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焦げ茶の手帳と最後の朝食

明日10/22〜10/24は、書籍作業のため更新をお休みします。

10/25は、「長い夜の国と最後の舞踏会」の1巻発売日ですので、なろうにて長い夜の幕間のお話を更新させていただきます。




『この手帳が好きでな。ずっと同じ物を買って使い続けているんだ。工房がなくならない内に、買い溜めておかなければいけないんだが、何しろ私はいつでも金に困っているからなぁ』



燃え上がるような赤い紅葉の森を背に、そう微笑んだのは一人の魔術師だった。


古い友人だと言えば聞こえはいいが、それは、牙を隠し続けてきたその男が、目の前の人外者を殺す術をまだ見付けられていないからだ。


だから彼は、友人の顔をして笑う。

偏屈だが気を許した者だけに見せる微笑みは、その全てがひと欠片も残さず嘘だというのに。


思っていたより器用であることに驚くばかりだが、憎しみとはそういうものなのかもしれない。

そして、それでもいいからこれからも続けばいいと願ったのは、災いというものの身勝手さの常であった。



(あの工房の周囲の森は、いつだって鮮やかな紅葉の赤だった。思えば、……………あの日からずっと、俺は、晩秋にしか彼に会っていなかったんだろう)



けれども今年は、彼からの招待状が秋の入りに届いた。


訪れた工房の窓から見える森はまだ色付いておらず、僅かにその気配を見せるばかり。

そして、想像とは違い、扉を開けたリヤルは縁の欠けた青いカップを手にしたまま、眠そうな目で魔術書をテーブルに置いていた。


無造作に束ねた銀髪に、灰色の瞳。

黒いジレに簡素な白いシャツを着て、まるで給仕のような服装である。


あまりにもいつものように迎え入れられ、少しばかり困惑した。




「……………ウィリアム。何年ぶりだろう」

「さぁ、五年か、六年くらいかな。随分と長く、招待状をくれなかったな」

「ああ。幾つか、研究を重ねたい魔術があったんだ。君はほら、色々と雑だからな」

「君くらいだぞ。俺の魔術証跡が、雑だと言うのは」

「他に言いようもないと思うがな。……………さてと、久し振りに会えたんだ。何か話をしよう。そして、一緒に朝食でも食べようじゃないか」

「ああ。そうだな…………」



目を伏せて微笑むと、リヤルの視線を感じた。

気付かないふりをしてケープを脱ぎ、近くにあった椅子にかける。


その室内には、いつもの乾いた薬草の香りがした。

蝋の香りと、僅かに残っている夜の魔術の香り。

相変わらずインク瓶の蓋は開けっ放しで、書きかけの書類や手紙が積み重ねられている。

中にはすっかりインクの色が褪せているものもあるが、そのままで良かったのだろうか。



「少し見ない内に、穏やかな目をするようになったな」

「…………ん?そうか?」

「ああ。恋人でも出来たか?」

「はは、いやまさか。だが、…………最近はよく一緒に過ごす者達がいるんだ。それでだろう」

「ほう。また騎士団にでも入り込んでいるのか?それとも、誰かを戦場で拾いでもしたのか」

「そのどちらでもないが、終焉の子がいる。それと、……そうだな。気に入っている土地がある」

「成る程。土地に根付くと男は牙が抜けるらしい。そういう変化なのかもしれないな」

「おっと。牙が抜けるのは困るな。これからも、戦場が日常なんだ」

「それもそうか。緩んでいる自覚があるのなら、背後には気を配るといい」



そんな事を言うリヤルに苦笑し、肩を竦めた。



(俺を殺そうとしているのは、君だろう)



出会った日から。

ただの友人でしかなかった日からずっと。


彼は、とある国の小さな騎士団に迎え入れられた旅人が、終焉の魔物だと知っていて近付いた人間だ。


慎重に歩み寄り、話しかけて距離を狭めて酒を飲み交わすようになるまで、リヤルは自分が魔術師であることを明かさなかったし、自分の友人が終焉の魔物だと知った後も、お前を殺す為に近付いたのだとは言わなかった。

