花びらの絨毯と夜雨の弓
はらはらと花の雨の降るその場所で、純白のケープを広げて降り積もった花びらの上に寝転がった魔物は、軍帽を傍らに転がしてしまい、気持ちが良さそうに目を細めている。
ここは夜明けの森の湖の畔で、さわさわと風に揺れる花影と水面の色の重なりが滲み合い、またはらりと花びらが舞った。
「はい。これで十五本揃いましたね。これをエーダリア様のところに納めて、本日のお仕事はお終いです」
ことりと机の上に置かれたのは、淡い水灰色の小瓶だ。
ちらりと横を見ると、戦場からこちらに来たばかりのウィリアムは、美しい春の情景の中でゆったりと心を寛がせているように見える。
ここはリーエンベルクの広間の一つなのだが、到着したウィリアムを少し休める部屋に案内している途中、ぱたんと扉が勝手に開き、リーエンベルクがこの部屋を示してくれたのだ。
直前まで凄惨な戦場にいたウィリアムがこの部屋で休みたいと申し出たからには、きっとリーエンベルクは終焉の魔物の嗜好を理解した上で部屋の扉を開いてくれたのだろう。
あまりにも気持ちのいい場所なので小さな机と椅子を持ち込み、ネア達もここで仕事をする事にした。
「……………もう踏まないのかい?」
「あらあら、爪先を踏むのはお仕事の間だけという約束でしょう?」
「うん…………」
「その代わり、この後はウィリアムさんの隣で寝転ぶ予定ですので、ディノもお隣で寝転びませんか?」
「…………私も、かい?」
「隣り合ってごろごろしたら、きっと素敵ですよ。私のお隣が空いていますので、ディノを招待してもいいですか?」
「ご主人様!」
ネアは嬉しそうに目元を染めたディノと一緒に、のんびりしているウィリアムに一言声をかけ、まずは、エーダリアの執務室に出来上がった魔物の薬を届けに行く。
しかし、執務室の扉を開けると、エーダリアは、ノアやヒルド達とネアの捕獲した糸鯨遊びに夢中だったので、はっとしたように顔を上げて視線を彷徨わせたエーダリア達に出来上がった薬をそそくさと渡し、ネア達は素早くその部屋を出た。
ばたんと閉まった扉を背に、ネアとディノは顔を見合わせる。
「び、びっくりしましたね。まさかヒルドさんも、糸鯨さんに夢中とは…………」
「狐の形にしたのだね…………」
「ヒルドさんは編み物が出来るので、狐さん編みぐるみを作るのも難なく出来たのかもしれません………」
たった今出てきたエーダリアの執務室には、編み針を持ったヒルドと、出来上がりつつある狐編みぐるみに目を輝かせているエーダリア、なぜか、僕はもっと賢そうな狐だよと文句をつけているノアがいた。
扉を開けた瞬間にこちらを見た三人の表情を見る限り、エーダリアが空返事でうっかり入室許可を出してしまっただけで本当は見せたくない場面だったのは間違いない。
(……………でも、領主のお仕事にも息抜きは必要だから、あんな風に三人で楽しくしているのもいい事かもしれない…………)
なお、あれだけウィリアムの訪問に敏感になっていたアルテアは、ウィリアムの到着直後まではリーエンベルクにいたが、ウィリアムと少し会話をして何かを確かめたものか、それからすぐにウィームを発っている。
のんびりしているようだったが、やはり忙しくもしているではないかと、ネアは再び使い魔の長期休暇問題に思いを馳せたりもした。
先程の広間のある外客棟にネア達が戻れば、休んでいるウィリアムの為に少しだけ隙間を作って閉じてあった扉の隙間から、廊下に一枚の花びらが舞い込んでいた。
深い瑠璃紺の絨毯の敷かれた広い廊下に落ちた桜の花びらは、不思議な物語が始まるような胸の高鳴りを齎す。
そこに、窓の外の中庭にある大きな木から落ちる木漏れ日の模様が重なり、たった一枚の花びらが特別なものに思えた。
ネアは、あの花びらを拾ったら不思議な世界に迷い込んでいるのではないだろうかと、短い物語を頭の中で広げてしまうのだが、よく考えなくてもネアがいるこの場所こそ、異世界であるのだった。
ディノが後ろから手を伸ばして、ぎいっと大広間の扉を開いてくれる。
