250. 予想外の祝祭もいます(本編)
夜の街は華やかで美しかった。
街の空気はひんやりとした霧深いウィームの秋と似ているのに、不思議と夜の中でも太陽の気配がある。
どこかの夜に似ていると思ったが、砂漠の街も海沿いの都市も、何かが少しずつ違うのだ。
けれどもこの街は、きっと夜が明けると眩い太陽が照らし出すのだろう。
そんな気がした。
「ヨシュアさん、………体は大丈夫ですか?傷薬を飲んでみます?」
ネア達は現在、そんな街の中を歩いていた。
何しろ欲望の魔物ことアイザックが、現在行方不明なのだ。
一人で勝手に帰れる可能性もあるのだが、とは言え出来る限りここが晴れるまでに見付けておいた方がいいらしい。
ネアの問いかけに振り返ったヨシュアは、なぜか怯えたようにぷるぷる震えている。
どういう訳か、顔色が悪い。
「ほぇ。……ぼ、僕はあのくらいなら自分で治せるんだよ?傷薬は飲まないんだ………」
「………お薬が嫌なだけではありませんね?」
「ふぇ。治ってる……」
「因みに、槍を投げた奴めは、滅ぼせました?」
「…………ウィリアム、ネアが獰猛過ぎるよ」
「むぅ。悪いことをしたものは、そうされて然るべきなのですよ?」
ネアはふんすと胸を張ってそう主張したが、ウィリアムは珍しく首を横に振った。
まだ残っている僅かな夜風に、前髪がふわりと揺れる。
「祝祭の系譜の生き物だ。やめておこうな。俺達ならまだしも、ネアがとなると少し危うい」
「ここにいる方は、滅ぼさない方がいいのでしょうか?」
「先程の連中は特に、という感じかな。…………恐らく、今こうして現れているのは、土地本来の住人達なんだろう。そちらであればと思いはするが。………シルハーンとのカードはまだ何の反応もないか?」
「…………ふぁい」
恐らく、それが漂流物の領域の特徴なのだろう。
大事な魔物が怖がってる筈なのでとネアは項垂れたが、頭の上に手のひらを載せてくれたウィリアムが、大丈夫だと言ってくれる。
「今回は、俺が一緒にいると考えてくれている筈だ。それに、グレアムからヨシュアとアイザックもこちらに入ったと聞いているだろう。アイザックにテルナグアの情報が入っていたとなると、海から来たものではないことも、もう聞いている筈だからな」
「今回の祝祭はやはり、水路から来たのでしょうか?」
「恐らくそうだろう。水路や橋の向こうから現れるものは、………同じ漂流物として区分されても、大晦日の怪物達に近い交差型の来客なんだ。帰るところがあるからこそ、必ずしも狂っているとは限らないものだと思ってくれ」
歩きながら、そんなことを教えて貰う。
街の住人達が姿を表し始めたので、ウィリアムは黒いトレンチ風のコート姿に戻り、ヨシュアも嫌がって泣いたがターバンをやめて、淡い灰色のコートに同色の毛皮の帽子に擬態していた。
歩道を行き交う人々の装いはそれぞれだが、簡単なウールのコートや、薄手のコートに毛織りのストールなどを巻いているようだ。
貴族的な装いに見えなくもないがやや軽装で、ウィームとアルビクロムの間くらいだろうか。
(………夜でも明るい)
明かりの灯った街並みは、きらきらと宝石箱のように光っている。
ウィームの街並みがおとぎ話の煌めきであれば、この街の夜には文明と栄華の艶やかさがあった。
「………海から来るものは、帰れないものが多いのですね」
「と言うより、海から来たもので帰り道がある連中は、もう少し自然に海沿いの集落や国に入り込むから、そもそもの目撃情報が上がらないことが多いんだ」
「むむ、そうなのです?」
「それに、漂流物なのか遠く離れた土地からの旅人なのかは、本人にも判別がつかないこともある。………壊れて流れ着かない限りは、こちらが危惧するような状態にもならないことが多い。…………ヴェルリアではそうした状態のいい漂流物が度々確認されているが、先程の男のように、理性的で帰り道を覚えていて戻っていくものも多いらしい」
