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静かな夜と雪灯りの酒




静かな静かな夜が訪れた。


ウィームのその夜には雪が降り続け、その雪が森の妖精達の囁きや、雪風の精霊達の歌声、そして魔物達のひそやかなくすくす笑いなどの全ての音を吸い込み、あたりはしんとする。



濃霧に包まれ鯨の声が聞こえていた一日だったが、霧が晴れると夜ははっとするほどに鮮やかな紫紺の夜空を湛えた。

その濃密な雫がひたひたと揺らめく頃に、また雪雲が空を覆い、真夜中の前に雪が降り始めたのだった。




「……………よきにはからえですが、まだ物足りません」




静かな浴室でそう呟いたネアに、天井についた水滴がちゃぽんと湯船に落ちてくる。


自室の浴室ではあるが、今日は、窓から雪の森に繋げるように、この贅沢な夜を一枚の絵として楽しみながらお湯に浸かっているので別の浴室のようだ。


いまいち心許なかったものの、この浴室の窓は、外側からは見えないように出来る。

ディノ曰く選択の魔術の一種が使われているそうなので、販売にはアルテアが噛んでいる品物なのかもしれない。



あまりにも静かで心がざわめく夜なので、ネアはゆっくりと暖かなお湯に浸かりながら、入浴剤を入れたお湯から立ち昇る、お伽の森の香りを楽しんでいた。




不思議な夜だ。




窓硝子に氷が張るぴきぴきという音まで聞こえてきそうなくらいに静かで、けれどもその静謐の向こうには、様々な生き物達が隠れているのだと感じられる、孤独ではない夜。


けれどもいつもとは何かが違うような気がして、胸がどきどきしてしまう。




(眠るのなんて以ての外。こんなに美しい夜なのだもの……………)




と言うことで、普段は入らない時間のお風呂などを楽しんでみたものの、まだ足りないという気持ちになってきたので、これはもう、真夜中のリーエンベルクお散歩ツアーでもするしかないと考え、ネアはにんまりした。



湯冷めしないように暖かな服に着替え、廊下灯も消されて雪明りだけが差し込む真っ暗な廊下を歩くのも素敵だろう。

誰もいない大広間で、くるりと回ってみる為に、スカートの裾がふわっとなるドレスを着てゆくのもありかもしれない。




「……………むぐ」




あれこれ考えると胸が高鳴り、ネアはざばんとお湯から出た。

さっとシャワーで体を流し、ほこほこした体に新婚女性らしからぬ着心地最優先の下着をつける。



これは極薄のカシミヤニットのようなえもいわれぬ手触りの織り布で作った高級品だが、本来は新婚の女性が着るというよりは、ご高齢の貴婦人向けの専門店のものだという。

しかし、リノアールでこのお店の寝間着を見付けてしまってから、ネアはこちらのお店の下着に夢中なのであった。




「……………すき」



とろふわの肌触りに思わずうっとりと呟いたところで、扉の向こうで魔物がばたーんと倒れる激しい音がした。


伴侶な魔物は、本日は巣で眠りたい日だったようで、一人ですやすやと寝ていると思って入浴していたが、気になって起き出してきて扉のところで聞き耳を立てていたらしい。


ネアは今の言葉はしっとりふわとろな下着向けであり、決して伴侶に向けた不意打ちではないのだと眉を寄せたが、気を取り直して寝間着を軽く羽織り浴室を出た。



ふりふりっと寝間着の裾が揺れる。



この寝間着は下着と同じお店のものではなく、結婚祝いとしてダリルから貰ったふりふりとしたネグリジェ的なデザインだが、かけられた着心地の魔術が堪らず手放せなくなった一品だ。