淡々と月日と研鑽を重ね、彼は、こうして自分の工房に招き入れる男を殺す為の術を探し続けていたのだ。



そしてそれを、ウィリアムは出会った日からずっと知っていた。




なぜなのだろうと、考えた事がある。


リヤルは何も明かさないので、未だにどうして憎まれているのかは分からない。

彼の周囲にはそこまで目立った終焉の痕跡はなかったし、そうではない以上、彼の人生のどこにその憎しみの理由があるのかを知るのは難しい。


何しろ終焉は人間には身近なもので、どんな人間も何回かは関わる資質だ。



(加えて、理由などなくても俺を嫌悪する者達もいるからな…………)




「………ところで、君の連れはどうしたんだろう」

「いつ訊かれるのかと思っていたんだ。という事はやはり、……彼等をここに呼んだのは意図的なものなんだな?」


いつものカップに紅茶を淹れて出され、これは先に渡されたバターを塗ったトーストを齧りながらそう言うと、リヤルは肩を竦めた。


「君は、彼等と親しいのだろう?アンセ……とある死の精霊が話していた」

「……………彼か。どこかでしっかりと話をしておこう。どこでもそんな話をされると危ういからな」

「あまり、仕事仲間を虐めないようにな。それと、彼らに君の名前を提示したのは、共通の知人がいると伝えれば、安心して訪問出来るかなと思ったからだよ」



そんな筈はない。



これまでに少しずつ切り捨て、芽生える度に諦めてきた日々がそう訴える。

だが、今の言葉を信じずに理由を付けてここから立ち去り、皆を連れて帰れば、きっとここでの日々はまた続くのかもしれないとも考えた。



(………けれども、俺ももう選ばなくてはな)




先日、一つの守護が壊れた。


それは、いつかリヤルがウィリアムを殺すと決めた日にそれを知る事が出来るように、わざと彼に与えておいた守護だ。

という事は、どちらにせよ後戻りは出来ない。



ここ数年、リヤルからの招待状は届かなかった。

ウィリアム自身も彼からの招待を待ち続ける理由を失いかけていた日々であったが、心のどこかに残る希望をかけ、このまま自分のことなど忘れてくれればいいのにと思ってもいた。



そんな願いを、また一つ捨てる。



「私の思惑を警戒しているのかもしれないけれど、そろそろ中に入れてやってはどうだろう?今日は風が強いから寒いと思うよ」

「………そうだな」



勝手知ったる工房なので、ゆっくりと歩きながら指先を拭き、玄関まで戻ると扉を開けた。

開いた扉の前に立っているのは、リーエンベルクの騎士に扮したノアベルトと、エーダリア、そして、胸元にムグリスなシルハーンを隠したネアだ。



リヤルは、招待状がなければ誰も近づけないこの工房の扉をわざわざウィームに開き、魔術特異点の調査に来たリーエンベルクの騎士に、領主と歌乞いに直接挨拶をしたいと告げたのだ。


でなければ、工房への道は開かないと。



(ウィームとしては、魔術特異点を放置しておく訳にはいかない。俺を同行してもいいと言われたのなら、その提案を受けるしかないだろう。ましてや、それ以外の他の誰を連れてきても構わないとすら伝えられている)



自身の工房への訪問の条件を設ける魔術師は、珍しくはない。

だからこそエーダリアは理解するだろうし、それが罠だとしてもこちらにはある程度過剰な備えがある。


また、国内に特異点などを作られた場合には、エーダリアにはガレンの長としての調査責務もあり、リヤルがそうしたように、移転許可証の申請をされた案件については放置出来なくなる。



囲い込み、この工房への道を敷いたのだなと思えば、周到で慎重な彼らしい罠であった。




「扉を開けたってことは、やはり意味のある招待状だったみたいだね」

「…………ああ。俺より前には出ないでくれ。それと、……二人ともノアベルトの手を離さないように」

「……………はい」

「キュ」

「ああ。そうしよう」



無理矢理微笑めば、ノアベルトは苦笑していたし、ネアは表情をなくして口数少なく頷く。

エーダリアはまだ緊張しているだけだが、事前に事情を話しておいたからか、ネアは、これがどういうことなのかを理解したのだろう。



最初から、これは罠だときっぱり告げたネアは、申請書をなぜかリーエンベルクに届けたリヤルを、偶然目撃したのだそうだ。


そんなところで、敢えて世慣れない無防備さを示したのも、リヤルの油断を誘う為の老獪な魔術師らしい一手だが、そうして訪れた日に限ってネアが彼を目にしたのもまた運命なのだろうか。