先程のままの美しい春の情景を湛えた広間に入り、ネアは花びらの中に寝転んだウィリアムの隣にやって来た。
目を閉じて髪の毛に花びらをつけた終焉の魔物は、なぜだかとても無防備で傷付き易く見えて、そうして寛ぐ姿を見ていると胸の中がほこほこする。
「ウィリアムさん、本日のお仕事が終わったので、私とディノもご一緒させて下さいね。…………まぁ、すやすや眠っています」
「おや、ウィリアムは眠っているのかい?………彼がここまで無防備になるのは、珍しい事だね」
「ふふ、それだけ寛いでくれているのなら、とても嬉しいです。今日は、約束していたお誕生日会は出来ませんが、せめてお誕生日会を吹き飛ばした厄介ごとへの疲労感を拭い取れるくらいにここで休んでいって欲しいですから…………」
ネアがそう微笑んでみせれば、ディノは不思議そうに目を瞬いた。
「疲労感………なのかい?」
「悲しい事や腹立たしい事は、荒々しい激情が去ると、ただ、とても疲れるんですよ。…………そう言えば、惨めさや貧しさもそうでした。………疲労感にはとても沢山の種類があるのでしょうね…………」
そう呟いたネアは、眠っているウィリアムを起こさないように注意しながら、その隣の草地の上に腰を下ろした。
細やかな青い花の咲いている草地なのだが、そっと指先で触れてみると上等な絨毯のような質感がある。
どれだけ素晴らしい自然の景色が広がっていても、ここはやはりリーエンベルクの大広間なのだ。
こうして触れる草地の手触りからも分かるように、雪が積もっていてもその雪を広間の外に持ち出す事は出来なかったりと、ここで楽しめる光景は広間の見せてくれる幻のようなものだった。
「むふぅ。本物の素敵な草地はちくちくしますが、ここは絨毯の上なので少しもちくちくしません。以前にエーダリア様やヒルドさんにお聞きしたところ、こうして寝転がっても不衛生ではない絨毯だそうですので、遠慮なくごろごろ出来てしまいます…………」
「……………ネア、今ではそのように疲れてしまう事はないかい?」
「ディノ……………?」
ふと隣を見ると、こちらをひたりと見つめた水紺色の瞳があった。
静謐で神秘的な夜のどこかに隠された湖のようで、ネアは吸い込まれそうなその瞳をじっと覗き込む。
ゆるやかな巻き髪になっているディノの真珠色の髪は、きつく編まずにふんわりとした三つ編みにすると僅かに溢れる毛筋があるのだが、その一筋一筋が、こんな陽光の下では宝石を紡いだ糸のようにきらきらと光るのだ。
あまりにも美しいので、ネアはこの伴侶の髪の毛をきつい三つ編みにしたことはない。
髪に元々ある曲線に宿る虹色の艶を隠してしまうようで、勿体無いと思ってしまう。
(でも、ゆったりとした三つ編みにしてもだらしなくならないのは、髪の毛の長さがある程度は一定だからなのだろう………)
魔物らしい無尽蔵さで、情感や色香を足す後れ毛はあるものの、三つ編みが崩れてしまうような不揃いな髪はない。
長い髪の部分が一律の長さなので、ゆったり編んでも崩れないのだ。
そんな、伴侶な魔物の髪の毛考察に入りかけたネアの視線の先で、ディノは穏やかな眼差しに淡く悲しげな感情を映す。
「………悲しい事も、とても疲れてしまうのだろう?」
「…………ええ。とても。………でも、今の私にはディノがいます。ディノが私の側にずっと居てくれれば、こうして仲良くしてくれれば、私はそんな悲しさに見舞われることはないのでしょう」
「私が君を手放すことはないよ。………それでも、私の無力さで君を悲しませてしまう事もあるからね」
その言葉はなぜか、ひどく男性的であった。
いつもの爪先を踏んで欲しい魔物のきらきらとした眼差しではなく、悩ましさにもぞくりとするような色香と、その後ろ側に潜んだ仄暗い執着にも似た鋭さが、隣に座った魔物の美貌をくらりと揺らす。
手が届かないことの不自由さを詫びながらも、その不安はこの魔物の男性としての感情に結ぶのだろう。
伸ばされた指先がそっと唇に触れると、背筋がざわりと震えた。
