祝祭の足跡と家族のテーブル
ネアが漂流物の領域に落ちたと聞いて、息が止まりそうになった。
つい先日も漂流物絡みの事件はあったが、今回は、誰かが仕込んだ罠ではなく淳前たる漂流物の訪れだったのだ。
(こちらの生き物が扱う漂流物と、流れ着いた漂流物はまるで違う)
兄からそう聞いているからこそ、指先が震えるような不安を覚え、無言で頷くのが精いっぱいであった。
すかさず体を支えてくれたのはヒルドで、その手にしっかりと支えられ森と湖のシーの瑠璃色の瞳を見上げる。
「ネア様であれば大丈夫ですよ。今回はウィリアム様も一緒に行かれたようですから」
「……………ああ。ああ。そうだな。私達は、これから領民の被害状況を把握しなければだ」
「ええ。ネイ、あなたにも手伝って欲しいことがあるので、執務場所をディノ様がいらっしゃる場所に移しますか?」
「うん。シルとも今話していたんだけど、ネア達の部屋でいいかい?戻ってくるのが恐らくそこになると思うんだ」
「では、書類や通信機器をまとめますね。あなたは先にディノ様の側にいて差し上げては?」
「そうさせて貰おうかな。……………僕の契約者は大丈夫かい?」
「ああ。すまない、不安なのは皆同じだというのに、心配をかけた」
「ありゃ。そんなの気にしなくていいんだよ。人間には人間の案じ方があるからさ」
ノアベルトはそう笑うと、エーダリアの頭にぽんと片手を載せてから、一足先にネア達の部屋に向かった。
どうも最近、ネア用の対応がこちらにも適用されているようなので、頭を撫でる必要はないのだとそろそろ言うべきかもしれない。
必要な書類と過去の資料に、急ぎの布令を出す際に必要な特別なインク。
そんな物をまとめながら、ダリルからの通信を受ける。
既に四人の領民が漂流物の領域に落ちたと考えられており、家族の手助けをする為に街の騎士団や医療魔術師などの適切な人員を派遣したという。
大きな被害が出ていれば、それが明らかになるのはこれからだ。
幸い、今回の漂流物はこちら側に顕現するものではなく、重なった領域から向こう側に引き摺り落とすようなものであったらしい。
(その方が幸いだと、ダリルは言えるのだな……………)
被害規模を見れば、間違いなくそうなのだ。
だが、漂流物の領域に落ちた者が無事に帰還する可能性は、こちらで遭遇した漂流物から逃げられる可能性よりもかなり低くなる。
何よりも、こちらから救援の手を差し伸べられない以上は、自分の力で帰還して貰わねばならない。
こちら側の常識や手立てが届かないのが、その向こうなのだから。
「………おや。こちらに戻ったばかりのアレクセイも漂流物の領域に入ったようですね」
「靴屋の…………、だったか。久し振りにウィームに戻ったばかりと聞いている。まだ疲れも取れていないだろうに………」
「ですが彼は、いい革がないか見てくるという事でしたので、問題なさそうですね」
「……………いい、……………革?」
あんまりな理由が聞こえてきたようなので、エーダリアは一瞬困惑してしまった。
まるで自ら漂流物の領域に入って行ったように聞こえたのだが、気のせいだろうか。
「後は、…………観光客が一人増えました。こちらはヴェルリアの商人のようです。個人商店の仕入れに来ていたようで、大きな商会の下請けでもなく貴族との繋がりもなさそうだとか」
「本来は、そのような理由で安堵などしてはいけないのだがな…………」
「とは言え、漂流物の被害状況を探っている間に、政治的な駆け引きまでさせられては堪らないでしょう。尤も、そちらはダリルが上手くやるでしょうが」
「ダリルから連絡が入った。ウィーム領としての正式な声明は、統括の魔物であるアルテアと連携してあちらで行うようだ。……………テルナグアの予兆が出ていたという報告があったらしい。アルテアは、水の流れを追って王都の対策会議に向かうそうだ」
そんな報告を読み、またひやりとした。
古くから知られ、同時にその理由は分かっていない事であるが、漂流物には種類がある。
