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248. 最初のお客が来たようです(本編)




世界の階層からあわいに下り立つには、幾つかの作法がある。



魔術師ならそれを知っているだろうし、人外者であれば尚更だ。

その中でも最も簡単な方法は、鐘の音や音楽で門を開き目を閉じてその中に入る事だろう。

けれどもその方法はありまりも簡単であったので、いつしか時代の移り変わりと共に失われた。

世界が今より境界を明確にしていた時代ならいざ知れず、この新しい世界では少し不用心過ぎたのだ。



だからこそ、聞き覚えのない鐘の音が聞こえてきたら、決して耳を澄ませてはいけない。



どんな美しい音色であっても、目を閉じてどこで鳴っているのだろうと思い描けば、そこはもう勝手知ったる場所ではなくなっているかもしれないのだ。



「つまり、こうなるのですね…………」

「念の為にだったが、俺が気付いて良かった。シルハーンの声も届いたしな」

「ふぁい。ウィリアムさんがいなければ、一人で大冒険する羽目になったところでした」



くしゅんと項垂れたネアは現在、とても頼もしい終焉の魔物と共に見知らぬ土地にいた。

鮮やかな赤色に染まった紅葉の並木道のある、静かな夜の街である。


大きな時計塔があり、恐らくは王宮だろうという建物が合って、どことなくネアの暮らしていた国に似ている場所だ。

だが、時計塔の尖塔はすらりとしておらず、どこか異国風の玉葱型の屋根で、石畳に刻まれた轍からすると主要な交通手段は馬車なのだろう。



「このような場合は、どうすればいいのでしょう?」

「次の鐘の音が鳴ったところで、先程と同じ手順で自分の部屋を思い浮かべるといい。俺と離れないようにするために、俺もネア達の部屋に戻る事にしよう」

「はい!ウィリアムさんと離れないようにしたいです…………。む、閉まっていますが、チョコレートの専門店があります」

「思ったよりも、普通の街並みなんだな。迎えの鐘がまた鳴るようであれば、アルテアかノアベルトあたりもこちらに来ると思うんだが、…………少し動いた方がいいかもしれない」


考え込むような声音でそう言われ、ネアは目を瞬いた。

場合によっては増援があるということかなと考えていると、ウィリアムが周囲を見回して僅かに眉を顰める。


河川沿いの歩道は綺麗に整備されていたが、ネアも、光の差さない真っ暗な川の流れには少しだけ不安を覚えたので、そのようなところを警戒しているのかもしれない。




(……………つい先程まで、隣にはディノがいたのに)



不思議な鐘の音を聞いたネアが、おやどこのものだろうかとディノに問いかけたのが始まりだった。

その鐘の音に耳を澄ましていた訳ではないのだが、たまたま、目を閉じている時に聞いてしまったのだ。


ディノがすぐに気付いて、同じ屋根の下にいたウィリアムの名前を呼んでくれたのは、即ち、自分はここには入れないからという事なのだろう。


本来なら就寝前ののんびりとした時間であったが、幸いにも、今夜のネアはまだ着替えていなかった。

ディノと一緒に、この時期にだけ収穫出来る、団栗型の森結晶を探しに行く予定だったのだ。


(お陰で動きやすい服装をしていたし、既にブーツも履いていたから、今回は服装が心許ないという事もない)



海竜の戦の時のような薄着だと心が死んでしまうので、時間的に迷ったものの、団栗収拾から戻った後で入浴することにしたのは幸いであった。

というのも、秋の夜の森は賑やかなので、ネア達が動くのに有利な真夜中近くを狙っていたのである。

真夜中の座にとても優しい精霊がいるので、そちらのご厚意に甘えさせて貰う予定だったからだ。



これがもし、既に入浴も済ませたいつもの夜だったなら。

もしくは、入浴後に出かける予定にしておき、浴室にでもいる時だったなら。




「…………何か、災厄の規則が見えるな」

「なぬ」


ネアがそんな事を考えていると、こちらも暫く考え込む様子であったウィリアムが、不意にそんなことを言うではないか。

ぎくりとしたネアの手をしっかりと握ると、ウィリアムは、こちらを見てにっこり微笑む。



「俺も、この階層は初めてなんだ。色々気になるものもあるだろうが、手だけは離さないでいてくれ」

「ここは、………あわいなのですよね」

「恐らくは。………だが、あわいの中には世界の表層からの剥離が進み、この世界と呼ぶには離れ過ぎてしまっているところもある。そうなると、……他にそのあわいに近しくなった場所の影響を受けている可能性も高い。…………有り体に言えば、漂流物などの領域に近い可能性がある」