フランネルのような手触りで、下には柔らかなもふふわニット地のレギンス的なものがついているので、寝台でごろごろしていても捲れて気まずくなることはない。




「……………かわいい」



扉の外で何とか起き上がってからそう呟いた魔物は、この寝間着が大好きで、ふりふりとする裾が揺れるときゃっとなる。


加えて現在のディノは、先程の呟きを自分向けだと思っているので、目元を染めてちらちらとこちらを見てはもじもじしていた。



「……………ずるい」

「またずるいの使用法が、行方不明になっていますね?」

「…………巣に入るかい?」

「…………これから、夜のリーエンベルクお散歩ツアーに出かけるので、巣には入りません」

「…………逃げようとしているのかな」

「ディノも来ますか?」

「……………いいのかい?」

「ふふ、勿論ですよ。実は、私の我が儘なお散歩ですが、ディノが一緒だったら楽しいのになと思っていました」

「ご主人様!」



ぱっときらきらの微笑みを浮かべたディノは、えいっと伸び上がったネアに頬に口づけられてしまい、目元を染めて固まった。




「………………ネア」

「伴侶なディノと夜のリーエンベルクでお散歩だなんて、何だか素敵ですね」

「………………うん」

「湯冷めしないように上に羽織ってきますね。ディノは…………ガウンを着ているので大丈夫ですか?」

「……………うん」



口づけが落とされた頬を押さえて真っ赤になったまま固まっている魔物に微笑みかけ、ネアは室内着の中でもこんな夜に相応しいあたたかで素敵なものを選び出した。



今夜の装いは、夜空が滲むような濃紺の毛皮を持つ夜靄の獣が、ばりんと脱皮をする際に残される毛皮のものなのだが、手触りはふっくらと空気を含んだもふもふの糸を使ったセーターのようで、かしこまり過ぎない素敵な羽織りものになる。



実はこれは、ヨシュアがご迷惑をおかけしておりますと、イーザが手配してくれた商人がリーエンベルクに来てくれて、見せて貰った夜靄の獣の毛皮の中からネアとエーダリアがそれぞれ好きなものをいただいて、作ったものなのだ。


その際、ノアとディノにヒルド、グラストとお揃い用のものを欲しがったゼノーシュも買ったので、図らずもリーエンベルクの家族お揃いとなっている。


エーダリアは丈の短いフードつきの上着にし、ノアとヒルド、ディノはネアと同じような羽織る系の上着にした。

ゼノーシュとグラストは、冬用のコートの下に仕込めるかぶって着る系の上着にしたそうだ。



「それを着たのだね…………」

「ディノも着替えます?」



ディノは、ネアの羽織りものを見て自分もお揃いにするかどうかで迷っていたが、ネアが編んだガウンを着ているのでそれを脱ぐという選択肢はなかったらしい。

もぞもぞした後、このままでゆくのだと、きりっとする。




「では、この静かな夜を楽しむ会が始動します!」

「……………足踏みするのだね。かわいい」

「…………む。気持ちが抑え切れませんでした。なお、ご主人様を観察する会ではありませんよ?」

「……………そうなのかい?」



不思議そうに首を傾げる魔物の姿に、ネアは事前に伝えておいて良かったなと安堵した。

どうやらディノ的にはいつもとは違う時間に動いているご主人様を鑑賞する会として認識されていたようだ。




部屋を出ると、ひやりとした空気が頬に触れる。




多くの魔術が潤沢な地や、貴族や王族、裕福な商人の家では、屋内の気温は常に一定に保たれていることが多い。


けれどもこのリーエンベルクでは、ある程度の温度管理をしながらではあるが、季節を感じられるような温度を残してあるので、冬の夜になると窓辺はひんやりとする。

あえて震え上がるほど寒くしたままの場所もあるそうで、冬の系譜の魔術を好む道具達はその部屋に集めて冬の冷気に浸らせてやっているのだそうだ。



(そう思うと、エーダリア様の感性は、本当に私の好きなものに近いのだわ…………)




食事の嗜好やこのような季節の感じ方、実はこんなところまでという部分なら、好物の食べ方や休日の過ごし方、好きな匂いまでも。


元婚約者で上司なエーダリアとは、好きなものがよく似ていて、そんな近しさがネアのリーエンベルクでの暮らしを、今迄随分と助けてくれていた。



(知らない世界に呼び落とされても、毎日の食事がずっとこんなものを食べていたいなと思えるような美味しさだったから、その度に幸せを感じたし、今も毎日の食事はとっても楽しみだわ……………)



これが如何にも貴族のお屋敷のフルコースという料理ばかりで毎日続いてしまったなら、ネアは早々に胃をやられていただろう。


まさに王都で暮らしていた時代のエーダリアはそんな生活を送っていたようで、リーエンベルクの食事は、誰よりも彼自身の理想でもある。


王都のヴェルリア人仕様の食卓は、朝からどっしりこってりの上に、朝食の時間もかなり早いのだ。




さくさくと、静まり返った廊下には絨毯を踏む音が響く。

雪明りにはらはらと降る雪の影が廊下に落ち、滲むような夜の青さが宝石のようだ。



窓から落ちる雪明かりを踏めば、その瞬間だけ降り続ける雪の中に立っているような不思議な感覚に囚われる。



(静かで、安らかで美しくて、……………胸の奥底まで撫でられるみたいに優しい夜だ………………)



