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イチイの酒と夜の森のポプリ




それは静かな雨の日の事だった。

少なくとも、その街では。



陰鬱な程の曇天はくすんだ灰色で、ウィームの雪空や曇天とは色相が違う。

あちらの空色がうっとりとするような天鵞絨や毛皮なら、こちらの空の色は雨に濡れた石畳だろう。



そんな街角を歩き、手にしていた傘を畳む。

深い紫色の傘はこんな雨の日には黒にも見えるらしい。

店などに預けてから帰り際に紫の傘をと言うと、大抵困惑されるのだ。



畳んだ傘から雨の雫を払い、丁寧に折りたたむ。

これから入る店であれば軒先の傘立てに入れておくのが正解だが、そうすると目を離した隙にどんな仕掛けを施されるか分かったものではない。


何でもない昔ながらのバーだと言うには、この店は厄介な連中に好まれ過ぎていた。

今でもアイザックも通っているし、かつてはクライメルも顧客であった店だ。

店内の客を予測してから外に置かれた傘に目星をつける者がいないとも限らないので、傘は魔術金庫に収める。



ぎいっと重たい黒塗りの扉を開いて、店の中に入った。


ただ物々しくする為だけの黒ではなく、飾り窓の縁を艶消しの金にしたのがいい。

扉の取っ手や、明かりの下の石畳も含め、この店の主人の嗜好は一級品であった。


店内に入ると、見知った人影がこちらを向く。



「いらっしゃい。久し振りですね」

「最近は忙しかったからな。……………イチイの酒は入っているか?」

「正直、私が昨晩仕入れたばかりなのを、どこで盗み見ていたのだろうと思うくらいですよ」

「それなら、イチイの酒だ。真夜中の座の分は残しておいて構わない。今夜は、一杯で充分だ」

「……………ああ。もう陽が落ちましたか。いい夜だ」

「店構えは最高だが、立地は最悪だがな」



夜結晶のカウンターにつきながらそう言えば、夜色の瞳を細めて店の主人が笑う。

この店の品揃えを多くの高位者達が信頼している一端は、彼が真夜中の座の精霊だからという理由もある筈だ。



(夜患い……………)


真夜中の座の中では、黒髪のこの男はあまり階位が高い方ではないが、代わりに自分の生かし方をよく知っていた。


夜には様々な資質がある。


その中では決して高い階位ではなく、その程度の者だからこそ多くを得るのは難しい。

だから彼は、こうして夕暮れから夜明け前まで、ひっそりと店を開く。

時折自分の意思で店を訪れる者達が夜に酔い、素晴らしい夜を過ごしたと思うだけで充分なのだ。


夜の中には夜患いと呼ばれる者達が他にもいるが、真夜中の座の夜患いは、遥か昔からこの男だけであった。



「美しいばかりの夜を有する土地だと、私の店の良さは死んでしまいますよ。例えばここがウィームなら、夜はもっと彩り豊かでしょう。或いはここがヴェルリアなら、夜はもっと賑やかだ」


カウンターに合わせて造られた椅子に座り、美しく繊細なカットを施したグラスを手に取る。

カットそのものは繊細だが、手に馴染まない程ではないし、グラスの形そのものが凝り過ぎていないのがいい。


今年のイチイの酒を一口飲み、まずまずの出来だなと頷いた。



「何か、新しい商品はあるか?」

「店内に置いているものですと、最近仕入れたものは夜羊の革のノートと星樫の小さな定規、あちらにはダッカの刺繍もあります。マリミレーの画集は一冊だけ。後は、夜の優雅の質の夜の森のポプリでしょうか」

「……………ほお。ポプリか」



以前に縁のあったマリミレーの画集が気になったが、最後の一つで立ち上がった。


自身の屋敷に好んで置く程ではないが、生花や他の香りではなく、ポプリの香りが見合うと感じる日や内装もあるにはある。

だが、深みのある黒紫と青みの緑、そして一番配分が多いのが赤紫色のそのポプリは、自分の買い物と買うよりは、とある人間が好みそうだと思ったのだ。


店内に置かれたポプリ用の皿に近付くと、深い冬の森とあの人間が好みそうな、イブメリアの季節の飲み物の香りがした。



(夜と森。そして、黒スグリと雪の香りか。………砂糖の香りも僅かに入っているようだな)