(理性的で、帰り道を知っている…………)
随分前に出会ったものだが、サルガリスのことを思い出しあのような感じかなと思った。
もしくは、気象性の悪夢の日に王都で出会った、美しい女性のようなものだろうか。
エーダリアの誕生日に出会ったカルウィの王子ならもっと色々な事例を知っているかもしれないが、流石にもう会うことはないだろう。
自国の国王とも、そう簡単に会えるとは思わない。
どこからともなく、楽しげに聞こえるが僅かな物悲しさのある音楽が聞こえてきた。
街角では、バイオリンやチェロを奏でている若者達がいた。
ウィリアムがそちらを見たのは音楽を嗜んでいる魔物らしい反応なのか、それとも何か魔術的な意味があるのだろうか。
そんな事を考えていると、同じようにウィリアムを見たヨシュアがふうっと息を吐いた。
「よく似ているけれど、あちこちが違うんだ。………僕は祝祭の形が少しずつ歪んでいて、もやもやするよ」
「違和感や、不快感があるのですか?」
「知っている筈の風景で、間違い探しをしているようなものだね。シルハーンが青い服を着ていて、ウィリアムが赤い服を着ていたら落ち着かないだろう?…………僕は、この街はあんまり好きじゃない」
「ふむ。旅先の異国だと思えばありなのかなと思っていましたが、魔物さんにはそのように感じられてしまうのですね………」
「ヨシュアは色か。………俺は、音だな」
小さく呟いたウィリアムを振り仰ぎ、ネアはぎくりとした。
落ち着いた様子で隣を歩いていた終焉の魔物の額に、僅かだが汗が滲んでいたからだ。
「……………ウィリアムさん。どこかで休みませんか?」
異変に気付いたネアが慌てて腕を掴んで立ち止まらせると、ウィリアムは困ったように微笑む。
手をかけた腕はコートの布地を挟むので体温までは分からなかったが、この様子だと発熱している可能性も高い。
「ネア、………これはどうしようもないんだ。ヨシュアより、俺の方がこの祝祭の資質に近い分、影響を受け易いんだろう」
「もしかして、先程からずっとこんな状態だったのですか?」
「いや。あの男と祝祭の系譜の者達が去ってからだ。あれは漂流物だったから良かったんだが、………今は、完全に俺たちの属する領域ではない土地の中を歩かされているからな」
「壊れていない漂流物はすぐに立ち去るからいいんだけど、持ってくる領域が本来の形のまま投影されるから嫌いなんだ。………これがあるから、漂流物は厄介なんだよ」
(そう言えば、森蛾というものが現れた際にも、アルテアさんがその領域に囚われていたっけ)
漂流物が問題なのは、壊れて狂った悍ましいものがやって来ることばかりではなく、それらのものが持ち込む非ざる要素の全てである。
そして、階位が高いものほど自身の領域を背景として持って動くのだと、夏至祭の時の騒動で学んだではないか。
(即ちここは、ある筈のない別の場所の理が持ち込まれた領域なのだ。……ウィリアムさんやヨシュアさん達のような司るものを持つ人達にとっては、かなり過ごし難いところなのだわ)
「………傷薬や他の何かで、楽になれそうなものはありますか?」
「それなら、しっかり手を繋いでいてもいいか?この不快感のせいで、うっかりネアとはぐれるのは御免だからな」
ウィリアムは淡く微笑んでそう言うばかりだったので、ネアは繋いだ手をぎゅっとした。
このくらいで、勿論あればすぐに叶えてしまおう。
「僕のことはとても敬うといいよ。偉大だから、目がちかちかするだけで済んでいるんだ………」
「………ふと思ったのですが、アイザックさんは本当に自由行動中なのですか?お二人がこの様子だと、単にどこかで力尽きているだけなのでは………」
「ふぇ、敬わないよ……」
「いや。…………欲望の質は、そこまで大差ないと思うぞ。多少の不快さはあるだろうが、この通りの商店の多さや人々の過ごし方を見ている限りは、前の世界層よりこちらの方がいいくらいだろう」
