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252. 収穫祭は食べようとします(本編)





収穫祭の午後になると、いっそうに外は暗くなった。

戻ってくる死者達が増えてくるために、その姿が街中でもちらほらと見かけられるようになり、クロウウィンの系譜の生き物達があちこちに現れる。


無事に街中に誘導された棺の精が、林檎の飲み物の屋台の前で跳ね回り、やれやれと肩を竦めた主人から如雨露のようなもので飲み物を注いで貰い、嬉しそうにしている。


街のいたるところには麦穂のリースがかけられ、石畳の歩道や道には誰かが投げたと思われる南瓜の欠片が、鮮やかなオレンジ色を見せて散らばっていた。




壮絶な戦いの記録に翻弄された後、ネア達はウィームの街に出ていた。

エーダリア達は無事に祝祭の儀式から戻り、入れ替わりで見回りに出たのだ。



(いつもなら街の騎士さんとリーエンベルクの騎士さんで連携して行う作業だけれど、ゼベルさん達は休憩に入っているので代わりに引き受けられる仕事があって良かったな)



正門前広場に集まった棺の精事件により、一部の騎士達が疲弊しきっていた。

ネア達は先に昼食と休憩を貰えたので、街歩きを兼ねての見回りだけこちらで引き取ったのである。

エーダリアからはゆっくりそちらのペースで構わないと聞いているので、勿論、屋台に寄って買い食いをすることも可能だった。



「……………む」



路上に落ちた南瓜の欠片に集まる小さな妖精達を見ていたネアは、しゅんと何かが走り抜けてゆくのに気付き、きっと収穫祭独自の生き物だろうと目を細める。

しかしそれが、華麗な滑り込みで毛玉妖精から南瓜の欠片を奪い取ったパンの魔物だと分かると、かっと目を見開き慌ててディノの袖を引っ張った。


「ネア?」

「ディノ、またしても垂直立ちで走るパンの魔物さんがいます!」

「……………え」

「ほら、あそこにいますよ」


以前にそんな光景を見てしまった時には、ディノがそちらを見た際にはもうパンの魔物がおらずに信じて貰えなかったが、今回は幸いにも同じ物を見て貰う事が出来た。


しゅんと駆け抜けるパンの魔物は、帰り道でもう一つの南瓜の欠片を見付け、それも奪う事にしたようだ。

南瓜の欠片を奪われた栗鼠妖精が、尻尾を膨らませて威嚇している。



「ご主人様…………」

「おい、シルハーンを弱らせるな。今日はクロウウィンなんだぞ」

「解せぬ」


しかし、栗鼠姿の妖精から南瓜の欠片を強奪しているパンの魔物を見たディノは弱ってしまい、儚く羽織りものになってしまった万象の魔物を見た使い魔に、なぜかネアが叱られる運びとなる。

たいへんな冤罪であると抗議したネアだったが、今日しか売っていない祝祭の麦穂のリースを売っているお店を見付けてしまい、目を輝かせた。



(クロウウィン当日でも、リースを買い足す人がいるのだわ)



祝祭のリースは、祝祭が終わった時点で外し、きちんと焚き上げに出さなければいけない。

何の用意もなくそのまま扉や門扉に残しておくと、祝祭の魔術を歪めてリースの魔物を生んでしまったりするのだそうだ。


ネアがウィームに来たばかりの頃に、そんなリースの魔物を滅ぼす任務を得た事がある。

やってくれたのはディノなのだが、派生したものを滅ぼさねばならなくてあまりいい気分ではなかったので、このクロウウィンのリースが、一つ残らず正しい使われ方をしますようにと願った。



(……………クロウウィンだわ)



まだ夜ではないけれど、どこからともなく聞こえてくるのはこの日だけの不思議な音楽だ。

楽しそうにも聞こえるのだが、不思議と胸の奥がざわめくような旋律で、同じような楽しげでどこか恐ろしい曲という区分でも、夏至祭の音楽とはやはり違う。


ネアがそんな音楽を聴きながら近く店のクロウウィン限定メニューに目を凝らしていると、少し先の人波の中をふっと黒い影が横切った。



(………おや?)




