誕生日と三人の王子 4
ぴしゃんと、どこかで雫が落ちた。
青い闇の中で、先程までの整然とした佇まいが崩れた書庫の中は、先程見た金色の花びらの雨の香りが残っている。
「先程の魔術を使うので、金木犀の王子様なのです?」
「その命名は非公式だ。考えてもみろ、この年で花びら降らせて歩きたいと思うか?」
「でも、とても綺麗でした。花びらのように見えたのですが、結晶石の欠片だったのですね」
ネアは、先程の魔術が通り名の由縁だろうかと尋ねたのだが、なぜかリアッカが目を瞠る。
隣にいたエーダリアがはっと息を呑んだので、また何か的外れのことを言ったのだろうかと首を傾げた。
「…………お嬢さんは目がいいな。さては、漂流物対策が万全らしい」
「っ、………術式が見えないと思ったが、漂流物から構築した魔術だったのだな!」
「ん?………もしかして、エーダリア殿は気付いていなかったのか?………ウィーム水準ではなく?」
「リアッカ王子、ウィームでは王都よりも漂流物というものが一般的ではない」
「ヴェルリアは拾いたい放題だろ。それなのにか?」
「土地の質もあるのだろうが、我が国では漂流物周りの管理は国王が行なっているからな」
「ああ、……言われてみればあれだけどこにでも出没する奴がいれば、他の魔術師に検証させる必要はないのか」
そんな男達のやり取りをふんふんと聞きながら、ネアはこっそりと考える。
(リアッカ王子の降らせた金色の花びらは、………漂流物から作った魔術なのだわ)
そうなると、綺麗だなと思っていたがちょっと嫌だなと考えつつ、そういえば先程の竜は結局何だったんだろうと首を傾げた。
「ネア?」
「あの竜めは、ロクマリアの方で合っているのですか?」
「ああ。書庫守り、魔術書狂いの竜だと言われている。ウィームでも三年に渡って被害を出した事があるのだが、王族の一人が捕縛してウィームから追い出したという記録があった。ダリルの前任者だった書庫番の曽祖父だ」
「何というか、あの書庫におられる方はみんな凄いに違いないという気しかしません」
「竜を捕縛するにあたり、仕掛ける餌を担当したのはジッタの祖父だ」
「……あの竜さんは、人間しか食べないのでは?」
「ああ。だが、ジッタの祖父が作るパンには目がないとのことだった。………だから、お前が金庫に持っているに違いないジッタの薬草パンで懐柔出来るかと思ったのだが………」
何だパンも食べるのではないかという空気が漂い、ネア達はふうっと息を吐く。
リアッカの怪我はそれなりに深いものもあったが、本人が手持ちの傷薬で治してしまったのでやはり特等の魔術師なのだろう。
(そして、………多分、ヴェンツェル様はこの人をとても警戒しているような気がする)
何となくだがそう感じ、ネアは、いざという時はエーダリアを守らねばならないとふんすと胸を張った。
ヴェンツェルはニケ王子と親しくしているので、こちらには入らないようなカルウィの王子達の情報が入るのだろう。
(……………美しい人だわ)
あの金木犀の雨のような不思議な魔術の中で、ネアは、カルウィの第七王子がこの上なく美しく見えた。
ぞくりとするような美貌には疲弊の翳りはなく、確かに見目ではエーダリアやヴェンツェルよりは年長者に見えるが、年齢がその美貌を損なうようには見えなかった。
金色の雨の中で細めた金色の瞳と、ネアの見知ったヴェルクレアの民よりも濃いミルクティー色の肌。
そして髪飾りが解けて長く揺れた、淡い水色の髪。
それはまるで、物語の中の人ならざるもののような、息を呑む程の美しさだったのだ。
「……………ん?どうした、お嬢さん」
「リアッカ王子の髪の毛は、長かったのですね」
「ああ。普段は、結い上げて飾り帯でまとめているからな。カルウィの王族はこのくらいの長さが多いぞ。いざという時、贄になる」
さらりとそんな事を言うリアッカに、ぴくりとエーダリアが肩を揺らした。
「……………髪食いをさせるのだな」
「はは、そう怖い顔をしなさんな。髪と共に多少の魂や運命をくれてやっても、その場を切り抜けた方が余程幸せなのが、うちの国だからなぁ」
如実に表情が強張ったエーダリアに、リアッカ王子がへらりと笑った。