「ぎゃふ…………」

「まだ確証はないし、俺の力がある程度及ぶのが幸いだが、少しだけ魔術の橋が崩されるような感覚があるんだ。…………死者の国の中でも最外周にこういう領域がある。…………別の世界との境界線といった感じだな」



(だとすればここは、国境の街のようなところなのだろうか)



ウィリアムが教えてくれたシーヴェルノートという死者の国の境界の地は、厳密な意味でこの世界の境界なのか、かつてこの世界だった場所との境界なのかまでは、未だに明らかになっていないそうだ。


一説には、あまりにも別の領域のものの力が強まると、今代の万象の領域から零れ落ちるという見方もあり、それが実際に起こり得るかどうかはディノにも分からないらしい。

だからこそ、そこが厳密にどのような土地なのかは、高位の魔物達にも断言は出来ないのだとか。



歩き出したウィリアムに連れられ、招き入れられた場所から動きながら話を続ける。

歩き始めたところでふわりと夜風が吹き抜けたが、川沿いの歩道に立っている割には不思議と体温を奪うような冷たさはなかった。



「何しろ、今代の世界は今までの世界層の中では最大規模だと言われている。シルハーンが、事象の片側だけではなく、全てを司る万象であることを選んだ結果、世界線の定義や境界が曖昧になったからな」

「まぁ。そのような側面もあるのですね………」

「ああ。一部分だけを選び取り、残ったものを切り落とさないというのはそういう事なんだろう。けれども、それでも剥がれ落ちてゆくものもある筈だ。……………例えば、海沿いの崖が波に削られて崩れ落ちるように」



(海沿いの崖が崩れ落ちる…………)


その説明はあまり心に優しくなかったので、ネアはぎくりとしてしまった。

大事な伴侶の手の中のものがそんな風になくなってゆくのかとふるふるしていたが、ウィリアムが不思議そうにこちらを見たので、この世界ではあまり危機感を抱かない表現なのかもしれない。


「それは、………物凄く怖い事では、ないのでしょうか?…………その、私の生まれ育った正解には、気候変動などで海岸線が大きく動く事があり、どちらかと言えば怖い事だったのです」

「おっと。それで不安そうにしていたんだな。………この場合は、あまりにも目に余るような浸食でなければ、寧ろ正常な動きだと思ってくれていい。漂流物や、稀人のような認識が必ず生まれる以上は、ここではないどこかとの境界には、ある程度の柔軟さが必要なんだ」


苦笑したウィリアムにそう言われ、ネアはこてんと首を傾げる。


「………そういうものなのです?」

「ああ。……………これは、どう説明するのがいいのか悩むところだが、汽水域で海水と真水が混ざり合う土地ならば、どちらの領域の生き物でも生き延びられるが、完全な真水の中に膨大な海水が流れ込めば、元々暮らしていた生き物が滅びるということもあり得るだろう?」


ネアは、その例えがこちらの世界でも通じるのだなという新しい驚きを胸に頷き、ふと、周囲の景色が変わって来た事に気付いた。


先程までは、商店などもあったが河川沿いの少し開けたところにいたのだが、そこから歩道を抜けてしっかりと街中に入ってきたようだ。

真夜中の街には街灯は灯っているものの、周囲に人影などの生き物の気配はない。



「………ここではないどこかから、何かが流れ込むという事を防げないのは、漂流物のようなものの訪れを退けるのが難しいからなのです?」

「ああ。何かと縛りの多かった前の世界でも、そういう思想を完全に排除するのは難しかった。……………生き物は、ついつい、ここではないどこかについて思いや憧れを向けがちだからな」