これがもし、香辛料や林檎の香りであれば、ウィームらしい祝祭の香りと言えただろう。

だが、こちらのポプリの香りは、滅多に人が立ち入らない深い森の中にある、祝祭の隔離地のような静謐な香りであった。



「これを、……………三個だ」

「ご自宅用ですか?」

「一つは贈答用だな。残りは予備と自宅用にする」

「あなたがこのような贈り物を持ち帰るとなると、やはり、特別な執着を得たという噂は本当らしい」

「アイザックか…………」

「ええ。ですがまた別のお客様から、アイザック様もそのような相手を得たと聞きましたが」



そう呟いてひっそり微笑むと、店の中に出していたものではなく、店の奥から真夜中の座の刻印のある木箱を持ってくる。


蓋を開けた際に見えた在庫の数を見ると、この商品の入荷は、ここ二、三日の間だったようだ。

誰もが知る真夜中の座の刻印の入った木箱を見る事自体は、実はそう珍しいものではない。


取り出した商品を差し出され、問題がない事を確認する。

その中でも、袋の小窓から覗くポプリの色が気に入ったものを贈り物用に包ませ、相変わらず手際のいい包装に小さく微笑む。



ここはそういう店なのだ。


上等な酒やそれに見合った料理を少し。

それは、ゆっくりと読書でもしながら過ごせば一晩明かせるくらいのもので、店内には、店主が選りすぐった商品なども置かれている。


元より、店内の装飾や道具類の趣味が良かったので、アイザックが勧めて始めた事であった。

真夜中の座の領地には、夜にしか流れない商品や品物が数多く現れる。

このポプリのように、真夜中の座で生産や販売をしているものもその一つで、同系譜の者の手でのみ販売が許されていた。



グラスに口を付け、ふと感じた視線に眉を持ち上げる。


真夜中の座の夜患いは何も言わなかったが、どうしてこの買い物をしたのだろうと問われた気がした。

それに答えたのは、この男が何回か個人的に飲みに出たことがある相手でもあるからだ。

終ぞ、こちらの商売には引き入れられなかったが。



「今回は、………ちょっとした調整のようなものだな。手入れの関係で負担をかけざるを得なかった。こういうものでも持ち帰れば、………気分を上げるだろうよ」

「成る程、そうでしたか。こうした品物を気に入るような方であれば、今度、この店にもお連れ下さい」

「………当分はないだろうな。この店は、あいつの嗜好に近過ぎる。今のところ、夜患いに貸してやる余分はない」

「おやおや、………思っていたより耽溺されているうようで」

「……………さぁな」



グラスの酒を飲み干すと、いつの間にかカウンターの上に置かれていた森結晶の灰皿を引き寄せ、ケースの中から取り出した煙草に火を点けた。

心の中で、この後の展開を考えながらゆっくりと紫煙を吐き出し、灰皿に灰を落とす。



(そろそろか………)



「では、こちらで宜しいでしょうか」

「ああ。…………もう暫くすると、面倒な奴が来る筈だ。先に支払いをしておく」

「一杯だけとは珍しいと思っていましたが、お待ち合わせでしたか」

「堪え性がない奴だからな。………おまけにこの店を知っている」

「………ああ。終焉の方かな」



くすりと笑った店主は、渡しておいた支払い用の魔術手帳に小さなスタンプを押し、その手で戻された手帳を受け取った。


金貨や宝石、魔術金庫からそのまま代金を呼び落せるカード類もあるが、この店への支払いは、この手帳の中に蓄えた資源や魔術の中から支払うようにしている。



支払いを終え、もう一度煙草の灰を落としていると、ぎいっと音を立てて扉が開いた。


案の定、店に入ってきたのはウィリアムで、雨に僅かに濡れたコートの裾を払いもしない。

店先の魔術で店内に持ち込まれる事はないが、扉を開ける前に脱いでおこうとは思わないのだろう。



「……………やはりこの店でしたか。晩餐の予定があるのに、意外ですね」

「その前の調整と準備がある。……言っておくが、俺にも手入れがあるんだぞ」

「かもしれません。昨晩も今日も、他の事を優先したようでしたから」

「………それが分かっているのなら、放っておけ」

「心配したのは俺ではなく、彼女ですよ」

「……………あいつが?」

「ええ。このような合間に出掛けてゆくのは珍しいと。いつもなら、不在にしていたと気付かせないところで出掛けて行く筈なのに、今日ばかりは合間に時間を取っているので、珍しい事は警戒するべきだろうと話していました。なので俺が、迎えに来たんです」