こんな風に夜が安らかになったのは、鯨達の出現の思わぬ恩恵であるらしい。

鯨の鳴き声をしばらく聞いていると、心や魔術が凪いでしまい、生き物達は巣穴から出ずにゆったりと家族で過ごしたくなるのだとか。


鯨は人間も食べてしまう怖い生き物なので、生き物達の心や土地の魔術を鎮めてしまって、自分達が動きやすくしているのかもしれないというが鯨には謎が多く、こんな作用については、まだ研究が進んでいない分野でもあるそうだ。




「この夜の静けさは、いつか二人で見に行ったダイヤモンドダストの夜や、あわいの列車で出かけた足湯を思い出しますね。…………美術館に飾られたあの雪原の絵も」

「鯨の静謐と呼ばれる夜には、芸術家達は必ず新しい作品を作ると言われている。あの絵は、そんな夜に描かれたものなのかもしれないよ」

「……………となると、こんな夜に作られた音楽もあったりするのでしょうか?」

「さて、ウィームはどうだろう。鯨避けに長けていてあまり鯨の被害を受けずに来た土地だから、あまり聞いたことはないかな。…………ただ、ロクマリアのあたりは度々鯨に襲われていたから、あちらの宮廷音楽には鯨の静謐を題材にしたものが幾つかあった筈だよ。イーザあたりなら、色々と知っているかもしれないね」

「確かに、霧雨の妖精さんのお城には沢山の芸術家さん達が暮らしていますものね………」



そんなお喋りをしていると、扉の開いた大広間の前に差し掛かった。




家事妖精達がきちんと戸締りをしている筈なので、ネア達の気配を感じて、広間が扉を開けてくれたのかもしれない。


このリーエンベルクは、後からここに住むようになった全くの部外者であるネアにも、時々こうして、あちこちの素晴らしい部屋を見せてくれるのだ。



実はこれは、それまではエーダリアだけに起きていた事象であるらしい。

おまけに、エーダリアは、誰にでもこのようになるのだとばかり思っていたのだそうだ。


リーエンベルクがその滞在や居住を喜んでいるから起きることだとネアに説明していたディノの言葉を聞いたエーダリアは、大広間の扉が開いていたり、誰もいない筈の廊下の向こうから美しい音楽が聞こえてくる理由を初めて知ったと言う。


この元王宮だった建物からの歓迎を知った夜のエーダリアは、何だか嬉しくて堪らず、あまりよく眠れなかったそうだ。




「ディノ、招いてくれているので、大広間に寄りましょう!」

「弾んでしまうのだね」

「……………ほわ、見て下さい!広間の一面に雪がはらはらと降る影が落ちていて、ただ雪明りの青白い光が照らしているだけなのが、なんて美しいのでしょう…………」



うっとりとその美しさを噛み締めているネアに、ディノも微笑む。


こうしてリーエンベルクの好意を大切に喜ぶからこそ、リーエンベルクに好かれているのだろうとノアから聞いたが、こんなに素敵なものを見せて貰えるのだから、はしゃいでしまうしかないではないか。



時折幻のように現れる、最盛期の頃の潤沢なお湯を湛えた大浴場も、夢の中や意識の端で出現を察知するのはエーダリアくらいのものだったらしい。

ネアの事例を踏まえれば、可動域が低いので魔術的な素養で察知出来る筈はなく、そうなるとやはり、リーエンベルクそのものが教えてくれている可能性が高いそうだ。



教えられて知るのだと理解してから、エーダリアも大浴場の出現には敏感になったのだとか。


無駄にしないようにとお湯に浸かれば、自分でも気付いていなかったような疲れが取れるので、最近は体のメンテナンスにも重宝しているらしい。




しんしんと降り積もる雪の影の中で、ネアはディノの手を掴んでくるりと回る。



ネグリジェのスカートの裾がふわりと広がり、こちらを見たディノの瞳を覗き込んで微笑めば、美しい水紺色の眼差しには、どこか男性的な満足の気配が落ちた。



(………………あ、)



