ダムオンと慰安旅行 2
慰安旅行にダムオンを訪れているネア達の次の目的地は、椅子の工房である。
だが、歩道を歩くアルテアが何度か通り過ぎる工房を横目で見るので、恐らくは、優先順位上切り捨てているものの、時間の猶予さえあれば覗いていきたい工房は他にもあるのだろう。
だが、今回の慰安旅行先のこの街には、ネア達にとって予期せぬ敵がいた。
カタログを手により良い家具を得るべく進む選択の魔物から、買うべき商品を奪うかもしれない他の滞在客達である。
よって、寄り道は厳禁なのである。
アルテアは、相変わらずご主人様をストールかけにしたままカタログを覗き込んでいた。
もはやここまでくると、あのカタログだけ書かれている事が変化するのかもしれない。
ネアはふすんと息を吐き、三つ編みを持たせている伴侶を見上げ、少しだけ眉を下げる。
こちらを見たディノが、光を孕むような水紺色の瞳を瞠ってから淡く微笑んだ。
「喜んでいるようだから、心配しなくていいだろう。………彼は選択だから、もしかするとこの旅先は思っていたよりもいい影響を及ぼすかもしれない」
「もしかして、健康にもいいのですか?」
「望ましい選択を重ねるということは、彼の糧にもなるからね。だからこそ、元々このようなものを好むのではないかな」
「家具選びが、健康にいい…………!」
国さえ滅ぼす凄艶な魔物に向ける言葉の響きとしてはなし寄りだが、ご主人様の立場で聞くには嬉しいお知らせである。
ネアは喜びに小さく弾み、その弾みを受けて三つ編みを引っ張られた魔物もきゃっとなった。
(………でも、水分補給も健康の要だから、どこかで飲み物も買えるといいのだけれど)
ダムオンの国内では、転移が禁じられている。
これは家具泥棒を入れない為の措置であったが、近年では、転移で工房にいきなりお客が押し寄せるのを防げると、職人たちの心の平安の為にも一役買っているそうだ。
なので先程の工房までは少し距離のある椅子工房に向けて歩いているのだが、ネアは、進路上にある小さな珈琲の店を見落とさなかった。
「ディノ。あのお店でさっと珈琲を買い、アルテアさんにも飲ませましょう」
「飲ませてしまうのかい?」
「はい。私ですら家具選びで喉がからからなのですから、きっとより長い時間悩んでいたアルテアさんは、もっと水分を欲している筈です!」
ネアが声を潜めてそう言えば、ディノははっとしたようにアルテアの方を見ている。
心配になってしまったのか少しだけしょんぼりしたが、ネアは、そんな魔物の王様の力を無駄遣いして、珈琲のお店の料金の数字を少し離れたところから読み取って貰った。
「ふぅ!料金ぴったりで用意しましたので、素早く買う任務に入りますね。アルテアさんにはそのまま歩いていただき、我々は珈琲を入手してからすぐさま追いかけます」
「追いかけるのだね。……………持ち上げようか?」
「そちらの方が早いです?」
「うん。その方が早いのではないかな」
「ふむ。では飲み物がこぼれないように注意もしつつ、その作戦でいきましょう」
幸い、進路上の店には予め牛乳を入れた珈琲が用意されていた。
保温性のあるポットで準備されているその飲み物を、ネアはおまんじゅう祭りの時と同じくらいの素早さで買い上げ、すかさず伴侶の魔物に乗車して気付かずに先に歩いていってしまった使い魔を追いかける。
なお、このダムオンは、ウィームと同じ街角にゴミ箱を設置している国だ。
定められた七つの街だけの運用だが、ウィームに調査団を派遣して管理の仕方を学んだ歴史があるらしい。
その理由が、職人が飲み終えたカップの捨て場所に苦労したり、迂闊に飲み物を持ち込むお客がいないようにという心遣いだと知れば、どこまでも家具の国という感じがする。
そして、そんな街づくりのお陰で、飲み物を移動中に楽しむことにも向いているのだった。
「アルテアさん、ひと口如何ですか?」
「………ああ。珈琲か。珍しいな」
「熱いので気を付けて下さいね。上にクリームが乗っているので熱々ではないとは思いますが………」
「……………まずまずだな。お前が好きそうな味だ」
