ダレックの舞踏会と仮面の魔物 1
狂ったように王宮や離宮を模した建物が造られ、毎夜舞踏会が催される不思議が街がある。
ダレックという名前のその街は、かつては王侯貴族も移り住む程に栄えた交易路の中継の土地であったが、死の精霊の呪いを受けて現在の舞踏会の街になったらしい。
あまりの享楽ぶりにゴーモントという古い土地を思い浮かべる者も少なからずいたそうだが、どちらかと言えばこの土地で目に付くのは、やはり呪いの暗い影であった。
そしてそんな街の街角に停められた一台の馬車の中には、今宵は、世にも美しい魔物達が集まっている。
「舞踏会を開く建物ごとに、呪いの種類が分かれているんだ。君がダンスを踊るのは、毒を司る離宮の一つだね。………とても不愉快な事だけれど、何かを飲むか食べる必要がある。…………守護があるので大きな影響はない筈だけれど、少しでも不調を感じたらすぐにアルテアに言うように」
「はい。もし、困ったものが現れたら、踏み滅ぼしてもいいところですか?」
「…………いや、このような土地には望まない縁もあるだろう。同伴者の障りを引き受けないように、あまり目立った行動は取らない方がいい」
「むむ、アルテアさんの………」
「その目をやめろ。………階位を下げて認知させている名前の一つだ。面倒な連中がいないとも限らないのは確かだな」
「今回は、私が行くと土地の魔術を混濁させてしまうからここで待っているけれど、それでも、君を怖がらせるようなことがあれば、すぐに私を呼ぶんだよ」
漆黒のコートを羽織った魔物にそう言われ、ネアはこくりと頷いた。
いつも装いと言えば白の系統であったディノが、魔物としての訪問で漆黒の盛装姿でいるのは珍しい。
王族や貴族であると知れるような漆黒の服に真珠色の長い三つ編みが思いがけず似合い、ネアはふと、雪降るサン・クレイドルブルグで共にリストランテに出掛けた相棒との時間を思った。
(でも、今日の私の装いはドレスなのだわ…………)
動き易く自分の身を守り易い装いではなく、いざという時にずしりと重い舞踏会用のドレスだ。
今日のドレスは漆黒で、幅広く取った襟元には、精緻な灰雨色の刺繍が施されている。
この日の為に用意された黒いサテンと真珠飾りの靴には戦闘靴の仕様が遠隔付与されており、長い髪は綺麗に結い上げられ、ヒルドから貰った耳飾りを黒色に擬態してつけていた。
「擬態の色は、ドレスに合わせた方がいいだろうな。黒髪に青い瞳あたりだろう」
「ふむ。少しきりりとした感じですね。そして、アルテアさんが伴っていてもおかしくない、お好みの女性の雰囲気のようです」
ネアがそう言えば、本日のパートナーがなぜか暗い目でこちらを見る。
おでこを指先でびしりと弾かれ、ネアは慌てて威嚇した。
「妙な勘繰りをして踏み込むなと、何度も言った筈だぞ。……それと、あの中で珍獣扱いを受けたくなければ、その唸り声は隠しておけ」
「……………考えたんだが、黒髪はやめておいた方がいいだろう。仮面の魔物が、本来は何を司るのかを知っている者がいないとも限らない。そうして中途半端な情報を得ている者達がいた場合、君が黒髪の女性を連れていると、君だからこその意味を探られかねないぞ」
そう言ったのは、少し考え込むような仕草を見せたグレアムだった。
僅かに目を細めた後に、アルテアも頷く。
「それなら、淡い金髪だな。瞳の色は予定より暗くする」
「ああ。それなら、問題ないだろう」
そんな会話に、ネアは小さく息を詰めたが何も言わなかった。
隣に座っているディノが繋いでいる手をぎゅっと握ってくれたのは、ネアハーレイという人間が持っていた色彩を知っているからだろう。
(プリンセスラインの、黒いシンプルなドレス。……………雨音と夜と音楽と、)
奇しくも、外では静かな雨が降っている。
あの日の装いはドレスというよりはワンピースだったが、そんな偶然の一致を少しだけ考え、今日は煙草を嗜むらしくシガレットケースを調べている使い魔をじっと見つめた。