どこからか取り出した新しい飾り帯で、器用にもう一度髪を結い上げている。
ネアには上手く言えないが、そうして髪を上げると、ひどく親密な姿を見ているような背徳感が消えた。
警戒心なくくしゃっと笑う表情は穏やかであるし、とは言え老獪さも隠しはしない。
「……………なんだ。観察はお終いか?」
じっと見つめ過ぎてしまったのか、視線に気付いたようにリアッカが顔を上げる。
その瞬間の光を孕むような金色の瞳に、ネアは小さく息を呑んだ。
「リアッカ王子、彼女はウィームから出る事が少ない。カルウィの民を見慣れてはいないのだ」
「ほお。という事は、ウィームと何かあったらしいニケとの接点はなしか」
「………っ、」
その一言でヴェンツェルとエーダリアを同時に絶句させると、リアッカはふっと薄く微笑む。
その微笑みに既視感を覚え、ネアは、ああ誰に似ているのか分かったぞと半眼になった。
「まずは、先程は守っていただき有難うございます」
「……ん?ああ。そりゃ守るだろう。年長者だからな」
「ふむ。あなたは、……本当にそう思われているのですね。だからと言って、分かりやすい情がそこに載ると言う訳ではないというだけで」
「……………ほお。やはりお嬢さんは目がいいな」
リアッカはまだ、先程の崩れた書架の近くの床に座ったままだ。
片足を投げ出し片膝を立て、けれどもこの上なく優雅に見えた。
リーエンベルクの騎士棟の椅子の上で背中を丸めていた疲れた男性の面影はなく、こうして床に座っている方が余程凛々しく見えるのは、違う文化圏が基盤になるからなのだろう。
「なお、二ケ王子のことは存知上げていますが、一度二度会っただけなのに面倒な事件を持ち込まれましたので、次にウィームや私の家族に近付いたら、力いっぱいに踏み滅ぼします」
「お嬢さんの武器は、拳だけじゃなかったか」
「そして、あなたも、私の家族やヴェンツェル様に悪さをしたら、踏み滅ぼしてこの呪いの底に置き去りにしますからね」
「はは、こりゃ獰猛だな。それに、そちらの二人よりよほど勘がいい。……いや、ヴェンツェル王子は気付いた上で警戒していたようだが、駆け引きの鈍さで減点だ」
「…………貴殿の手法とは違うというだけだろう。これでも俺は、ヴェルリア王家の者だからな」
「後ろ手に剣を隠した、笑顔の商人達と言われる?ちょっとばかし底が浅いような気がするがな。………さてと、お嬢さんは、何か交渉でもするか?それとも、俺に聞きたい事でもあるのか?」
あんなに疲れたような顔をしていたくせに、軽やかに立ち上がったリアッカに、急に視線を上に向けなければいけなくなったネアはぎりりと眉を寄せた。
ヴェンツェルよりは細いが、この中では一番の長身だろう。
そんな事に気付いたのも、今更なのだ。
「私は、あなたがこの中で何か悪さをしているとは思いません。……先程渡されたお守り袋も、きっと本当に特定の魔物さんを退けるものなのでしょう。………でも、それがこの内側で望ましい対策なのかどうかは、少しばかり怪しいと思っています」
「ほお。何でそう思った?」
「先程の竜めが現れた時、あなたが一番冷静だったからです。あの時のあなたの反応は、………まるで予測を立てられる事が起きたかのようでした」
「………魔術は光と影だ。一定の効果の足元には、確かにその障りも出るだろう。まぁ、その災い除け魔術を展開するとなれば、災い除けとなるだけの効果が際立つことになる。獲物を探している連中に何かがいるぞと知らしめるようなものだが、そこまでを伝えて女子供を怖がらせても仕方ないだろう」
「な………!」
気付いていなかったのだろう。
エーダリアが顔色を変えたが、さっと前に出たヴェンツェルが自分の背中でその視界を遮った。
「どうせそのようなものだろうとは思っていた。先程の交戦は負傷も、ある程度は想定の内だろう。……………自ら漂流物の現れる海に船を出すくらいの、魔術師らしい魔術師だと聞くからな」
「こりゃ残念だ。………先程は少し崩れたが、もう立て直したか。確かに商人と来訪者の国の王子だな」