そしてネアは、リヤルの眼差しによく見知ったものを見付けたらしい。



こちらの事情を話した後に、あの人はきっと、ウィリアムさんを殺そうとしているのでしょうと言われ、そうだなと頷いたのは昨晩のこと。

多分、その時からずっと腹を立ててくれているネアの頭に片手を載せ、低く唸ったネアにもう一度微笑みかけた。



(ネアは、………もっと冷静に受け流すかと思っていたが、そうじゃないんだな)



けれども、ここでまたどうにか諦めてくれないかと願うのはさすがに馬鹿げている。

リヤルは充分に待ったのだろうし、こちらも、ネア達に手を伸ばした以上は看過出来ない。



小さな願いを育てては捨ててきた長い日々が、ゆっくりと終わりに近付いてゆく。


こんな顛末だとしても思い出は穏やかで、ネアがずっと忘れはしないであろう、その手で殺したという誰かについて考えた。




「連れて来たぞ。さっさと、工房の移転説明書を出してしまうといい」

「……………ああ。やぁ、………ご領主様にわざわざ足を運ばせてすまないね」


工房に入れたエーダリア達を部屋に案内すると、いつもの焦げ茶色の革の手帳を閉じながら、こちらを見て微笑むリヤルがいる。

彼らしくない柔和な表情は、エーダリアが領主だからなのか、これから行う事の為なのか。


「………あなたが、リヤルの魔術師か」

「それが名前なので、そう呼ばれると不思議な気持ちになるが、そのように。君がウィーム領主で、………君が歌乞いだったのか。申請書を届けた日に、建物の前にいた子だね」


微笑んで話しかけたリヤルに、ネアは無言で頷いた。

これだけ事前の調査をしていたのなら既に知られているのであろう名前を隠す必要がないのは楽だが、自ら名前を渡す名乗りも必要はない。

なので、このように無言でもいいのだ。

だが、その沈黙は、押し殺した怒りを内包しているようでひやりとした。


リヤルに向けたネアの眼差しは、はっとする程に静謐だったが、同時にぞくりとする程に鋭いものだ。

そちらの方が慣れているだろうに、ネアは一度も微笑まなかった。



かちりと、どこかで魔術が噛み合う。


恐らくネア達が工房に入った瞬間から動くように用意されていたもので、その動力がリヤルの命そのものだと気付いた。



彼の憎しみは、自分の命を差し出すに値するものらしい。

それを思い知らされて、堪えきれず、一度だけ瞳を閉じた。

ノアベルトの小さな溜め息が、やけに大きく聞こえる。




「…………君は、私が嫌いなようだね」

「ええ。あなたは、かつての私と同じように、誰かを殺す為に微笑む方ですから。そして、あなたがその刃を向けるのは私の大切な人なので、私はあなたが嫌いです」


目を開くとそんなやり取りが行われていて、魔術が動き始めている以上もう引き返せはしないその最後の盤面で、最初に真実に触れたのはネアだった。

あまりにも率直な返答に短く息を呑み、けれどもリヤルはすぐに微笑む。



「これは困った。…………まさか気付く者がいるとは。けれども、確かにそう決めた日から自分の目の色が変わったなとは、ずっと思っていたんだ。顔付きも、多分それ以外のものも、全て変わってしまった。………それなら、同じ経験をしてこの変化に気付く者がいるということもあるだろう。………君は確かに、私と同じ匂いがする」

「あなたは、その切っ掛けすら自分で作らず、それでいて、振り下ろす手を止めはしないのですね」

「……………ああ。そうか。………そうだね、確かにこのやり方は、狡いか。……………ウィリアム」




ゆっくりと、リヤルがこちらを見る。

出会ってから初めて、明確な憎悪と拒絶を込めた眼差しを向け、そして、虚を突かれたように目を丸くする。



「……………もしかして、私が何をしようとしているのかを、知っていたのか?」

「そうだな。………出会った日から。………君はきっと、俺の話を言葉半分に聞いていたんだろう。君と同じような理由や覚悟で俺の前に立つ者は、実は初めてじゃないんだ。ただ、君ほど長い間隠し通した者はいなかったが」