そして、その種類ごとに性質の差が大きいのが問題だった。
(海から来るものの方が悍ましいが、水路や川から来る者の方が階位が高い事が多い。水路や川に現れる漂流物は、便宜上漂流物という区分にされているだけで実際には顕現の成り立ちが違う、交差した別の境界のものなのだ)
中でも、広く知られている事でその恐ろしさを軽減してしまっているが、水路に現れる漂流物で最も恐ろしいのが、テルナグアだった。
ディノが自分の系譜のものだと話していただけでもその異質さは飛び抜けているのだが、あれは、漂流物が現れる年ではなくとも条件さえ整えば現れる防ぐ手立てのない異邦のものだ。
それだけ容易にどこからともなく現れるからには、本来の領域では相当な階位を持っているか、それだけのものに属するに違いない。
「……………おや」
荷物をまとめて金庫に入れ、ネア達の部屋に向かう途中で、ヒルドが小さく声を上げた。
ぎくりとして振り返ると、こちらを見たヒルドは、ふわりと微笑むではないか。
「ネア様の会から、アクス商会の代表と、ヨシュア様もあちらに入られたようですね。少し安心材料が増えましたね」
「……………そうか!それは…………アクスの代表は何と言えばいいのか分からないが、それでも幸いだ」
いい知らせというには不確定要素も多いが、少なくとも頼もしいことに変わりはない。
気持ちを持ち上げ、ノックをしてから部屋に入ると、応接室の長椅子に腰かけ悄然としているディノがいた。
項垂れているので睫毛の影が落ち、鮮やかな瞳の色はいつもよりも暗い。
だが、そんなディノに寄り添うように座っているノアベルトがいて、その存在にディノも助けられているようだった。
「ヨシュア達の話は聞いたかい?」
「ええ。イーザから連絡が入りましたよ。ヨシュア様には、しっかりネア様をお守りするように伝えてあるそうです」
「うん。アイザックは、グレアムが上手く誘導したみたいだ。こういう時、グレアムは誘導が上手いからなぁ……」
「……………残った気配に触れたのだけれど、秋の気配がするから、季節の系譜を持つものだろう。一緒にいた時に私も鐘の音を聞いたのだけれど、かなり階位が高いものなのは間違いない」
「シルと話していたんだけどさ、…………多分、前の世界層じゃなさそうなんだよね。その前か、それ以外のどこかの層なのかは分からないけれど、魔物が治めていた世界じゃない独特の気配があるみたいだよ」
反対側の長椅子に座り、ノアベルトが取り出してくれた袖机の上に通信板を置く。
ヒルドが飲み物を準備している時に話された内容によると、ディノ達は精霊の代の世界層でなければいいと考えているようだった。
「ほら、精霊は……………過激だからさ。随分昔の事だからってあの気質が変わるとも思えないんだよなぁ」
「今入った報告によりますと、一人の領民が、家族が連れ去られた際に賑やかな歓声を聞いているそうです。傘祭りや花火の日のようだったと話しているようですね」
「……………わーお。……………そうなってくると、向こう側は普通の日じゃないんだろうね。下手をしたら祝祭かぁ……」
(………祝祭)
その言葉の重さに、ずしりと肩が重たくなる。
この世界の中だけでも、祝祭というものにどれだけの特異性があるのかは言うまでもない。
高位の者達ですら介入出来ない作法も多く、夏至祭の時にもあれだけ気を揉んだばかりだ。
「祝祭の主人たちの治める層のものであれば、…………あの子は大丈夫だろう。漂流物への耐性がついているからには、向こう側の者達の姿は正しく見えている筈だ。ウィリアムを始めとした他の者達も、漂流物を退けた経験があるので問題ないと思うよ」
「祝祭そのものが、そこに出て来る可能性もあると思うかい?」
「……………彼等は、祝祭の愛し子を選び、召し上げる側の者達だから、あまり現れて欲しくはないけれどね。イブメリア相当の祝祭の浸食は退けてあるけれど、その代わりに私は他の祝祭の漂流物には介入出来なくなってしまっているから、これ以上は読み取れなかった………」