「………ネア。これはこのような気質の男だ。悪意と言う程のものでもない。民族性の違いのようなものだと思い、溜飲を下げてくれないか」
振り返ったヴェンツェルにそんなことを言われ、ネアはおやっと眉を持ち上げる。
エーダリアは怒っているようだったが、ヴェンツェルが視界を遮った意味も承知しているのだろう。
リアッカを責めることはなく、ただ、静かに立っていた。
「まぁ。私は別に、そのような事は気にしません。ただ、私の大事な家族がこっそり変な約束でも掴まされては困るので、この辺で、リアッカ王子が被っている布を引っぺがしておこうとは思っていました」
「………そうなのか?」
「ええ。実際に助けていただきましたし、魔術というものはいい部分も悪い部分もありますからね。知っていますか?ココグリスは素晴らしいもふもふの生き物なのですが、噛まれると熱を出して寝込んでしまうのですよ」
「……あ、ああ。……………いや、それは知らなかった。ヴェルリアにはあまりいないからな」
「あまり人間の方には見られない雰囲気ですが、こちらの王子様も、そのようなものなのでしょう。どこか、のらりくらりと色々な事を煙に巻いている感じが、私の義兄に少し似ています」
そういえば反論したげにエーダリアが振り返ったので、ネアは、ぴしりと指を立てて、出会ったばかりの頃の雰囲気に似ていたのだと補足しておいた。
今のノアは大事な家族なので、この掴みどころのない飄々とした雰囲気はあまり見せなくなっている。
「だから、気には留めないと?」
「ええ。でも、このまま何の害もないふりをされるのも危ういと思いました。かと言って疑い過ぎて連携が機能しなくても困りますから、私あたりがさらっと暴露してしまうのがいいのでしょう」
「……………やっぱり、目がいいお嬢さんだ。経験を積ませる側に、人外者が多いんだろう」
「ふむ。学びとしての経験を積ませてくれるとなると、エーダリア様の代理妖精さんでしょうか」
「……………あの妖精か。色々承知した」
「ダリルさんをご存知なのですか?」
「公式に会談の場を持った事が、二度程ある。俺とエーダリア殿の立場上、外交上での契約の確認などで同じ書類を回す事がある」
「ああ。ダリルは、実際に顔を合わせた事がある筈だ。ガゼットの王城で、四国間の会議だったが」
リアッカがエーダリアの人となりを知っている様子だったのは、そのような時に事前に情報を集めたからなのだろう。
そう考えると色々腑に落ちるなと思いつつ、ネアは、ちらりと周囲を確認した。
「……………ネア?」
「リアッカ王子の問題が解決されたので、追加の試練が出てこないかどうか、少し警戒していました」
「解決……………されたのだな」
少しだけ困ったようにこちらを窺っていたエーダリアにそう問いかけられ、ネアは小さく微笑んだ。
こちらを見たエーダリアは、ネアの結論が、自分の判断は違うのだと伝えようとしているのではない。
ネアがどう判断し、それで本当にいいのかどうかを真摯に見極めようとしてくれているのだ。
多分、リアッカ王子が敢えて説明を省いた酷薄さのようなものは、エーダリアの方が許容しやすい、見慣れたものなのだろう。
だからこそ、ネアの心情を慮ってくれる。
(………良かった。私が心配して予防策を講じずとも、エーダリア様は大丈夫そうだった)
わざわざリアッカの一面を引き摺り出したのは、エーダリアに注意喚起したいからでもあったのだが、心配には及ばなかったらしい。
とは言え、警戒もするのだと直接伝えられたなら、こちらとしても動きやすくはなる。
そちらの手に刃があると知っていると伝える事は、広い意味での牽制でもあった。
「ええ。人柄の問題だと思うので、後はこちらに不利益な事がなければ、………踏み滅ぼしません?」
「……………お前がやると、本当に死んでしまうのでやめるのだぞ」
「むぐぅ……」
「不利益がなければ、か。はは、徹底しているな」
ではここでと、更に隠す事もなくなったので、ネアは再びヴェンツェルに目隠しになって貰い、大事な魔物達へのカードを開いた。
“ディノ、シャックマークの災いの竜なるものが現れましたが、リアッカ王子が駆除してくれました。私も参戦し、最後はきりん箱にぽいです!”