幸いにもこちらは黒髪の擬態であるようなので、そこまでの既視感はない。
なぜ、馬車まで同行してくれたグレアムが黒髪の女性ではまずいと止めたのかは知らないが、何か、深読みをされると面倒な色揃えなのだろうか。
訊いてもいいのだろうかと考え、ちらりとグレアムの方を見てみると、気付いてこちらを見た夢見るような瞳の犠牲の魔物は、白灰色の正装姿であった。
「ネア?何か心配事があるか?」
「お話出来ればでいいのですが、黒髪の擬態だと何かまずいのですか?」
「二月程前に、この離宮で王族位の夜闇の竜が殺されたんだ。ただの一族内での派閥争いの顛末なのだが、今夜は、偶然にもその時に同席した者達も何人か招かれているからな。同じ黒髪に青い瞳の女性を伴い、何かを示唆されているという懸念を持たせる事自体が面倒だろう。……………この毒の離宮で、君とアルテアが何曲かダンスを踊る事だけが、我々の目的である以上は尚更に」
「という事は、アルテアさんは、その懸念を与えかねない程度には、あまりこの街には来ないのですね」
「そうそうないな。表立って動けば、舞踏会程度しか楽しみがない土地だ。この街で舞踏会に参加して得られる祝福は俺には不要なものだし、となれば個人的な時間を過ごす程の魅力もない」
滅多に選択の魔物が現れない土地に、何かと暗躍しがちな魔物が、ここで亡くなったという夜闇の竜を彷彿とさせる黒髪の女性を伴って現れれば確かに憶測を呼びかねない。
ふた月前の事ではあるが、人外者達の感覚ではまだつい最近のことという感じでもあるのだろう。
アルテアが仮面の魔物として使っている擬態を纏うにせよ、それが選択の魔物だと気付いている者が偶然にでも紛れていれば、何か特別な目的を以って滞在しているのではないかという疑念を呼びかねないという懸念も、尤もであった。
(だからこそ、この離宮と結び付けられないような色合わせでなければいけなかったんだわ………)
あの短い会話で、そこ迄を考えた上でネアの擬態を絞り込んだグレアムに舌を巻く思いだが、便利な筈の本来の階位ですら足枷になるのだと知るのは、新鮮な見方であった。
今宵の訪問地は、人外者の社交場である。
ネアが何度か足を運んだ事のある季節の舞踏会とは違い、様々な系譜の階位や種族を違えた者達が集まり、特別な目的を持たずに享楽的で退廃的な夜を賑やかに過ごす場所。
各施設ごとの担当者はこの街に暮らす人間や妖精達なのだが、高位のお客を宥め、催される舞踏会の進行や規制を支えるにはいささか立場が弱い。
完璧な礼節や決まり事などないと思って、危険なことに巻き込まれないように注意を怠らず参加せねばならないものであった。
そんな場所にわざわざダンスをしに行くのは、今夜のネアが、まだ生まれ直していない術式へを警戒し、耐性をつけておかねばならないからだ。
(体の中を通す魔術を、毒に変える祝福)
そんな固有魔術を、生まれたばかりの子供への祝福として授けたのは、植物の系譜の妖精だったという。
その子供がカルウィの王子であった為に、苛烈な継承争いの中でも、自らの体一つで毒の魔術を自在に扱えれば楽だろうという与えられたのだが、そこには大きな盲点があった。
人間は、自らの体の中で魔術を育めない種族なので、その体には外部から引き込んだ魔術を通す為だけの魔術器官しか持ち得ない。
それは即ち、体の中の一部の魔術のみを必要なものに割り振るという選別が行えず、与えられた祝福が、魔術を扱う度に望まぬ毒を取り込まされる災いになるという事だった。
(その固有魔術の危うさに気付いたウィーム派の方が、祝福を贈った妖精をその場で殺し、他の王族からの呪いを付与されたらしいというように情報を操作してくれたけれど、もしそんな祝福が、扱う魔術量が多い魔術師にでも付与されたら、命取りになる)
祝福の形を取り、権能として与えられる贈り物なのだ。
また、固有魔術として授けられる事で、豊穣の魔術系譜を帯びるようにもなる。