静かな声でそう話したディノに、エーダリアは目を丸くした。
となると彼は、既に漂流物への対策として一つの祝祭を排除したという事なのだろうか。
「あ、そうそう。漂流物でイブメリアに相当するものが現れる事はないから安心していいよ。ウィーム領との相性が良過ぎるし、季節が近付いてきているから本来だったら結構危ないんだけど、シルがグレアムと相談して代価を支払って切り落としているから」
「……………そのような事が出来たのだな」
「シルじゃなきゃ出来ないし、今回はクロムフェルツの手も借りたからね。ただ、犠牲の魔術とこの世界の万象の理を使っても一つだけしか排除出来なかったから、やっぱりそうそう可能になる事でもないかな」
ディノがイブメリアに相当する祝祭をそこまで警戒したのは、ネアの履歴故のことだろう。
だがその結果、今回の漂流物の領域への介入が叶わず、ネアを一人で行かせてしまったことに落ち込んでいるらしい。
(ネアなら、きっと大丈夫だ)
そう言ってやりたいが、そんな事はきっとディノも承知の上だろう。
そう知っているし、信じてもいる。
でも、もしもの事があった場合にそれを受け入れる事の出来ない大事な存在だからこそ、その身を案じて息を詰め、胸を痛めるのだ。
(……………ネアなら、絶対に大丈夫だと信じている。もし、怪我などをしてしまうような事があったとしても、きっとこちらで対処出来る)
続々と上がってくる報告書に目を通しながら、痺れるような不安の欠片を必死に心の中から払い落とした。
こうして感じている不安は個人的なものである。
不安に呑み込まれて執務を疎かにする事だけは、あってはならない。
ヒルドが淹れてくれた紅茶を飲んだが、ネア達が戻るまでは、美味しいと思う余裕すらなかった。
「……………どこも、怪我などはしていないのだな?」
そう尋ねると微笑んで頷いたのは、無事に戻ってきてくれたネアだ。
ウィリアムの体調が悪そうで驚いたが、向こう側の音楽が合わなかったことで、ずっと酷い耳鳴りを感じていたらしい。
「ふふ。この通り、ヨシュアさんのお陰で無傷です!…………領民の方達は、二名を除いてまだ戻って来られていないのですね………」
「ああ。…………夜明けまでに、一人でも多く戻って来られればいいのだが」
「向こう側は、霧が晴れて街の住人の方が出てさえいれば、比較的こちらと大差ない暮らしぶりのようでした。どうしても戻り方が分からない方は、……せめて、どうにしかしてそちらで生きてゆければいいのですが…………」
「それについては、何とも言えない部分なのだ。………漂流物への耐性を持たない人間には、お前が見ていた通りの世界が見えるとは限らない」
「まぁ……………」
小さく息を呑み、ネアが悲しそうに瞳を揺らす。
祝祭や障りなどに触れて被害が出た時よりも反応が深いのは、こちらに来て幸せを得たネアだからこそ、ここではないどこかへ連れ去られるということが、他人事でも少し堪えるのだとか。
「それにしても、祝祭の主人に二人も遭遇してしまうというのが、お前らしいのだろうな…………」
「エーダリア様は、祝祭の主人という方々をご存知だったのです?」
「いや、今回の事で初めて知った名称だ。だが、私達の知るものに例えるのなら、統括の魔物くらいの存在ではあるのだろう」
「収穫祭の方は少し胡散臭い感じもしましたが、春の祝祭の方は、何だか優し気な方だったのですよ。…………ウィリアムさんとのお話を聞いて、次の春には何かの祝祭に足を運んでみたいなと思ってしまいました」
それは多分、何気なく話したことだったのだろう。
だが、エーダリアはぎくりとしてしまい、隣にいたノアベルトの方を見る。
目が合った契約の魔物は、何かを考えるようにゆっくりと頷いてくれた。
魔物らしい、冷ややかな眼差しだった。
「……………僕の妹は、春の祝祭が気に入ったのかな」
「むむ?………いえ、個人的にどうこうという感じではないのですが、………あの魔術師めの一件があったばかりでしたから」