「うん。アイザックは頑丈だからいいんだ………」
「むむぅ。そうだといいのですが……」
わあっと歓声が上がったのでぞくりとしたが、街角に大きな祝祭の人形が現れただけであった。
あちこちに貼られたポスターから、祝祭の夜にはパレードが行われるようなのだが、足元に落ちている紙吹雪の残骸からするとどうやら既に終わった後であるらしい。
祝祭の名残りを楽しむ住人達の為に、あちこちの店が遅くまで開いているが、衣料品店などはさすがに閉店していた。
(……………クロム)
あちこちに貼られたポスターの中の一つに、パレードがクロムのものだと書かれていて、ネアは目を瞠った。
もっと知っているような言葉が出てくるような気がしていたのだが、クロムパレードという名称は聞いたことがない。
となると、自分の生まれ育った世界には紐付かないのだなと考えかけたが、単純に知らない土地の言葉なのかもしれない。
だとしても、記憶にかかるような言葉がないのなら未知のものと変わらなかった。
歩きながら、隣のウィリアムやヨシュアを何度も確認すれば、どうやらウィリアムが音楽に、ヨシュアは華やかな祝祭衣装の人々の動きが堪えるのか、そのようなところで眉を寄せていた。
どちらにも影響を受けないネアがふんすと胸を張り、この二人には不審者を近付けてなるものかと周囲を見回している。
明るい夜の街を行き交う人々の長い影が、幾重にも交差して伸びる。
そんな街の中を歩いていると、時折、不躾な視線を感じるようになった。
魔物達の美貌が目立つのかなと思っていたネアが視線の方を見ようとすると、すっと歩調を早めたウィリアムがその視線を遮る。
(………おや?)
であればそれは、見ない方がいいものなのだろうか。
僅かに首を傾げていると、さりげない仕草で体を屈めたウィリアムが耳元に唇を寄せた。
「視線を辿らない方がいい。このような祝祭に妙なもの達が混ざり込んでいるのは、どこでも変わらないようだ」
「……は、はい!」
「ほぇ、いちゃいちゃしてる………」
「ヨシュアも、くれぐれも手を出すなよ」
「僕はそんな事はしないよ。…………アヒルだ!」
「こらっ!いけませんよ!」
「…………ふぇ」
「言ったばかりだろう。………勘弁してくれ」
ここで、帽子を被ったアヒルの玩具を売っている屋台があり、ヨシュアが駆け寄ろうとしてウィリアムに捕縛されている。
その屋台では楽しげな音楽をかけていたので、ウィリアムは具合が悪そうだ。
どこから音が出ているのかなと思えば、不思議な鉱石のような塊から聴こえてくる。
こんな風に少しずつ見慣れない道具も見かけるので、アイザックがふらふらと出かけてしまったのも致し方ないのかもしれない。
「アヒルだったんだよ………」
「ええ。アヒルさんでしたね」
「………ヨシュア。本当にこちらで合っているのか?」
「僕は偉大だから間違いないんだ。………でも、変なものが近付いてきたね」
「……………ああ。この先は、少しきついな」
「ウィリアムさんに何かあったら困るので、いざと言う時は、アイザックさんは自己責任という事で置いてゆきましょう」
ネアがそう言えば、こちらを見たウィリアムが小さく微笑む。
あの屋台からはもう離れ、あの時ほどは音楽が聞こえなくなっている筈なのに、先程よりも苦しげにしている。
「それもいいかもしれないと、思い始めたところだ。………だが、いたようだな」
わあっと、また歓声が上がった。
大きな通りとの交差路で、建物の影を抜けた途端に淡いピンク色の花びらが舞い散る。
今度は紙吹雪ではないのだと目を丸くしたネアは、交差した大きな通りの右奥に、神殿のような壮麗な建物を見付けた。
夜でも明るく照らされている白い建物は、盛り土をしたようにそこだけ高くなっていて、周囲には大勢の人たちが集まっているようだ。