それはつまり、公的な立場にある者達が最も危険に晒される瞬間、全ての贈与を退けられない祝い事の場でに於いて、悪意に気付かせずに忍び込ませやすい形をした、標的を自死させられる贈り物が作れるという事であった。
(今迄は、ここまで明らかに付与された者を損なうような贈り物は、祝福として機能すると思われていなかったのだそうだ)
誰もがその危険性を理解し易いからこそ、誰も贈り物にしなかった。
けれども、それが祝福のまま付与可能だと判明した今、全てが闇に葬られ、該当する魔術が持ち込まれないような誓約が交わされていても、そのようなものが存在し得るのだという前提の下で備えをしておくに越した事はない。
とは言え、その対策を公にすれば、そのような魔術があるのだと知らしめるばかりでもあるので、扱いにはかなりの慎重さが求められていた。
「今回の規制の外側で同じような事が起こった場合に備えて、ヴェルクレア内では、国王様とヴェンツェル様だけに情報が卸されて、どこかで密やかに手を打つのですよね?」
「恐らくは、祝祭の乾杯の酒などに、抵抗値を上げる為の魔術祝福を混ぜるような手法を取るのだろう。情報を共有する者を減らす為には、個人的な振舞いにするしかない筈だ。……………さて、そろそろ時間だね」
「むむ。真夜中になりそうです」
「私とグレアムはここで待っているから、気を付けて行っておいで」
「はい!大事な祝福を貰ってきますね」
「アルテア、この子を頼むよ」
「ああ。…………飲食物は全て、俺が渡したものだけにしろ。毒の量が少ない物を選ぶからな」
「では、アルテアさんにお任せしますね」
そのやり取りで苦々しい表情をするのは、アルテアだけではない。
ディノもグレアムも、わざわざ毒を取り込まねばならない事に対し、不快さを隠しもしていなかった。
(でも、体内を通す毒への抵抗値を高めるという意味では、この舞踏会の祝福程に向いたものはないという事だったから、今日は少し不安でも頑張らないと!)
先に馬車を降りたアルテアに手を預け、ゆっくりとタラップを降りる。
ひんやりとした秋の風から、どことも知れぬ僅かな舞踏会の喧噪が聞こえてきた。
今夜のアルテアの装いは漆黒の盛装で、真っ白なシャツとクラヴァットは、本来の階位でも擬態している仮面の魔物でも問題のない装いになる。
前髪は掻き上げてあり、色彩の擬態をかけても造作は変わらないままなので、実に怜悧な美しさだ。
「この街で開催されている舞踏会は、全部で七十八だ。階位の低い者達の為の小さな屋敷での開催も含め、その全てに特製や資質がある」
「この街が呪われた原因になる、儀式で用意された供物の通りなのですよね」
「ああ。ここに呪いを残したのはルグリューだからな。今となっては、解きようのない呪いだが」
ずっと昔に、この街が普通の都市として栄えていた頃。
天候の悪さから、疫病が蔓延した年があった。
その災いを鎮める為に街に暮らす人間や妖精達が話し合い、幾つもの供物を捧げて終焉の系譜の魔術の理を書き換えようとしたのだ。
勿論それは許されざる事であった。
そして、そのような儀式が行われる事を危ぶみ、死の精霊に伝手のある従妹に知らせようとした一人の仕立て妖精を捕らえ、生贄にしたのだ。
捕らえられた妖精の従姉であったシシィは、その頃はまだルグリューの恋人ではなかったが、それでも、事情を知ったルグリューには思うところがあったのだろう。
事態の顛末がシシィに届く事はなかったが、儀式を執り行い黙認した街の住人達は、死の精霊の王候補とされた者の呪いを受けた。
(儀式の供物になった物の数だけの壮麗な施設を造り、そこで毎夜、舞踏会を行う事。呪いが解けるその日まで、その役割から逃れる事は出来ない)
なぜ舞踏会なのかと言えば、ルグリューが街を訪れた際に、生贄を捧げる儀式を終えた人々が、それを祝う為の舞踏会を行っていたことに起因するらしい。
なのでそれを呪いの核とし、住人達は、毎夜、生贄にしてしまった仕立て妖精の鎮魂の為に、舞踏会を開かねばならなくなった。
「普通のお客様が来るようになったのは、その後の暫くしてからなのですよね?」