“……………君の守護が揺れた”
“ばしんとやられましたが、リアッカ王子が庇って下さったので、大事にはならずに済みましたから、安心して下さいね”
“そんな人間なんて………”
“なお、そんなリアッカ王子は、少しだけ策士な感じなので注意も必要でしょうが、今のところはこちらに悪意はなさそうです。ただ、敢えて血を渡すというような行為、血をこちらの衣服に落とすというような行為に思惑がありそうだった場合は、迎えに来てくれた時にどうにかして欲しいです。ただ、取られても問題ないように調整済みですとか、本当に余裕がなく、私を庇って下さった際の怪我が深刻だったというだけかもしれません”
“……………君の血は取られたかい?”
“いいえ”
“であれば、犠牲の魔術系譜だろう。対価として強制的に受け取らせる事で、何かを叶えようとしたのかもしれない。……………グレアムには、魔術が動いた場合には却下するように話しておこう。ここに来ていて、後で彼とは個人的に話すつもりだそうだ”
“はい!やっぱり、私の伴侶は頼もしいですね!”
“かわいい………。………もうすぐこちらを開けるよ。あと少しだけ、堪えておくれ”
“はい!”
(………ふむ。やはり何かの仕掛けもあるのだろうか)
もう一つ。
こちらはリアッカ本人に尋ねる程に軽率ではないが、気になっていた問題を解決し、ネアはふすんと息を吐いた。
ナイフを貸し出す際には魔術の繋ぎを切ったリアッカ王子が、先程の竜に投げ飛ばされた際にネアのドレスに落とした血を、回収しようとはしなかった。
わざわざ何もせずとも問題ないようにしてあるだけかもしれないが、こちらの人間は、一滴の血で痛い目に遭った事があるのでとても用心深いのである。
カードをしまい終えてヴェンツェルの背中の影からぴょこんと顔を出すと、こちらを見ていたリアッカがふっと淡く微笑む。
「秘密の文通はお終いか?」
「ええ。もうそろそろお迎えが来そうです。なお、リアッカ王子は、帰還後に犠牲の魔物さんの面談があるようです」
「……………は?」
「もしかすると、リーエンベルクに来てくれているのか?」
「そのようですよ。お忙しい中来てくださったに違いないので、夜のお祝いのお料理など、少しお裾分けしましょうか」
「ああ。時間がないようであれば、ヒルドが特別に出してきたシュプリが何本かあるそうだから、好きなものを持ち帰って貰ってもいいかもしれないな」
「……………いやいや、物凄く自然に話しているが、犠牲の魔物がリーエンベルクにいるのか?!」
「む。………リアッカ王子を迎えに来て下さったのかもしれません。その場合は、王都経由なのです?」
ネアの返答を聞いて真っ青になってしまったリアッカから視線を外し、ヴェンツェルの方を窺うと、こちらも犠牲の魔物の訪れがあった事には慄いている様子だったが、出来れば王都経由で戻したいという事だった。
今回はさすがに、統括の魔物を介して差し戻すばかりではなく、王都での聴取などもあるのかもしれない。
「エーダリア殿は、……………犠牲の魔物と面識があるようだな」
「…………いや。何度かお会いしたことはあるが、そのように測れる存在ではないだろう」
「あんたは、嘘は下手だな………。研究側の魔術師か」
「っ、…………そんなことはないとは思うが」
「そうか。………犠牲の魔物がな……………。まぁ、あんたなら、人外者に好かれそうなのも分からんでもないが。………ウィームの質というのはこういうものかと、色々納得させられる。あの土地の魔術資質は、俺との相性は最悪だがな」
