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新しいものと古いもの

本日はお話は、新年号記念のアンケートで選んでいただいた三名+一名の「新しいものと古いもの」のお話になります。


品物に纏わる話というよりは、それぞれの人物の過去と現在の対比の話になっています。










【ノアベルト】




噎せ返るような花の香りの中で、軽薄で無垢な女達の笑い声がこだまする。

ひらひらと揺れるドレスの色に、微笑みを象る薔薇色の唇や、贅を尽くして作られたドレスに包まれた女性らしい秘めやかな約束を思わせる豊満な肢体。



『ノアベルト様は楽しい方ですね』




そんな微笑みで、誰かがこの頬に触れる。

またあの花の香りがして、にっこりと微笑んだ。



(ああ、僕は君達が大嫌いだ)



それでもその肌に触れて、悍ましい記憶に刹那だけ目を塞ぐ。

その為に触れた自分の情けなさに心がひび割れてしまい、冷たくなった手でひっそりと胸を掻き毟る。



全部燃えてしまった。

やっとここから抜け出せると思ったのに、大事なものをやっと見付けたのに、たった一つしかなかったその光は、踏み躙られて潰えてしまった。





「………っ、くしゅん!」



(あれ、……………)



その時、誰かのくしゃみが聞こえてきて、意識がふわりと起き上がった。


小鳥の囀りと肌を揺らす穏やかな風、そして誰かの手の温度を感じてそれをそっと握り締める。


繊細な指先の滑らかさは惚れ惚れとする程だが、考えていた大事な女の子の手にしては随分と大きい気がして、目を覚ましながら眉を寄せた。




「………………え、何で僕はシルの手を握ってるの?」

「うむ。ノアが眠りながら寂しくならないように、ディノの手を重ねてみました!」

「……………わーお」

「ネアが虐待する……………」



そう悲しげに呟いてはいたものの、シルもされるがままに手を繋いでいてくれたらしい。

何だかそう考えると心の奥がむずむずして、唇の端を持ち上げてしまう。



「…………今度はさ、ネアが手を繋いでくれると嬉しいなぁ」

「では、今年の火の慰霊祭の時にはそうしましょうね」



きっと却下されてしまうと思いながら、それでも言葉にする事を許されている環境を楽しむべく、甘えてみただけの言葉だった。


けれどもネアは、当たり前のように頷くと、今年は三人で並んで眠るのだと、シルに説明している。




「…………ありゃ」

「ノアベルトなんて…………」

「あらあら、ディノだって、私に引き摺られてなのか、時々ノアと呼んでしまうくらいに仲良しなのですから、三人でお泊まり会をしたらきっと楽しいですよ」

「ご主人様……………」

「あ、それ、僕も気付いた事があったかも。シルはさ、もう僕の義理の弟なんだから、そう呼んでくれても構わないよ」

「私が、君の弟なのかい?」

「うん。僕の妹の伴侶だからね」

「そうなんだね。では、兄弟になるのかな………。君を義兄と呼ぶべきなのだろうか?」

「………っ?!無理無理無理、確かにそうなんだけど、真剣に考えられると僕も恥ずかしくて死ぬから、やっぱり、今迄通りにしよう!!」



堪らなくなってそう言えば、シルにもその任務は負担が大き過ぎたようで、ほっとしたように頷いてくれた。



「……………!」



はっとしてネアの方を見ると、表情は豊かなのにあまり感情が表に出ないように見える面立ちの妹は、こちらを見てにんまりと微笑んでいる。



「ふふ、手まで繋いでしまうくらいですし、二人は仲良しですねぇ」

「うーん、僕の妹は、どうしてこんな悪さをするのかな」

「それは、伴侶なディノも兄で弟なノアも、私の大事な魔物だからでしょうか?」

「………………ずるい、ネアが可愛い」

「ありゃ、シルが死んだ…………」



胸の内のさざめきを隠してそんな事を呟き、こちらに微笑みかけてくれたネアの頬をそっと撫でる。


その温もりは涙が出そうなくらいに心地よくて、悪い夢が見せた遠い夜のように、嫌悪感や失望に指先が冷たくはならない。



(…………うん、僕はネアが大好きだ。シルも、エーダリアやヒルドも、このウィームやリーエンベルクや、そこに住む今の僕も、大好きなんだよなぁ…………)



