雨の日とラベンダー
さあさあと、雨が音を立てて降っている。
禁足地の森の緑をしっとりと濡らし、青緑色の木々の枝葉が白みがかる。
昨日よりも気温が下がったので既に霧が出ていて、窓の近くに座っていると冷えるなと感じられるくらいの室温だろうか。
「リーエンベルクはさ、こういう季節の気温が感じられて、僕は好きなんだけれどね」
「…………まぁ。ふかふかのひざ掛けです。貸してくれるのですか?」
「うん。僕の大事な女の子だから、大事にしないと」
「ノアは、寒くありません?」
「…………わーお。共寝のお誘いかな」
「最も一般的な意味から読み解いて欲しいので、もう少し、読解力を上げていきましょうね」
「ありゃ…………」
ノアの部屋には、ネアがいた。
それがどうしたと言われてしまいそうだが、ネアが一人で遊びに来ているのである。
とは言えそれには事情があり、シルハーンやアルテア達が、ダレックの再調整やそちらに証跡などの因果を残さない為の魔術の再配置を行っているので、その間、ネアがこの部屋に預けられる事になったのだ。
場や繋ぎの魔術を調整するので、うっかりネアが引っ張られる事などないよう、敢えてノアベルトの領域であるこの部屋で待っているという措置がなされたのであった。
「最近は、雨が多いのですね。ツダリでは曇りでしたが、こちらは昨晩からの雨のままです」
「この時期は以前からよく雨が降るけれど、最近の雨の多さは境界の揺らぎの影響もあるのかもね。ほら、クロウウィンが近付いてきたからさ」
「そう言えば、ノアのお誕生日はまだなのですよね?」
少し言い澱み、ネアがそんな事を尋ねる。
くすりと笑って頭を撫でると、眉を寄せる様子が家族らしい無防備さでとても可愛い。
「うん。呪いなんかで取り上げられている訳じゃないから、心配しなくていいよ。………今年は色々ありそうだが、一番いい瞬間を見計らっているって感じかな。僕も、ウィリアムも。本来なら夏くらいにはやれる予定だったんだけど、随分後ろにずれちゃったからね」
「…………むぅ。絶対に、お誕生日の一本化は行わないので、このままいくとお誕生日渋滞が起ってしまいそうです」
「え、………そうか、近くなり過ぎると一本化されるって危険もあったのかぁ。…………うん。絶対に一本化はしないで…………」
「そんな事は私が許さないので、安心して下さいね。……………でも、まだお祝いが出来なくて寂しいと感じていたら、なんでもない日にノアが主賓のお食事会だって出来るのですよ?」
思いもしなかった事を言われ、目を瞬いた。
それは考えてもいなかった提案だったので、何でもない日の食事会というものについて考えてみる。
(みんなが、……………僕の為に集まってくれて、みんなで食事をするのかな)
そこにはヒルドやエーダリアがいて、ネアとシルがいるのだろう。
家族が集まるだけで充分だけど、銀狐姿であればアルテアや、グラストとゼノーシュもいていいかもしれない。
「……………え、駄目だ。泣いちゃうんだけど」
「あらあら、困ったノアですねぇ」
「ただでさえ、毎日会えるのにずるいよね。…………それにさ、まだちょっと刺激が強いから、そういうのはもう少し慣れてからがいいかな。………あ、でもただの食事会は大歓迎だよ!まだまだ、みんなに飲んで貰いたいシュプリや葡萄酒が沢山あるからさ」
「次のお祝いの席では、どんなお酒が出て来るのか楽しみです!…………ところで、ラベンダーのクッキーを食べませんか?」
「……………もしかして、僕の妹はお兄ちゃんを虐待しようとしてる?」
「なぜなのだ」
こんな雨の日を見ていたら、美味しい紅茶を淹れてラベンダーのクッキーを食べたくなったのだと、ネアが説明してくれた。
「何だか素敵な記憶に繋がっているので、時々ですが、手繰り寄せて懐かしみたくもなるのですよ」
「うん。そういうことはあるよね。ネアにとってのラベンダーのクッキーは、どういうものなんだい?」