「ああ。人間と妖精が同時に呪いを受けた珍しい事例ではあったからな。あちこちで話題にはなっていた。その内に、娯楽場の一つとして使う者達が増え始め、今の形になっている」
「シシィさんは、もうご存知なのですか?」
「ん?ああ。俺が教えてやったからな」
「なぬ。………一番知りたくない方面からだったのでは」
「隠しておいてやる義理もないだろう。話題に上がったから話しただけだ」
思いがけない裏事情を知ってしまい、ネアは遠い目になった。
何となくだが、シシィは従妹の為に街一つを呪いに落としたルグリューの行為を、素直に喜ばないような気がしたのだ。
そうこうしている内に離宮の入り口にさしかかり、舞踏会のチケットを買う。
参加する為にチケットが必要なあたりが、まさしく娯楽場という感じなのだが、毎晩舞踏会を行うともなれば、チケット制にするのが一番楽なのだろう。
チケットはアルテアが買ってくれたのだが、安いと言える程には安価なものではなかった。
(ここが、………舞踏会の会場になるところ)
正面入り口に向かうアプローチに敷いてある深紅の絨毯を見下ろし、もう一度、離宮という区分で建てられた壮麗な会場を見上げる。
裕福な都市であったダレックには、裕福な貴族や妖精達も多く暮らしていたという。
呪いに取り込まれた者達が私財を投げ打って建てた離宮なので素晴らしいのは確かなのだが、供物の数だけ用意しなければならなかったからなのか、その全てが最高峰の水準を満たしている訳ではない。
一つの街の中に供物の数だけの建物を用意するばかりではなく、毎夜、舞踏会を開かねばならなかったのだから、初期費用はかなりのものだろう。
(だからなのかもしれないけれど、立派な離宮ではあっても、こちらで見てきた建物の中では、目を奪う程の壮麗さという程ではないかな)
そんな結論で観察を終え、隣の使い魔をそっと盗み見る。
ディノ達もそうであったが、ネアに備えを与える為にとは言え、あまり好ましくない手段なのだろう。
アルテアはまだ少し不機嫌で、赤紫色の瞳には凍えるような酷薄さが窺えた。
階段を上りきり、大きな扉を潜るとそこはもう会場の広間に向かう小広間となる。
コート類を預かるクロークや、煙草を楽しむ男達の為の休憩室などへの入り口が用意され、大きなシャンデリアが一つ、高い天井から吊り下げられていた。
「…………面倒な客がいるな」
「問題のある方なのですか?」
「ダリアの妖精の一人だ。赤い羽だから用心しろよ」
「むむ。赤い羽の妖精さん………」
そんなやり取りをしながら会場に入ると、足を踏み入れた瞬間から、不思議な圧迫感があった。
馨しい香りに包まれているのだが、瑞々しさや清々しさがなく、どことなく空気が重い。
広間には窓がないようで、大きな半円形の天井の造りは、聖堂や寺院のようだ。
暗い金色のモザイク画や足元の床石の見事な瑠璃色など、はっとするような美しさがある反面、こんなにも閉塞感があるのはなぜだろう。
(こう、………何かで靄がかるような…………)
「不思議な視界の悪さがありますね」
「香気として毒を用いる舞踏会だからだ。呼吸周りは守護で弾けるが、蝶を連れている者や、生花の飾りをつけている客は毒の系譜の者が多いから、絶対に近付くなよ」
「…………だから、こんなに空気が重いのですね」
大広間は、入り口の小広間から階段で半地下に下りるような、独特の造りであった。
毒の香りを外に出さない為の工夫であるらしく、窓がないのもその為なのだそうだ。
会場のあちこちには鮮やかな赤や紫の花が飾られ、強い色だが成る程という美しさもある。
ネア達は漆黒の装いであったが、別にドレスコードではないようで、鮮やかな金糸のドレスや赤い天鵞絨のドレスなど、悪夢の中のカーニヴァルめいた色が揺れ舞う。
ネア達が広間に入ると、ちらちらとこちらを見ているお客は少なくなく、横を通れば深々とお辞儀をする者達もいた。
美しいご婦人達に、どこか仄暗い眼差しの紳士達。