「……………なんだ。失敗か。まさかこんなに早くにそれを知るとはなぁ……………」



その声があまりにも弱々しかったので、僅かに苦笑した。

それくらいの時間は、共に過ごしたのだと思う。




「動いている術式は、こちらで解析する。……どんな条件を付けたのかは分からないが、成立しないだろう」

「そのようだな。おまけに、思っていたよりもそちらの二人の守護が硬い。私では崩せそうにないな。やはり、ウィームの魔術師を侮るべきではなかったか」

「………呆れたな。彼等を使うつもりだっだのか」

「この二人を巻き込めば、さぞかし君は嫌がるだろうと思ったんだ。気に入っているようだからな」

「そうか…………」



その事実は、沈黙と共に持ち去ってはくれないのか。

可能であればネア達を害したのだと、こうもあっさり吐露するものなのか。



(………俺を殺す為に、俺の庇護する者を殺すと躊躇いもなく口にするのか)




「…………リヤル。理由を聞いてもいいか?」

「理由を知っても、何も救いはないぞ?」

「ああ。それでも、今の俺にはその責任もあるだろう」


そう言えば、ちらりとネア達の方を見る。


扉を開いてから初めて、リヤルが小さく自嘲気味に笑った。

分かってはいたが、これまでに知っている彼とはまるで違う表情で、それがなぜだか堪らなかった。



「ずっとずっと昔の事だ。君はもう、その国の名前も忘れてしまっただろう。それまでにあった王家が粛清されて、庶子上がりの若い王子が国王として即位し、その新しい王の戴冠式の日に滅びた国があった」

「……………なぜ同じ名前なのだろうと思っていたが、リヤル国か。その名前を引き継いだんだな」


そう言えば、リヤルが灰色の目を瞠る。

呆然としている古い友人に、小さく溜め息を吐いた。


「俺を何だと思っているんだ。一つ残らず覚えているよ。……………この手で滅ぼした国や、街や、村の一つまで、その名前は必ず覚えておくようにしている。その話も、君にはしたつもりだったが………」

「……………どうして」

「戦乱に招かれた国までを覚えているとは言わないが、終焉として粛清しなければならなかった土地は、俺の意思で失われた者達の名前だ。もうないからと忘れて、それだけで前に進めると思ったのか?」

「いや、……………いいや。そう思っていたんだろうな」

「だとすれば……、君にそう思われていたのは、少し心外だな」



微笑んでそう言えば、リヤルはどんな目をしただろう。


泣き出しそうな、けれどもいっそうに憎悪を募らせるような。

その眼差しは大きく心を揺さぶったが、幸いにも、この心を砕く程ではなかった。



「きっと、そこに誰かがいたんだな」

「……………ああ。あの日に王冠を得たのは、俺の養い子だ。孤児だと思って雪の日に拾ってきて、俺が育てた子供だ。我が子ではなかったが、言葉も作法も笑顔も、魔術も酒も旅立ちも、その全てを俺が教えた」

「……………そうか」

「血の繋がりがないとは言え、それが我が子とどれだけの差がある?あの子を迎えに来た者達の手に託した後は死んだことにして姿を消していたが、それでもずっと、あの子の身に危険が及ばぬように見守っていたんだ。王の座に就いたあの子がこれでもう二度と飢えることはないと、安心してその国を出た……………二日後だ。たった二日後の事だった……」



血を吐くようなその囁きは、いっそ静かな程だった。


(どれだけ月日が流れても、憎悪や絶望は同じ色で残り続ける事がある)


愛もそうだと言うが、ウィリアムは残念ながらそれについてはよく知らない。

ただ、澄み渡った水のように静かなまま、その水底にずっと怨嗟や憎悪を隠して生き続ける者はいる。

確かにいるのだと思い、ふと、背後に立っているネアを思った。


彼女は、この憎悪に触れて何を思うのだろう。

自分によく似たものだと、リヤルに心を寄せはしないだろうか。



「………そうか。なぜだったのかを、知りたいか?」

「理由なんぞはいらん。どうせ君の事だ。人間贔屓の君がそうするしかなかったのなら、それに相応しいだけの理由がある。大方、…………あの子は禁術にでも手を出したのだろう。それか、…………君を欺いたか。だが、理由なんぞどうでもいいんだ。あの子が死んで、君が殺したという事実だけで充分だ」