「……………いいえ。以前の私をずたぼろにした悲しみと、今の私に訪れる悲しみでは種類が違うので、あの頃に感じた、心がすとんと足元に落ちてしまうような疲労感はもうなくなりました」
「…………そうなのだろうか。………ごめんよ、私にはまだ、そこまでの細やかな心の機微が把握出来ない事がある。だからね、足りていないものがあれば、これをと望んで欲しいんだ」
「ディノ、…………あの頃の私は、度々、心の中に蓄えた幸福感や安堵が空っぽになっていました。でも今は、怖い事や悲しい事が起きて大事なものを消費してしまっても、最低保有量が確保されているので、心が空っぽになってしまうことはないんです」
「うん…………」
低くて甘い静かな声の相槌が、不思議なくらいに心に沁みた。
伴侶としての眼差しでこちらを見てくれているディノに体を預けて寄り添えば、伸ばされた手がするりと頭を撫でてくれた。
「でも、人間はたいへん強欲なものなので、持っているだけで充分なのに、もっと欲しくなる事もあります。なぜだか心が子供の頼りなさになってしまって、とても大事にして欲しくなるのです…………」
「…………それは、足りないから乾くのとは違うのだね?」
「ええ。特定の条件下で発生する、小さな天候不良のようなものかもしれませんね。その時は、雨が降り止むのを待つようにして、雨の日のお作法をして下さい」
「例えば、どうして欲しいのかな?」
「ふふ、今はとてもふくふくした気持ちなので、雨降りではありませんが、例えばこうやって頭を撫でてくれたり、ぎゅっと抱き締めてくれると効果的です。簡単なことなら、手を繋いでくれるのも素敵ですね」
ネアがそう説明すると、ディノはゆっくりと頷いた。
「では、そうしよう。…………君が欲しがるものは、私がこれまでに望まれてきたものとはあまりに違うから、こうして時々確認してしまう。…………煩わしくはなかったかい?」
「まぁ、ディノが私を甘やかしてくれようとしてくれているのに、どうしてそんな事を思うのでしょう?煩わしいどころか、私の伴侶はこんな風に優しいのだと、ちょっぴり誇らしい気持ちになってしまいました」
そんなネアの返答に微笑んで頷いた魔物は、如何にも魔物らしく優雅でしたたかで、人間とは違う美しいけだものという感じがした。
けれどもそこに滲む仄暗さが魔物としての欲や執着なので、この程度の話題であれば、ネアが慄く事ではない。
ただし、ご褒美関連の話題でこの含みが窺えたなら、ネアはあまりの恐怖に震え上がっただろう。
無垢で無防備な面も沢山あるディノだが、魔物らしいしたたかさで翻弄してくれば、その技量に及ぶ筈もなく、その種の経験も浅いネアに抗う術はない。
特に伴侶になってからは、その流れで気付けばこの魔物の腕の中にいたりするので、あらためてディノの魔物らしさに触れる事も多くなった。
「それと、今度はディノのくれたショールを巻いて朝の森をお散歩しましょうね」
「…………ネア」
「ただし、その際にはノアが寂しくないように、狐さんも連れてのお散歩です」
鈴蘭のショールはネアが購入したものだが、最近ディノがどこから手に入れて来た淡い春色の水彩絵の具がまだらになったような薄いショールがある。
今朝の森の探索でアルテア色のショールを巻いてしまったので、今度はディノが喜ぶようなものを巻いて森を歩こう。
何しろこの魔物は、アルテア色のショールを本気で嫌がる事はないくらいに優しいが、とても甘えたな魔物でもあるのだ。
(ああ、ここの風は気持ちいいな…………)
温度のない肌触りだけの心地よい風に、はらはらと舞い落ちる花びらを絨毯に、ネア達もごろりと寝そべった。
花影に寝転ぶので太陽は眩しくないし、さわさわと風に揺れるみっしりと花をつけた枝を見ていると、例えようもなく穏やかな気持ちになる。
ウィリアムは、ぐっすりと眠っているようだ。
けれどもその眠りがどれだけ穏やかでも、こうしてリーエンベルクに体を休めに来た終焉の魔物が求めるのは、誰かの気配が齎す安心感だろう。