まだ距離があるので実感しきれないが、かなり大きな建物に見える。
先程から歩道を歩く人が増えてきていたのは、祝祭に何らかの関わりがある建物に近付いていたからだったのだろう。
そして神殿を眺める観衆の中には、色とりどりの服を着た人々の中にくっきりと浮かび上がる漆黒の装いのアイザックの姿があった。
夜なのにそこだけ切り取られたようだと思えば、ウィリアムの黒いコートも目立つのかもしれない。
だが、ネア達が一緒にいるので緩和されているのだろう。
「アイザックだ」
ヨシュアが名前を呼び、長い黒髪を揺らして欲望の魔物が振り返る。
白い手袋の指先には細身の煙草を持ち、紫煙が夜風にたなびいた。
黒いコートの一部にはかぎ裂きがあり、きっちりと着込んだシャツの襟元が僅かに乱れていた。
それを珍しいなと思いネアが目を瞠ると、こちらも珍しく疲弊したような目をするではないか。
「やれやれ、遅いご到着で。…………この界隈の魔術を見ておいた方がいいでしょう。一つの重なりがあると、その後も同じ土地のものが続いたりもしますからね」
「だとしても、せめて何かを言ってからあの場を離れてくれ」
「おや。私は霧が晴れてからはずっとここにおりますよ。離れたのはそちらでは?」
「ん?………もしかして、交戦地から動いていないのか?」
「言ったでしょう。私は商人なので、特にもならない場所では動かない主義です。………酷い匂いだ」
「ほぇ。アイザックは匂いなんだ………」
この様子からすると、欲望の魔物は勝手にどこかに言ってしまったのではなく、きちんとその場に留まっていただけらしい。
思えば、ネアも一時は見失っていたくらいなので、あのままの勢いで戦っていたのなら、霧の中から現れたパレードが立ち去る前に相当引き離されていたのかもしれない。
「………あれが、この領域の祝祭を司るものの神殿か」
「ええ。儀式殿や教会かとも思いましたが、神殿のようですね。クロムという名前の戦と死と太陽の神だそうですよ」
「一つ前の時代の太陽信仰は、ここあたりから来たのかもしれないな………」
「とは言え、どちらかと言えば比べ物にならないくらいに不規則で自由な気風ですが。………夜の葡萄達の系譜のような、狂乱の資質もあるらしい」
視線を戻し、再び神殿を見ているアイザックの横顔は不機嫌そうではあるが真摯なものであった。
同じ領域のものが現れた際のことを考え、ここで不愉快な状況に甘んじながらも対策を練るのは、この魔物にも大切なものがあるからだろうか。
ネアは、何となくルドヴィークの事を思い出してしまい、にんまりする。
(そして、アイザックさんが感じている匂いは、花の香りと葡萄酒の匂いが変質したものなのだろうか)
神殿が見えるこの通りには、幾つもの葡萄酒の屋台が出ていた。
沢山の果物を入れて飲むようなので、サングリアのようなものなのだろう。
いい匂いがするし、見ていてもとても美味しそうで口元がむずむずするが、さすがのネアも、ここで宿泊ですとでも言われない限りは漂流物の領域で飲食を楽しみたいとは思わない。
ばらばらと、花びらが降り注ぐ。
立ち込めるのは、濃密な花の香りだ。
どこから振り撒いているのだろうと夜空を見上げると、歩道沿いに立つ建物の窓から住人達が撒いているようだった。
(あ……………)
見上げた先で、窓から身を乗り出していた黒髪の青年と目が合った。
はっとするような淡い金色の瞳が印象的で、目を瞬いてしまう。
ふっと微笑みを深めた青年もまた、手を広げて、白みがかったピンク色の花びらを落とす。
はらはらと舞い落ちてくる花びらは、白色に赤紫色の絵の具を落として混ぜたように、全体的に淡いピンク色ではあるものの、白が強い部分と鮮やかな色が一筋だけ混ざりきらずに残っているような部分がある。
そこかしこに舞い散る花びらが同じ色なので、何か決まった花なのかもしれない。
(大振りの花のようだから、木に咲く花かしら………っ?!)
