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箱の中のものと旅支度




その夜、リーエンベルクでは小さな酒席が設けられていた。


グラスを傾けているのはウィリアムとアルテアで、ネアはそんな二人を見ながら秋摘みの星明りの紅茶を飲み、美味しいチーズケーキをいただいている。

甘酸っぱいブルーベリーのソースをたっぷりかけたケーキを頬張り、心配そうにおろおろしているディノの方を振り返った。



「………ディノもあちらに混ざってきますか?」

「それは、………いいかな」



それでも心配になってしまうのか、ディノは奥の二人が気になるようだ。

なぜそんな酒席が設けられたのかは、本日の晩餐後に、ノアがボール紹介を始めたことに起因する。



イブメリア近くになるとボールの贈り物が増えるそうで、ネアの義兄は、とうとう自分で使うボールを選べなくなったらしい。

なので、幾つかのお気に入りボールを紹介し、その中から投票でイブメリア時期に使うボールを決めて貰おうという謎の企画を始めたのだ。



堪らなく銀狐目線の紹介なので、うっかり聞いてしまったウィリアムやアルテアが弱ってしまうのも無理はない。


以前から銀狐の正体を知っていたウィリアムでさえ頭を抱えてしまうのだから、最近その真実を知ったばかりで、尚且つ銀狐を可愛がっていた選択の魔物の心労は如何ばかりか。


そして、疲れたように酒を飲み交わす二人の魔物を見ながら、ネア達は夜のおやつをいただいていた。

なお、問題の引き金となった企画発案者なノアは、チーズボールの納品に来たというジルクと話がしたいというエーダリアに同行し、ヒルドと共に席を外していた。



「もはや慣れの問題でもあると思うので、ディノのように受け入れられるといいですね」

「………そろそろ、アルテアを旅行に連れていくかい?」

「ふむ。確かにそろそろだという感じがします。……漂流物の対処の方は、もう大丈夫なのでしょうか?」

「……………そうだね。これ以上は」



(これ以上は………?)



ふと、ネアはその言葉が気になった。


もう来ないだろうだとか、もういいだろうではなく、これ以上という言葉となると別の意味が含まれていそうな気がしたからだ。


ちらりと、会食堂のテーブルから奥の窓際にある長椅子の方に移動している魔物達に視線を戻し、ウィームの夜の光に淡く光るような白い髪の魔物を見つめる。

こちらに背中を向けているウィリアムの表情は見えないが、疲れたようにグラスを傾けているアルテアは見えた。


心なしか瞳の色が弱いような気がするが、そうして選択の魔物を弱らせてしまってるのは銀狐問題だけではないのだろうか。



(…………あ)



だが、アルテアが視線を下げたその時に、左目だけに奇妙な影が落ちたような気がした。

慌てて目を凝らしたが、ほんの一瞬のことですぐに元通りになってしまう。



「…………ディノ。アルテアさんは、どこか体調が悪かったりするのですか?」



思いきってそう尋ねると、ディノが水紺色の瞳を僅かに揺らす。

最初の段階で明言しなかったのでここは引き下がっても良かったのだが、この手の確認事項は大抵後で知っておくべきだったと拗れるものなので、物語本の信奉者は確認を怠らないのだ。