古く汚れた壁紙は全部剥がしてしまって、新しく綺麗なものを丁寧に貼り合わせる。

その幸福感にほうっと息を吐いたところで、ネアが悲しい現実を放り投げて来た。



「さて。ノアを匿うのは一晩だけの約束でしたので、もう夜明けですから、起きて自立しましょうね。絨毯に引っ掻き傷をつけて怒っているヒルドさんに、早々に謝りに行く事を推奨します」



思えば、銀狐姿でここに匿って貰ったのだが、いつの間にかこちらの姿に戻っていたらしい。


あの追跡の苛烈さを思い出し、体に震えが走った。



「…………シル、僕の妹が虐待するよ…………」



そう哀れっぽく訴えたが、勿論それで解決する筈もなく。


銀狐姿になって、エーダリアが側にいる時を狙ってヒルドに謝りに行けば、か弱い姿に絆されることなくしっかりとしたお説教を始めてしまった友人に、尻尾をけばけばにして項垂れる羽目になったのだった。





【グレアム】




雨の降る静かな夜だった。

さあっと屋根や窓を叩く雨音に耳を澄まし、暗い部屋の中から、ウィームの街並みを見下ろす。


ふっと、街灯の光を映した濡れた石畳を足早に駆けて行く、赤い髪の女性が目に留まった。




『ねぇ、グレアム。私を大事にしなきゃ駄目よ?』



その手を取り指輪を渡した日に、彼女はそう微笑んで口付けしてくれた。

やっと彼女が伴侶になった喜びを噛み締め、滑らかな頬に手を添えて微笑み合った日のことは今でも覚えている。


けれどもう、その笑い声に胸を温め、美しい微笑みを見る事は出来ない。

彼女の好きだった夜明けの海を見に行き、二人でイブメリアの夜にウィームで橇遊びをすることもない。



なぜか、エヴァレインが狂乱し崩壊したと知った時の記憶は曖昧で、自分の狂乱が始まった時に、血溜まりの出来た地面に膝を突いた瞬間の濡れた感触なんてものははっきりと覚えていた。


慟哭に引き裂かれて喉を潰した瞬間のことや、大きな木の下で悲しげに微笑んでこちらを見たシルハーンの姿も。



(ああ、あの時に、俺にも見えたんだ……………)