仮面舞踏会のような仮面をかけている者もいれば、惜しげもなく素顔を晒している者もいる。
ぐるりと周囲を見回せば、聞いていた通りに人外者のお客が多いようだ。
(………星屑の形をした、きらきらと光るライト)
思い出すのは、そんな下り階段だ。
ここでは煙草の煙ではないが僅かに霞むような空気と、重く切ないピアノの音が記憶に重なる。
それは確かに特別な記憶の一つであったが、まさかこんなところで思い出されるとも思っておらず、ネアは、ずっと昔の秋の日の記憶を丁寧に心の端に寄せた。
元々の緊張もあるのだろうが、心の端が小さく強張るような何とも言えない感じがしたのだ。
「ネア」
名前を呼ばれて顔を上げると、アルテアが心内の読めない眼差しでこちらを見ている。
「………む」
「会場の空気に呑まれるなよ。………何か、記憶に紐づくものがあるのなら、俺の手は放さないようにしろ」
「…………ええ。そうしますね。…………ここは、建物の内装などはまるで違うのに、私が、ずっと昔に出掛けて行ったことのある、夜の社交場に空気が似ているのです」
隠す事でもないのでそう言えば、こちらを見ているアルテアの表情が、僅かに鋭くなっただろうか。
おや、少しばかり森の獣な眼差しだぞと眉を持ち上げると、こちらの反応に更に顔を顰めた。
「毒には、幻惑などの効果もある。…………その系譜の連中もいるという事は、それらの固有魔術を持つ者が多いということだ」
「では、アルテアさんの手は、確かに離さない方が良さそうですね」
「三曲で充分だろう。…………まずは、飲み物だな」
「…………飲み物」
「食べ物よりも、飲み込みやすいだろ」
給仕を呼び止めたアルテアは、会場にあるお酒ではなく、何かを注文したようだ。
短く頷き立ち去ってゆく給仕は、死の精霊の呪いを受けた人間の一人なのだろう。
整った面立ちではあるものの、表情が抜け落ち人形のように見える。
そして、最初のお客が来たのは、ネア達が会場の入り口付近で、飲み物を頼んだ給仕の戻りを待っている時の事だった。
「アージュ。久し振りね!折角来たのなら、私とも踊って頂戴。今夜はとてもいい気分なの」
誰かが踊るような軽やかな足取りで近付いてくると、薄布を重ねたような美しいドレスがひらひらと揺れる。
重さを感じないドレスだが軽薄な感じはせず、ネアは少しだけバレエ衣装のようだと思ってしまった。
(…………綺麗な女性だわ。暗い赤茶色の髪に、鮮やかな赤い瞳。アルテアさんの瞳の色に似ているけれど、もっと橙寄りの赤色かな)
だが、背中の赤い羽を見て、警戒されていた妖精なのだろうなとひやりとする。
選択の魔物に面倒な客だとい言われるくらいなのだから、それなりの厄介さがあるに違いない。
「用事の合間に立ち寄っただけだ。お前と踊る暇はない」
「でも、同伴者がいるのだもの。ダンスは踊るのでしょう?」
「でなければ、舞踏会には来ないだろうな」
「困った人ねぇ。では、そんな女は首をへし折って控室にでも捨てて来て頂戴。それとも、私の可愛い信奉者達にあげてしまう?………今夜は、私を優先した方がきっと楽しいわよ」
(こういうところかな…………)
歌うようにさらりととんでもない提案をした妖精は、当然のことだがネアの方は一瞥もしない。
取るに足らない障害物くらいにしか思っていないのだろうし、要求が通ると信じているような声音には、積み上げてきた自信が窺えた。
厄介だとされるのはこういうところかなとすぐに教えてくれるのだから、とても分かりやすいご婦人だ。
(ダリアの妖精さん…………)
幾つもある氏族の中でも、殊更に扱い難いダリアなのだと言うからには、気質の違うダリアもいるのだろう。
自分の庭で育てる程に好きだった訳ではないのだが、前の世界で暮らしていた頃に、駅から家までの帰り道に、いつも美しいダリアの花を咲かせている屋敷があった。
ネアは、その屋敷の前を通るのを楽しみにしていたので、何となくだが、この花を悪い印象ばかりにはしたくないなという思いがある。
幾つかの種類の一つだと聞いていたのを思い出し、少しだけほっとしてしまった。