「喉が渇いているのなら、もう少し飲んでいいですからね」
「ああ。…………椅子工房からこの経路を使えば、もう一つの工房も見れそうだな。……………やはり、この角の処理の仕方は、グルムの工房の影響がありそうだ。弟子の一人だったのかもしれない」
悲しい事に、ネアはすぐにカタログに夢中の使い魔に忘れられてしまい、渡した珈琲のカップは空っぽで戻ってきた。
喉が渇いていたようなので水分補給してくれたのはいいのだが、こちらとて、クリーム乗せの珈琲を飲む予定だったのだ。
幸い、通りには珈琲や紅茶の店が多く、ネアはすぐにまた新しい飲み物を入手した。
次なる商品は、シナモンなどを入れ牛乳もたっぷりの紅茶で、こちらはディノと分け合いながら美味しくいただく。
「ここだな。ホップスの工房だ。クシ工房との間にあるので立ち寄っていくぞ」
「まぁ。久し振りにアルテアさんと目が合いました」
「何だ。拗ねてるのか?」
「ぐる。…………このストールは、回収して下さい!」
「いや、何でお前が持っているんだよ」
「……………思っていたよりも、理不尽な仕打ちを受けています」
アルテアは、か弱い乙女をストールかけにしたことは忘れてしまったようだ。
眉を寄せてストールを回収すると、どこかに仕舞っている。
もっと早くそうするべきだったのだとぎりぎりと眉を寄せ、ネアは、すっかりほこほこになり過ぎた首元を手で扇いだ。
「ネア、ギモーブを食べるかい?」
「食べまふ………」
もぎゅもぎゅとギモーブを頬張り、ネアはきちんと食べ終えてから指先を拭いた。
歩きながら飲んだ紅茶のカップも、工房の手前にゴミ箱があったので捨てられている。
ホップスの椅子工房は赤く塗られた可愛らしい椅子型の看板がかかっていて、木造の建物だ。
工房の周囲にはカモミールのような花が沢山咲いており、青林檎に似た香りが何だか素敵ではないか。
だが、工房の建物が随分と細長く、入口が見当たらない。
「随分と、長細いのだね」
「これは多分、……入り口が、ぐっと奥になっているようです」
「工房の中で、資材類を作業工程順に並べているんだろう。染色や薬の魔術師の工房で時々この形がある」
「ふむふむ。意味のある形状なのですね」
ネアは久し振りの使い魔との会話を楽しもうとしたが、アルテアは、工房の入り口から出てきた二人連れの男性を見て表情を曇らせた。
出てきた男性達はこちらを見て鷹揚な表情になったので、先に買い物を出来た者の余裕だろう。
椅子を買う予定は微塵もないネア迄なぜかそわそわしてしまい、先を越されたような悔しさを噛み締める。
会釈して擦れ違うなかなかに礼儀正しいお客だったが、同じように微笑んで会釈を返しながらも内心は悔しさでいっぱいだった。
「………き、きっと、あの方達が帰ったところで仕上がって出される椅子などもある筈です」
「ご主人様…………」
「それか、我々とは全く違う趣味で、欲しい椅子は全部残っている筈なのですよ!」
何しろ個数制限がある。
そう信じてホップスの工房に入ったネア達だったが、カタログ掲載のあった新作の椅子は買い尽くされた後だった。
白木というよりは硬質な素材の椅子で、張られたクッションが青色の布地という素敵な椅子だっただけに、もう一度言うが椅子を買う予定は微塵もないネアですら悔しさに足踏みしてしまう。
お目当ての椅子の完売を知ったアルテアは暗い目をしていたが、何百あるのかなという椅子を足早に見回り、それでも欲しい物を見付けたようだ。
幸いそちらは、二脚一組のものだったので一点の計算となり、安心してのお買い上げとなったらしい。
穏やかな微笑みの似合う女性の工房主の隣には、二人の青年姿の妖精がいてこちらを見て警戒のあまりに震えているのは魔物達の美貌故だろうか。
工房主の女性はあらあらと笑っていたので、よくある事なのかもしれない。
しかし、この辺りからネアの心はお腹が減ったなという別の欲求にも傾き始めた。
何しろ今日は、早めに昼食を差し込む予定で、朝食すらまだなのだ。
「素敵な椅子が沢山ありましたね」
「君は、買わなくて良かったのかい?」