「クッキーではないのですが、ラベンダーの小さなサシェの思い出があります。…………何と、イブメリアの前の日の事でした」
「ありゃ。この季節じゃないんだね」
「でも、寒くなってくると思い出してしまうのですよ」
ネアが話してくれたのは、子供の頃の思い出であった。
こちらの世界に呼び落される直前は貧困に喘いでいたネアだったが、両親が共に働いていた幼い頃は、比較的裕福な家庭で育ったらしい。
一度に色々な物を買い揃えてしまえるのでと、リノアールのような複合商店に出掛けてゆくことも少なくなかったのだとか。
記憶の中のラベンダーの香りは、そんな複合商店の中の、洒落た手芸品などを売っている店のサシェだったのだそうだ。
布や刺繍糸などを売っている店だったが、それ以外にも、サシェやエプロン、小さなグラスや綺麗な絵付けのある小皿など、日常生活の中にそっと添えられるような品物も一緒に並んでいた。
幼いネアは、閉店間際のその店で、母親が刺繍糸と小さなイブメリア用の布のオーナメントを購入している横で、イブメリアのモチーフが刺繍された小さなサシェの山を見ていたらしい。
「どれも刺繍がとても素敵で、私はツリー……飾り木の刺繍のものが気に入っていたのですが、ラベンダーのサシェだったで、小さな子供にはまだ大人の香りでした。当時の私は、林檎の香りや苺の香りが好きだったので、縁取りのコットンのスカラップレースも可愛いのにと、諦めざるを得ませんでした」
「ありゃ、子供の頃はラベンダーの香りじゃなかったのかぁ…………」
「年齢によって、香りの好みが変わるのかもしれませんね。今でもあまりにも濃厚な花の香りは苦手ですが、ラベンダーや薔薇の香りは好きな香りになっていますし、果実の香りは大好きなままですが、香草類との組み合わせでもう少し複雑な香りになった方がより好みだったりします」
「成る程。人間にはそういう変化もあるんだね」
ある程度完成した状態で派生する魔物にはない変化なので、興味深い情報であった。
考えてみると確かに、子供用の味の料理や菓子があるのも、人間くらいのものだ。
妖精なども子供を大事にするが、子供用の料理をするという話は聞いた事がない。
葡萄酒の効いた菓子を食べて子供の妖精が酔っ払っても、それはそれでいいという気質なのだ。
(ああ、これはいい話を聞いたな)
ノアにとって、ネアは大事な女の子だ。
そんなネアが、こちらに呼び落されるまでの日々の中で、欲したものを何一つ得られずにずっと縮こまるようにして生きてきたのだとしたら、あまりにも悲しいではないか。
そうして選択肢を多く得られた温かな時代もあったのだと知り、少なからずほっとしてしまう。
魔物という生き物は大抵が狭量なので、そちら側に安堵や喜びがあったのだと考える事で不愉快になる者もいるだろう。
もしかするとアルテアなどは、そちら側であるかもしれない。
けれどもノアは、こちらに来る迄だって、向こうに戻りたいというような執着にさえならなければ、少しでも多く幸せを得ていて欲しかったと思ってしまうのだ。
(いや、僕だって勿論、向こう側にネアを引き留める誰かがいたら、容赦なく排除するけどね…………)
大事な家族を他の者に渡す事は出来ないので当然そうなるが、この手からネアを奪わないだけの幸福や安堵であれば、どれだけあっても足りないというのがノアの持論である。
欲しいものが手に入らない孤独やもどかしさは、胸がひび割れるような苦しみを伴う。
そんな思いを、大事な人にさせたいとは思わない。
「…………肌寒くなってくると、あの日のラベンダーの香りを思い出すのです。美味しいお菓子や直接的な祝祭の楽しい記憶とは結び付いていないのですが、どうしてだか、ふと思い出す事が多い日なのですよ」
「きっとさ、ネアにとってはその記憶が、何でもない幸福な時間のものだったんだんだろうね」