別にそれだけであれば、珍しくはないのだ。

けれどもその黒は、なぜか、記憶のどこかに引っかかった。



クロウウィンは、祝祭の作法として黒い服が好まれるので、今日のウィーム中央には黒い服の者達が多い。

勿論、ネアもクロウウィン用の黒いドレスだ。

いつもであればクロウウィンらしい着丈の装いなども楽しむのだが、今年は漂流物の影響が出たばかりであるので、敢えていつもと同じ型のドレスを着ていた。


何かと出会ってしまった時に、いつもの装いで対処出来るようにという配慮である。

そして、そんな理由の備えだったことを、黒い影を目で追いながらなぜか思い出していた。




トゥリリリ



美しい鳴き声がどこからともなく聞こえてきて息を呑んだのは、ネア達だけでなく、周囲を歩いていた領民達もだろう。


慌てて視線を巡らせると、少し離れた位置にある街灯の上に、先ほど追いかけていた黒い影の正体である、美しい黒い鳥が止まっている。

鴉のようにも見えるが尾羽がすらりと伸びていて、頭の冠毛だけが白い。



そして、もう一度、トゥリリリと鳴いた。



「シャックウィーターだね。…………ネア、三つ編みを持っておいで」

「手を握っていてもいいですか?」

「………三つ編みにしようかな」

「なぜなのだ」



美しい囀りを聞かせたその鳥は、死告鳥と呼ばれるシャックウィーターである。

どこかに非業の死を遂げる者が現れると示す予兆になるが、現段階では忠告という意味合いも含む予兆なので、その顛末は変えられるのだとか。


だからなのかもしれないが、透明で美しい囀りを聞くと、ひやりと背筋が冷えるような感覚がある。



どこかに走って行く者が見えたので、領民の誰かが、街の騎士達を呼びに行ったようだ。

魔物達を見ると、一緒にいたアルテアは赤紫の瞳を眇めてどこかを見ている。


その視線を辿った先に、はっとするような鮮やかな赤色が揺れた。



(……………あれは)



胸の奥がざわりと音を立てたのは、漂流物の領域で見かけた祝祭の主人を思い出したからだろう。

鮮やかな赤色は、ウィームに元々あまりいない髪色だからこそくっきりと浮かび上がるように目立つ。


だが、ネアが目を止めたのは、本来の赤色が多く宿す炎や篝火の気配ではなく、薔薇などを思わせる不思議な艶やかさが、出会ったばかりの祝祭の主人の髪色によく似ていると思ったからだ。



(でも、あれは女性なのだと思う………)


ふさふさと流れ落ちる赤い髪は腰までの長さで、後姿からはやはり女性に見える。

人波が途切れて見えた漆黒のドレスは優美なラインを描いていて、ほっそりとした腰からふわりと広がるスカートの輪郭がなんとも美しい。



(……………あれ?)