「……………ああ、君らしいな。だからずっと、友達でいてくれたのか」



その言葉に、ふっとリヤルの口元が震える。

千年にも近い日々を、数年に一度であっても共に過ごし、様々な話をしてきた。

その根底に彼が育てたという子供の死が横たわっていたとしても、きっと、その子供と過ごしたよりは遥かに長い時間だろう。



彼からの招待状が届き、共に過ごす時だけはいい友だった。


グレアムやギードとは違うし、シルハーンやアルテアとも違う。

ネア達と話すようなことをリヤルと話す事もない。


だが、この工房を訪れて過ごした幾つもの夜は大切な時間であったし、ウィリアムは彼が好きだった。

いつかこちらを見る眼差しに憎悪を見せるだろうと考えながら、けれども、それまではと思い続けて。

その招待状を開く時だけ、友人となる。



「ああ。………君から何かを失わせるだけの資格を得ようと、ずっと君の友人でいたんだが」

「君は、長い間、俺の最後の人間の友人でいてくれた。正直なところ、あと五年早くこの日が来ていたら、……………俺は、どうしようもなく落ち込んだだろうな」

「そうなるように、八百年も時間をかけたんだ。それがまさか、こんな数年ぽっちで、誰かが横から攫ってゆくとは思わないだろう」

「攫って………?」


思わず首を傾げると、なぜだか呆れ顔をされる。


「君が私の憎しみに触れても打ちのめされないのは、後ろに隠している者達のせいだろう。………ああ、無念だ。最後の最後で、時期を見誤るとは思わなかった」

「君は慎重だからな。……………すまない」

「そうだな、謝ってくれ。………誰かが、それも人間が、俺が演じ続けた程に君を受け入れるだなんて思わないじゃないか。誰も君を友人のままにしておけず、誰も君を好きにはならないと思っていたのに」

「酷い言われようだな…………」

「当然の事だぞ。私は、君を憎み続けていたんだから」



その声は僅かに掠れ、悲し気にこちらを見たリヤルの瞳は酷く透明であった。

困ったように笑い、一筋の涙がこぼれ落ち、その涙を手の甲で拭う。


その涙がもう二度と元通りにならない友情の為であれば救いがあったが、失った養い子に向けてのものだろう。


ウィリアムは、彼の最後に残された願いを絶ったのだから。




「……………君の本物の友人でいられたなら、どんなに良かったか。けれども私は、こんなに長い間ずっと、喪ったあの子を愛し続けていた。だから、こんなに長い間、君を憎まずにはいられなかった」

「……………ああ」

「口惜しい限りだ、この術式は、君がその心を損なう程に絶望しなければ、完全なものにはならない。私にはその役割が果たせると思っていたし、そうして動いた術式で君の友人だという絶望の魔物を取り込めば、君は、犠牲の魔物伴侶を殺した時の事を思い出して、二度は親しい者を殺せないまま破滅すると思っていたが」

「………っ、」



その直後の事だ。


ばしんと鈍い音がして、はっとすると、頬を赤くしたリヤルが呆然とした顔でこちらを見ていた。

一瞬、手を上げたのは自分だろうかと思ってしまったが、どうやらそうではなかったらしい。


リヤルの足元には、入り口すぐのテーブルに置かれていた筈の一冊の魔術書が落ちていて、慌てて振り返った先でふーっと肩で息をしていたのは、凍えるような目をしたネアだった。


その手元を見るに、リヤルに魔術書を投げつけたのはネアだろう。



「……ネア」

「……………ウィリアムさんがその方をどう思うのだとしても、私は、今の言葉を許しません。そうすることでウィリアムさんや私の大事な家族が傷付きさえしなければ、……………私がこの手で殺したいくらいです」

「ネア?!」

「キュ?!」



聞いたこともないような苛烈な言葉にぎょっとして歩み寄ると、その隣で言葉を無くしたように立ち尽くしていたエーダリアが、鳶色の瞳を静かに揺らした。

そして、こちらに手を伸ばして腕を掴む。


「……………自分の命を転換する術式だ。いずれここは崩壊し、その者も滅びるだろう。リーエンベルクに帰ろう」

「エーダリア…………?」

「もう、帰るべき場所はあるのだろう。だから、ここでその者の言葉に耳を傾けている必要はない。彼は確かにあなたの友人だったかもしれないが、もうそうではない。そうであってはいけない言葉だった」