「…………そうかもしれません。あの日に母が買ったオーナメントも、布の部分の色がすっかり褪せてしまっても、ずっと私の宝物でした。…………だから多分、私はどんなに貧しくても、パンを我慢してオーナメントを買う事があったのでしょう。記憶の底にある幸福な時間の面影を引き寄せるのに、そのようなものが必要になってしまったのかもしれませんね」
薄く微笑んだネアの眼差しに、今度は遠い苦痛や孤独の影が過ぎる。
けれども、思わずその手を取ってしまうと、こちらを見て微笑んだのはいつものネアだった。
チェスカのラベンダー畑で出会ったネアとも違う、寄る辺ない孤独を持たない、家族になった大事な女の子の温かく幸せそうな眼差しだ。
「もう二度と、僕の妹がパンも買えないような暮らしをする必要はないけれど、今年のイブメリアは、お兄ちゃんが何か素敵なオーナメントを買ってあげようかな。ほら、毎年、色々と売り出すからさ」
「…………ほわ。ウィームの磁器工房の、限定オーナメントでもいいのですか?」
「うん。勿論だよ。今年の新作のものって、もう発表されてたっけ?」
「むむ。そろそろの筈なのですが、まだのようです。昨年は、限定のリースの形のものが買えないまま終わりました…………」
「あ、シルもがっかりしていたやつだよね。ネアの会からこっそり回ってこなかったってことは、相当、激戦だったんだろうなぁ」
「会などないのですよ…………」
ネアのお気に入りの磁器工房だけでなく、ウィームの有名な硝子工房などでも、毎年新作のオーナメントが売り出される。
これらの品には収集家が多いので、人気が集中してしまった限定品の完売は領民でも買い逃す程に早い。
とは言え、王様ガレットの完売の早さを思えば、そんなウィーム領民を他領の買い物客が出し抜くのは困難な筈なので、領民内での熾烈な買い物競争が行われているのだろう。
また、そのような一部の限定品以外のオーナメントは、観光客がウィームの土産物として好んで買ってゆくものだ。
やはりウィームは、イブメリアに訪れてこそという者達も多いのだと思う。
「昨年は水色だったから、今年は淡いピンク色とかかな」
「…………む。ピンク色と白の組み合わせも素敵ですが、水色だといいなと思います…………」
「セージグリーンだったこともあるみたいだけど、ウィームの場合は飾り木が白緑色系の枝葉だから、目立たないって事であまり人気がなかったんだよね」
「他の領地では、もっと緑の色が強い飾り木が多いですものね」
「うん。ウィームの場合は祝祭の祝福で結晶化が進んだり、使われる樹木の階位が上がったりする事で、枝葉の色が白がかるんだよね。街中の飾り木の色も、イブメリアが近くなると淡くなってくるし」
「まぁ。それは気付いていませんでした………!」
「この土地が、イブメリアの直轄地だってことも関係しているみたいだよ。………じゃあ、今年おオーナメントの色がピンクだったら、他の工房のものにするかい?」
「ぐぬ。…………もしかすると、ピンクでも素敵なものが登場するかもしれないので、一度見てみます…………」
そう言いながらも、どこか躊躇うように言葉を揺らがせたネアに、そこまでしっかりとした買い方をするのには、多少の躊躇いがあるのだなと気付いた。
どうしてかと問えば、贈り物だからだと答えるだろう。
そしてノア自身もきっと、ヒルドやエーダリアとこんなやり取りをすれば、同じような躊躇いを覚えるに違いない。
(ほんと、僕達は変な所が似ているんだよなぁ…………)
「遠慮しなくていいから、一番好きなものを買うようにしようか。僕は、大事な女の事祝祭のオーナメントを買いに行けるだけで楽しいからさ」
「…………オーナメントを買って貰えるだけで嬉しいですし、どんなオーナメントでもノアがくれたら宝物の一つになるのに、それでもいいのですか?」
「うんうん。僕もきっと、ネアと同じところで少し躊躇うよ。だからさ、僕には一番欲しいオーナメントを強請ってくれていいんだからね。ほら、お兄ちゃんだしね」