吐息の温度を感じるような、微かな予感に胸が震え、そっと体を寄せられて唇に触れた温度に目を閉じる。



いつもは儚くて、すぐくしゃくしゃになる魔物だが、やはり長命老獪な魔物という生き物らしく、こんな時には世慣れた男性らしい無尽蔵さでネアを捕まえてしまう。


ぞくりとする程の色めかしさや、ひたりとこちらを覗き込む眼差しの鋭さに心が震えてしまうので、最近のネアはいつだって、慌てて目を閉じるのだった。




「………………っ」

「……………可愛いね」

「……………むぐ」



もう伴侶なのだからこれでいいのだけれど、あまりこの手の才能のないネアは、恥ずかしくなると頭突きで伴侶を倒して逃げ出したくなることもある。


けれどもそんな時はいつも、こちらを見て安堵と幸福感に瞳を潤ませるようなディノの姿に、頑張って踏み止まってその愛情を受け入れているのだ。



けれど、そっと伸ばされた指先が、きっと赤くなってしまっているに違いない頬に触れると、ネアはぼすんとディノの胸に顔を埋めてそれを隠してしまった。



「むぎゅ!」

「…………かわいい」



こんな雰囲気の時のディノは、あまり弱らず優雅なけだもののようにきっちりと取り分を持って行ってしまうのだが、今日はいささか飛び込みが強かったようで、また違う響きを纏い直して、魔物はご主人様と嬉しそうに呟いた。



最近判明した事だが、伴侶としての色めいた空気と、ディノとしてはネアが甘えていると思っているあれこれで発生するご主人様モードの時では、厳密な線引きがあるらしい。


残念なのは、ネアにはその線引きが全く分からないことだ。




「さて、お散歩に戻りましょうか。…………ディノ?」

「おや、他にも夜に誘われた者がいるようだね」

「他にも………………?」



雰囲気だけのダンスも楽しんだので、探検に戻ろうかと魔物の手を引っ張っていたところで、ネアはぴたりと立ち止まって広間の入り口を見つめたディノに、首を傾げた。




(誰か、私達のように夜のリーエンベルクを楽しんでいる人が、他にもいるのかしら…………)



そう思いながら入り口を見ていると、何やら丸い瓶とグラスのようなものを持ったエーダリアと、その足元でムギムギ弾んでいる銀狐が入ってきた。




「まぁ、エーダリア様……………」

「…………ネア」



エーダリアは、こちらに気付くとしまったという顔をしたが、なぜかとても早足で歩み寄って来て、ひどく真剣な顔で詰め寄ってくる。



「その、……………明日は執務が休みだからなのだが、ここに来ることは、ヒルドには言っていないのだ。真夜中に部屋を抜け出すと煩いからな。くれぐれも内密にしてくれ…………」

「その、………大変残念なことに、その件に関しては手遅れと言わざるを得ず……………」



ネアが悲しい声でそう伝えると、エーダリアはぎくりとしたように体を揺らした。

そろそろと振り返った先には、広間の扉にもたれかかるようにして立つヒルドの姿がある。



「…………………ヒルド」

「やれやれ、あなたという方は………」

「す、すまない。その、つい、こんな夜だからな…………」

「人の目が届かない夜間に部屋を出るのは、確かに気を付けていただきたいことですが、それはあくまでも安全上の問題です。明日は執務はありませんし、今晩のようにネイを連れていれば構いませんよ。ただし、私の部屋の近くをわざわざ気配を殺して歩いてゆけば、嫌でも気になります」

「…………………すまない」



かくりと項垂れたエーダリアを見ながら、ネアは納得した。


気配を殺して歩いてゆく誰かの気配には、きっとヒルドのような来歴の人物は敏感なのだろう。


追いかけてエーダリアだと気付いたものの、例え銀狐な塩の魔物が一緒でも、どこに行くかまでは見届けようとついてきてしまった、何とも過保護な妖精なのである。




「エーダリア様は、もしかして晩酌にいらっしゃったのですか?」

「…………ああ。珍しい雪灯りの酒を、アメリアからヒルドと一本ずつ貰ったのだ。どうも、森に住む雨降らしからの新年の祝いであったらしい。こんな夜にこそ、合うのではないかと思ってな」

「まぁ、ミカエルさんからいただきものなのですね。私とディノも、新年と結婚のお祝いにと、雪夜の祝福から育てたお花を貰ったんですよ。風がある夜は硝子のベルのような綺麗な音を立ててくれますし、新月の夜になると美味しい花蜜が取れるそうで、今から楽しみにしているんです」