「俺の過ごし方に、口出しをされる覚えはないが」
「私を大事にした方が、いいと思うけれど。あなただって、仕事ばかりをしては息が詰まってしまうでしょう?きっと私が必要になるわよ」
「自分に必要なものは自分で揃えられる。少なくとも、お前はその中には入っていないな」
「……………この子は、陽光の系譜?それとも、夏の系譜かしら。瞳の色からすると星や月という感じはしないものね。いいドレスを着てはいるけれど、何て貧弱な女なの。瞳にも羽にも光の入らない、ただの人間だなんて」
このようなところで悪口を言われるのには慣れていたし、こちらは大人なので、ネアは、見ず知らずの女性からの一方的な評価ごときで気分を害したりはしないつもりだ。
とは言え、貶されるばかりでもむしゃくしゃするので、さり気なくヒルドから貰った耳飾りの方を見せつけてみたが、そもそもこちらにあまり興味がないせいか、気付いては貰えなかった。
「だとすれば、今のお前はそれにも劣るんだろうよ。いつまでここに留まるつもりだ?お前を相手にしている暇はないと言ったつもりだったが」
「あら、という事はもしかして、その人間は新しい玩具なのかしら。あなたはいつも、すぐに壊して捨ててしまうのですもの。…………なぁんだ。ただの使い捨てじゃない」
ここで、先程の給仕が戻ってきて、アルテアがシュプリグラスを受け取ってくれる。
そのまま歩き出したので、ダリアの妖精は置き去りにしてゆく作戦なのだろう。
幸い追いかけては来ないようだったが、ネアは、どんとわざとぶつかられて渋面になった。
一瞬ひやりとしたが、エスコートをしてくれている魔物の手にあるグラスからシュプリが零れる事はなかったので、知らんぷりをする事にした。
(………ディノが、アルテアさんが同伴者になることを心配してくれていたのは、あの女性のような人がいるからなのだろう)
選択の魔物としての訪問ではない以上、先程の妖精のような知り合いは避けられないのだろう。
深々と溜息を吐き、踊る前からの疲労感を覚えながら会場の少し奥に進むと、良い場所を見つけたのか、足を止めたアルテアがグラスの一つに口を付ける。
何かを確認したようで、そのグラスを渡された。
「………飲む必要があるから持ってこさせたが、二口以上は飲むなよ」
「そんなに強い毒なのですか?」
「この広間に集まる連中にとっては、スパイス程度のものだがな。それを飲んだ後、体調に問題がなければダンスに向かう。以降は、喉が渇いた場合は俺に言え」
「はい。そうしますね。……………むむ」
話をしながら、シュプリグラスをネアが手をかけている方の手に持ち替え、体を屈めたアルテアが、先程のダリアの妖精にぶつかられたあたりを片手で払ってくれた。
「もしや、何かつけられていました?」
「言っただろう。面倒な奴だと。…………階位が低いせいで、お前の守護層以上に浸食は出来ていなかったが、悪夢を見るような呪いの添付だな」
「まぁ。…………帰り際に、グラスを投げつけておきます?」
「やめろ。騒ぎを起こすなと言われなかったか?」
「私の睡眠を損なおうとしたのですから、そのくらいの報復は受けるべきなのでは…………」
唸るのはやめてそう言えば、こちらを見ていた魔物がはっとするような酷薄な微笑みを浮かべた。
だが、それが、小さな事で腹を立てる愚かな人間を笑ったものなのか、仮面の魔物としての擬態の上ではあれ、高位の魔物を煩わせた妖精に向けたものなのかは分からない。
ただ、ひやりとするような美貌は毒の舞踏会に相応しい淫靡さで、周囲にいた参加者達の目を惹いているのは間違いなかった。
(さて。飲んでしまわないとだわ)
少しだけ心の準備をしてから、ネアはそんな魔物の腕に手をかけたまま、毒入りのシュプリを一口飲んだ。
強い甘さがあり、ネアが好む甘いシュプリや葡萄酒に比べると、喉に残るような尖った甘さは、お世辞にも美味しいと言えるものではなかった。