「これは珍しい、来訪者かな」
突然、すぐ隣から声をかけられ、短く息を飲む。
いつの間にか、ふさふさとした黒い髪の青年が隣に立っていた。
先程見上げた先の窓からこちを見ていた筈の人物なので、ネアは、思わずもう一度上を見てしまう。
「あはは、転移を知らないのかな。…………おっと」
「…………すまないが。俺の連れなんだ。こんな日だからと言って、気安く声をかけられては困るな」
こちらの驚きぶりに愉快そうに笑った青年は、急にネアと体の位置を入れ替えて間に入ったウィリアムに目を丸くしている。
祝祭の大騒ぎに目を奪われたものか、ネアより前に出ていたせいで青年に割り込まれてしまったヨシュアは、慌てて反対側に移動していく。
「気を悪くしたのならすまない。随分と独特で綺麗な子だったから、ついね。とは言え残念だ。同行者がいなくて他の祝祭の手がついてなければ、僕が貰って帰ったのに」
朗らかに笑った青年の言葉に緊張が走るのもやむを得まい。
この青年は、自分が祝祭に属する者だと告げたのだから。
「旅の人ならそれも知らないかな。祝祭の日にはね、他の祝祭の庭からも大勢の客が来る。仲間の晴れの日だから、それはもう、沢山祝ってやらないと。僕は少し遠い季節だけれど、クロムとは仲がいいんだ」
「……………こちらでは、そういうものなんだな」
「そうだよ。………ほら、とても美しい神殿だろう?僕の領域では、花畑で祝祭を祝うからあのようなものは好まれないんだ。夏至祭もそうかな。その代わりの家を探さないといけないから、国や街を得たりはするけれどね」
ウィリアムが会話に応じたからだろう。
青年は、怒るふうもなく終焉の魔物の隣に自然に立つと、そんな話をしてくれる。
アイザックは少し離れた位置に立ち、こちらを見てはいるものの積極的に仲間だと示すつもりはないらしい。
(……………ここで見た人達は、クロムフェルツさんとは随分と違うような気がする)
ネアのよく知る祝祭は、優しい存在ではあるもののもう少し近寄り難い雰囲気だった。
それは祝祭の王だと言われる人だからかもしれないし、個々の気質の差もあるのかもしれない。
だが、ここで出会った祝祭の関係者たちは、妙に人間的であった。
クロムフェルツとクロムで名前が似ているのは何だろうと思ったが、さすがに感じ取れる雰囲気がまるで違うので、意味のある重なりではなさそうだ。
(それにアイザックさんが話していたものとしても、資質の重なりもなさそうだわ………)
隣で交わされる会話から言葉を拾い、考えながら耳を傾ける。
「国を得る事もあるのか?」
「そりゃそうだよ。祝祭の規模によっては、正しい贄や信仰がないと狂うからね。それを捧げてくれる者達を確保する為に苦労する事もある。僕達はとても大きな力を持つけれど、同時にとても繊細で不自由なんだ。廃れた祝祭が災いになるなんてことも、珍しくはないだろう。……………君達が暮らす土地には、ヴァプンはあるかい?蜂蜜酒を飲んで春の訪れを祝うんだ」
「……………いや、その名称では聞いたことがないな。だが、春の祝祭は数が多いと思うぞ」
「へぇ。名前が変わっても残ればいいのか、それとも、十二夜みたいにされては困ると思うべきか。……………ワルボーグの祝祭もないかい?」
「ああ。…………恐らくだが、固有の名前として受け継がれていないだけで、似たようなものはあるんだろう」
「変わるのが、名前だけならいいけれどね。僕は教会に閉じ込められるのはまっぴらだ。……………ああ、噂をすればとやらかな。通りの向こうに冬の祝祭の連中もいるようだね。君は僕の質問に答えてくれたいいお客だから、今は、その子も含めここを動かないといいよ」
ふつりと揺らぐように、青年の気配が酷薄になる。
瞳を細めて人混みのどこかを一瞥した姿は、獲物を見定めた獣のようであった。
冬と聞けば親しみを覚えてしまうネアだが、どうやら春の祝祭を司るらしいこの青年は、ネアを見てから、今の忠告をしてくれたようだ。
なぜなのだろうと不思議に思っていると、金色の目を細めて小さく笑う。
「あちらの庭では、気に入った子供を連れ帰る事が多い。それぞれに資質があるけれど、信仰を有する祝祭だからかな。まぁ、それはクロムにもあるけれど、同時に狂乱も持っているからとても気さくなんだよ」