いつもギードが話してくれた絶望の花びらが、はらはらと雨のように舞い散るのが確かに見えた。


壊れてゆく心を何とか繋ぎ合わせて繋ぎ止め、僅かばかりの正気の中から、シルハーンが涙を知らずに泣いているのを見ていた。



『お別れです、我が君』



そう言葉にした時に初めて、彼を一人にするのだと理解したような気がする。

背を向けて置き去りにしてゆくその後ろで、声にはならない万象の慟哭を聞いた気がした。



そうして彼が泣いていたからこそ、自分を残す算段を始めた瞬間だった。





コツコツと、扉が鳴る。



「…………!」



一度がたんと立ち上がってしまってから、そんな自分に苦笑して、ゆっくりと椅子を引いた。


ふっと息を吹いて薄暗かった部屋に魔術の明かりを灯し、テーブルの上に冷えた葡萄酒が用意されている事を確認する。



ウィームで人間として暮らしている部屋から見える景色に繋げた窓を一瞥し、この屋敷の窓から見えるべきものに戻す。




ウィームの窓に繋げたのは、ただの感傷だ。




最愛の伴侶と、彼女の死に狂乱した自分の死を過去に残したまま、長い月日をひっそり生きてきた。

そんな日々の傍らにあったあの景色を見てから、今日の客人を迎えたかったのだ。



まったく、子供染みている。




「……………やれやれ、俺は、完全に浮かれているな」




扉を開ける直前にそう呟き、客人を迎える前に溜め込んだものを吐き出してしまおうと、飾り気のない喜びのままに深く微笑んだ。


けれども、すぐに冷静さを取り戻せると思いきや、微笑みを深めてしまった口元を元に戻すのにはなかなかに苦労してしまう。


仕方なく、片手で口元を覆ってから扉を開けた。



「……………お待たせしました」



扉を開くと、そこには、擬態をしたシルハーンと、何かいい香りのするものを入れた籠を持ったネアが立っていた。



「………………うん」



出迎えの言葉に頷いたシルハーンは、訪問時の挨拶をどうすればいいのか分からなかったのか、すぐにネアの方を縋るように見た。

そんな伴侶に頷きかけて安心させてやり、ネアがこちらに進み出る。


「こんばんは。今夜はお招きいただき、有難うございます。これは、私の使い魔さんが焼いた美味しい桃のタルトなので、食後にみんなでいただけたらいいなと思って持って来ました」

「成る程、アルテアのタルトなんだな」

「ええ。一番美味しいデザートをと思ったら、ザハのケーキかアルテアさんのタルトでしたので、グレアムさんが普段食べ慣れていない方にしました」



勿論ネアは、先代の犠牲の魔物の息の根を止めたのがアルテアである事を知っている。


けれども、グレアムがそんなアルテアに感謝こそすれど、恨みはしていない事をきちんと理解しているのだ。


シルハーンはその籠をネアに手渡され、こちらにおずおずと差し出してくれる。

交わされた視線の柔らかさに、グレアムは言葉に出来ない喜びを噛み締めた。



(これからは、ずっと待ち望んできた、あなたの幸福を見続けてゆく事が出来る…………)



ただの傍観者としてではなく、関わり、言葉を交わし、時にはこうして共に食事をする。

それがどれだけの奇跡なのかを、目の前の万象の伴侶は知っているのだろうか。


目が合えば、拳を握って微笑みかけてくる彼女は、この訪問をグレアムがどれだけ楽しみにしていたのかは知っているのだろう。



その姿にふっと微笑みを深め、こちらを見たネアの頭を撫でてやりたくなった。



その鋭敏さや、ひやりとする程の豪胆さも、グレアムはこの少女をこの上なく気に入っている。


けれど、その思いの中の、混ざりけのないネア本人へ向けるものだけを示せと言われても、上手くはいかない筈だ。

グレアムにとってのネアは、気の遠くなる程の時間を孤独と失望の中で過ごした、グレアムの大切な王を救う者として認識されているのだ。



そこから始まった知覚には、シルハーンの伴侶であるこの人間への愛情が染み込み過ぎていて、今更、ネアだけに向ける思いをと言われてもそれを区別する事は出来ない。


きっと、彼女自身のこともかなり気に入っているのだろうが、グレアムにとってのネアはやはり、シルハーンの愛する女性なのだった。



「あまり得意ではないが、ネアが好きだというグラタンを作ってみた。ザハの料理長直伝のソースがあるから、そこまで酷くはない筈だ」

「まぁ、グラタンがあるのですね!それはもう、大急ぎで席に着くしかありません!」

「それと、シルハーンには、ネアに教えて貰ったグヤーシュを」

「…………グレアムが作ってくれたのかい?」

「ええ。実は、ずるをしまして。あなたの好きなものを用意したくて、ネアに教えて貰いました」



そう言えば、シルハーンは淡く微笑んだ。

その瞳はもう静謐な湖面ではなく、きらきらと豊かに波打ち煌めいている。



この方を一人になどするものかと繋いだ歩みを止めて、これからはこの幸福を見守る為に歩いてゆく。



(いつか、ウィリアムとギードとも、こうしてテーブルを囲めるといいのだが)



かつて密に語らった友人達は、もうそれぞれに新しい己の領域を見付けていたが、幸いにもグレアムは、それを寂しいと感じずに済んでいる。



“………念の為に、タジクーシャにも会員を滞在させておくように手配済みです”



和やかな夕食会の合間に、イーザと分け合った魔術通信のカードを見てくすりと笑う。

思想の持ち方は違えど、共通の趣味の友人はかけがえのない財産である。



正面に座ったシルハーンが、美味しそうにグヤーシュを飲む姿を見ながら、運命の数奇さと色鮮やかさにそっと胸を震わせた。





【アイザック】




その日は、大きな石の転がる山の斜面で行き会ってしまった砂兎に、テントに向かう邪魔をされていた。



「私を敵視するのは構いませんが、今夜この土地を訪れたのは、この周辺で局地的な障りが凝るという予報を受けたからです。その邪魔をする意味について考えては如何ですか?」