一瞬、その言葉の示すものが分からずに目を瞬いてしまい、ああと頷きほっとしたように苦笑したノアベルトの方をもう一度見てしまう。
「そっか。僕の妹は、春の祝祭の主人が、ウィリアムと仲良くしていたのが気に入ったんだね?」
「……………ん?……………俺なのか?」
「うむ。上手く説明出来る気がしませんが、……………あの方は、自分ではどうしようもない理由で何かを失うという事や、自身を損なわれてゆくことをご存知のようでした。こちらとは価値観なども違うのでしょう。でも、ごく自然にウィリアムさんとお喋りをされていて、ウィリアムさんの担うものがどのような大変さなのかも理解されているようだったのですよ」
「……………ネア」
そういう理由であればと安堵してしまったエーダリア達に対し、ウィリアムは目を瞠っている。
途方に暮れたようにしている終焉の魔物に微笑みかけ、ネアはディノがそっと膝の上に置いた三つ編みをしっかりと握ってやっていた。
「あんな風に受け止めて下さったのが素敵だったので、こちらでも春の祝祭が廃れてしまわなければいいなと思いました。ウィリアムさんは私の大事な騎士さんなので、正しい評価にはきちんと報いたいと思います!」
「そんな………祝祭なんて……………」
「あらあら、荒ぶるべきなのかどうか分からない場合は、そのまま受け流してくれてもいいのですよ?」
「……………春が、気に入ってしまったのかい?」
「この場合は、春の祝祭に参加することで、あの方がとても楽しそうにウィリアムさんと話していた様子を思い出し、よく分かっているではないかと誇らしく思ってみるくらいでしょうか。……ただの感傷のようなものですが、あのような方を有していた祝祭が廃れてしまわなければいいなと思うのです」
「えーと、…………念の為に伝えておくと、今代の春の祝祭の系譜は、女の子なんだよね。冬の気質の強いウィリアムとの相性は、………あんまり良くないかな」
「……………なぬ。ではぽいです。春告げの舞踏会で、お料理を美味しくいただくくらいに留めますね……」
「ご主人様………」
あっさり春の祝祭への興味を失ったネアをみて、胸を撫で下ろす。
(春の系譜は、浸食などの資質が強い者達が多いからな…………)
漂流物の領域から縁や執着を持ち帰ってきてしまっていたらどうしようかと思ったが、ネアが基準にしたのはウィリアムだったようだ。
確かに、リヤルという名前の魔術師の一件は胸に残るような不愉快なものだった。
そう思った途端にあの日の記憶が蘇ってしまい、またしても少しばかりもやもやとする。
その後も、ネアやウィリアムから漂流物の領域で起きた事を聞き、槍のようなもので雲の魔物が負傷したという下りでは、やはりぐっと体に力が入ってしまう。
もし、その中の一本でもネアに当たっていたらと思うし、そうではなくとも、リーエンベルクを度々訪れているヨシュアが負傷したというのも気掛かりであった。
アルテアは引き続き王都での調整があるらしく、ネアの魔術洗浄は、ノアベルトと、犠牲の魔物が届けてうれた薬湯で行う事になった。
ネアは、いつもより薬湯が三杯沼の味だったと打ちひしがれていたが、アルテアが備蓄してくれていたという林檎のパイにヒルドにアイスクリームを添えて貰い、何とか落ち着いたようだ。
そのまま今夜は休むだろうと思っていたので、真夜中過ぎに足を運んだ会食堂で書類を広げていたところ、ネアが当たり前のように部屋に入ってきた時には驚いてしまった。
深い夜の光が窓から落ちている。
漂流物の訪れがあったとは思えない、静かな夜だ。
「……………もう、お前は休んだらどうなのだ?」
「そういうエーダリア様こそ、会食堂で、お仕事の続きをしているではありませんか」
「夜明けからは、川沿いの土地や王都での被害状況の報告が入ってくるだろう。……………ザルツでは、十九人の行方不明者が確認されている。………少し寝ておかねばならないと思ったのだが、何となく目が冴えてしまってな」
「………何か、今回の事件で気になるところがあったのですか?」