「ふむ。それは確かに、そうなのかもしれません」



大勢の者達が願い焦がれると、招き入れられてしまうものがある。

魔術には召喚や顕現の思想があり、願い事というのは得てして盤面をひっくり返すものだからだろう。

儀式などを行わずとも、それに近い効果を得る日などもある。



(なので、そうなってしまった場合に備え、ある程度は境界の向こう側と混ざり合う領域というのが、必要になってくるのだろうか)



そこまでを呑み込めば、ウィリアムの言いたい事が何となく理解出来た。


この世界では、今も世界の各地に前世界の魔術の名残りがあり、ヴェルリアなどのように漂流物の対策を持つ土地もある。

そのお陰で回避出来た災厄があると思えば、境界は必ずしも強固であれば安心という訳でもないのだろう。

混ざり合うことで耐性を付けるという利点もある。



(でも、その柔軟さから、……………こんなところへ迷い込んだりもするのかしら)



かつかつと乾いた靴音が通りに響いた。


今のネア達が歩いている通りは道幅も歩道も広く、いわゆる目抜き通りだろう。

暗い焦げ茶色混じりの灰色の石材の建物と、色鮮やかな商店の看板や建物が建ち並び、背の高い街灯は深緑色に塗られていて、豊かな都市だという感じがする。


街の中なので、さすがに軍服でいるのはまずいと思ったのか、擬態で服装を変えたウィリアムが黒いトレンチ風のコートの裾を翻して歩く様は、そんな場合ではないが少しばかり心躍るものであった。


歩道沿いにはポストのようなものや看板などもあって、ただの作り物の街というよりは、人がいないだけの普通の街並みに見える。


空を見上げると、三日月と星が見えた。



「……………規則性があると、良くないのでしょうか」

「ああ。海から来るものや、森から来るもの。そんな風に、土地に規則を強いるのは大抵が災いで、この土地の規則性もどうやら災いによるものらしい。…………俺達のように外部から招き入れられた者がいるということは、特異条件が揃った日であるという可能性も高い。何しろ、…………住人の気配がないだろう?」

「……………はい。それは、少し怖いなと思っていました。地元の方を締め上げないと、ここがどういうところなのかも分かりません」

「ああ。………せめて誰か、別の参加者がいればまだ…………おっと。何か来たな」



直後、ばさばさと大きな音が響き、ネアは思わず飛び上がってしまった。


丁度時計塔の影に入っていたのでよく見えなかったが、夜空を横切ったのは鴉の群れのようだ。

生き物がいたぞとほっとする反面、人気のない街で沢山の鴉を見るのはあまり心臓には宜しくない。



続け様に、からからという音が聞こえてきたのは、その後の事だった。


じっと通りの先を見据えていたウィリアムが、白金色の瞳を細める。

ネアは、もしやこの先は少し霧がかっていまいかと、ホラーの材料が揃い始めた事に慄いていた。



「……………成る程、そういう事か。少し移動するぞ。この向こうにいるのは、祝祭か葬列だな。俺との相性は悪くなさそうだが、あまりいいものじゃない」

「さようならなのだ………」

「ああ。ここは少し危ないかもしれない。境界にもなる川沿いの方が危ないかと思ったが、文化圏に根差したものが動くなら、街中も避けた方がいいな」

「むぐ?!」


ひょいと持ち上げられ、ネアは、慌ててしっかりとウィリアムに掴まった。

そのまま駆け出したウィリアムに驚いたが、ここでは転移などはやはり踏めないのだろうか。



(すごい。足音がしない………!)