「それは、気さくと言っていいものなのか?」
「はは、言うなぁ。………ほら、僕にもその資質があるからそう思うのだろう。夏至祭は何というか、愛情と魔術を司るものだね。紡ぎ手を失うと最も悍ましい事になりかねないもう一つの祝祭だけれど。…………おや、そちらの子供にはその資質もあるのか。……………不思議だなぁ。相反する祝祭をそれぞれに持っているなんて」
歌うように、語りかけるように。
青年の声は穏やかで温かく、祝祭を祝う花びらの中で、その話を聞いている。
青年の方を見ているのでヨシュアの表情は分からなかったが、手を握っていてくれるので守ってくれているのかもしれない。
ただ、守って貰おうとしている可能性も若干残っている。
「君の傍に居れば、冬の祝祭は寄って来ないのか?」
「……………そうだね。今はそうだ。昔はもう少し仲が良かったのだけれどなぁ。今も彼に仕えるクロムとは違って、僕達はすっかり気が合わなくなってしまった。こうして少しずつ変わってゆくのも、祝祭というものだけれどね」
「変化する資質に属するということの弊害か…………」
「そう言う君も、何だか難儀そうな資質だな。…………随分と偏ったものを治めているようだけれど、話を聞く限りはそこは祝祭の治める土地ではないのかもしれない」
「ああ。それぞれの資質が独立して、各自の領域を治めている。……………その分、確かに偏る事もあるだろうな」
「ふむ。それもそれで面白そうだけれどね。いや、残念だ。君達がもっとずっとこちらにいるのなら、僕達はいい友達になれたかもしれないのに。……………でも、もう帰った方がいいのだろう。随分と具合が悪そうだ」
ついつい会話の内容に気を取られてしまっていたが、その言葉にはっとすると、ネアは先程よりも顔色が悪くなったウィリアムに気付いた。
そう言えばこちらに近付いてからの方が辛そうだったのだと思い出し、背筋が冷える。
「俺もそうしたいところだが、まだ帰る時間ではないらしい」
「それなら、僕が鐘を鳴らしてあげよう。何、そのくらいであれば容易い事だ。今日は僕の日ではないけれど、こんなに花の香りがするのであればそのくらいはね。…………僕もまた、境界を揺らすことが出来る祝祭だからね」
青年がそう言って微笑むと、離れた場所でこちらの様子を窺っていたアイザックが無言でこちらに戻ってくる。
もう一人加わったお客におやっと目を丸くしたが、春の祝祭を司る青年は、そのまま音楽を楽しむように微笑んだまま目を閉じた。
「さて。もう聞こえてくる筈だよ。名残惜しいけれどさようならだ」
ゴーン、ゴーンと、どこか遠くで鐘の音が聴こえる。
ネアは慌てて目を閉じると、いつものリーエンベルクの自分の部屋を思い浮かべた。
初対面のウィリアムととても楽しそうに話をしていた人とすぐに別れるのは何だか名残り惜しいけれど、帰れる時に帰った方がいい。
「ネア!」
「……………ほわ。ディノです!」
するとそこはもう、見慣れた自分の部屋であった。
慌てて隣を見ると手をしっかり繋いだままのウィリアムがいるが、ヨシュアやアイザックの姿はない。
帰る場所が違うので当然なのかもしれなかったが、本当に帰れたのだろうかと心配になってしまう。
まずは、伴侶な魔物にぎゅうぎゅうと抱き締められてから、ネアは、同じ部屋の中にエーダリアやヒルド、義兄な魔物もいる事に気付いた。
エーダリアの手元には書類の束があり、ネア達の部屋には、いつもはない小さな作業用の机の上には魔術通信板が置かれているので、仕事をしながらもこちらの部屋でディノと一緒に居てくれたらしい。
「良かった、………無事に戻ってきたな」
「ご無事で何よりです。お怪我などはありませんか?」
「はぁ。……………無事に戻って来てくれて良かったよ。まぁ、僕の妹はもう漂流物対策は充分なんだけどさ……………。ありゃ、ウィリアム?」
「ぎゃ!ウィリアムさんが………!」
ここで、ウィリアムががくりと床に膝を突いてしまい、部屋の中は俄かに騒然とした。
だが幸いにも、酷い耳鳴りのようなあちらでの影響が抜け、その安堵から、一瞬だけ平衡感覚が狂ったせいであったらしい。