「はい。見ていると欲しくはなるのですが、今のところ足りない椅子はないのでこちらは見送る事にしました。アルテアさんも、お買い物が出来たようで良かったです…………ほわ」
「くそ。お前に買いにいかせるんだった…………」
「それはまさか、あの妖精さんが警戒するあまり、招待状が貰えなかった的な…………」
「工房の商売に私情を交える方がおかしいだろうが。だが、あの仕上がりの良さは椅子の妖精の守護あってのものだろうからな。………はぁ」
「椅子の妖精さん…………」
ネアは妖精の謎感にまた驚き、優美な美貌だった二人の青年がどういう経緯で椅子から派生したのか、椅子の妖精達は椅子の解放運動を行ったりするのだろうかという謎に包まれながら、次の工房に向かうことになる。
時刻は明らかにお昼時だが、この様子では次の工房を見終わらないとアルテアは止まらないだろう。
遅い昼食もやむなしと渋面で頷き、ネアは今迄よりも少し早足の使い魔を追いかけた。
(お目当てだったクシ工房の椅子が、残っているといいのだけれど…………)
ネアも持っているカタログを見れば、クシ工房は少し他の工房から離れた場所にある。
今のホップスの工房は、ちょうど前を通るので立ち寄った方が効率的だったのだが、先程の男性達がアルテアの狙っていた椅子を買い上げている以上、少なくとも椅子の好みは似ているのだろう。
こうなると、アルテアが足早になってしまうのも無理はない。
(そして、これはもはや慰安旅行になっているのか、元気になるのか落ち込んでしまうのか、なかなか難しい展開になってきたのでは………!)
ネアは時々小走りになりながらも珍しく何も気が回らない使い魔を追いかけ、今度は、通り沿いから一本山間の方に細い道を登った先にある、クシ工房に辿り着いた。
到着時には既にぜいぜいしており、心配したディノが頭を撫でてくれる。
「ネア、ここを出たら持ち上げようか」
「……………ふぁい。登り坂はいけませんでした。アルテアさんはもはや平常心ではないので、こちらで自衛しないといけませんね…………」
「うん。……………あのようになってしまうのだね」
「せめて、心から楽しんでくれているといいのですが、現状は少しの悔しさを抱えているような気がします。この工房に先程の方達が来ていないといいのですが………」
然し乍ら、先程の二人連れはクシ工房にも来ていた。
そして、まだ工房内で買い物をしていたのである。
(ま、負けてなるものか!)
荒ぶったネアはすぐさま工房の一番奥側の方に突き進み、まだそちらのお客達が見ていないと思われる商品に鋭い目を向ける。
どんな時もお行儀よく手前からじっくり見ていく派のアルテアは置いてきてしまったが、人間は、時として小狡い買い方をするのだった。
「……………まぁ」
そしてネアが見付けたのは、美しい夜結晶の椅子であった。
元は樫の木だったものが夜の光に染まって夜結晶化したようで、椅子本体は菫石のような鈍い灰紫色。
そして、座面にはくすんだ白緑色の織布が張られている。
決して華美ではないが優美で古典的なデザインで、ネアはその椅子にすぐさま目を奪われてしまった。
(これなら………)
「おや、良い品だね」
「はい。これを確保しておきますね!」
「確保…………」
「アルテアさんの、本邸の壁の色にぴったりなのですよ」
ネアはすぐさまそちらの椅子の値札部分に、購入検討中の札をぺたりと貼って工房の職人を探した。
その際、決してお目当ての椅子の前を離れないのは、最初から世界を信じていないからである。
やがて、先に奥の方に駆けて行ってしまったお客を追いかけ、老人姿の男性がこちらにも来てくれたので、ネアがこの色でいいかどうか確認をするので少し待って欲しいと伝えると、微笑んで頷いてくれる。
「この椅子は、使う環境を選ぶものですので素材の良さの割には安価なのですよ」
「肘置きのところに薄っすら星屑の光も入っているのに、他の椅子よりもぐっとお安いのが驚きでした。環境は、陽光の品物と一緒にしないというだけで大丈夫なのですか?」
「ええ。ですが、陽光の系譜のものではない照明は高価ですからね。意外にその条件が難しいお客様が多いようです」