「そうだね。…………君には話しておこうかな。…………アルテアからは口止めされているのだけど」


という事は、こちらの会話は音の壁を立てられているのだろう。

そう考えて、おやそもそもあちらの会話が聞こえなかったぞと思うと、ディノがこくりと頷いた。



「あちらのお二人の方が、音の壁を立てているのですね?」

「うん。今はその話もしているのだろう。……………一昨日まで、ヴェルリアにはまた漂流物が来ていたことは知っているね?」

「はい。エーダリア様から、木箱だったと聞いています」

「うん。そのような姿のものなので対処が出遅れた。…………この国の王が気付いて手を打たなければ、より甚大な被害が出ただろう漂流物だ」

「そうだったのですか………?…………現段階でも、三十人も亡くなられたと聞いています」

「その程度で済んで幸いだったというものだ。素体そのものの階位は分からないけれど、漂流物としての階位が高かったらしい」

「そのようなこともあるのですね…………」



先日ヴェルリアに流れ着いたのは、木箱の漂流物なのだそうだ。

船などに載せる荷物用の箱で、比較的綺麗な状態のまま漂着した。


本来であれば信仰を集めるようなものでもないし、他の大きな資質に属するものでもない。

内側に商品が入っているのならまだしも、中が空だと判明してからはアルテアがさっと解体してしまうことになったのだそうだ。



「その時に、第一王子とドリーが、別の漂流物の対処をしていたという話は聞いただろう?」

「ええ。そちらは少し困ったものだったのですよね。最初は第五王子様の陣営が遭遇してしまったものの、漂流物に損なわれない資格を持つ方が、対処に当たる必要があったと聞いています」

「うん。そちらにやって来たのは星の欠片だ。悪変の少ない個体だった分、丁寧に戻す必要があった。…………こちらで言えば、君が最初に遭遇した祝祭のような感じのものかな」

「ふぁい…………。思っていたよりも凄い漂流物が来ていてびっくりです…………」



とは言えそちらはもう送り出しの段階だったが、人手不足は否めない。

この時期はどこで漂流物が現れるのか未知数なので、戦力過多とは言え、ウィームに声をかけることも出来なかった。



(何しろ、今回は多くの予想を覆す形で、最も大きな漂流物がウィームに来てしまった後だから)



クロウウィンの事件の被害があの規模で済んだのは、あくまでもこちらの戦力が間に合ったからだ。

だとしても、元々漂流物の対応に長けているヴェルリアの民よりは不利だったと言われていたし、おまけにその漂流物の遡上を見逃したのはヴェルリアであったので、王都の側には負い目もある。


(だから、その程度であればと王都で作業分担が行われ、たまたま王都にいたアルテアさんが、木箱の解体を引き受けることになった)



たまたま他の漂流物と重なり、このままでは片付かないので仕方なくというのが、解体を引き受けた理由であるらしい。


つまりは、その段階ではアルテアも木箱の漂流物を軽視していたのだ。



「……………でも、そうではなかったのですね」

「うん。であっても、思っていたよりは厄介なもの、という範疇だよ。ただし、一人で対処するには荷が重い。アルテアは今代の選択になる。漂流物の浸食は受け難いとされるけれど、対応に有利な魔物ではない」

「ふぁい………」

「加えて彼は、…………漂流物から受けた傷で、かなり…………疲れていたからね」



クロウウィンの日。


漂流物として現れた収穫祭の主人は、アルテアの手を切り落とし食べようとさえした。

幸いにも取り戻すに至ったので、その部分が永劫に失われたままになるということは防げたが、選択を司る者にとって、その選択に必要な手を奪われるというのは最大の損傷の一つとなるのだそうだ。


傷を治し損傷を補っても、本来であれば階位落ちも止む無しというくらいの怪我を受けただけの消耗は残ってしまう。



「………だから、ノアベルトもアルテアにボールの修繕を依頼したのだろう」

「守護のようなものになるからですよね」

「それもあるけれど、………魔術の試練という役割も持たせているのではないかな。ノアベルトは魔術を司る者だし、失われたものでさえなければ命の回復なども可能な魔物だ。………これは、髪を手放したことで以前よりは力を落としてはいるけれどね」

「むむむ。海の乙女達め………!!」



そんなノアが依頼をし、アルテアがそれを達成することで、成就と因果という、謂わばご褒美的な魔術付与が行われている可能性が高いと、ディノは考えているようだ。


ただ、ディノにはそんな魔術の流れが見えたのだが、ノア本人は気恥ずかしいのか公言まではしていない。



「アルテアさんは、ご存知なのでしょうか?」

「…………アルテアも、それに気付かない筈はないだろう」

「ふふ。では、二人は両想いですね」

「両想い……………なのかな」

「そして、そんな状態でもう随分と無理をしたので、ディノは、アルテアさんはそろそろ休むべきだと思っているのですね?」



てっきり、銀狐問題で落ち込んでいるのが心配なのだと思っていたが、どうやらディノは、漂流物の影響なども見た上でアルテアを休ませるべきかどうか、様子を見ていてくれたらしい。