「………しょうもないことなのだがな。………今回は、こちらの世界の誰かが関わっていない純然たる漂流物だっただろう?……………そのようなものがこんなに近くに現れた時、……最近はすっかりお前達やノアベルトやヒルドに頼りきりだったが、…………久し振りに、手立てが及ばない領域があったことを思い出してしまったのかもしれない」
ネアは何も言わずに頷いた。
そうして続きを促してくれたので、まとまりのない言葉を続けてしまう。
「自分でも、正直なところ、特別に恐ろしかったという程の事件ではないのかもしれないと考えている。……………だが、不安を覚え、足元が揺らいだのは確かだ。その不思議なざわつきが心の中のどこかに残っていて、なかなかいつものような夜に戻れない………のだろう」
「まだ、眠れそうにありません?」
「…………ヒルドを心配させたくないのでこちらに来てしまったが、さすがに少しは寝ておかねばだな。半刻したら、部屋に戻るつもりだ」
「むぅ。二刻しか眠れなくなりますが、…………きっとそんな時もあるのでしょう。私達はこれはらお夜食を作りますが、エーダリア様も食べていかれますか?」
「……………夜食?」
突然の誘いに首を傾げると、ちょうど、ネアも眠れずにこちらに来たのだと教えられる。
自分の部屋の中で過ごしていても良かったが、なぜだか、家族がふらりと現れるかもしれない会食堂で過ごしたくなったのだそうだ。
「そうだったのか。……………だが、まさか一人で来たのではないだろうな?」
「エーダリア様がどんな理由でお一人なのか分かりませんでしたので、ディノには入り口で待っていて貰っていました」
「……………入り口?」
はっとして会食堂の入り口の方を見れば、扉の所で待たされているディノが悲しそうにこちらを見ているではないか。
慌てて中に入れてやるように言うと、手招きしたネアに嬉しそうに微笑みこちらにやって来る。
気を遣わせてしまったことを詫びれば、不思議そうに目を瞬いていた。
「もう、いいのかい?」
「はい。エーダリア様も眠れないみたいなので、一緒にお夜食になりました」
「うん。…………ヒルドもかな」
「ヒルドも……?……………っ?!」
ディノの言葉に慌てて振り返ると、先程ディノが経っていた場所に、今度は呆れ顔のヒルドが立っている。
「やれやれ。明後日はクロウウィンですから、休める時間は眠っておくようにと言いませんでしたか?」
「すまない。……………どうしても、眠れなくてな」
「明日は、執務開始前に体力回復の薬を飲むようにして下さい。……………ネア様、何かお手伝いいたしましょうか?」
「お料理も心を穏やかにする素敵な魔術なので、ぱぱっと作ってしまいますね。こんな時間ですが、ヒルドさんも食べていかれますか?」
「では遠慮なく。………ネイも探してきましょうか」
「……………ノアベルトは、床にいるのだ」
「………成る程。さすがに、この夜にお一人で部屋を出るという判断はされなかったようですね。場合によっては、後程お叱りしなければと思っていましたが」
会食堂の机の下を覗き込み、ヒルドは納得したように頷いた。
ここ迄付いて来てくれたノアベルトは、今夜は側にいてくれようとしたのか狐姿だったのだが、いつの間にか足元で椅子の足に体を寄せて丸まり、眠ってしまっていた。
体が冷えるといけないので心配だったのだが、椅子を引くと尻尾を巻き込みそうで、正直途方に暮れていたのだ。
「ふむ。起きるかどうかによりますが、狐さんの分も必要そうですね。なお、ウィリアムさんはアルテアさんと連絡を取っているところですので、終わり次第こちらに来るそうです」
「では、グラスがもう一つ必要ですね」
温かなポリッジなのでと、ヒルドが用意してくれたのは冷たい香草茶であった。
秋の夜なので体が冷えるかと思ったが、一口飲めば口の中がすっきりとして、夢中で飲んでしまう。
そう言えば部屋に戻る前に水分補給しておくようにと言われていたが、何も飲んでいなかったことを思い出した。
「不安がある場合は、それを伝えていただくようにと言いませんでしたか?」