そんな説明をしてくれる小柄な老人は、背中に薄い水色の羽がある。
あまり見かけない二枚一対の羽だが、この夜結晶の椅子の置かれた少し暗くなっている区画に来ると、淡い光を宿してとても綺麗なのだ。
ネアはそんな老人と椅子の話をしている内に、すっかりこの椅子はお買い上げという気持ちになってしまった。
加えて、後からこちらの区画に入ってきた例の二人連れの男性達が、ネアの確保した椅子を見てそわそわしているのを横目で確認し誇らしい気持ちになる。
(このくらいの値段であれば、アルテアさんが欲しがらなくてもリーエンベルクのお部屋に使えるかもしれない。厨房の建物には陽光の品物もあるけれど、リーエンベルクはどちらかと言えば星明かりや雪明りが多いもの)
だが、二人連れの男性達に遅れてやって来たアルテアは、ネアが押さえておいた椅子を見せると、無言で深く頷いたので、この椅子は選択の魔物のお持ち帰りで決定だ。
アルテアは、ネアが話していた妖精の職人からもう一度椅子の特性を聞き直し、満足気に微笑みを浮かべる。
「よし。よくやった」
「アルテアさんのお屋敷に、ぴったりの色合いでした」
「ああ。寝室の書き物机の椅子をそろそろ新調する頃合いだったんだ。この素材なら、元からある夜の祝福石の机とも相性がいい」
わしわしと頭を撫でて貰い、ネアはふんすと胸を張る。
もはや当初のわいわいお買い物をするような慰安旅行感はなくなり、競合相手との駆け引きが必要な買い付けの戦いの旅になったが、ひとまずはアルテアがとても嬉しそうなのでこれでいいだろう。
なお、元々寝室にあった椅子は、素材の経年劣化部分を修理して布などを張り替え、別の屋敷にある工房で使うのだそうだ。
使っている家具類はそうして回してゆき、最後に商会や他の者に任せている工房に引き渡したり、古い家具を買い付ける商人に引き取らせたりするのだとか。
「いい工房だった。……思っていたよりも点数が増えたが、それに値するだけの品がある」
「私の部屋やお屋敷には合わないのですが、奥の上の段に置かれていた木漏れ日の椅子もとても素敵でした。きっと、あの椅子の似合うお部屋を持つ方に買われていくのでしょう」
「…………木漏れ日の椅子?」
「はい。綺麗な檸檬色の布が張ってあって、………ほわ。アルテアさんが消えました」
「アルテアが……………」
ここでアルテアはその椅子を確認しに戻ってしまい、結果として、クシ工房では四脚の椅子の買い上げとなったようだ。
残りの引換券を見て暗い目をしている使い魔に、ネアは、こちらにまだ引換券があるのだとそっと伝えてやる。
幸い、工房主である青年の自信作ばかりを買い上げたのが良かったのか、今度の工房は、無事に招待葉書を貰ったようだ。
入国用にはどこかの工房からの招待状が一枚あれば充分なのだが、こちらのクシ工房は送付先登録などから新商品のお知らせなども送ってくれるそうで、そのような情報があれば今後の買い付けにも生かせるのだとか。
「よし。……………次は、運河沿いを下って机の工房だな」
「ふぁい。因みにそちらの工房は、市場にも近いのだとか」
「ほお。………あの市場も、なかなか掘り出し物があるからな。家具ではないが、食器や銀器などの店が多い」
ネアは密かに、市場での飲食店の攻略を狙っていた。
だが、今の発言内容からすると、蚤の市的な市場なのだろうか。
思惑が外れて震えているネアに、ディノがそっとギモーブを差し出してくれたので、悲しい思いでお口に入れる。
いつもであれば、こんな様子を見て何かを察してくれるアルテアなのだが、本日は何も届かないところへ行ってしまっていた。
「……………えぐ」
「ネア。……………別行動にしてみるかい?」
「せっかく、こちらから提案しての慰安旅行なのでふ。私はとても良いご主人様なので、このくらいは乗り越えてみせるのですよ………」
「慰安旅行は、乗り越えなければいけないのだね……」
「ですが、これからは、アルテアさんが悪さをしようとしたらお気に召しそうな家具を投げこむといいのかもしれません………」