とても優しい自慢の魔物であると微笑みを深め、ネアは隣に座った伴侶の三つ編みを握ってやった。


「………可愛い」

「私の伴侶がとても優しくて、三つ編みを掴まずにはいられませんでした」

「…………そろそろ冬告げになるだろう?クロムフェルツの領域に入ればウィームは安全だろうし、王都の側でも、あの祝祭のような規格外のものが現れなければ、寧ろ人間達の対処の方が巧みかもしれない。だから、これ以上そちらに傾く前に、休ませてもいいのではないかな。…………王都では、王の片腕だと言われている騎士も戻ったようだからね」

「王都の騎士さんと言えばオフェトリウスさんだと思っていましたが、そんな方もいるのですか?」

「普段の技量は、オフェトリウスに勝る者ではないだろう。以前にこちらでも問題になったことがある、剥離手と呼ばれる者なんだ」

「まぁ…………」



剥離手は、漂流物の影響を強く受ける土地に生まれる特別な人間を示す言葉だ。


海辺に長らく暮らす民は、その多くが漂流物への対抗策を持っていると言われている。

だが、そのような者達とて実際に漂流物に触れてしまえば無事では済まない。

剥離手は、そんな漂流物の残滓や気配を取り込みながらも生き長らえた者達から生まれた子供のことだ。

この世界に生きながらにして、この世界の祝福を剥離させてしまう特性を持つようになるので、通常はあまり長生き出来ない事が多い。


今代の世界での魔術の恩恵を受けられず、祝福も授かることはない人生というのはどんなものだろう。


だが、剣技などの才能に恵まれると、相手の守護や祝福を悉く弾く容易ならざる敵となるので、その人材の有用性を理解している国や組織も少なくはない。

そして、そんな剥離手にはもう一つの才能があって、それが、漂流物側の領域の力を得ているということであった。



「謂わば彼等は、そちら側の資質を取り込み生まれる適応者だ。そのせいで、普段はこちらの魔術に触れることも出来ないが、漂流物の領域の内側に入れば、魔術解析や交戦を可能とするらしい」

「いきなり、そんな風に出来てしまうのですか?」

「対岸のものとしての特異性を失わせることが出来ることが、一番大きな利点だからね。………グラストの時の事件を見ていても分かるように、剥離手のような者達はウィームのような土地にとっては最も警戒するべき相手でもあるだろう。ただ、ヴェルリアのような土地では、このような時の為に必要な人材でもあるのかもしれない」

「……………確かに、そのような方が敵となれば、ウィームはかなり不利ですね。そうなり得る可能性のある方なのでしょうか?」

「いや。その人物は、バンルと親しいようだ。今のところ、ウィームとの関係は良好だと聞いている」

「ふぁ。…………ほっとしました!」



(でも、そのような人もいるのであれば、確かにアルテアさんが少し外していても大丈夫かもしれない。…………統括の魔物として対処しなければならないような相手は、もう来ないといいな…………)




運が良かったのだと思う。



ネアが巻き込まれた漂流物絡みの事件は幾つかあったが、その全てで、ネアよりも漂流物への対応が優れている者達が共にいてくれた。

思い出してみると、おや意外に多いなという気もする遭遇の場面に於いて、最善に近い対応が取れたと言っても過言ではないだろう。


でも、最後までそうだとは限らない。


そしてそれは、統括の魔物として、最も漂流物の来訪に晒されるヴェルリアに滞在する事の多いアルテアもなのだ。



「………うむ。アルテアさんを慰安旅行に連れていきます!ディノ、明日のスフレのお店の予約は延期にして、明日出発でもいいでしょうか?」

「うん。構わないよ。アルテアに予定を聞いてみるかい?」

「は、…………そこからでした」



幸いにも、明日からの二日間ネアは代休である。

お気に入りの本を読みながらごろごろし、スフレの店などに出掛けるくらいで過ごす予定だったのだが、予定を変えて旅に出るのも吝かではない。

旅本来の目的である慰安に、多少の漂流物関連の要素が入ってもいいだろう。



しかし、そう考えていたところで事件が起きた。



「あ、いたいた。……………アルテア、僕の肉球クリームって、香料入りは避けた方がいいの?」

「……………は?」

「ノアベルト!」

「え、何でウィリアムは首を振っているのかな…………。あのさ、ジルクが新製品を持っているっていうんだけど、いつもアルテアが塗ってくれるやつって、無香料だよね。何か意味があるのかなと思って聞きに来たんだよね」