甘露を授けるという祝福のある花なので、氷で出来た百合のような花から、なんと小さなコップ一杯くらいの花蜜が採取出来るという。

ネアは、薄めに焼いたパンケーキにかける予定だったので具体的に想像してしまい、思わずぐーっと鳴りそうなお腹を押さえた。




「ノアベルトは、……………ボールを持ってきたのだね……………」



エーダリアが手にお酒の瓶とグラスセットを持っているからか、銀狐はディノの足に、口に咥えた青いボールをぐいぐい押し付けているようだ。


悲しい目をしたディノが受け取って投げてやると、静けさが美しかった大広間の中を、お尻を落とすような大興奮時の独特の体勢で、しゃかしゃかと駆け去っていった。




「……………そうだな。せっかくだ、お前達も一杯付き合わないか?この酒であれば、ウィームの森で醸造されたものだから、巨人の系譜の要素もない」

「まぁ、そんな素敵なお酒を、いただいてしまってもいいのですか?」

「ああ。元々は、リーエンベルクの中での酒席で開けるつもりだったのだが、この夜を見ていたら我慢出来なくなった…………」




そんな告白に、ネアはどこか満足げにひっそりと微笑むヒルドの横顔を見る。

エーダリアからは見えない位置に立っているが、この妖精は、大事なエーダリアがこうして心を緩めて楽しみを得ていることが、嬉しくて堪らないに違いない。




「遅いお時間ですが、ヒルドさんもご一緒出来ますか?」

「ええ。では、私も呼ばれることにしましょう。滅多にない、鯨の静謐の夜ですからね」

「ふふ、何だか楽しくなってきましたね。この夜に沢山現れる夜鷺を狩りに行ってしまったアルテアさんも、お仕事で帰ってしまったウィリアムさんも居てくれれば良かったと思ってしまいますが、こんな風にリーエンベルクの家族で楽しむのも素敵ですね!」



ネアが微笑んでそう言えば、ボールを取って戻って来た銀狐が、尻尾をぶりぶりと振り回して弾んでみせた。

ヒルドも微笑み、エーダリアはたっぷりと黙り込んでから、心が解けるような幸せそうな微笑みをほろりと浮かべる。




「…………………ああ」




カチャリと音がして、エーダリアは、持って来た二つのグラスを魔術で増やしている。

ノアと二人で飲むつもりだったのかもしれないが、目下塩の魔物は、窓から床に落ちる雪の影を追いかけるので必死だ。



魔術で椅子を出す前に、大広間が椅子を用意してくれたようだ。


どこからともなく現れた小さな丸いテーブルと座り心地のいい優美な椅子に、ネアはまた嬉しくなってしまい、天井に向かってお礼を言ってみた。




その後、ネア達は雪明りだけのリーエンベルクの大広間で、ゆったりと雪灯りのお酒を飲んだ。




口の中でほわりと甘く香るお酒は、葡萄や麦のお酒とは少しだけ風味が違う。

水のように澄んだ液体はとぷりと揺れ、小さなグラスの中でひたひたと静かな夜の光を映す。




(お米のお酒のような風味かしら。…………でも、きりりと冷たくて、辛口だけど最後にほろりとした甘い風味が香りのように残るのがとても美味しい!)




何とも美味しい雪灯りのお酒は、森の奥深くに大雪の日に雪灯籠を作っておくと、その灯りに救われた生き物達の安堵が森の祝福となって、お酒になってこんこんと湧き出して小さな泉が出来るのだそうだ。


灯籠の根元の雪の上に湧き出すので、森の生き物達はこぞって瓶や壺を持って汲みにゆくらしい。


特別な銀の柄杓でしか汲めないが、祝福そのものを美味しくごくごくと飲めるので、行列が出来るという。




「なので、大雪の前の日には雪灯籠を作りに行く者が多い。とは言え、雪灯りの酒の泉が出来るのは、その中で最も助けになった灯籠の下だけなので、どこに湧いてくるのかは運次第だそうだ」



冬の森に住む者達の密かな楽しみの一つで、大雪の日の翌日になると、森で人ならざる者達の不思議な酒宴が見かけられるという伝承は、恐らくここから来ているのだろうとエーダリアは教えてくれた。





「……………いい夜ですねぇ」

「ああ、いい夜だな」

「……………ネイ、諦めなさい。それは影なので捕まえられませんよ」

「ノアベルトが………………」



しみじみほろりとお酒を飲むネアとエーダリアの傍らで、雪の影を捕まえられずにむしゃくしゃした銀狐は、床に仰向けになって手足をじたばたさせてムギーと鳴いている。


静かな夜の風情は壊れてしまうが、何だかこれがリーエンベルクの家族の夜という感じがして、ネアは素敵であたたかな夜をしっかりと堪能したのだった。










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