何かを言わなければいけないと思ったが、途方に暮れて、掴まれた腕を見ていた。

これがネアであれば分かるのだが、今、この手を掴んでいるのはエーダリアだ。

よく見れば、エーダリアはもう片方の手でネアの手をしっかりと掴んでいて、この二人を自分が連れて帰るようなつもりであるらしい。


ゆっくりと顔を上げると、騎士に擬態したノアベルトが困ったように微笑む。



「こうなると、僕は二人に従うしかないからさ。もう帰るべきだと思うよ。…………それに、こんな風になった場合はさ、最後までその場に残らない方がいいんだ。顛末を見届けてもいい事なんて一つもないからね」

「……………かもしれないな」

「うん。それに、そろそろ僕も不愉快だよ。僕の家族をこんな風に傷付ける言葉なんてね。……………シルだって僕の家族なんだ。あの一件で、どれだけ傷付いたと思っているのさ」

「ああ…………。すまない、ネアも。酷い言葉を聞かせたな。もう帰ろう」


エーダリアに頷きかけ、ネアを抱き上げようとして小さく息を呑んだ。


ネアはこのやり取りの間、ずっと目を逸らさずにリヤルを見つめていたらしい。

磨き上げたナイフのような眼差しは、泣き笑いのような表情でこちらを見たリヤルの憎悪より、遥かに冷たいものだった。


「っ、………ネア」

「……………この方が、人外者であれば良かったのに。或いは通りすがりの方であれば、敵国や、私が何の躊躇いもなく滅ぼして打ち捨てても私の家族が悲しまないような、そんな名もなき誰かであれば良かったのに」


静かな言葉の苛烈さに、心が揺らぐ。


リヤルにずっと憎んでいたと打ち明けられた時より、そんな彼が手を回してネア達をここに呼び寄せてしまったのだと知った時より、ネアがこれだけの憎しみを育ててしまった事が堪えた。



「……………すまない。俺のせいで、酷い思いをさせた」


そう言えば初めて、ネアがこちらに視線を戻す。


「そうさせたのは、ウィリアムさんではありません。あの方と、そして私自身の問題です。……………でも、どうにかして私を宥めてくれるのであれば、あんな人の事はさっさと忘れて下さい」

「………ネア」

「心のどこにも残さずあっさり忘れ去ってしまい、私の大切な人や、私の家族の心にあの酷い言葉が残らないようにして欲しいです。何の意味もないものだったのだと、何も為せはしなかったのだと、そうなるようにして下さい」

「………………………ああ。そうだな」


エーダリアが手を離してくれたので、両手でそっとネアを持ち上げ、そのまましっかりと抱き上げる。

ネアはまだ怒っていたので、毛を逆立てる獣を抱いて宥めるような硬さがあったが、それでも温かかった。

その胸元からこちらを見上げたシルハーンにも頭を下げたが、なぜか首を横に振られてしまう。


「あの方が、今ここで傷付けてみせたのは私です。ウィリアムさんを傷付けようとしたのかもしれませんが、その刃で私や、…………きっと、私の大事な伴侶も傷付けたのでしょう。……………早く、消えてしまえばいいのに」

「キュ………」



強い風の音が聞こえる。

窓の外の森を揺らす風は、そろそろ、リヤルの崩壊が近いのだと知らしめるよう。


抱き上げたネアがもう彼を見ずにすむように体を反転させると、ネアは酷く暴れたが、ノアベルトが何かを言ったのかすぐに静かになった。


再びそちらに視線を向けた事で、呆然とこちらを見ているリヤルと目が合った。

その姿はもう透けるようになっていて、このまま魔術の代価に呑まれて消えてゆくのだろう。



「君に会う事は、もう二度とないだろう」

「…………そうだな。もう私は、このまま魔術に食われ消えるばかりだ。………ウィリアム。……………今日は、来てくれて有難う」

「……………ああ」



それは、いつもこの工房を立ち去る時に、リヤルが言う言葉だった。


言葉にならないような思いに息が止まりそうになったが、それでも、彼に背を向けて立ち去れると思った。

ネア達がいなければ、このまま、古い友人が魔術の中に呑み込まれて消えてゆくのをずっと見ていたかもしれないが、今はもうそうではないのだ。



あの日、戴冠式を迎えた若い王を殺さなければ、とは思わない。


彼は、国の統治を安定させる為に世界に残してはいけない疫病の魔術を使って国民を隷属化させようとしていたし、才ある魔術師として見出されてクライメルに師事した彼を生かし、国という大きな土壌を疫病で朽ち果てさせる訳にはいかなかった。