そんなことを考えただけなのに、なぜ、背中を冷たい汗が伝うのだろう。




「……………ウィリアムを呼べ」

「もう声をかけたよ。……ネア、ここから離れよう」

「ふぁ、ふぁい!」

「アルテア、君は…………」

「俺は残って対処していく。……………あれは、放置出来る階位でもないだろう」

「ディノ、あの方は……」

「漂流物だ」


その答えは短く、ネアは小さく目を瞠った。

それは、つい先日来たばかりではないかと言いたくなったが、訪れに規則などなく理不尽に現れるのが漂流物なのだろう。


現れるのは王都側が中心になると聞いていた筈なのに、なぜまたウィームなのか。

他の領地も引き受けるべきだし、今日は収穫祭なのにという様々な思いが駆け巡る。

でも、今は避難するべき時なのでその全てをぐっと呑み込んだ。



「では、………」


アルテアに頷きかけたディノが、何かを言いかけた時だった。



ふっと赤い長い髪が揺れ、どこかで誰かの悲鳴が響いた。

その程度の騒動は予測済みだったのか、それでもディノは振り返りもしない。


だが、視線の先で赤い髪の女性がゆっくりとこちらを振り返り、嫣然と微笑む鮮やかな薔薇色の口元が見えてしまった時、ネアは、なぜか手遅れだと思った。



「……………っ」

「ディノ?!」



名前を知らせたくはなかったのに、思わずその名前を呼んでしまったのは、ディノが突然がくりと膝を突いたからだ。

ぱっと散らばったのは鮮やかな赤色だったが、はらりと零れて地面に落ちる前にざあっと光って消えてしまう。



これはまさかとネアは慌てて周囲を見回したが、直前まで正面の人波の中にいた筈の赤い髪の女性の姿がどうしても見当たらない。

だが、そのことに恐怖する間もなく、体勢を崩したディノを抱え込むように抱き締める。


二人でずるずると沈み込むように、冷たい石畳に膝を突いた。



わぁっと声が上がったのは、その直後だ。


素早く動いたアルテアが前に出てくれたことに感謝しながら、ネアは、ふはっと苦痛を堪えて吐き出したように呼吸を乱した伴侶を抱きしめる。



「き、傷薬を…………」

「私が転移をかけようとしたことに気付いて、こちらを削いだようだ。………大丈夫、すぐに元に戻してあるから損傷した箇所は問題ないよ。…………周囲に根を張ったようだね。あのものの領域を作られてしまったから、ここから離脱しないと転移は難しいだろう」

「そんな事が出来てしまうのですね…………」


幸い、次の動きはまだない。

だが、悲鳴を上げて逃げ出そうとしていた観光客だと思われる男性が、狼狽えたようにここから出られないと叫んでいるのが聞こえてくる。


(………転移が出来ないというだけではなく、私たちはここに閉じ込められているんだ………)



それはつまり、何とかしてあの漂流物を退けないと、誰一人として出られないということなのだろうか。

素早く見回したところ、祝祭の日の大通り沿いということもあり、少なくとも三十人の領民や観光客が巻き込まれているだろう。


隣接した店舗などは、近くにいた者達が扉を開けようとしても開かない様子なので隔離されているようだが、歩道にあった屋台は取り込まれたようだ。

店の主人が飛び出してきて、何が起こっているのかを通行人に尋ねている。



「くそ。…………気付くのが遅れたのは、何かを宿主にしていたからだな。そいつを崩して出てきた以上、履歴を辿るのは不可能に近いか………」

「あの漂流物が現れる前まで、近くに喪服の女性が立っていた筈だ。今はどこにもいないように見えるから、恐らくはその人間が宿主だろう。装いの特徴からすると、ザルツかヴェルリアの人間だったようだね」

「………となると、先日の一件の経路沿いだな。ウィームには他の漂流物の気配は残っていなかった筈だが………」

「何かを乗り継ぎ、こちらに現れたのだろう」



(乗り継いできたのは、人間だったのかしら………?)



ぞっとしたネアがせめて街の騎士は近くにいないだろうかと振り返ろうとしたところで、ディノが手を伸ばしてネアをしっかりと押し留めた。



「し、知らないんだ!前の漂流物に連れ去られたのは、ただの同僚で…………」


聞こえてきたのは、狼狽しきった男性の声であった。

これはまさか、あの女性に話しかけられているのだろうかと目を瞠ると、その直後、ぎゃあっと悲鳴が上がり誰かが倒れた。



「っ………!!」

「どうやら今回の漂流物は、前回の収穫祭の漂流物の証跡を探りに来たようだね」

「漂流物同士で認識し合うとなると、同じものか近しいものだろうな。………あの色はまさか……」

「恐らくはそうだろう。………今日は、何よりも現れて欲しくなかったものだと思う」



(収穫祭の漂流物の証跡……………)


魔物達の会話を全て理解することは出来なかったが、それでも、そんなものを探しに来たのなら、収穫祭の漂流物の領域に落とされた自分が無関係ではないことは想像に難くなかった。


でなければ、ディノがあんな風に傷を負う事もなかったに違いない。

ゆっくりと沁み込む黒いインクのように、理解してゆく内容の危うさがひたひたと心の中に広がり、息が苦しくなる。



(ディノに、怪我を負わせられるような生き物…………)