「ミュッ?!」



その一言で飛び上がった砂兎は、アイザックに一瞬で興味を失ってしまったものか、素晴らしい早さで駆け去ってゆく。



「やれやれ…………」



呟き、胸のポケットから取り出した細い煙草に火を点けた。

立ち上る紫煙は個人の嗜好でもあるが、この煙で敷いてゆく魔術もある。



特にこのような、アイザックの好む種の煙草が流通していない土地では、この魔術はより浸透の度合いを上げる。




「面白い魔術だね。煙で魔術を構築するのかい?」

「…………ルドヴィーク」



背後から声をかけられて振り向けば、薪のようなものを束にして背負ったルドヴィークがこちらに歩いて来た。


背後には気配はなかった筈なので訝しげにルドヴィークの後方を一瞥すれば、おやっという顔をしたルドヴィークが、この山にだけある特殊な魔術の道を使ったんだよと微笑んだ。



「昔からある古い魔術の道なんだ。母さんは、今はもういない山の神様が残したものだよって話していたけれど、家族の中では、今はもう僕しか歩かなくなってしまったかな…………」

「………ふむ。これはかなり特殊な魔術の織りですね。………古い時代の魔術に符号するので、前世界の魔術を扱う者が残っていたのかもしれませんね。……他の者は入れないのでは?」

「うーん、羊飼いのトードルや、シャスハマさんのところの双子の子供達もよく見かけるかな。………あ、麓の街に住む幼馴染のリフムも、太り過ぎて山に登れなくなるまでは見かけたよ」

「…………一度、名前の上がった隣人達に挨拶をしておいた方が良さそうですね」



そんな会話の合間にふと、小さな金属音がかちりと鳴った。


無言で内ポケットから取り出した懐中時計の蓋を開けば、踊るような金色の文字が浮かび上がる。


その内容としては、目をかけていた事業の一つが想定外の事態に直面しているようだという報告であった。



(さて、どうしたものか………)




この近くに発現すると予測を立てられている障りは、土地の人間達だけではどうにもならないようなものだ。


かつてのアイザックであれば仕事より優先させる物などなかったが、今はそこに、友人という新しい要素が加わっていた。

であるが故に不都合や不自由さも増えたが、アイザックはこの新しい感覚をなかなかに気に入っている。



(ここを離れることは出来ないな………)



商会からの問い合わせに関しては、現場で対処出来そうな者たちを指名しておき、蓋を閉じてまた懐中時計をポケットにしまう。




そして視線を戻し、愕然とした。



「ルドヴィーク、それは?」

「………ああ、すまない。仕事の連絡で時間がかかるかなと思って、久し振りに見付けた鳥を狩ってしまった。この鳥はとても物知りで、餌をあげると色々な事を教えてくれるんだよ」

「…………それは、雨降らしと呼ばれる生き物ですよ。なかなか扱いが難しいので、逃がしてやった方がいいかもしれませんね」

「…………っ、と、当然だ!私の翼から手を離せ、貴様の瞳など抉り出して…………っ?!」



ここでなぜか、自分を捕まえた人間を威嚇しようとした雨降らしは、ルドヴィークの片手で頭を撫でられてしまう。

目を丸くして固まっているその姿は、明らかに有翼の人型の生き物なのだが、ルドヴィークにとっては鳥の範疇であるらしい。



「霧が濃くなってきたから、怯えているのかな。こんな日は、大きな蛇が狩れるといいスープになるのだけれど、羊達がのんびりしているから今日はいないみたいだから、飲ませてあげられないかな」

「…………あなたと過ごしていると、古い固定観念を捨てて、認識を新しくする事が多いようだ。ですが、何度も言いますが、あなたの家族がよく鍋で煮込んでいるのは竜ですからね」