だからネアは、ウィリアムが目を覚ますまでは隣にいてあげようと考えている。
「…………私はね、商人ではないから、宝石の街には入れないんだ」
「もしかして、…………私がタジクーシャの宝石を欲しがったので、今迄にディノが求められたようなものを、他にも欲しがっているのかなと思ったのですか?」
「…………そうなのかもしれない。でも、君が欲しがるものが、これまでの誰かのような贈り物ではない事も理解出来るんだ」
そう呟き、ディノはしなやかな動きで体を捻ると、ネアの目元にそっと口付ける。
ネアは、貴婦人達が恋人や伴侶に望む宝石と、不思議なあわいの宝石の街の宝石とでは、同じ宝石でも求めるものが違うのだろうと考えながらも、説明の為の言葉を組み立てられずにもだもだしてしまう。
ネアとて、何の魔術も物語もない宝石でも、その美しさに心を奪われることは少なくない。
また、与えられた装飾品が美しければ喜んでしまうし、ごろんとした塊の売り払ってお金に変えられる宝石だって大好きだ。
であれば、違うと言いたくても何が違うのかを説明するとなると、なかなか難しい。
少しだけ悩んだ後、ネアは言葉選びをとても大雑把にした。
「私も大概強欲ですが、やはり一般的なご婦人方とは欲するものが違うのかもしれません。………となると、やはりこうして、ディノが都度尋ねてくれるとすれ違いがないのかもしれませんね」
「そうだね。では、これからも君に聞くようにするよ」
「はい!」
ふっと艶やかで深い微笑みを浮かべ、今度は唇に甘やかな口付けが落とされる。
ぎくりとして飲んだ僅かな吐息ごと触れ合わせられ、ネアは、頬を上気させて満足げに微笑んだディノをぐるると威嚇した。
隣にはウィリアムが眠っているのだ。
魔物達はあまりこの種の触れ合いを隠そうとしないが、人間的な倫理観では見られたら恥ずかしくて家出するので、是非にやめていただきたい。
それから少し、ネア達は宝石の街の話をした。
宝石の街に入れるのは、売買の役割のどちらであれ、商人である事が必須となるらしい。
売り物や買うものも形を特定せず、例えば、金銭の動く雇用が成立するような傭兵を大勢育てた武人も、作った作物を自分で売りに出た農民も、魔術の理の上では品物を扱う商人となる。
「ディノはお薬を作ってくれますが、それは商用ではない用途に置かれる薬なので、商人の肩書きがないのですね?」
「そういう事になるね。商人としての魔術認知は、継続性や規模なども含め、実はとても条件が複雑なんだ。………あの街が現れるのなら、私やノアベルトもその肩書きを得ておいても良いのだけれど、商人の肩書きであればアルテアが持っているし、宝石の系譜では上位のヒルドも、あの街に入る事が出来る。であれば、…………もしもの時の為に、私とノアベルトは、“上客”の肩書きのままでいた方が良いだろう」
伴侶にすら迷い込むかもしれないという懸念を持たれているのだろうかと複雑な気持ちになったが、ネアはそれよりも、教えて貰った情報を飲み込む作業を優先させることにした。
「むむ、………そこには、お客様としての権限もあるのですね?」
「様々な優遇を受けられる階位は、厳密に決まっているけれどね。王族と元王族がそれにあたり、私とウィリアム、ノアベルトは該当する。………魔物については、それぞれが王でもあるのだけれど、あの街はそう認識しないようだ」
タジクーシャは、時刻に合わせて季節を変えてゆく不思議な街で、それぞれの系譜の宝石を売る店がその季節に合わせて店を開くのだとか。
聞けば聞くほど、冒険物語に出てくる秘密の街のようで心を奪われてしまうが、街を管理する規則はなかなかにえげつない。
読み合い化かし合いの交渉に参加しても勝てる気がしないので、やはりタジクーシャには近寄らないようにしよう。
「買って来て貰うものは、ぼんやりとしたイメージを伝えてアルテアさんにお任せしてしまったので、どんな品物がその街にあるのかわくわくしますね…………」