シャックウィーターが現れ、美しい囀りを残してゆくようなことが起るのだとすれば、既に一人の男性が動かなくなっている。

あの予兆が、叶いつつあるとしか思えなかった。


ここには大事な人達がいるのだと怖くて堪らなくなったネアは、慌てて首飾りの金庫の中に手を差し込んだ。




その時のことだ。



ぐおんと、大きなものが揺らいだ。



(……………え)



陽炎のように景色の歪みから何かが立ち昇っていると分かるばかりの殆ど透明なものが、竜の尾や意思を持って動く蔓のように大きくしなると、周囲を力任せに薙いだのだ。


慌てて身を躱す者達もいたが、呆然としている間に避け切れずに吹き飛ばされ、ばらばらと崩れ落ちる人達も少なくない。

倒れた人達の周囲には、じわりと鮮やかな真紅の血が流れ出している。



「…………っ、あ」



ネアは、声にもならない悲鳴を喉の奥で呑み込み、またすぐに、今度はがしゃんと脆い硝子が砕けるような音を聞いた。


今のは何の音だろうと思っていると、先程の攻撃の直前にネアを咄嗟に抱き込んだディノの体が、僅かに震えなかっただろうか。

そんなディノが、ふうっと苦し気に息を吐く音が途方もなく恐ろしい事のように思える。



(……………いきなり過ぎる)



どうにもならない思いで、そう思った。

泣き出したいのか怒りたいのか分からないまま、ついさっきまでは、クロウウィンの街をいつもの祝祭の日のようにただ歩いているだけだったのにと叫びたくなる。



それなのに、突然、こんな事に巻き込まれているだなんて。



(………ディ、ディノは嫌だ。アルテアさんも、ウィームで暮らす人達も)



今日は祝祭の日で、やっとの思いで家族と再会できる日を楽しみにしていた人達も多いだろう。

ネアだって、四角ケーキを買いに行くのを楽しみにしていたし、夜にはいつもの美術館に行く予定であった。


漂流物が現れる年とは言え、つい先日その一端をやり過ごしたばかりである。

ネア達はその災いを受け止めたばかりなのだから、せめて今日くらいはゆっくりと過ごせると考えていた。




「……………ディノ?」

「……………怪我はしていないね?」

「ええ。……………で、でも、ディノが」


いつの間にか、ディノの擬態は解けていた。


真っ白なコートの左肩から左腕の付け根にじわじわと鮮やかな深紅が滲み、淡く光ると消えてゆく。

だが、治癒を済ませて血を落とさないようにしているのだとしても、この大事な魔物がそれだけの傷を負ったのは間違いないのだ。


(ディノは、魔物の王様なのに………)



そう思ったのが伝わったのだろう。

こちらを見たディノが、僅かに顔を歪めて薄く微笑む。


また向こうで、誰かの悲鳴が聞こえた。



「………固有領域に入れられてしまったせいで、私はいささか分が悪いんだ。……………元々、漂流物の領域内となると、この世界を司る私は、あまり有用な存在とも言えないからね」


ディノはその先を語らなかったが、それに重ねる形でグレアムと共に行ってくれたという、イブメリア相当の祝祭を払う魔術が、そこに更なる負荷をかけているのではないだろうか。


それに気付いてしまい、ネアは血の気が引きそうになる。


今迄何とかやり過ごせてきたせいで、この大事な魔物が漂流物への耐性を落としている事に気付いていなかったのだ。



(ウィリアムさん…………!!)



ディノは、もうウィリアムを呼んだと話していた。

であれば、今はどこにいるのだろうか。

アルテアがそう言ったのであれば、きっとウィリアムであれば打つ手があるのだろう。


漂流物に関してはオフェトリウスなども相性がいいと聞いていたが、王都は昨日の騒ぎでそれどころではない筈だ。


先日の漂流物では、そちらでも被害が出ていた。

アルテアがあれだけ王都に出かけていたのだから、その被害は決して軽いものではないのだろう。



「……………アルテア。今は、何層だったかい?」

「………何だあれは。…………俺は十七層だ。全部壊されたお前程じゃないが、かなり深い。感じ取れる階位以上に、俺達が相性の悪いものを持っているぞ」

「困ったね。今は少し抑え込めているけれど、…………あれもまた、収穫祭の主人なのだろう。女性のようだから、この前の層からのものではないかな」

「場合によっては、…………こいつに気付かれる前に何かを贄にした方がいいだろうな。あの夜に、もう二人、こちらに戻った領民がいた筈だ」

「そうだね。ただ、あの生き物の様子からすると、そもそもこの領域から出る事自体がかなり難しいだろう」

「………吐き気のするような姿だな」



(……………あの生き物?)