「ふぁ。で、では、限定の品物が発表されてから、これぞというオーナメントを選びますね!」
「うん。……………あ、念の為に二番目迄の候補を選んでくれるかい?…………君の会ですら買えないオーナメントがあったんだとすると、僕でもちょっと危ないかもだからさ」
「会などありません…………」
こぽこぽと音を立てて、紅茶をカップに注ぐ。
今日のポットに入っていた紅茶は、雨音と秋霧の紅茶であった。
ネアが金庫から取り出したのは、いつかのザルツの店のものと似た商品を探して、運河沿いの店で見付けたというラベンダーのクッキーだ。
こちらは少し堅めだが、それでもほろりとした甘さが美味しいのだと教えてくれる。
「なお、そのお店のラベンダーのクッキーは二種類あって、一番味わいが淡白なこちらのクッキーは、こうして生クリームを絞り載せて食べるがお勧めなのだとか」
「ありゃ。豪華になったぞ…………」
「因みに、この食べ方をする場合は、同じお店の檸檬のクッキーでも美味しいので、是非試してみて下さいね」
「うん。ネアのお勧めなら、絶対に試してみないとね」
温かな紅茶を飲み、白い皿の上に並んだクッキーを手に取る。
まずはそれだけで食べられる方のクッキーにしたのだが、こちらは薄焼きでかりりとしたものだ。
ザルツのものより甘みが強く、だが薄焼きなのでかりかりと食べれてしまう。
ラベンダーの香りに重なるのは紅茶の風味だろうか。
そして、ネアが生クリームを絞り載せてくれた方のクッキーは、堅焼きの長方形で少し大きめのものだ。
単体で菓子として食べる事も出来るし、何かに添えたり、チーズや燻製鮭と合わせてもいいのだろう。
「……………あ。僕はこっちの方が好きかな。クッキーとしては素朴な味わいだね。でもクリームを載せると、紅茶にぴったりだ」
「ふふ。私も実は、こちらがお勧めなのです!なお、何もつけないままの時は、紅茶をメランジェやミルクティーにするといいのですよ」
温かな紅茶の湯気に、ほろりと甘いラベンダーのクッキーを齧る。
雨音が音楽のように響き、その中でネアと色々なお喋りをした。
いつかの夜に、香草や花や果実を使って作る石鹸の香りに包まれ、二人で色々な話したことがある。
ノアにとっては、何度も思い出した特別な夜で、それは今でも変わらなかった。
(僕はあの日、君が手に取って見ていた青林檎とパチュリとラベンダーの香りの石鹸や、葡萄酒の香りの石鹸が、ずっとお気に入りだった)
男性向けとしては甘い香りなので、よく揶揄われたものだ。
その組み合わせの商品に出会えない時期が続き、依頼して工房で作って貰った事もある。
(ラベンダー畑と、君と分け合って食べたパテ。あの日も雨を降っていて、二人でホットミルクを飲んだんだ)
もうきっと、あの日よりも幸せな夜は幾つもあった。
けれどもあの日を何度も思い出し、その香りや雨音は記憶に残り続けるのだろう。
「ねぇ、ホットミルクを作ろうかなと思うんだけど、一緒に飲むかい?」
「飲みます!…………ノアと出会った日に飲んだホットミルクを、今でも思い出して飲みたくなったりするのですよ。なので、スケート場で飲むホットミルクが、大好きなんです」
「……………え、結婚しよう」
「もうノアとは兄妹なので、やめておきましょうね」
「ありゃ。ふられたぞ………」
白いマグカップに作ったホットミルクが、湯気を立てている。
窓の向こうは雨に濡れる秋の庭があって、軒下では、拾ってきた落ち葉を乾かしている鼠姿の妖精達がいた。
(……………ああ、幸せな日だな)
きっと、今日の事もどこかで思い出すのだろうか。
その時はきっと、ラベンダーのクッキーも大事な思い出の味になっているに違いない。
明日10/18の更新はお休みとなります。
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