「タジクーシャの宝石と言えば、ウィリアムが持っているバイオリンの弓が、タジクーシャの店のものではなかったかな」
「…………バイオリンの弓が、………もしかして宝石なのですか?」
「夜雨の宝石を糸に加工したものだ。…………ウィリアムの演奏は、彼が胸の内で収めきれなかったものを吐き出す為の手段だと、グレアムが話していた事がある。………であれば、夜雨の宝石は最適なものだろう」
夜雨の宝石は、紫紺色の雨夜の結晶石の中に内包される、細い銀色の筋だ。
それだけでも稀少な雨夜の宝石を雨だれで溶かしてしまい、残った銀色の結晶部分を撚り合わせて紡げばそれが夜雨の宝石の糸になるらしい。
そして、そんな稀少な宝石の糸を愛用のバイオリンの弓にしていると聞いたからだろうか。
ネアは魔物達に挟まれて寝そべったまま、うとうとし、ウィリアムがバイオリンを弾いている夢を見た。
そこは、ごうごうと風雨の吹きすさぶ暗い空の下で、戦場のような場所だった。
瓦礫の中に鮮烈な程の白い軍服姿で立ち、氷のような無機質な表情で無心にバイオリンを弾いているウィリアムがいて、その狂おしく美しい旋律に、ネアはただ胸を押さえて痛みを堪えるばかり。
抱き締めて大事にしてあげたいと胸が苦しくなるのは、ラエタの影絵で見た、かつてのウィリアムの手の施しようもないくらいに傷深い怜悧さを覚えているからだろうか。
身勝手な人間であるネアは、あのウィリアムには決して近付きたくはなかった。
だからこそ、ここにいるウィリアムは、とても大事にしてあげたくなるのだ。
夢の中で手を伸ばし、その柔らかな髪を子供にするようにそっと撫でる。
在りし日の母親の真似をして頭頂部に口付けを落とせば、きっとこれで終焉の魔物も穏やかに眠れるだろう。
「むぐ?!」
その直後、ネアはぐいんと体が何かに巻き込まれ強い圧迫を受けた。
驚いて目を開ければ、触れそうな程の近くにウィリアムの顔がある。
ずしりとかかる重みは、足も使って押さえ込まれてしまったからだろう。
(え…………。これは…………)
寝惚けた終焉の魔物に捕獲されてしまったのだと気付き、ネアはぐるると唸りかけてから、ぴたりと黙った。
魘されているのか、ウィリアムから小さな囁きが聞こえたのだ。
「……………て、くれ」
それは寝言と言うよりは、胸の内をひたひたに満たした叫び声が、こちら側にもほろりとこぼれ出たような頼りない囁きだった。
その掠れた響きにはっと息を詰め、ネアは目を瞠る。
(悲しい夢を見ているのかしら…………)
疲れ切ってこちらに来たウィリアムを休ませる為にここにいるのに、起こしてしまっていいのだろうか。
おまけにそんなウィリアムは、寝惚けてネアを捕まえてしまう程に、寄る辺ない夢を見ているようだ。
(さっきまでは、穏やかに眠っていたように感じたのに…………)
「…………ぐぬぬ」
しかし、起こさないように頑張って手を引っこ抜こうとしたのだが、しっかり抱き込まれていてぴくりとも動かない。
ネアはふがふがと格闘したもののすぐに力尽きてしまい、儘ならないもどかしさに思わず小さく唸った。
「…………お、おのれ、背後を振り向けないので、ディノが起きているかどうかも確かめられませ…」
「………………また、俺は……………」
「……………ウィリアムさん?」
ふっと、その悲痛な囁きに、二人の間で篭っていた吐息が揺れた。
「ぎゃ!」
縋るような強さで後頭部を片手で押さえられ、唇の端に口付けを落とされる。
しかし顔を寄せる為に更に抱き寄せられたので、拘束が強まったネアが小さな悲鳴を上げると、睫毛に触れそうな距離で白金色の瞳がぱちりと開いた。
「…………ネア?…………夢ではなくて、…………ここに?」
「夢ではありませんし、背骨がへしゃげそうでふ…………」
「ウィリアム、その手を外してくれるかい?」
「…………っ?!シルハーン、失礼しました」
「悪い夢を見たのだろう。酷い戦場だったのかい?」
ずるずるとウィリアムの体から引き抜かれ、ネアは後ろから取り戻してくれたディノに体を起こして貰った。