「……………特に拘りはない。強いて言えば、あれがすぐに食べ物に手を出すからだ」

「そっか。他の物に触れた時に、確かに香料が入っていると香りが邪魔になるかもね。…………うん。やっぱり無香料かな」



聞きたい事だけ聞くと塩の魔物は戻って行ってしまったが、会食堂は何とも言えない空気に包まれた。

ウィリアムは頭を抱えてしまったし、律儀に答えはしたものの、アルテアの瞳には完全に光が入っていないではないか。


慌てたネアは、悲しそうにしているディノの手を引いて窓辺の酒席に向かうと、もはやこの世の虚無しか見ていないのではという面持ちのアルテアの隣に腰を下ろす。



「…………なんだ。料理の類は作らないぞ」

「アルテアさん、明日から二日ほど時間が取れたら、一緒に慰安旅行に行きませんか?」

「…………今は無理だな。まだ漂流物の流れが落ち着いていないだろう」

「アルテア。王都には剥離手が戻っただろう。そろそろ、少し外してもいいのではないかい?」

「あの手の漂着は、最初から最後までどのようなものが来るのかに規則性がない。離れた隙にやって来たものがあった場合は、命取りになるだろうが」

「……………むぐ」


ここで、ぎゅぎゅっと黙り込んだネアに、アルテアがこちらを向く。

ネアが唇を噛みしめてふるふるしているせいで、怪訝そうな顔をしていた。


「おかしな顔をするな」

「……む、……………無理でふ!!ただでさえ弱っているアルテアさんが、狐さんのボールや肉球クリームの事を考えながら、漂流物のお仕事なんて出来る筈がありません!!」



堪らずそう言ってしまったネアに、アルテアの目はこの日一番の虚ろさを見せた。


慌てたディノが荒ぶるご主人様を膝の上に乗せてしまい、ウィリアムが低く呻く。

どうやら、この問題はあまりにも繊細なので、今迄誰もずばっと切り込んでいなかったらしい。



「……………いいか、それは二度と言うな」

「ぎゅむ!…………おまけに、狐さんの為に換毛期用のタオルも買ってくれていたのですよね?………先程、ジルクさんから納品されてしまっていたではありませんか」

「やめろ」

「それに……………多分ですが、……………片目をどうかしています」



その指摘に、ひゅっと息を呑んだのはアルテアではなかった。


向かいの席に座っていたウィリアムが、立ち上がりかけ、片手で額を押さえる。



「……………目でしたか。……………どうして隠していたんですか!」

「騒ぐほどの事でもないだろう。奪われたものではなく、損傷の回復待ちだ。時間をかければ元に戻る」

「だとしても、俺は、何かを欠いていませんかと聞いた筈ですが?」

「欠いてはいないからな」

「……………アルテア」



不機嫌そうなウィリアムとの応酬に割って入り、静かな声で名前を呼んだのは、ディノだった。

膝の上に乗せられたネアですらぴっとなってしまうひやりとした声音に、魔物達も押し黙る。



「………こいつとの使い魔の契約に響かせる程のものじゃない」

「それだけが理由だと思っているのなら、君は思い違いをしているのだろう。……………アルテア。君は選択だ。…………確かに、君の階位であれば、漂流物に大きく損なわれる事は少ないだろう。けれども、そのような資質の者は、同時に、対岸に引き摺られる事もある。一度、沿岸部から離れた方がいいだろう」