ネアが厨房の鍵を使って扉を開くと、隣の椅子に座ったヒルドがそんな事を言う。
言われるのは分かっていたのだが答え方が分からず、小さく頷いた。
「すまない。……………ネアにも話したのだが、今回は、落ち着かない理由がはっきりとしなかったのだ。お前やノアベルトがいても、こちら側の領域で対処しきれない危険かもしれないと思ったのが大きいのだろうが、解決した後も心が落ち着かなかった」
「そういうこともあるでしょう。心というものは、思いもよらない動きをすることもあります。ですが」
「今は、お前達が側にいるからな」
「ええ。分かっておられるのなら、お一人で抱え込まれませんよう。ネイが気付いてあなたの側にいたようで、良かったです」
「お前はお前で、どうせ自室で王都との連絡を続けていたのだろう。まだ着替えてもいないではないか……」
意趣返しということではないのだが、そこを指摘するとヒルドはふわりと微笑んだが何も言わなかった。
こういうところが狡いのだと眉を寄せていると、手を伸ばし、おもむろに頭を撫でられる。
「……………ヒルド?」
「仰る通りに少し仕事を持ち帰っておりましたので、その分の対価をいただこうかと」
「こ、こんなことでいい筈もないだろう。…………クロウウィンが終わってからにはなると思うが、休暇はしっかりと余分に取るのだぞ」
「ではそうしましょう。ネイから催促がありましたので、また今度、三人で狐温泉にでも行きましょうか」
「ああ。あの石鹸がそろそろなくなる頃だったのだ」
ではいつ出掛けようかと話をしている間に料理が終わったらしく、ネアが鍋を持ってこちらに戻ってきた。
ディノが持とうとしたのだが、ネアが伴侶が火傷しないか警戒したそうで、重量軽減の魔術をかけてネアが運びやすいようすることで同意したらしい。
ヒルドが鍋の下に敷く厚手の布をテーブルに置き、その上に置かれた淡いセージ色の鍋からはチーズのいい匂いが立ち昇る。
「お、ちょうどいいところで間に合ったな」
「ウィリアムさん!ちょうど出来たところなのですよ。お夜食なので、バターとコンソメと牛乳に塩胡椒、たっぷりのチーズだけのポリッジなのですが、保冷庫に残っていたセロリも少し入っています。ちょっとだけ香り付けでローズマリーも」
「うん。美味しそうな匂いだ。ネアが作ってくれたとなると、充分に贅沢だと思うぞ」
「……………ありゃ。いい匂いがする」
「ノアベルト、元の姿に戻ったのだな。ネアが夜食にポリッジを作ってくれたのだが、一緒に食べないか?」
「……………ノアベルトは、もしかしなくても床に寝ていたのか」
一口食べて、心が解けるような優しい味に幸せな気持ちになった。
ネア特製のチーズポリッジは、両手で持ち上げられる程のスープボウルに少しずつだけ。
だが、少し多めに作ったのでと、必要な者は鍋からお代わりを貰えるようになっているらしい。
こんな夜中にもう一度揃って夜食を食べている不思議さが何だか温かく、そうこうしている内に、王都での対応を終えたアルテアもやって来る。
当たり前のようにポリッジを食べている選択の魔物を見ながら、ああ、いつもの日常が戻ってきたのだと思うと不思議と心が落ち着いた。
エーダリアが横に片付けておいた書類の他に、アルテアが持ち帰ってきた書類の束や小さな手帳なども、テーブルの上に置いてある。
ヒルドが持って来てくれたひざ掛けは椅子にかけてあり、隣の椅子にはネアが羽織ってきたガウンもかかっていた。
何となく、これが家族のテーブルだなと思えばそれを見ているだけで幸せだったので、きっと、部屋に帰った後にはぐっすりと眠れるのだろう。
明日は忙しい一日になりそうだが、今夜のように理由もなく心が不安定になる事はなさそうだ。
もしかすると、ネア達と一緒に漂流物の領域に下りた者達も、こんな風に大事な者達と夜を過ごしているのかもしれないと少しだけ思った。
明日は、12時に「長い夜の国と最後の舞踏会」、いつもの時間に「薬の魔物の継続理由」の更新があります!