ふと、ネアには女性に見えているものが、ディノ達にはそう見えていないのではないかと思った。


今も姿が見えないが、どこか近くにはいるのだろう。

その気配を探ろうとすると、倒れて動かなくなった人達の向こうに、あの鮮やかな赤色が揺らいだような気がした。


それを確認し、自分には美しい女性に見えているのだと伝えようとした時、くらりと視界が翳る。

見上げる動作は間に合わず、ディノは、まだ立ち上がれていない。



「……………くそ、収穫祭と規則か!!」



アルテアのそんな声が響き、どこかで聞いたことがあるような鈍い音が重なった。


濡れたような重たい音が何の音なのかを心の中で思い浮かべる前に知っていて、それを形にしようとすると、体中の体温を奪ってゆくようだ。


ネア達の前に立ち塞がっていてくれたアルテアの体が、ぐらりと傾ぐ。



かしゃん。



また、先程と同じような脆い硝子が砕ける音。

言われずとも、それが残されていた防壁の類が壊された音だと、ネアももう知っている。


壊れたものが地面に落ち、しゅわりと光って消えた。



「……………アルテアさん?」


呆然と見上げた先で、何かが足りないと思った。

ざあっと落ちる血はやはり、地面に落ちる前に真っ赤な花びらになって燃え上がり消えてゆく。

けれども、片手で押さえたその傷口は、あまりにも平坦で、違和感を覚える。



「…………あ」



(……………右手、……………右手の手首から下が、……………ない)



ぞっとして、でもまだ上手く呑み込めず、ゆるゆると視線を持ち上げた先に、美しい女性が立っていた。


繊細な指先には、明らかに誰かの手だと思われるものを持っていて、それを掴みまるで一口で食べてしまおうというように頭を傾けてにっこり笑う。


こんなに美しい女性を見た事があるだろうかというくらいに、美しい女性だった。


波打つ赤い髪に、はっとするような金色の瞳には緑の虹彩模様がある。

黒い足元までのドレス姿は、喪服のようなデザインではあったが、室内着のような簡素なものにも見えた。

それでも、思わず息を止める程に美しいのだ。


前に立ったアルテアは、体を大きく傾けながらもネア達の前に立っている。

すぐにディノが動けなかったのは、先程ネアを庇った際に受けた傷が思いの外重いのだろう。



がしゃん。


そこにまた、そんな音が重なった。

しかし今度の音を立てたのはネアで、静まり返っている街の中でそんな音を響かせた人間に、今、まさに奪ったアルテアの手を食べようとしていた女性が、不思議そうにこちらを見る。



気付いたディノにぎゅっと抱き込まれながら、金庫から取り出したものをそのまま呑み込み、ネアは、鮮やかな金色の瞳を真っ直ぐに見返した。



「……………それは私のものなので、返して貰います」



こんな時、物語のような強い声は出ないらしい。


僅かに掠れた声は静かなばかりであったが、しっかりと発せた事に少しの安堵もあった。

そしてその直後、ばちんとお腹の中で何かが弾ける。



「っ、……………!!」

「まさか?!…………馬鹿かお前は!!」

「ネア!!」



ぞぞっと引き落ちる血の流れに、視界が暗くなる。

慌てた魔物達の声が聞こえたが、冷や汗が滲む額を拭う間もなく、ネアは、大事なものを取り戻す為に伸ばした手の中に落ちてきた温かく濡れている何かを、夢中でアルテアに押し付ける。


はっとしたように息を呑み、アルテアはすぐにそれを受け取ってくれた。


 

(いけないと、思ったのだ)