「細長いのに、竜なのかい?」

「咎竜の系譜の亜種だからでしょう。それと、…………っ」



なぜ、雨降らしの瞳が突然虚ろになったのかを、アイザックは続けて問いかけようとしていた。

頭を撫でられてたいそう困惑していたようだが、だとしても妙な戦意の喪失具合ではないか。



その理由を問いかけようとして、アイザックは気付いてしまった。



「…………ルドヴィーク、そちら側の肩にかけてあるのは?」

「ああ、これはあの喋る魚の刺繍なんだ。母さんが、神様達があの魚を嫌がるなら、山での獣除けにもいいんじゃないかって、あの魚の絵柄がたっぷり入った大布を作ってくれてね。………あ、疲れていたのかな。気絶してしまった」



ばさりと広げられた布からアイザックは巧みに瞳の焦点をぼかしたが、雨降らしはそうもいかなかったようだ。

精緻な人面魚の刺繍がある布を見せられて気を失い、どさりと地面に倒れた雨降らしの隣で、その元凶となった人間は翼が折れたら可哀想だと、慌てて調べてやっている。



「…………やはり、持ち帰るのですか」

「うん。海の向こうの話をして貰ったら、お礼に鍋を振舞って空に放すんだ。時々、また鍋が食べたいと言って、母さんに会いに来る鳥もいるよ」



言われてみれば、確かに鍋を振る舞うのはルドヴィークの母親だろう。

彼自身が食べ物を与えているのかとぎくりとしていたが、鳥達の執着がそちらにあるようだと聞いてほっとした。



「では、その鳥は私が持ちましょう。今日は、この近くの山で大規模な障りが出そうなので、様子を見に来たんです。夕方までで構いませんが、羊達は柵の内側に入れた方が良さそうですね。あちらの山では炭焼きをしている筈ですが、念の為に今晩は火を落とした方がいい。作っていたものが無駄になるとしても、命を落とすよりは良いでしょう」



ふと、こちらを見ているルドヴィークの眼差しに、眉を持ち上げる。

すると、悍ましい刺繍柄の布を肩にかけた友人は、君は山の事がよく分かるようになったねと小さく笑う。



なお、テントに連れ帰られた雨降らしを見て、ルドヴィークは、アフタンから山に返してくるようにと叱られていた。


どうも、以前に捕まえた鳥がルドヴィークの母親に懐き過ぎてしまい、高地に雨ばかりが降る困った事態に陥った事があるらしい。


その時は、プラータが猪除けの薬をかけて追い払うしかなかったそうで、それを聞いたアイザックは雨降らしが猪除けの薬で追い払えることを初めて知った。



「アイザック?」

「…………いえ。やはりここは、いつ来ても興味深い。足繁く通いたくなる土地ですね」


するとなぜか、その言葉を聞いたアイザックの友人は顔を曇らせるではないか。


「これからの季節は、羊の子供達が初めて山に出るから忙しくなるんだ。今年は羊の子が多いから、もしかすると、あまり会えなくなるかもしれない。僕がいない時この辺りの山を歩くなら、向こうの尾根のフェータラク爺さんは、黒いものは全部熊だと思って狩ってしまうから気を付けた方がいいよ」

「………私が、熊に間違われる可能性が高いと?」

「うん。アイザックは黒い服が多いだろう?良ければ、熊の罠の外し方を見ておくかい?とても臭いけれど、かかってしまってからでは遅いからね………」

「やめて差し上げろ…………」



アフタンの制止の声のお陰で、アイザックは熊用の罠から抜け出す練習をさせられる事は免れたが、山の向こうの尾根を散策する時には、熊ではないと分かるように色鮮やかな布を持つ事を約束させられてしまった。




