」
「……………まぁ。怖さが半減しました?」
思いもしなかった名称だったのでネアがそう首を傾げると、アルテアが呆れ顔になる。
鋭い目で個室席の扉の方を一瞥したのでおやっと思ったが、幸い、車内販売の売り子が通ったようだ。
「言っておくが、国崩しもする階位の魔物だぞ。白というよりは白銀だが、侯爵位だ。成り立ちは宝石妖精や武器派生の魔物に近い。カルウィの前歴の国で、長らく宰相を務めた一族の持つチェストから派生した、秘密と災いを司る魔物だな」
「むむ。怖さが戻ってきました………」
「道具から派生したものだから、階位としてはこちらで対処可能なくらいだろう。ただ、彼は秘密を持つものや珍しいものが好きで、大きな秘密のある場所にこそ優位性を持つ」
宰相の一族が持つチェストには、長らく国を揺るがしかねない王家の秘密が隠されていた。
それを守る者やそれを狙う者達の強い執着が凝り、また、魔術的な効果をかけられたり剥がされたり、守護を受けたり呪われたりしている内に生まれたのが、チェストの魔物のサンタールである。
そして、珍しいものが大好きなその魔物にとって、ネアという人間の履歴はかなりのご馳走になりかねないらしく、秘密という区分に該当する履歴を持つネアは、サンタールと向かい合えば不利となるのだとか。
(チェスト………)
そこからどう魔物が派生するのか想像が出来なかった人間は、ひとまず脳内のチェストに手足を生やしてみた。
だが何だか物足りなかったので、狼尻尾などを付けてみる。
すると思っていたよりも可愛くなってしまい、ぐぬぬと眉を寄せた。
「むぅ。尻尾はあってもいいのですが、ぽいです………!」
「サンタールには、尻尾はないかな………」
「ここから国境域までは、どのくらいかかるのでしょうか?」
「二駅くらいだったかな」
「いや、二年前から新しい駅が増えて、三駅になっている。何も問題がなければそう時間はかからないぞ」
「はい。では、車内販売は見送って、素早く手持ちの飲み物などを飲んでいますね。ディノやアルテアさんも何か飲みますか?」
列車に揺られている僅かな間で、三人は一息吐くこととなった。
首飾りの金庫から水筒のお茶を取り出し、小さな紙のカップで魔物達にもお裾分けする。
今朝ホテルで作ってきたものだが、茶葉は手持ちの冬林檎と星蜜のものだ。
美味しいお茶は、どんな時だって心を和らげてくれる。
動き始めた列車の中でほんのり甘い紅茶で一息吐いていると、車窓の向こうにちらちらと雪が降っているのが見、ネアは目を丸くした。
(……………雪!)
ダムオンが比較的温暖だったのでなぜだかはっとしまい、椅子の上で背筋を伸ばしたご主人様を見てディノが雪だねと呟く。
降り方を見ていると積もるというほどではなさそうだが、灰色の空から舞い落ちる雪はとても細やかで、夜はかなり冷え込みそうだぞという感じがした。
ごとんごとんと、列車が揺れる。
アルテアはノアとカードでやり取りを進めているようで、時折顔を上げては、ディノと今後の行程や確認事項の細部を詰めるような会話をしていた。
そんな魔物達の会話を聞きながら、ネアは窓の外を眺めている。
(……………わ、かなり冷えてきた)
二つ目の駅を過ぎると、列車の中が随分と冷え込んできて、窓の外もぐっと暗くなる。
きんきんと音を立てて足元の暖房器具が唸り、けれども指先や頬は冷たいままで、ウィームの列車が冬でも暖かいことを思えば、この国での冬の列車利用はなかなか大変そうだ。
窓の外は灰色の街並みだった。
石造りの家々の中に教会の尖塔が見えたりもするのだが、心を惹かれるような景色というよりは寂寥を覚えるような色合いだ。
それが空の色のせいなのか、この土地の特徴なのかは分からなかったが、この先の国境域が今見えている景色より賑やかになるようには思えない。
(……………おや)
ぱらぱらと舞い散る白いものの中で、誰かが微笑まなかっただろうか。