「うむ。エーダリア様のことは、皆がすぐに大事に思ってしまうのですよ」
「ネア?!」
ゴーンゴーンと、どこかで鐘の音が聞こえた。
こうした魔術のあわいや呪いの底で、何かの切り替えの合図となりがちな響きに、ネア達は顔を上げる。
気付けば、深い夜の底のような暗さだった書庫はうっすらと夜の色が白み始めており、呪いが開かれ迎えが来るのが近いのだと分かった。
(もしかして、お迎えが来たのだろうか)
そう思い、ほっと体を力を抜きかけた時だ。
ばたん。
「……………っ」
突然響いたその音に、ネアはぎくりと体を揺らしてしまった。
はっと目を瞠ったエーダリアが、すぐにそんなネアの手を掴む。
ヴェンツェルが剣に手をかけ、リアッカが背筋を伸ばしたその瞬間、こうっと吹き抜けたのは霧の夜のような冷たい風だった。
どこか遠くで、わぁっと喝采が響く。
「くそ。辻毒の参集の仕掛けか。………排他術式をかけたが、暫くその場を動くなよ。……………災いを溜め込む装置は、一つが壊れると別の仕掛けに成果物を移動させるようにするものが多い。別の魔術への回収が始まるぞ」
リアッカの声に皆が頷き、ネアは、じっと、足元の水面に見える深い青色の床を見つめた。
なぜ探してしまったのかは分からなかったけれど、そこにはまだ、いつもの暗い夜の情景は訪れていない。
(……………あ)
ふわりと周囲の空気が動き、いつからかそこにあったのか、奥に見える大きな扉の向こうが明るくなった。
開いた扉の向こうは朝の光のような清廉な明るさで、なぜだか、そちらに行かなければと思ってしまい、ネアはぞっとした。
何か、目には見えない多くのものが、ゆっくりとその扉に向かうような気配があった。
姿のない群衆が広大な書庫を出て出口に向かうかのように、肌に触れる空気がざわざわと揺れる。
ネアも、その向こうに行きたくて足がむずむずしたが、手を掴んでくれているエーダリアにぎゅっと抱き込まれ、短く息を詰めた。
「っ、………動かないようにするのだぞ」
「はい」
「……………なかなか強引なお迎えだな。…………俺が前に出た方がいいだろう」
声を潜め、そう囁いたエーダリアにネアが頷いていると、不意にそう呟き、扉の側にいたネア達の前にリアッカが進み出る。
動かないようにと言っていたのに、こうもはっきりと声を出していいのだろうかと驚愕の面持ちで見上げると、こちらを見てくすりと微笑まれた。
(っ、…………!!)
リアッカが扉の側に立った瞬間、そちらから感じ取れていた清涼な朝の光がふわりと翳った。
まるで扉の向こうで慈愛の微笑みを浮かべていたものが嫌悪感に顔を顰めるように、沢山の気配がざわりと揺れ動く。
「何でだか分からんが、かの魔物は、漂流物を嫌ったそうだ。迷い子は好んで手駒にしていたし、前世界の魔術にも長けていた。……………だが、漂流物だけは、…………この世界と繋がらなくなったどこかから現れるものだけは、酷く嫌っていたらしい。まぁ、俺がこうして前面に立つのは獣避けみたいなもんだな」
「………そうか。であれば、私も前に出た方がいいかもしれないな」
「いや、やめておけ。あの竜の最初の術式では、あんたも膝を折っただろう。よく分からんが、その区分のままだとまずい」
また、先程の冷たい風が吹き抜ける。
あんなに明るい朝の光が見えるのに、なぜ、扉の向こうから吹いてくる風は冷たいのだろう。
そう考えたネアが、どこにも行かせないようにしっかり抱き締めてくれているエーダリアの腕の中で、扉の向こうに目を凝らした時だった。
(あ………!)