魔物達が欠損した体をすぐに治癒出来る事は知っていたのに、どうしてだか、奪われたものを目の前の女性に取り込ませてはならないと強く感じた。

そしてそんな時に最も相応しい道具として、ネアはいつだって失せ物探しの結晶石を呑み込み用で持ち歩いているのだった。


(……………倒れるな。今はまだ、足手纏いになる訳にはいかないのだから)



状況は何も変わっていないだろう。

ディノもアルテアも、今回の漂流物との相性は悪いらしい。

この二人が揃っていても、これだけ不利な状況に追い込まれるような相手なのだろう。


それが、今日がクロウウィンで目の前の女性が収穫祭の主人だからなのか、アルテアが口にした、規則という言葉に何かが隠れているのかも分からない。

でも、ここで無様に意識を失い、ただでさえネアを守る為に怪我を負ってくれている魔物達をこれ以上傷付けさせる訳にはいかなかった。


(だから、今は、倒れている余裕なんかない)


ぐっと足に力を入れて立つと、猛烈な吐き気がした。

苦しさのあまりにじわりと涙が滲み、小さく咽ったネアに体を屈めたディノが頬に口付けを落としてくれる。


その途端にふっと体が軽くなり、涙に滲んだ視界の中に鮮やかな水紺色の瞳が見えた。

ああ、結局手をかけさせてしまったと悲しくなる。

ディノだって、未だに顔色が悪いのだ。



しかし、その途端に何かが壊れて砕けるような激しい音が聞こえてきて、ネアは、一瞬だけだが聴覚に問題が出ていたのだと気付いた。

そこでやっと、ディノがずっと自分に話しかけていたことにも気付く。


「……………ごめんね、ネア。君にまでこんな負担を強いてしまった。…………もう少しだけ我慢しておくれ。どうにかして、調整してしまおう」

「……………ディノは、何もなくしません?」



頬に手を当てて微笑んでそんな事を言われても、怖さは少しもなくならないではないか。

おまけにディノは何も言わずに微笑んだだけで、ネアをしっかりと抱き締めてくれる。


まるで、ネアの問いかけを肯定するように。



凄まじい音が響き、ぎいっと音を立てて街灯の一つがへしゃげた。

リースだと誰かが叫び、使うなというアルテアの声が重なる。

慌ててディノの体の横からその先を覗けば、先程の女性と、アルテアを含めた何人かの領民達が戦っていた。


だが、戦況は圧倒的に不利に見えた。

見ている先で一人の男性が崩れ落ち、ずるりと体が崩れる。

その最後の瞬間は、ネアをぐっと抱き込んだディノの手が目を覆って隠してくれたが、また一人、命を奪われてしまった。



(こんな、……………こんな一方的な)



奮戦はしているが、ウィームの住人達ですらこの様子なのだ。

おまけにここには、魔物の王様と三席がいて、それでもこんな風になってしまうのか。

そう思うと怖くて悔しくて泣きたくなったが、ネアは、ぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。


ネアを抱き締めて立っているディノは、恐らく、アルテア達にあの漂流物の抑えを任せ、その間に何かの準備をしているのだろう。


それが、ネアの大事な魔物の何かを失わせるような手段だとしても、もはや、それ以外の選択肢はもうないのかもしれない。


でも、ネアはそれでは嫌だった。

絶対に絶対に、嫌だったのだ。



(……………収穫祭)


収穫祭を損なう要素は何だろう。

植物の系譜が大きく関わるのだろうか。

であれば、除草剤などはどうだろう。

だが、収穫が終わっているのであれば雨や嵐などは無効だろうし、それならば除草剤も同様だろう。


加えて概念的な要素となると、魔物達を差し置いてどのような組み合わせが有利なのかを咄嗟に導き出せる程の知識は、ネアにはない。



(収穫祭。……………実りや財産を示すもので、冬への蓄えを行う日でもある。その祝祭を殺すのであれば、やはり死や冬だろうか)



じゃりんと音がして、いつの間にかディノの手にはあの美しい錫杖がある。

はらりと風に揺れた真珠色の長い髪が影を落とし、乱れた三つ編みを揺らして背後を見たディノの眼差しには、棺の精に怯えていた無防備な魔物の名残りは少しもなかった。


それが怖くて、また必死に考える。

ディノをこの先に向かわせれば、大切なものが失われてしまうような気がした。



(……………祝祭にはそれぞれの愛し子がいて、正しい作法が伝わらなければ廃れてゆく)