「うん……………」
一応、次の工房に向かう道中でも、会話が成り立つこともあった。
街並みの説明や、かつてそこにあった工房の話などは歩きながらしてくれるのだ。
だが、ふいに挟んだ質問などには全く返答がないので、恐らく、前の会話は心の欠片も入っていない相槌のようなお喋りなのだろう。
これはもはや、途中でネアが誰かと入れ替わっていても気付かない程なのではないだろうかと思うと、果たして昼食の時間が取れるだろうかとますます心配になってしまうではないか。
「……………つ、つくえ工房です」
「この工房は、石造りなのだね」
「お住まいと同じ作りの工房は珍しいですね」
「ここは、元々書棚の大型工房があった土地だ。その工房主が死んで、今の机の工房となった。気象性の悪夢からの復興でこの辺りが再開発された際に、住居一体型で作られた工房だな」
「む。また少しだけ、こちらに戻ってきました…………」
「何だ。事故るなら、買い付けを終えてからにしろよ」
「ぐるる………」
へなへなになって到着した机の工房は、確かに素晴らしい商品が並んでいたのだろう。
小さな猫足の文机から、大人数で会議が出来そうな円卓までが並んでいて、机の脚を僅かに曲線的に仕上げ、細かな彫刻を入れるのがこちらの工房の特徴のようだ。
また、細やかな作業が得意なのか螺鈿を使って装飾した机も幾つかある。
「葡萄籠の装飾ですね。……………じゅるり」
「おい、反応がおかしいだろうが」
アルテアが購入を決めた机を見ていたネアがそんな反応になれば、螺鈿細工に対する反応がおかしいと、使い魔は怪訝そうにこちらを見る。
ネアは、淑女らしくにっこり微笑んで何も言わずにいた。
一応、首飾りの金庫の中には食事に相当するものも入っているのだが、ここは旅先なのだ。
お昼時は随分と過ぎてしまっているが、まだ旅先で何か美味しいものをいただくという野望が捨てきれていないネアは、ぎりぎりまで粘るつもりだった。
(おまけにこの国は、職人さん用にお店が充実しているから、美味しそうなお店や食堂があちこちにあるのだもの……)
そんな店々を、何軒通り過ぎただろう。
何という残酷さなのかと考えていると、心配したディノがそっと爪先を差し出してくれた。
こちらの魔物に至っては、心遣いは嬉しいのだが方法がとても斜めである。
だがここでも、ネアはにっこり微笑んで大事な魔物の爪先を踏んでやるばかりだ。
淑女は、旅先で思い通りにならないからといって荒ぶることが、どれだけ愚かなことなのかを知っていたのである。
(…………いちば。市場に行けば………)
よく見れば欲しいものがあったのかもしれないが、空腹のあまりよろよろしながら一応ぐるっと工房の中だけは巡り、ネアの机工房での冒険は終わった。
アルテアは二つの机を買い上げ、こちらはカタログ記載の新商品も残っていたようでどこか満足気である。
そして、やっと念願の市場に向かう時がやって来た。
「次は、市場だな。その後は、引換の残り的に、戻って書棚の工房に残りがあるかを見た方がいいだろう。もう一度、最初の工房に戻ってもいいしな」
「いちば!」
「この時間になると、工房も休憩に入るところが多くなる。その間に市場をざっと見て回るぞ」
「いちば!」
ネアは、途中魔物の乗り物も使ったものの、伸び上がったりしゃがんだりしながら工房の商品を見るという慣れない動きに疲弊した膝を労いながら、念願の市場に辿り着いてみせた。
到着してみれば、確かにこちらの市場は蚤の市的な要素が強いが、その一画には食べ物の店もある。
薔薇の生垣で囲まれた区画に色々な店が出ていて、思ったよりも賑やかだ。
何やら美味しそうな店もあるぞと素早く確認した後、ネアはここで漸く、きりりとした面持ちになって別行動を宣言することにした。
「アルテアさん、私はあちらの石窯チーズパンのお店に立ち寄りますので、好きなお店を見ていて下さいね」
「…………ああ」
今日の使い魔は色々な事を聞き流してしまいそうなので、伸び上がって腕を掴んでそう言えば、こちらを見たアルテアはふっと目を瞠ってから、ゆっくりと眉を寄せた。