「…………っ、」



次に息を呑んだのは、アルテアだった。

赤紫色の目を瞠り、ややあって深い深い息を吐く。



「……………俺は、判断に影響を出しているか?」

「恐らくは。…………いつもの君であれば、どのような見た目であれ、漂流物だという理由だけで慎重に対処した筈だ。何の準備もなく取り掛かり傷を負ったのは、魔術侵食にも似た影響が出ているからだろう」

「……………くそ。……………クロウウィンの時の影響か……………」

「だと思うよ。何日か休日を取れそうかい?」

「……………調整する。……………それと、お前は何で目の変化に気付いたんだ」

「む…………」



思っていたよりも深刻な影響が出ていたのだと驚いていたネアは、突然そう尋ねられて眉を持ち上げる。


こちらを見ているアルテアの瞳は、確かにいつも通りに見える。

けれどもやはり、左目にだけふっと暗い影が落ちることがあった。



「視線を動かす時や、表情を変化させるときに、影の落ち方が片目だけ深いように思えました。左目、……………ですよね?」

「ったく。ウィリアムにさえ気付かせなかった階位の擬態だぞ」

「昨日の見回りで増やしたばかりの収穫の祝福などのお陰かな。アルテアは、君の使い魔だからだろう」

「まぁ。となると、ご主人様の財産なので、その磨耗や損傷が目に付く仕組みなのですね?」

「おい、お前はまた何か狩ったのか…………」

「リズモを見かけたら狩るのは、狩りの女王としての務めなのです…………」



ふうっと息を吐き、アルテアはのけぞるようにして長椅子の背もたれに頭を載せている。

寛いだ姿勢だが、それだけ疲弊しているのかもしれず、ネアは、傷薬や体力回復の薬などは有効だろうかと椅子になっている魔物を見上げた。


「ディノ、傷薬は効きますか?」

「治癒に時間をかけているということは、付与効果や魔術反応がないのかを見ているのだろう。それを終えてからであれば使えると思うよ」

「では、終わり次第飲んで貰いますね」

「いいか。それが終われば、自分で治せるものだ。お前は何もするな」

「むぐぅ……………。では、疲労回復のお薬を、スプーンさんで千倍くらいにしておきます?」

「それもやめろ」

「ぐるる……」

「ネア、俺が許可するから、疲労回復の薬だけは飲ませておいてくれるか?何なら、俺が押さえていよう」

「では、そうしてしまいましょうか」

「おい、やめろ!!ウィリアム!!」

「何か様子がおかしいと思って来てみれば、ノアベルトの問題やただの疲労なら兎も角、漂流物による誘引作用の影響があったとは盲点でした。……………無理をしたんですから、体調管理くらいは受け入れて下さい」

「えいっ!」



ディノは、立ち上がったご主人様が恐ろしいスプーンを取り出したので怯えていたが、体力回復薬の使用は問題ないと保証してくれた。


ウィリアムがアルテアを捕まえてくれたので、ネアは何だかいけない構図だなと思いながらも、拘束された使い魔のお口に体力回復薬をスプーンで入れてしまう。

早く元気になって欲しいので千倍ではなく一億倍にしたが、喉を押さえて体を丸めてしまったアルテアの様子を見ているとちゃんとスプーンの効果は出ているようだ。


だが、相変わらず加算ではなく、乗算もこなす優秀なスプーンである。



「……………ぐっすり眠れそうですね。旅行の前の日は、早めに寝るのがいいのですよ」

「これは、…………寝ているのかな」

「やれやれ。………シルハーンがいなければ、そのままヴェルリアに戻すところでした……」

「私も、ネアからの話を聞いていなければ、見落としていただろう」

「私が話したことの中に、何か役立つことがあったのですか?」

「この国の王の話や、王都に来ていた海の底から来た者の話。後は、カルウィの王子の話などだね。その者達の話を聞いている限り、ここではないどこかというものは、やはり、特定の者達に対して何らかの中毒性や誘引作用を持つのだろうと思った。それが、不特定な者達の心情の問題だけで済めばいいのだけれど、漂流物は、不思議と祀り上げられることも少なくない。良くも悪くも目を惹くものなのだろう」