そもそも、羽のように軽い筈とは言え、人間一人を抱えているとは思えない動きだ。

その上、先程まで静まり返った街に響いていた靴音が、完全に消されている。

つまりは終焉の魔物がそれだけ警戒するものが近付きかけていたということなのだろうが、ネアは、頼もしい同行者の姿にすっかり胸を熱くしてしまい、おおっと目を瞠っていた。



「……………ん?」

「ぎゃふ!!」

「…………っ、ネア、すまない。大丈夫だったか?!」


しかし、ここで突然ウィリアムが足を止め、ネアは首がもげるかなという衝撃を身に受ける事になる。

お客様を乗せている時は急に止まってはならないと、もがもがしていると、ウィリアムが慌てて謝ってくれた。


「く、首がもげるかと思いました………ぎゅ」

「痛めたかもしれないな。念の為に治癒魔術をかけておこう。…………使えるみたいだな」

「ぐるる…………」

「知り合いがいたんだ。思わず足を止めてしまった」

「……………ほわ、お知り合いの方です?」

「今見えたのはヨシュアだと思うが、もう一人はまさかと思うがアイザックか……」

「まぁ。合流出来れば頼もしそうなお二人です…………?」



この場合、雲の魔物は下手をすると騒動も一緒に持ってきてしまうかもしれない。

少しばかり慎重な思いでウィリアムに持ち上げられたまま足を止めた路地を入ってゆくと、突然、がさっと大きな音がして、何か黒い塊が路上に投げ捨てられた。



(び、びっくりした………!!)



これだけでもう、ネアはホラーは断固反対であるという思いの下に息が止まりそうになったのだが、幸いというかやはりと言うべきか、路上に投げ捨てられた塊はぴくりとも動かないので、儚くなっているようだ。

大きさは人間くらいあるが、黒い翼が見えるので鳥類か何かかもしれない。


ウィリアムが安心させるように背中を撫でてくれ、けれどもそちらに容赦なく近付いてゆく。

どうやら路上のものを投げ飛ばしたのは、ネア達が探している相手らしい。



「アイザック」

「……………おや。ウィリアム様」


ウィリアムの声に振り返ったのは、こちらに背を向けて立っていた黒髪の男性だ。

ネアもいることに気付き眼鏡の奥の目を瞠ったのは、ここがあまりよくない場所だからだろうか。



「……………成る程。会長が、鐘の音のあわいに下りれば収穫があると言ったのは、そういう事でしたか。まるで独り言のように仰られたので拾い上げてしまいましたが、あの方はなかなかの策略家でしたね」