ややあってから静かに頷いた様子から、か弱い人間には食事が必要だったことを思い出したらしい。
「市場の中にいてくれれば、ディノに探して貰って後から合流します。何か、食べ物などで買っておいて欲しいものはありますか?」
「いや。………なんで言わなかったんだ」
「む……………」
先程までとは温度の違う声にじっと見上げてみれば、久し振りにアルテアがこちらをちゃんと見ていた。
今回の対応には心があるぞと驚いてしまってから、ネアは、そんな使い魔が少しだけ途方に暮れたようにしていることに気付く。
市場には時計台があり、そちらを見てから小さく舌打ちしたような気がしたので、我に返って少し気まずい思いをしているのだろうか。
「今回の旅は、アルテアさんの慰安旅行なので、好きに楽しんで貰うのが一番だからでしょうか」
「だとしても、途中で声をかけろ。…………朝から何も食ってないだろうが」
「ですので、そろそろ何かいただこうかなと思っています。歩きながら食べられそうなものなので、アルテアさんの分も買っておきます?」
「ったく………」
「ぎゃふ?!」
急に持ち上げられてじたばたしたネアを抱え、アルテアは、そのまま石窯チーズパンのお店に向かうようだ。
どうやら、ピザ生地のようなパン地にチーズを包んで焼いてくれるお店らしく、チーズの蕩けるいい匂いに、ぐーっとお腹が鳴ってしまい、ネアは慌ててお腹を押さえる。
だが、ここは勿論、チーズと共にパンに包んでくれる具材を確認することも忘れなかった。
「秋野菜ときのこ、香草鶏肉に、ぴり辛挽肉があります!」
「一つにしておけ。書棚の工房を見た後は、早めに食事にするぞ」
「一つ………」
「……………二つまでだ」
「はい!」
「良かったね、ネア」
「はい。ディノは、どの石窯チーズパンにしますか?」
「…………ぴり辛じゃないのかな」
寒いと言うほどではないが、少しだけ冷たくなった風がさあっと吹き抜ける。
ネア達が選んだ店では、近くの工房で働く職人達も食事をしていた。
周囲を見回すと、市場のお客の半分は地元の住人のようなので、日用品などを買いに来るお客も多いのだろう。
飲み物は温かいものが珈琲と紅茶で各種類取り揃えられていて、香辛料入りの葡萄酒などもある。
職人の仕事には各工程があるので、本日分の作業などを終えた者達は葡萄酒を飲んでいるようだ。
そして、やっとの食糧を手にしたネア達は、座って食事が出来るベンチがあるので、そこで遅めの昼食を摂ることになった。
「あぐ」
「……………いいか。次からは、溜め込む前に必ず声をかけろ。いいな」
「……むぅ。怒り狂ってはいないのですが、何度も念を押してきます」
「アルテアは、どうしてずっと椅子になっているのかな……」
「ディノ。キノコの方も齧ってみますか?」
「……………ずるい。可愛い」
「そう言えば、……………どこかで珈琲を飲まなかったか?」
「まぁ。……………まさか、記憶がないのですか?」
「覚えていないのだね………」
(こんなにも無防備になってしまうとなると、今度からの買い付けも、私達が同行した方がいいのかしら……)
そんな懸念を抱きながら、ネアは美味しい石窯チーズパンを頬張った。
空腹だったからあまりにも美味しく感じてしまい爪先をぱたぱたさせていると、なぜかアルテアが、時折顔を覗き込むではないか。
キノコのチーズパンも食べたいのかなと思えばそうではなく、夜の食事は以前から贔屓にしている美味しいお店に連れて行ってくれるらしい。
なお、この市場でネアは運命の出会いを果たした。
ころりとした分厚い作りのマグカップのお店があり、色鮮やかで可愛らしい絵付けにすっかり魅せられて一つ買おうとしたのだが、あまりにも魅力的な色柄があり過ぎた結果、用途不明の四個のマグカップをお持ち帰りする事になる。
グラタン皿なども可愛かったのだが、そちらは使い魔ご愛用の食器が既に厨房に完備されているので、値段も踏まえて渋々諦めざるを得なかった。
マグカップは花などを生けてもいいそうなので、帰ったら早速庭の花を摘んで来ようと思う。