とは言え、今回のアルテアに出ていた影響は、向こう側に惹かれてしまうという程に重篤なものではなかったようだ。


だが、クロウウィンの日の漂流物で大きな傷を負ったせいで、漂流物への対処を焦るような気負いから、どこか呪いにも似た影響を取り込んでしまっていた可能性が高いのだとか。



特に収穫祭は、蓄え備える祝祭である。

その収穫祭に自身の体の一部を奪われたという経験が、漂流物を見過ごせず、備えや対応に必要以上に固執するような影響となって残った可能性が高いらしい。



「それもまた、疲労の一種でもあるのかもしれないけれどね」

「では、今夜はゆっくり寝かせて差し上げた方がいいのかもしれませんね」

「……………ふざけるな。これが寝ているように見えるのか」

「おくすりというものは、どれもくちににがいものなのですよ……………」

「うーん。今回は飲用の薬の筈なんだが、……どんな味だったんだろうな」

「ほお。気になるなら試してみたらどうだ?いい具合に、お前も働き詰めだろうが」

「いえ、俺は遠慮しておきますよ。折角の開けた酒の余韻を消したくありませんから」



(………もしかして、ノアもそんなことに気付いて、アルテアさんをリーエンベルクに足止めしてくれていたのかしら?)



ボール選挙という謎の企画自体が、その為の口実だったのかもしれないと考えてディノにこっそり訊いてみると、ボールの選定がとても本気だったので、それは何とも言えないようだ。


まだ帰ってこないが、エーダリア達は、ジルクとどんな話をしているのだろう。

そもそも、残業を嫌う山猫商会が、こんな時間に働いているのも珍しいので、予め約束があったのかもしれない。




(そう言えば、…………私は以前に、剥離手の人がグラストさんを狙っていた場で、あの湖を見たのだわ)



ふと、そんな事を思い出した。


今考えると、漂流物の残滓などを蓄積して生まれるのが剥離手のようなので、ネアの中のあの部分が動いたのはいっそ正常な反応だったのかもしれない。


そう思えば、王都の剥離手に会う事があったらと心配になってしまうが、現王の切り札の一人であるらしいので、そうそうウィームには来ないだろう。

暫し王都を空けていたのは、ガーウィンの側に現れた漂流物の排除を、秘密裏に行っていたからであるらしい。




ネアは、薬を飲まされて拗ねてしまったのか、長椅子に寝そべって目を閉じている魔物の左目に片手を当て、そっと心の中で呼びかける。



(これは私のものだから、もし何かが残っているのなら、ここにいるのは許さないわ)



それは、おまじないのようなただの気休めに過ぎなかったけれど、そう呼びかけた瞬間、どこかで強く扉を閉めたようなばたんという音が聞こえた気がした。




「……………ったく」

「む。起きています。今夜は、早く寝るようにして下さいね。何なら子守唄を……」

「絶対にやめろ」

「………箱の中には何も入っていなかったのに、とても良くないものだったのですね」

「バーンディア曰く、空箱だからだそうだ。小綺麗な箱が漂着すると、中に何が入っているのだろうと期待する者達がいる。価値あるものや希少な物が入っているのかもしれないというその願いが、あの手の漂流物の階位を上げるらしいな」

「アルテアさんも、……………そう思いました?」

「いや。中に何も入っていないことは分かっていた。……………だが、もし面倒なものが入っていたら、早めに対処しなければとは考えていただろう。そのどこかにはもう、魔術汚染があったんだろうよ」



瞳の上に置いていた手を外すと、その手を掴んだアルテアがなぜか、手のひらに口付けを一つ落とす。

こちらを見た瞳には、どこか満足げな色があった。



「む………」

「それ以外の理由で、俺が対岸に目を配る事はない。……………手のかかるものは、一つで充分だからな」




しかし、エーダリア達が会食堂に戻ってくると、いそいそとやって来たノアが四個目のボールの説明に入ってそんな選択の魔物を暗い目にさせたので、ネアは、義兄に五個目以降の説明はまた今度にし給えと言わなければならなかった。



銀狐の正体を明かしてからすっかりアルテアに懐いてしまっているので、手のかかるものは、どうやらもう一つあるようだ。






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