はらりと白い薔薇の花びらが落ち、淡い金色に光っていた足元の床石に広がる波紋が、白に変わった。
「言った筈だぞ。これは、私の庭のものだと」
ぐっと押しつぶされるような、けれども聖堂で響く聖歌のような美しい声が響き、全員の体がびくりと揺れる。
ネアだけでなく、エーダリアまでもがひゅっと息を呑んだという事は、今の声は皆に聞こえたのだろう。
ネアの位置からはヴェンツェルの反応は見えないが、ネア達の前に立ってくれたリアッカが、呆然とした顔で振り返り、こちらを見ている。
「……………む。消えました」
そして、ネアが、カルウィの第七王子の表情は、振り返って何を見てしまったのだろうとぞっとしている間に、背後に感じた酷く重たい精神圧も、不思議な声も、床に落ちた白い花びらも全てが消えていた。
正面を見れば、先程まであった筈の扉も消えていて、夢から覚めたように、暗い夜の光とどこまでも続く広大な書庫があるばかり。
「驚いたな。……………お嬢さんは、あちら側絡みか」
「…………あちら側?」
「いや、………下手に触れるのはやめておこう。既婚者だしな」
「……………リアッカ王子」
「はは、そう怖い顔で見るな。何度も言うが、幾らなんでもそう言う意味では年の差があり過ぎだ。さすがにこの年齢でお嬢さんに手を出したら、俺も心が痛む。それに、俺は一夫一妻主義なんでな。個人の嗜好として既婚者はなしだ。…………ないが、特異点として俺好みのものを集める可能性があるとなると、ある程度いい関係を結ぶのはありだな。……………よし、お嬢さん、俺と友達になろう!」
「………やれやれ。私は、それを控えろと言いたかったのだが」
「リアッカ王子、彼女は歌乞いなのだ。契約の魔物が望まぬ要素は、あなたといえども近付けられない」
「なんだ、つれないな。エーダリア殿も含め、一緒に危険を乗り越えた仲間だろう。なに、こちら側に上手く居つくような漂流物を見付けた場合に、俺に連絡をくれるだけでいいんだぞ」
「物凄く便利に使われようとしていますが、私には何の益もなさそうなのでお断りします」
「そうか?おじさんは、リズモの生息域を二箇所も知っているぞ?」
「ほわ………」
あまりにも魅力的な対価に、ネアは一瞬心が揺れてしまった。
しかし、これはいけるぞという目をしたリアッカの勧誘は、それ以上続かなかった。
「……………これはこれは、第七王子。彼女に、何か特別な思い入れでも?」
その声が先程のものより何倍も重たく感じられたのは、リアッカの後ろに立っている夢見るような灰色の瞳の魔物の微笑みが、温もりの欠片もないものだったからだろう。
グレアムの姿を見てぱっと目を輝かせたネアは、すぐに誰かに抱き締められた。
「むぐ?!」
「……………怪我はないね。帰ろうか」
「ディノ!」
「……………よいしょ。エーダリアも大丈夫だね」
「ノアベルト?!ぎ、擬態をしていないではないか………」
「あ、これでいいんだよ。変な虫がつくと困るからさ。ああいう魔術師ってさ、エーダリアみたいな人間には結構懐くんだよね」
「い、いや、懐きはしないと思うが………」
「ヴェンツェル!怖くなかったか?!」
「……………ドリー。いつも言っているが、その訊き方をやめてくれ………」
どこかで出口が開いたのだろう。
いつの間にかネア達の周囲には、頼もしい家族がいて。
ネアは、エーダリアの腕の中から回収され、大事な魔物にぎゅうぎゅう抱き締められる。
しかし、わぁっと声がして、リアッカがグレアムに引き摺られていったような気がしたので、ネアは、慌てて伴侶な魔物に、一応は年長者としてみんなをよく守ってくれたのだと伝えておいた。
「あんな人間なんて……………」
「ふふ。善良な質ではなさそうですが、事故の中の幸運の一つだと思って、後はぽいしましょうね」
「……………幸運、なのかい?」
「ええ。今回の事故は、あの方が持ち込んだものでもあるのかもしれませんが、同時に、こちらに共に落ちたのがあの方であったからこそ、私やエーダリア様達の盾にもなって下さいました。とは言え、その利点はしっかり使わせていただき、我々は無事に帰れそうなので、後はぽいです!」
「うん。…………アルテアが、薬湯を用意してくれているようだ」
「ぎゃふ………」
「君が、無事で良かった。……………エーダリアもかな」
「まぁ。私の大事な魔物は、何て優しいのでしょう!家族ですものね」
「……………うん。そうなのだと思う」
そんなエーダリアはノアに持ち上げられて目元を染めているが、隣でヴェンツェルもドリーに同じ事をされているので顔を見合わせている。
その様子がなんだか微笑ましくて、ネアは唇の端を持ち上げた。
「帰ろうか」
「はい!今日はエーダリア様のお誕生日ですものね」
「うん。………では、こちらの道を閉じるよ。血筋に与えられた呪いなので、完全に封鎖する事は出来ないし、となると、こちらの道をもう一度塞いでおかなければ、他の呪いを呼び込むかもしれないからね」
暗い夜の底から爪先を引き抜くと、何か重たいものがどこまでも深く落ちてゆくような気がした。
きっと、これからもどこかで謁見の災いが使われる事はあるのだろう。
けれどもそこにはもう、ただの広大な書庫があるばかりなのかもしれない。