ディノが何かをしてしまう前にどうにかしなければと不安に押し潰されそうになりながら最後に思い出したのは、花びらの雨の中で微笑んだ金色の瞳の春の祝祭の主人の言葉だった。



ああそうか。

祝祭を殺せるのは、それを担う人間なのだと心のどこかで思った。


そして、祝祭を正しく運行するのもまた、それを祀り上げる人間達で、今日はクロウウィンの日なのだ。




「ちび南瓜です!」


突然腕の中で暴れ、そんな事を叫んだネアに、ディノは驚いたようだ。


ネアは手に持っていたままの水筒を取り落としながらも、腕輪の金庫の中に入れてあった南瓜聖人に貰った小さな方の南瓜を取り出す。

大きな南瓜はスープになってしまったが、おまけで貰ったこちらは、何か他の用途に使えないだろうかと金庫に入れたままだったのだ。


そして多分、そんなネアの叫びを誰よりも早く理解したのは、同じ人間であるウィームの領民達の方こそだったのだろう。


ネアが金庫から取り出したちび南瓜は、ここから投げつけるには遠過ぎた。

しかし、それを察した誰かが駆け寄ってくると、ネアが必死に差し出した南瓜を奪い取るように受け取り、また駆け出してゆく。


今のは、ホットワインの屋台のご主人だと目を瞠ったネアは、惚れ惚れとするような力強さで、その南瓜を赤い髪の女性に投げつけた屋台のご主人に喝采を贈りたくなった。



「南瓜……………」



なぜ、こんなに圧倒的な力を振るうものにそんなものを投げつけたのか、ディノはすぐには理解出来ないようだ。


赤い髪の女性も怪訝そうな顔をしたので、同じだったのだろう。

ちょうどアルテアからの攻撃を受けていたこともあり、南瓜などがぶつかっても大した事がないと思ったのか避ける事もせずにそのままでいて、南瓜は背中に当たる。


ずばんと音を立てて、女性の体に当たった南瓜が粉々になった。


それでも投げたのはウィームの領民であるので、ただの南瓜とは言えそれなりの威力があったようだ。

そしてその直後、驚いたように目を瞠った女性の体がぐらりと傾いだ。



「今だ!!」


次に叫んだのは誰だったのだろう。

わぁっと声が上がり、どこから取り出されたものか、次々と南瓜が女性に向かって投げつけられる。


赤い髪の女性は、続く南瓜をすぐに払い落とそうとしたようだが、すぐさま、じゃりんと音を立ててディノの錫杖が地面に打ち付けられると、ざあっと足元を走った光の波紋のようなものがその動きを鈍らせた。



「黒だ!黒を持っているぞ!!」

「それをすぐに投げろ。ありったけ投げつけるぞ!!」

「こっちにも黒い南瓜があるわ!!姑用だけれど、とっておきのだからこれも使って!!」

「屋台や店の前の飾りの南瓜も使おう。祝祭飾りになっている分、効果が高いかもしれない」



あちこちから、頼もしい声が聞こえてくる。

次々に南瓜を投げつけられた赤い髪の女性は、もはや、地面に蹲るようにして体を丸めていた。


よく見れば、あんなに美しかった鮮やかな髪色が毛先から落ち葉のように茶色く変化し始めており、黒い喪服のドレスの裾がもろもろと灰のようになって崩れてゆくではないか。



(ああ………!)