伸ばした手は優美な獣のようで、その先には一人の瘦せぎすの男性がいる。
『………見付けた』
そして、その男性に向かって誰かがそう呟いたのを、白昼夢のように見た気がした。
何となく意識が重く、もしかして一瞬だけ寝ていたのかなと思い目を瞬けば、夢であるという感じもする。
だが、伸ばされた手がメランジェ色の肌だったと思えば、ディノ達が問題にしている魔物がカルウィの辺りで派生したに違いないというのが気にかかった。
「……………ディノ」
「何かあったかい?」
奇妙な白昼夢を見たのだと言おうとしたところで、アルテアが窓の外を見る。
「…………もう着くぞ。何かあったのか?」
「窓の外を見ながら少しうつらうつらしていたのか、メランジェ色の肌の方が、瘦せぎすの男性に向かって手を伸ばすのが見えたような気がしたのです。居眠りしかけの夢の可能性もあるので、今回はちょっと自信がありません…………」
「……どちらも、サンタールの特徴とは違うようだね。でも、留意しておいた方が良さそうだね」
「ああ。……………その瘦せぎすの男の、服装などは分かるか?」
「ぼんやりとした記憶しか残っていないのですが、全体的に茶色の服装で、旅人というよりは貴族的な雰囲気もある商人さんのようでした。………短くて淡い金色の髪で小柄な方でしょうか。瞳の色は、なぜか記憶にありません」
そこまで伝えてしまっても魔物達はぴんときていないようだったので、ネアは却って安心出来た。
特に誰かと紐付かないのであれば、起きているつもりで少し居眠りしていたのかもしれないと微笑み、列車を下りる準備にかかる。
(やはり、外は寒いかしら)
短い区間なので荷物などの問題はないが、それでも座席を振り返って忘れ物がないかどうかを確認してから立ち上がる。
前の駅での停車の様子を見ていると意外に早く扉が閉まっていたので、列車が完全に停車する前に個室を出ることにしたのだろう。
(…………寒い!)
びゅおんと風が吹き抜ける。
首飾りの金庫から取り出しておいたマフラーを首元に巻き付けておいたのだが、手袋も出しておいた方が良かっただろうか。
今回は恥じらわずに差し出してくれたディノの手を取り、何気なく横を見る。
「……………あ」
気付けば、思わずそんな声が漏れていた。
目を丸くしたネアに、ディノ達もその視線を追いかける。
そこに立っていたのは、夢の中で見た瘦せぎすの男だった。
だが、ネアが見た姿にとは何かが少しだけ違っていて、短いと思っていた髪は後頭部部分でちび結びにしているし、体型も細くはあるが丸めている背中を伸ばせばそこそこ高身長というグレイシア型なので、思っていたほどに小柄ではない。
でも、ネアが見た人物なのは間違いなかった。
なぜだかそう確信したのだ。
ばしゅんと音がして、列車の扉が開く。
降車する筈だった駅は、駅舎の奥に聳えたつような灰色の石壁が見え、思っていた以上に暗く閉塞的な景色だ。
その異様な暗さに僅かに眉を寄せ、けれどもネアは、そのまま予定通りの駅で降りるつもりだった。
「……………アルテア。ここは留まろうか」
だが、ぐっとネアの手を掴んだディノがそんなことを言うのだ。
アルテアもゆっくりと頷き、まるでネアを隠すように一歩前に出る。
「ああ。……………俺もその方がいいと考えていた。ネア、扉が閉まって少ししてから、先程の個室に戻るぞ」
「なぬ…………」
他のお客がやって来たので、扉の前を譲り、開いた扉から吹き込んできた凍えるような風に身震いしながら後退する。
ちらりと揺れた細やかな雪片がコートにつき、くっきりとした雪の結晶の形が見て取れた。
やがて、ネア達の後ろに並んでいた数人の乗客が全て降りてしまい、また、じりりと列車のベルが鳴る。
そして、戸口に立ったまま何かを考えている魔物達に挟まれたまま息を潜めていると、開いた扉が震えるようにゆっくりと閉じた。
その時だった。
はらりと、またどこかで白いものが揺れ落ちる。