「……………ノアベルト。念の為に、アイザックとヨシュアが戻っているかの確認を頼んでもいいか?」
「うん。やっておくよ。……………シル、アルテアにも連絡しておこうか?」
「彼は王都での対応に入っているようだから、私が伝えておくよ。……………ネア、君は大丈夫かい?」
「はい。私は、攻撃から庇ってくれたヨシュアさんに一度放り投げられただけですので……………むむ、そう言えば夢中ですっかり忘れていましたが、その時の影響が何も残っていないので、誰かが治してくれたのでしょうか」
「俺ではないからヨシュアだろう。念の為に、その確認もしておいた方が良さそうだな」
予め、ノアが商工会との連携を取ってくれていたようだ。
確認はすぐになされ、そちらにいるらしいグレアムが二人の同行者の無事の帰還を確認してくれる。
それぞれに、色彩感覚と嗅覚の面で弱ってはいるようだが、それ以外の部分では無事だったようだ。
そして、ネアが体の痛みを自覚するよりも早く、ヨシュアがすぐに治癒をかけてくれていたことも判明した。
すぐに泣いてしまうけれど、やはりすごい魔物なのだ。
「………ふぁ。皆さんも無事で良かったです。グレアムさんは、こちらでのお仕事の関係からの参加でしょうか」
「……………ありゃ。う、うん。そうだね」
安全確認が取れたのでと今回の事件報告に入ろうとしたネアだったが、エーダリア達があちこちと忙しなく連絡を取り始めたので、こてんと首を傾げる。
ウィリアムと顔を見合わせて不思議そうにしていたところ、その理由をディノが説明してくれた。
なお、三つ編みを手首に巻き付けると髪の毛が傷みそうなので、ネアはその提案にはそっと首を横に振り、悲しげな魔物を椅子にしてしまう。
「可愛い………。懐いてきた………」
「ディノ、怖がらせてしまってごめんなさい。そして、ウィリアムさんに声をかけてくれて有難うございます」
「うん。…………生きた領域を有している漂流物だったから、私では入れなかったんだ。同じ建物の中にウィリアムがいてくれて良かった。…………ウィームでは、他に七名の領民があちらに迷い込んでしまったようだよ。水路からきたものだろうという話になり、アルテアは統括として王都との連携に入っている」
「今回の漂流物は、……王都の方への影響もあるのですか?」
「あの水路は、ザルツから王都へと繋がる川に繋がっているそうだよ。予兆だったのかもしれないテルナグアの目撃があったのが半日以上前の事だから、既に影響が広域に及んでいる可能性もある」
言われてみれば、確かに水の流れは繋がっている。
ネアは、水路からの訪れですらこんな風に広域での警戒が必要になるのだとあらためての大変さに慄きつつ、こくりと頷いた。
(そうだ。………ウィリアムさんに)
ここで、ネアは、体調の悪そうなウィリアムに何かを飲ませておこうと立ち上がろうとしたが、連絡を一件終えたところだったヒルドが微笑んで首を横に振ると代わりに立ち上がってくれる。
「暫し忙しないですが、ご容赦を。…………厨房で珈琲なども準備出来ますが、ウィリアム様も紅茶で宜しいですか?」
「ああ。すまないな。…………単純な不調なんだが、思っていたよりも摩耗したらしい」
「聴覚という事でしたからね。イーザからの連絡によると、ヨシュア様も眩暈がすると言って寝込んでいるようですよ」
「まぁ。……………ディノ、明日以降にでもヨシュアさんにもお礼がしたいです。槍で攻撃してきた何者からか、守ってくれたのですよ」
「……………槍」
ここで、伴侶が槍で攻撃されたと知ったディノが荒ぶってしまい、そればかりか、ノアが無言で立ち上がったり、エーダリアが書類を取り落としたり、ヒルドが笑顔で誰からの攻撃だったのかの厳しい追及を始めたりした。
祝祭を司る漂流物だったことをウィリアムが補足すると余計に騒然としたので、まだまだ長い夜になりそうだ。
(あの場所は、祝祭が治めていたのかな………)
もう鐘の音は聞こえないが、ネアは、目を閉じてしまわないように気を付けながら、花びらの舞い散る夜の街を思い出した。
黒髪の金色の瞳の青年の微笑みがとても優しかったので、ウィームにも春の祝祭があるのなら、来年は是非に出てみようか。