「アイザック様が、ブーツのような靴を履かれるのは珍しいですね…………」



翌朝、アクスの執務室で新しく届いた革靴に履き換えていると、たまたま部屋を訪れたミンクに訝しげな目を向けられた。



「ランシーンで山を歩く時の為のものですから、重さもあるのでこちらでの仕事では履きませんよ」



これからの季節のランシーンの山歩きには、靴底に特殊な魔術が必要なのだと話せば、何かを手帳に書き込んでいたようなので、また良い商品が生まれるかもしれない。






【ネア】



真夜中に衣装部屋に脱走した伴侶にも、ネアの大事な魔物は嫌な顔一つせずに付き添ってくれた。



「こんな時間にばたばたしてごめんなさい。どうしても、けれどもなぜか、見ておきたい服があるのです」

「気になってしまった服があるのだね?」

「…………人間の業のようなもので、時折己の幸福を噛み締めたくなるんですよ」



ネアがそっと取り出したのは、保管用の袋に入れられたとっておきのセーターだ。

伸ばした指先でその滑らかで優しい手触りを楽しみ、ほうっと息を吐く。


心がふんわりと膨らみ、その豊かさに目を細めたネアは唇の端を持ち上げる。



「シャスフィックの王位交代の一報を聞いて、悲しくなってしまったのかい?」



そう尋ねたディノを振り返り、ネアは微笑んで首を振った。

ネアの心内を大きく揺らしたのは、確かにその一報であったので、ディノは目敏く伴侶の変化に気付いていたのだろう。



シャスフィックは、ヴェルクレアに国境を面する小さな国の一つだ。


ネアがこちらの世界に来るまでは、ロクマリアという大国の一部であった国なのだが、かつて同じ国だった他の土地の長引く混乱を背に、一足早く国土を固めた堅実な国である。


勿論、国境を面するからこそ、ヴェルクレアから差し伸べられた手もあったのだろう。



そしてその国の王が本日退位し、息子である王子が王位を継いだのだ。



(崩御の上での交代ではないのだから、私の経験したことのあるものとは、同じようなとのではないのだけれど…………)




鳴り響く弔いの鐘の音に、ぎくりと体を竦めたあの日を思い出す。


それはじりじりと太陽が石畳を焦がす暑い夏の日のことで、ネアがかつて暮らしていた国を治めた偉大な女王が崩御したその日、ネアはたまたま王宮の近くを歩いていた。


わあっと泣き出すご婦人や、動揺して顔を見合わせる衛兵達。

王宮の正門前からその向こうに祈りを捧げる人々の波を抜け、一人きりで暮らしている屋敷に逃げるように駆け戻った。



あの日のネアは一人きりだった。



クリスマスでも新年でもなく、ひどい嵐の日や大雪の日でもない。

けれどもそれは国にとっての特別な一日で、そんな悲報について言葉を交わす家族や友人が、ネアには誰もいなかった。



ネアから家族を奪い、ネアを怪物にしてしまった日のことを思い出させる黒いリボンと白い花が国中に溢れ、あちこちの教会が弔いの鐘を鳴らす。



胸が張り裂けそうな孤独の中で、ネアは誰もいない部屋でそのニュースを聞いていた。




「………実は先程、前の世界で暮らしていた時にとても悲しかったことを、ふっと思い出してしまったんです。私の暮らしていた国の女王様が亡くなった事があって、私は、一人きりでその報せを聞きました。…………自分のことばかりの情けないくらいに我が儘な感想ですが、……そんな国中が悲しみに暮れる特別な日に側に誰もいない事が、私はとても寂しくて怖くて悲しかったのです………」

「…………それを、思い出してしまったのだね」

「ふぁい…………。今はとても幸せなのですが、だからこそかつての私の為に、皆さんに貰ったケープを見てこのセーターを撫でておきたいと思いました。でも、最後にもう一つしなければいけない事があって、それを終えないとまだ落ち着けないので、協力してくれますか?」

「………私が、かい?」



すっと立ち上がり、ネアは、こちらを見ている美しい魔物に両手を差し出した。



「この世界で私が手にした一番の宝物は、やはりディノなのですから、最後にディノに抱き締めて貰う必要があるのです。協力してくれますか?」

「勿論だよ」



ふっと微笑んだディノはネアの手を取り、ふわりと持ち上げて抱き締めてくれた。

思いがけず持ち上げも発生してしまい、ネアは安らかな温もりと確かな輪郭にうっとりと酔いしれる。



「これからも宜しくお願いしますね、ディノ」

「うん。ずっと君の側にいるから、何度でも爪先を踏んでいいんだよ」

「ぞくりとしました……………」

「ご主人様…………」









新しい時代の幕が開かれる滅多にない機会でしたので、今回の更新は特別な形とさせていただきました。


これからも、薬の魔物をどうぞ宜しくお願いいたします!

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