思わず眉を顰めてしまったが、毒のせいではないと伝える為に、静かな目でこちらを見ていたアルテアには首を横に振っておく。
「…………何か、変化はないか?」
いつもの如才なく会話を運ぶ魔物らしくなく、ネアがシュプリを飲んでから暫くの間、アルテアは無言であった。
ネア自身も、毒の効果を冷静に見定める為に無言でいたので、ややあってそう尋ねられてからあらためて視線をアルテアに戻す。
「ええ。緊張のせいかもしれませんが、少し、胸か、呼吸が重たいような感じはしますが、その程度でしょうか」
「……………それなら、もう一口飲んでおけ」
「はい。そうしますね」
こくりと、もう一口シュプリを飲んだ。
喉の奥が熱くなるような感覚はあるが、これはどちらかと言えば強いお酒を飲んだ反応に近い。
強過ぎる甘さに慣れないまま、眉をまた寄せると、手に持っていたグラスをひょいとアルテアに取り上げられる。
しかし、すぐにそのグラスが手に戻された。
「…………グラスが戻ってきました?」
「今度の中身はただの水だ。口直しが必要なら、飲んでおけ」
「お水!」
細やかな気遣いに感謝し、ネアは中身を入れ替えて貰ったグラスから、冷たい水をごくごくと飲んだ。
先程のシュプリがあんまりだったせいか、ただの水なのにこの上なく美味しく感じる。
ふと気になって見上げると、アルテアのグラスはいつの間にか空になっているようだ。
あのシュプリを飲み干したのだとすれば、魔物の口には合うのかもしれない。
(……………あ)
水を飲み終えグラスを給仕に戻してしまえば、その頃になって僅かな不調が現れた。
先程までは緊張のせいでもあるのかもしれないと考えていた胸の痛みが、薄い鈍痛のように体に響いているので、これは間違いなく毒の影響だろう。
僅かだが空気が薄くなったような息苦しさもあり、思わず指先で喉に触れてしまう。
「……………呼吸か?」
「ええ。少しだけですが。後は、僅かに胸の痛みがあります。……………ただ、どちらもかつての持病の症状とよく似ていますので、この程度であれば行動に支障はありません」
「……………お前は」
言いかけやめたアルテアは、何を言おうとしたのだろう。
そう言えば、あの持病を齎したのも毒を飲んだ事からだったと付け加えた方がいいのかなと考えていると、感情の窺えない目でこちらを見ていたアルテアが、すっと体を屈め、ネアの首元に口付けを一つ落とした。
「……………む」
こんな場所であるので、男女の振舞いとしては目立つ親密さではない。
だが、無言でそうされてしまうと、何とも言えないそわそわとした心地になるではないか。
とは言え、僅かに温度の低い唇が首筋に触れ、少しだけいつもより長く留められたのは、ただの口付けにみせかけて毒の中和などを行ってくれたからだろう。
今回の舞踏会の参加にあたり、ディノもとても嫌がっていたのだが、ネアはどうしてもこの会場で振舞われる毒を取り込む必要があった。
その影響の全てを排除してしまうと目当ての祝福が得られないので、予め、飲食に纏わる排他術式は、少しだけ守護を軽減した上で参加している。
「少し楽になったか?」
「……………まぁ。……………ええ。微かに残っている気もしますが、気にならないくらいになりました」
「全てを取り払うと、意味がないからな。最低限のものだけを残してある。ダンスを踊って、さっさと帰るぞ」
「はい。………そういえば、この舞踏会の音楽は、どちらかと言えば妖精さんの音楽に近いのですね」
「毒の舞踏会には、妖精の客が多いらしいからな」
そんなネアの問いかけに答えたのは、うんざりとしたような声であったが、ダンスの輪に入る際に背中に当てられた手は、しっかりと体を支えてくれた。
ほうっと息を吐き、ダンスが大好きな魔物でも早く帰りたいと思うような場所なのだなと、ネアは少しの申し訳なさを噛み締める。
ご主人様の備えの為に望ましくないような舞踏会に引っ張り出してしまったのだから、戻った後は、おかずパイでも頼んでおいた方がいいかもしれない。
そうして、最初にステップに爪先を預けた。