「やれやれだな。…………一杯の酒と、夜患いの店で事足りる調整だ」



その言葉に、カウンターの中に戻った男が小さく微笑む。

目が合うと、笑って首を横に振った。



「………いえ。余程、質の悪い夜に触れたのだろうなと思いまして」

「毒と舞踏会だ」

「ああ、呪われた交易路の街でしたか。私の大嫌いな軽薄さです」

「だろうな。だからこそ、この店を選んだんだ」



ネアから引き剥がした毒の効果は、痛みや体への影響を測る為に敢えてそのまま受けている。

その結果、魔術的な資質や因果の澱が残り、その洗浄を行う為にこの店に来たのだった。


術式付与や変質をかけてその場でどうにかする事も出来たが、なぜだか、ここを選んでいた。



脆弱な人間という生き物があれだけの痛みを感じ、けれども、どこか懐かしむように、よく知っているものだと冴え冴えとした瞳で微笑んだからだろうか。

だからこそ、安易な魔術で削ぎ落すのではなく、相応しい作法で葬るべきだと考えたのだ。



それはまるで、彼女がその痛みを抱えて過ごした夜への遅過ぎる弔いのように。




「俺もイチイの酒で」

「おい。これ以上長居をする予定はないぞ」

「ええ。今夜は、皆で食事をする予定ですし、あなたはまだ調理が残っていますからね」

「だったら、さっさと飲め」

「あれ?もしかして、俺と一緒に帰ってくれるんですか?」

「…………その方が手間がないだろう。個別に帰ると、あれがまた妙な勘繰りをする」

「はは、確かに。……………では、少しだけ待っていて下さい。今年初のイチイの酒なので、とは言え少しは味わいたいですからね」

「それが宜しいでしょう。あの街の何かを払い塗り替えるのなら、あなたも、そのくらいはこちらにいた方がいいですよ」

「かもしれんが、お前は笑うのをやめろ」

「失礼。あなたが、あまり長続きさせない資質を誰かに潤沢に切り出している、というのが愉快でしたので」



店の中には僅かな雨音が響いていたが、それが音楽の代わりになる事はなかった。


何か音楽を流すという事もないが夜が満ちてゆく音が静謐さの中で重なり、僅かな生活音が静けさと共に音階になっている店だ。



「……………どうでしたか?」


ふと、ウィリアムがそんな言葉で尋ねた。


「何がだ?」

「あの夜はまだ、殺すべきものとして彼女の中にあったのかなと思って」

「どうだろうな。…………今となれば、終焉と言うよりは、嗜好品だろう」

「そうだといいんですが。……………俺は、あの終焉の足取りもかなり好きなんですが、何と言うか、シルハーンがずっと共にいた分だけは、彼女がその過去が遠ざかっているといいなとも思うんですよ」

「だからといって、そこで差し引きになるとも限らないだろうが」

「ええ。こちらの幸福とあの過去が等価値かどうかは、本人にも分からないでしょうからね。そうではないような気もします。ただ、………あまりにも親密さが滲む美しい終焉がそこにあると、…………俺も少し妬けますから」

「……………言っておくが、勝手に俺を巻き込むな」

「あれ?アルテアは違いましたか?…………その贈り物も、彼女をこちらに静める為の重石でしょう。まぁ、俺も同じような事をすると思いますが、今回は残念ながら、一緒に舞踏会に出掛けたのは俺ではないので」



だがきっと、あの静かな夜の中にある遠い日の情景は、ネアの中から消える事はないだろう。


ピアノと雨音の夜は、それが棘でも毒でもなく、どんな美しい音楽も奏でなくなったとしても、消えはするまい。


足りるだけの執着や愛情がこちらに育ち、躊躇いもせずにシルハーンを選ぶとしても。


彼女は、それも手放さないという選択をし、そうした以上は二度とその決断を翻しはしない。

毒の舞踏会の会場で、ネアがその日の思いをとうとう共有したとしても、それは共に背負わせる為のものではなく、ただの感傷の吐露なのだから。



あれは、そういう人間なのだ。

だからこそ、こちらの取り分が少なければ自分で手を伸ばすしかない。



からりとグラスが鳴り、ウィリアムは氷を入れて飲んでいたのかと今更気付く。

注文の際には何も言っていなかったので、この店の店主が把握している嗜好なのだろう。



「さてと。帰りましょうか。……………ああ、頼んでおいたイチイの酒は、今日持って帰るよ」

「そうではないかなと思いましたので、お包みしてありますよ」

「……………お前は、この店経由か」

「俺は望ましい時に不在にしている事も多いので、注文出来た時にはこの店に預けて貰っているんですよ。彼女が気に入っている酒ですし、今夜の晩餐にはいいでしょう」

「お前が強かなのは、そういうところだな……………」

「うーん。これでも、いい夜にしようとしているんだけどな」



苦笑して呟いたウィリアムには返事をせず、椅子から立ち上がった。




(………オーブンは温めてある。帰ったら、焼くだけのものから始めるか)




そんな事を考え、取り出した傘を開く。

この店の周辺は隔離地になっているので、転移を踏むのは少し歩いてからだ。

ウィリアムの傘が漆黒なのを見てさもありなんと思いつつ、僅かに顔を顰めた様子に眉を持ち上げる。



「鳥籠が必要なら、そっちに帰れよ」

「…………いえ。覚えていない程のどこかで切り分けた守護を、誰かが損なったようですね」

「毎回だろ。いい加減学んだらどうだ?」

「………まぁ。今はもう充分満たされているので、これからは増えないんじゃないかな。………他のものでは物足りなくなりましたしね」

「やれやれだな」



とは言え先程の表情を見るに、それはかつて、ウィリアムにとって、決して軽い執着ではなかったのだろう。

覚えていないと嘯いたが、これだけ戦場を歩き回っている男が、それでも忘れずにいたものだったのは間違いない。



雨の中を歩きながらふと、その執着のあり方について、そろそろ話を聞いておいてもいいのかもしれないと思った。

こちらは、最初のものだからと言って、それで仕損じるつもりはさらさらないのだから。









負傷中につき、少なめ更新となります。

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