今度は空から落ちてくる雪片ではなくて、風に揺れる長い髪のようにも思えたのは、気のせいだろうか。
「……………っ、むぐ?!」
だが、列車が動き始めた途端、ホームをゆっくりと歩ていく人影が見えた。
その姿を認め、思わず声を上げそうになってしまったネアを素早く抱き込み、ディノがぎゅっと抱き締めてくれる。
押し潰されそうな沈黙が続き、がたごとと列車が走る音ばかりが続く。
暫くして、まるで雲が晴れたように車窓から明るい光が差し込めば、誰かが深い息を吐いた。
雪はもう止んでいた。
列車の窓からは、打って変わって穏やかな青空が見える。
「……………もういいようだね。先程までの雪は、サンタールの影響だったようだ」
「ああ。この辺りではありがちな天候なので見落としていた。………狙いを付けられた男は、アクスの現地会計だな。精霊混じりの妖精で成り立ちが珍しい。………少し時間を置いてからにするが、アイザックには連絡を入れておこう」
「うん。…………どこで目を付けたのかは分からないけれど、先程の者も船に乗っていたと思うかい?」
「いや。………恐らく別経路だな。だが、あの男も嵐の近くにはいた筈だ。俺達とは別の方向から、同じような回避策を取る為にこの国境域に来たんだろうよ」
「………も、もう、大丈夫なのですか?」
そう尋ねると、こちらを見たディノが安堵の眼差しで微笑んだ。
そんなに厄介な相手なのかと思えば不安になるが、秘密を糧にする者の執着はなかなか削ぎ落とさないのだとか。
「秘密は幾つもの形があるから、その執着や興味がどう向かうのかは本人以外には分からないんだ。好意からの執着と、悪意だけの執着とでは質が違う。後者のものを向けられた場合は、今後かなりの手立てが必要になるところだった………」
「…………今回は、特に目覚めたばかりだからな。成り立ちが善良なものではない以上、飢えて向ける思いが善良なことはあまりない」
だからこそ、ディノ達はチェストの魔物をここまで警戒していたようだ。
執着や興味は、状況の良し悪しに関係なく、持ち手がもういいと思うまでは継続するものである。
どれだけ高位の魔物達の守護があっても、秘密の領域に立つ者達は獲物に忍び寄るのも得意なのだ。
「だから、君がその標的にされなくて良かった。場合によっては、アルテアや私が標的にされた可能性もある。………でも、もう問題なさそうだね」
「………雲が晴れたということは、あいつの領域下から抜けたんだろう。………ったく、紛らわしい狩りをしやがって」
「ひ、一安心です!………そして、次は終点だとアナウンスが入りましたが、どこに向かうのです?」
「……………ダオンの森か」
「ダオンの森だね………」
「どこなのだ……」
あの駅でチェストの魔物をやり過ごすことばかりに集中していたらしく、魔物達はこの列車の行き先をあまり真剣に考えていなかったようだ。
そのダオンの森は、聖女の墓と呼ばれる歴史地区なのだそうだ。
なお、あまりにも森が深く、集落めいたものもほぼ何もないらしい。
とても深い森で、暗くじめじめしているのも特徴なのだとか。
「転移でしゅばっと帰れるのですよね?」
「…………とは言え隣駅だろ。そちらが片付くまでは、目立った動きは取れないぞ。折り返し列車に乗るのも当然なしだ」
「まさか……」
「…………聖女に纏わる土地であれば、グラフィーツが魔術の道を持っているかどうか、聞いて貰うかい?」
「あいつが来る時にサンタールの目を引いたら元も子もないだろ。確か、カルウィの水竜関連で揉めた事があった筈だ。サンタールとはあまり相性が良くない」
「………やめてこおこうか」
「ま、まさか、こんやはのじゅく的な……?」
悲しみに打ちのめされた乙女を乗せたまま、列車は、終点の、あまりにも何もない駅に到着した。
素敵な家具の国の旅行から一転、ネア達は、チェストの魔物のせいで、じめじめした森での野宿の危険に晒されている。