善良ではなかったことで、この古い友人の愛情に値する人間ではないと言うつもりはない。

それでもリヤルは養い子を愛しただろうし、彼が言うようにその理由は問題ではないのだから。



ただ、長い間預けていた一つの守護が壊れ、一人の魔術師の復讐は成就しなかったというだけ。



ノアベルトと無言で頷き合ってから転移を踏み、まずは経由地になるウィーム郊外の小さな丘陵地に出た。


風はここでも吹いていて、淡い紫色の花を咲かせこの丘を覆うように生い茂る植物をざざんと揺らす。


思っていた以上に、あの工房から立ち去り難いとは思わなかったし、彼と過ごした日々を思い出したことで思考が曇る事もなかった。

とは言え、やはり少しだけ寂しかったが、それをネアに伝えれば悲しませる事も分かっている。



だから、何も言わなかった。



「シルハーン、すみません。巻き込みました」

「キュキュ!!」

「ネアも……」

「今回は、あの方とアンセルム神父のせいでしょう。ウィリアムさんが謝る必要はないと思います」

「帰りに、どこか寄っていくか?串焼き肉の店でもいいし、ザハでもいいかもしれないな」

「……………どこにも寄りません。今日は、絶対にみんなでリーエンベルクに帰りますし、ウィリアムさんは何日かの間はずっとお泊りで決定です。お仕事がある場合も、通いにして下さい」

「おっと。…………鳥籠となると……」

「どうこうしなければいけない国があるのなら、きりんさんの投影魔術をお貸しします。そうすれば、鳥籠もすぐに閉じられると思うのです」

「ありゃ。僕の妹は、国一つを滅ぼす覚悟だぞ……………」

「ウィリアムさんは私の騎士さんなので、時には、私が勤怠管理をするのですよ。アンセルム神父に沢山働いて貰いましょう」

「キュ!」



その言葉にふと、何が行われるにせよ傷付けたくないと思い、幾重にも守護をかけて首から下げているリンデルを思った。

そうして、もう一度、腕の中の温かさを噛み締める。



「そうだな。……………リーエンベルクに帰ろうか」

「とてもむしゃくしゃしているので、一緒におやつを食べて下さい」

「ああ。そうしよう」

「そして、きっと……………今のウィリアムさんはとても心が消耗しているので、ゆっくり眠って下さい。ただし、私達の部屋の寝台限定です。ディノと一緒に見張っているので、逃げたら許しません」

「……………おっと。それは、ええと……………どうなんだろうな」

「もしくは、いつものお部屋で眠るのであれば、狐さんを抱っこしてでも構いません」

「……………え、僕は嫌………」

「ネア、それはやめておこうか」

「むぅ。それでは、アルテアさんをちびふわにして、抱っこしています?」

「……………それも絶対にやめてくれ」



結局、ネアが絶対に譲らなかったので、ネア達の部屋の寝台を借りて寝かしつけられる事になった。

何が起こってそうなったのかは分からないが、少しだけ横になる筈が意識を失うように眠ってしまい、目を覚ますと翌朝になっている。



(………もう、朝なのか)



食事もせずに眠っていた事になるが、もう日付が変わったのだと思えば、あの工房でのことは確かに一日だけ過去になっていて、このまま時間を重ねてゆけば、ゆっくりと風化してゆくのだろう。


カーテンの隙間から差し込む朝日を見ている内に目を覚まして起き上がったネアも、こんな風に、無理矢理過去にしていった日があったのかもしれない。

なぜか、一緒に起きたシルハーンから、編み立ての三つ編みを持たされてしまい困惑したが、戻し方が分からないまま、その朝は暫く三つ編みを握っていた。





初めて得るようなものばかりだから、こうして大切な人達と過ごす日々の話も沢山したかったが、そんな目に遭わない内に決別出来て、君は幸せだったのかもしれない。



いつかまた、鮮やかな深紅の紅葉の森を見ると、あの友人を思い出すのだろう。


けれども彼の手にしたナイフがこの心を裂く事は、きっと今後もない。

最後に共に食べた朝食の味は、なぜだかもう思い出せなかった。







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