「ほぇ。ネアがいる…………」

「むむ、ヨシュアさんです!」

「だからイーザが、僕をこの中に入れたんだ…………。ふぇ、まだ腰が痛いのに………」

「うーん。訪問理由は何となく察したが、そちらの会に情報が入ったんだな」

「ふむ。商工会のようなところにも、早々に注意喚起があったのですね…………」

「ほぇ。商工会………?」


聞けばこちらの二人の魔物は、それぞれの事情で敢えてここに下りてきたようだ。

因みに、先程アイザックが籠城に捨てていたのは鴉羽の怪物のような生き物で、時折空から捕食の為に下りてくるという。


「……………何という嫌な場所なのだ」

「そちらでも、住人は姿も見ていないんだな。となると、……この生き物くらいか」

「これも住んでいたものじゃないと思うよ。どこからか現れた感じがするんだ」

「何らかの条件を満たしたことで顕現する、特異な状況下にあるという感じでしょうね」


そんなアイザックの言葉に、かちりとシガレットケースを開く音が重なる。

細身の煙草を取り出しながら、欲望の魔物は小さく肩を竦めてみせた。


「念の為に聞くが、あわいというよりは…………境界の曖昧さが目立つ土地だな。やはりそうなのか?」

「あなたがそう言うのであれば、間違いはないでしょう。恐らく漂流物の領域ですね」

「ふぇ。僕は、漂流物なんて嫌いなんだよ………」

「人為的なものじゃないとなると、初めてのお客か。……………うーん。まさか、ヴェルリアよりも先にウィームに現れるとはな」

「本日の午後に、テルナグアの目撃情報と思われるものがギルドに上がっておりました。水路から来たのでしょう」

「そうか。そっちから来るものがいたのをすっかり失念していた。かなり珍しいが、水路から現れる事もあったな……………」


小さく呻いたウィリアムに、ネアは、ここで恐る恐る挙手してみる。

こちらを見た魔物達に、怖々と尋ねてみた。



「……………もしや、とうとうの漂流物なのですか?」

「ああ。間違いないだろう」

「ぎゃ!」

「ええ。そうでしょうね。情景ごと動かせる階位のもので、尚且つ、海ではなく水路から来たとなると、前世界の層や今の世界層からの剥離物の可能性が高いでしょう」

「少なくとも、俺達の魔術領域が生きていて、そこまで得体の知れないものではないというのが幸いか………」

「ふぇ。帰りたい。…………イーザは僕をもっと大事にするべきなんだ…………」


早速ヨシュアが泣き始めてしまったので、ネアは、手を伸ばしてそんな雲の魔物の頭を撫でてやる。

これは、さすがに漂流物の領域となると不憫だからという理由もあるが、同時に、ぎゃん泣きされると良からぬものを呼び寄せそうだという理由からの打算的な慰めでもあった。



「……………私も早くお家に帰りたいです。漂流物さんは、どうすれば滅ぶのでしょうか」


くすんと鼻を鳴らしてそう呟くと、アイザックが少しだけ憂鬱そうな目をした。

これはあまりいい状況ではないのかなと黒い瞳を見つめれば、こちらの視線に気付きふっと淡い微笑みを浮かべる。


「率直にお伝えすると、この漂流物の主人はかなり階位が高いですよ。……………これだけの土地を引き連れてこちら側にやって来てしまう程には」

「それは、………我々が戻るのに大きな障害になるような事なのでしょうか?」

「それについては、何とも言えませんね。とは言え、あまり温厚だとはされない系譜のもののようですが」

「きっと、秋の祝祭か終焉の系譜なんだ。僕はどっちも怖いから好きじゃない」



ネアは、無言でヨシュアに微笑みかけたウィリアムの前では言わないで欲しかったなと思いつつ、びゃんと飛び上がってネアの方に来かけ、そうするとウィリアムに近くなる事に気付きアイザックの後ろに隠れたヨシュアを見て、ほんの少しの安堵を噛み締める。



(ウィリアムさんにアイザックさんとなると、………ヨシュアさんは必要だわ)


それは、なかなかに身勝手な人間の結論であった。


有事の際の編成には、ネアのよく分からない魔術的な相性だけでなく、気質上の相性というものもか弱い人間には必要なのだ。

前述のようなものが現れる漂流物の領域であれば、ウィリアムはどちらかと言えば前に出る方であるし、アイザックについてはそもそもあまり頼れるという関係性ではない。


となると、何かあった際に思いがけない冷静さを見せるヨシュアがいてくれて良かったのだろう。



「…………祝祭の方かもしれないな。収穫後の麦畑のような、独特の臭気がしないか?」

「そうなりますと、前の前、かもしれませんね。先代の収穫祭は女性だったそうですが、………こちらにいる者は男性体ではないかと思いますので」

「参ったな。そうなると、…………殆ど情報がないんだが、何か知っているか?」


低く呻いたウィリアムに、アイザックも首を横に振った。


今日は漆黒のスリーピースに細身の黒いウールのコートを着ていて、細い銀縁の眼鏡をかけている。

コートを着ているからには外出中だったのかもしれないが、話しながら煙草に火を点ける様子を見ているとこちらに来てからも悠々と上着を取り出して着込みそうな雰囲気もあった。


なお、ヨシュアはいつもの装いで、擬態などもしていない。


「伝聞もそこまで遠くなりますと、私が持っている情報が正しいかどうかも疑問ですね。…………先々代の世界層では、祝祭はそれぞれの系譜の愛し子を持っていたそうですよ。ですので、そのような条件に合致する者がいれば交渉に立てられたでしょうが、…………今回は、系譜上一番近いのがウィリアム様となると」

「……難しいだろうな。収穫祭についてはある程度引き受けられるが、その世界での収穫祭の認識がどのようなものだったかにもよる筈だ。俺には冬の資質もある。寧ろ、アイザックの方が幅広く見られるんじゃないか?」