背骨の危機であったので、ほっと息を吐いて体を伸ばす。
「ディノ、有難うございます。ウィリアムさんを起こさないように脱出しようとしたのですが、結局起こしてしまいました………」
「私も眠ってしまっていたようだ。気付くのが遅れてしまってごめん。…………ウィリアム?」
ディノの不思議そうな声に顔を上げると、寝惚けてネアを締め上げた事を理解してしまったらしいウィリアムが、立ち上がり、無言でディノに深々と頭を下げていた。
「…………シルハーン、申し訳ありません」
そちらを見て瞳を揺らしたディノが、まずはネアの方を見る。
ネアが微笑んで首を横に振ると、ディノもふっと眼差しを和らげた。
「…………この子は私の伴侶だから、構わないよと言うべき事ではないのだけれど、でも、今の事は気にしていないよ。私が目を覚ました時の君の様子を見て、あまり良くない夢を見ている事は分かったからね」
「……………シルハーン」
「うっかりしていましたが、どうせお隣に寝転がるなら、ウィリアムさんを真ん中にすれば良かったですね。私は拘束着から抜け出せませんでしたが、ディノなら、悪い夢を見ているウィリアムさんをすぐに起こしてあげられたのかもしれません…………」
「…………ネアの隣がいいかな」
「むぅ…………」
ネアは、起こさないようにするのではなく、起こしてあげるべきだったのだと反省し、まだ白金色の瞳を瞠って呆然とこちらを見ているウィリアムの手を掴むと、まずはもう一度花びらの絨毯の上に座らせた。
ウィリアムがあまりにも落ち込んでいるからか、ディノも心配そうに顔を曇らせている。
「規模としては、そこまでではなかったと聞いているよ。であれば、他の理由かな」
「………………戦場で、かつて友だった人間達の子孫を見ました。その青年は既に命を落としていて、…………俺はあの二人の血を継ぐ者も……………いえ。俺が終焉で、そこに現れたのが彼等の顛末であれば、救うという選択肢は最初からありませんが…………」
「それでも、大切だったどなたかの面影や繋がりのある方の死に触れてしまうのは、とても辛い事ですよね。………だとしても、むしゃくしゃします………」
「…………そうだよな。すまない、嫌な思いをさせた」
「まったくですよ!普通にお仕事を終えた感じでここに来てしまっていましたが、そんな事があったのなら、弱っている事を伝えておいてくれれば良かったのです!」
「ネア…………」
「そうしたら、最初からもっと大事に出来ましたし、ウィリアムさんが寂しくないように、アルテアさんにももう少しだけここにいて貰えるよう…」
「ネア、俺を案じてくれるのは凄く嬉しいが、アルテアはいなくてもいい」
「あらあら」
ネアがここで意味ありげに微笑んでみせれば、ウィリアムは困ったような顔をした。
「………シルハーン、すみません。自分で考えているよりも、…………堪えていたようです。ネア、痛かったりする部分はないか?」
「ウィリアムさんの足が重いという事が分かったくらいで、どこも痛くはありませんので安心して下さいね」
「…………うわ、かなり強く抱き込んだんだな。本当にすまない………」
目元を染めてもう一度謝ってくれたウィリアムを交え、ネア達はその後も花びらの降るリーエンベルクの大広間でのんびり過ごした。
夢で見てしまうくらいにウィリアムのバイオリンが聴きたいのだとネアが言えば、今日のお詫びに今度の訪問の時に弾いてくれるらしい。
夜雨の弓で奏でられる旋律は、どんなものなのだろう。
ネアは、また一つ増えた楽しみに目をきらきらさせ、それはきっと、夢の中で聴いた悲壮なバイオリンの音色よりも素晴らしいものに違いないと頷いたのだった。
平成最後の更新のお話となりました。
明日の通常更新はお休みになります。
その代わりTwitterで本日20時までアンケートを取りまして、三件のアンケートから選出された三名の短いお話をこちらで書かせていただきますね。
一人ずつの短いお話を合わせて、明日の更新とさせていただきますので、楽しみにしていて下さい!