「……………えぐ」



ネアは、込み上げてくる感情を上手く押さえ込めずに涙を堪えた。


それでも、あちこちにはまだ、犠牲になった人達の亡骸があって、濃密な血の匂いが立ち籠めている。

折れ曲がった街灯に、一部が崩落した美しい建物。

街路樹の枝が落ち、何か魔術的な障りを受けたのか地面に落ちて死んでいる小さな生き物達もいる。


けれどもまだ、大勢の人達が生きていた。


中には片手を失っている老人もいたし、酷い怪我を負って離れた位置に寝かされている女性もいた。

だが、こうして見れば皆が懸命に戦っていて、何とかこの漂流物を追い返そうとしているようだ。


それが堪らなく嬉しくて、頼もしくて、でも失われたものがあるのが悲しくて、胸の中がいっぱいになってしまう。



ばすん。


また鈍く強い音がして、最後に赤い髪の漂流物に投げつけられたのは、先程声を上げた女性が、店で一番立派なものを選んだという黒い南瓜であった。


姑用だと聞けば少し怖いが、その見立ては確かなものだったようだ。

最後の黒い南瓜が投げつけられた直後、ぼうっと音を立て、もはやぼろ布のようになっていた漂流物の体が燃え上がる。




「ムイ!」



「まぁ。トルチャさんです!!」

「シルハーン!ネア!!」


ごうっと渦巻くように燃え上がった炎の向こうに、蒼白になったグラストと、その肩に乗ったトルチャが見えた。

続けて飛び込んできたのは真っ白な軍服のケープを翻したウィリアムで、その姿を見たネアは、震えるような恐怖の残骸を深い深い呼吸で吐き出した。



「固有領域が崩れたようだね。……………ネア」

「ディノ、……………な、何か失くしてしまってません?」


もうディノの手には錫杖はなく、ネアの大事な魔物は擬態を戻して青灰色の髪になっている。

とは言え錫杖は使っていたので、気遣わし気にこちらを見た魔物にもう一度そう尋ねると、ディノは、くしゃりと微笑んだ。



「……………困ったご主人様だね。……………君は、私が漸く場を整えて動かそうとした魔術よりも前に、南瓜を取り出してしまったんだ。………だから、何もなくしていないよ」

「……………ふぁ」

「ネア!」


安堵のあまり膝の力が抜けてしまい、慌てたディノに抱き止められる。


そんなディノの背中に片手を添えるように立ち、一拍置いてから片手で顔を覆ったのはウィリアムだ。

良かったという小さな呟きに、ウィリアムも最悪の想定をしていたのだと分かった。



「……………アルテアさんは、……………アルテアさんは大丈夫ですか?」

「ああ。アルテアはあちらで、残骸の隔離を行っているようだ。トルチャがいるし、クロウウィンの祝祭の作法に則って排除したようだから、土地に障りが残ったりすることもないだろう。………トルチャが焼き終えたら、俺が対処する」


ウィリアムに教えて貰って漂流物が燃えている方を見ると、アルテアはしっかり立っていて、グラストやゼノーシュ達と何かを話している。

ゼノーシュもいるのだと知り、ネアはますますほっとした。



「もう大丈夫だよ。このまま休んでおいで。南瓜が、………有効だとは思わなかったかな」

「この前の事件で、春の祝祭の方が話していた言葉を思い出したのです。……………祝祭は、どれだけ大きな力を持っていても、それを運行してゆく人達に大きな影響を受けるものなのだと。…………であれば、クロウウィンの中で大きな役割や………規則性を持つ南瓜が効かないだろうかと思いました。……………あの方は、ある意味では死者のようなものですから」



だからこそ、ディノ達には、悍ましい姿に見えていたのではないだろうか。

互いに見えているものが違うのなら、正常な領域を引き連れて現れる漂流物とは違うのではないかと考えたのだ。



(あ………)



「ウィリアムさん、……………ディノとアルテアさんは、ひどい怪我を………」



くらりと頭が傾き、ディノが手のひらでそっと支えてくれる。

ディノにも休んで欲しいので、ネアはウィリアムにディノが怪我をしたのだと懸命に訴えた。



「ああ。あとは俺に任せてくれ。………グレアムも来たようだ。これだけいればもう、安心だからな」

「はい」



意識がじわじわと落ちてゆく中何とか堪えていたが、その言葉を聞いたネアは、安心して残った意識を投げ出した。

一瞬、先程見た美しい女性を思い出しかけてぞっとしたが、ちびこい杖をぴっと振ったトルチャを重ねて思い出したので、怖い夢は見ないだろう。



エーダリア達への連絡をと思ったが、もう目が開かなかった。










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