「いえいえ、まさか。残るお二人よりは近いとしても、終焉には及びませんよ」



にっこりと微笑み交わされる応酬に、ネアは、思わずヨシュアと顔を見合わせてしまった。

この空気が何を意味するのかくらいは、淑女たるもの言われずとも分かる。


高位の二人の魔物は、件の漂流物が現れた際にどちらが対応するかの押し付け合いをしているのだ。



「ほえ…………。どっちでもいいんだよ」

「そうか。ヨシュアがやるか」

「おや、ヨシュア様がご興味を持たれたのであれば、お任せしましょうか」

「ふぇ…………。ネア」

「私の方を見ても、今回はお力に成れないのだろうなと思う次第です」

「ぼ、僕は腰が痛いんだよ!」


無責任に頷いたりしない乙女がきっぱりと首を横に振ると、ヨシュアがじわっと涙目になる。

とは言えネアも、自分が持ち得る資質が収穫祭ではないことは知っているし、夏至祭かイブメリアがうっかりこの収穫祭の競合祝祭だったりした場合は、寧ろ相性は悪い方だろう。



(前の、前の世界…………)



その世界を治めていたのは、どんなものだったのだろう。



前の世界層は女性達が主軸となったが魔物が治めるであったらしいので、今の代と比較的近い要素も多かったと聞いている。

それでも以前に触れた要素はあまりにも異質であったので、ここでどんな得体の知れない者が現れるのかは想像もつかない。



「会わずに出られると思うか?」

「難しいところですね。来訪者の目的次第でしょう」

「……………今夜は、やけに消極的だな」

「希少な魔術という意味では、祝祭周り程に情報が閉ざされているものもありません。ただ、これでも私は商人ですので、不利な取引はしない主義です」


ネアも、アイザックが思いの外嫌そうにしているのが気になっていたたのだが、そういう事であれば頷ける部分もある。

だが、そう知らされてしまったせいで、ますます危機感を募らせる羽目になった。



(……………収穫祭)



それがどんなものなのかは、祝祭を育む文化次第なのは間違いない。

正直なところ、ボラボラ祭りやクッキー祭りを体験してしまえば、祝祭で何が起こるかを想像するだけ無駄だという気もしなくなかった。


けれどもと考えて思い浮かべる資質には、少しばかりこの時期の祝祭が有しがちな仄暗さが滲んでいた。



(これだけ立派な都市を引き連れてくるのだから、農村部のそれとは違うのかもしれない。であれば、大きな街で行われるクロウウィンやサーウィンの夜のようなもの。そういうものの方が、都市部では伝承され易いのではないだろうか)



都市部である以上は土着の信仰とまでいかないだけいいのだとしても、先程の鴉の群れや不穏な気配はあまりいい予感がしない。

だが、そもそも漂流物のような対岸からやって来るものは、得てして不穏な装いなのだ。


ネアがそう考えかけた時、うおんと、空気が揺れた。



「……………っ、」


それはまるで、大勢の人達が浮かれ騒ぐ喧噪だけが風の中で鳴っているようで、ネアは、その悍ましさに震え上がる。


正常なものの気配というよりは、酷く壊れていて、悪意ある無邪気な者達が楽しく遊んでいるようなそら恐ろしさだったのだ。



「………残念ながら、こちらに興味を示しているようですね」

「ネア、このまま俺から手を離さないでいて欲しいんだが、場合によってはヨシュアに受け渡すかもしれない。………相手が交戦的だとな」

「はい。………何か役立つものがあれば取り出しますが、準備しておいた方がいいものはありますか?」

「ベルと、……念の為にナイフも持っておくといい。鴉達のような数が多いもので押し寄せられると、身を守る為の道具が必要になるかもしれない」

「ネアは僕が持っていてもいいよ。ネアは強いんだ………」

「ヨシュア?」

「ふぇ………」




先程の風は前触れだったのだろう。


何か、得体の知れない悍ましいものが、道の向こうからゆっくりと近付いてくる気配がある。

まるで、賑やかで静謐な異形のパレードのようだと感じ、ネアはウィリアムの肩にぎゅっと掴まった。





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