発熱と取り分
「まぁ。熱を出されてしまったのですか?」
「……………面目ない」
「明日のお誕生日は、今のところ普通に過ごせそうなので、ギルドの方々の挨拶などもあるのですよね?」
心配そうにこちらを見たネアに、エーダリアは項垂れた。
よりにもよって、今回のことは自分の不注意である。
事故が起きたのは執務上での事だったが、注意していれば防げたものなのだ。
「ああ。午前中は、領内からの客が多くなるだろう。それまでには復調するので安心してくれ」
「むぅ。エーダリア様のお誕生日なのに、余分なお客様がいるのが解せません。…………勿論、立場上は必要な事なのですが、家族としてはおのれという気持ちになるのですよ」
「……………ネア」
本気で腹を立てている様子のネアに、胸の奥がふつりと揺れた。
ヒルドやノアベルトもそうであるが、未だに、こうして自分事として感情を動かして貰えるのは慣れない事なのだ。
「ザルツ伯爵なんて、途中で列車が止まってしまえばいいのです………」
「それは流石に、他の利用者に悪いだろう」
「むぐぐ。では、お腹を壊して訪問が明日以降になればいいのですよ」
「だが、一応は祝いに来てくれるのだからな。…………一つ、こちらで保留にしている法案があるので、その調整も兼ねてはいるだろうが」
「ぐるる………」
エーダリアは今、自室の寝台に座っていた。
横になってもいいのだが、そこまでするほどに体調が悪い訳でもないので、今は体を起こしている。
寝台の天蓋のカーテンを少し下ろし、寝台横のテーブルには先程ノアベルトが持って来てくれた薬湯が置いてあった。
(ヒルドやノアベルトには、迷惑をかけてしまった…………)
執務で携わった嘆願書の一つに、魔術特異点の植物見本があった。
本来であればより慎重に扱うものだが、今回は小さな花びらを染める不思議な青紫色が気になってしまい、思わずその場でじっと見つめてしまったのだ。
まさか、観察させる事で魔術を結び呪いを授けるものだとは思わなかった。
それまでは無害な小さな野の花は、単体では獲物を取り込むだけの能力がない代わりに、鮮やかな色などで何だろうと気に掛けさせて結びを取るのだ。
そんな花々が満開になるのは、精霊の手招きと呼ばれる現象で、精霊の障りが出ている事を示すものである。
嘆願書と見本だけでは判別出来なかったが、こうしてエーダリア自身が障りを受ければ、原因が簡単に判明してくれた。
不調が出たのは失態だが、今回のことでその村での異変の解決の糸口を掴めたのは有難い。
さっそくその村を含めた土地を受け持つ騎士団に、精霊の障りが出てての影響だと連絡を入れることが出来た。
「精霊本人の障りではなく、証跡に残る影響であったのが幸いだった。その生き物からの攻撃を受けているのと、植物にかぶれるような影響であるのとでは全く違うからな………」
「ええ。それについては、ノアもほっとしていました。鉱石の精霊さんのようですね」
「植物の系譜に続き、毒の効果を持つ系譜だな。お前も、鉱石の系譜の者達には用心するのだぞ。宝石妖精のように既に無毒なものから派生している者達はいいが、鉱石などの領域では人間には有害な魔術を持つ者が多い」
そう教えてはやっても、ネアであれば無効にしそうでもある。
しかし、ネアは生真面目に頷くと、首飾りの金庫から取り出した手帳にその内容を書き記していた。
「その手帳も、随分と使い込んでいるのだな」
「ふふ。これで三代目なのですよ。書くべき事が多くて、とても幸せなのです」
「幸せ、…………なのだろうか」
「ええ。新しい知識や、誰かとのお喋りが得られなければ、このような手帳やノートに記すべきこともないままなのです。………ずっと昔に、綺麗な手帳を買いましたが、何も書く事がないまま未使用の頁だらけでした」
窓の外を見ながらそう言い、ネアは、こちらに視線を戻して淡く苦笑する。
ああ、彼女が丁寧に文字をしたためるのは、それが得難いものだと知っているからなのだと考え、深々と頷いた。
(私も、小枝のペンを使うようになった。会話の中で知ることが出来た魔術の知識を書き連ねている手帳は、今年で五冊目に入った)
時折、調べ物があってその手帳を開くと、いつ記録されたものなのかを示す文字列に目が留まる。
それは、家族で出かけたあわいの列車の旅の途中であったり、何でもない夜に皆で酒を飲んで過ごした時の会話だったりして、不思議なくらいにはっとしてしまうことも少なくない。
記録には幾つもの思い出があり、そのどれもが得難いものばかり。
どこかで。
どこかで、ずっと一人で生きてゆくのかもしれないという諦観はあった。
遠い先の孤独を思っての胸の痛みはあったが、それを不条理だとは思わなかった。
ウィームで暮らせるようになっただけで幸福だったし、騎士達や領民達が寄り添ってくれるのだから、決して本当の意味での孤独ではない。
だが、こんな風に共に過ごす者を得られるとは、少しも思っていなかった。
ヒルドをどうにかしてこちらに呼び寄せたいとは思っていたが、例え、一時的に叶ったとしても再び中央から呼び戻されてしまいかねない。
こちらの立場が悪くなると考えたり、中央で不穏な動きがあれば、ヒルドはいつだって自分の意思で王都に戻ってしまっただろう。
だから、そんな事を考える度に、この先に何度も訪れる祝祭や、何でもない休日やこんな風に体調を崩した日の夜を、自分はこれから先もずっと一人で過ごしているのかもしれないと考える事は何度もあった。
こちらで得た繋がりから誰かと親しくなろうとも、エーダリア個人の力でその足元までを守ってやるのは難しい。
ましてや、こうして共に暮らすともなれば、エーダリアの可動域に耐えられる者であることと、自分の身を自分で守ってくれる事がどうしても必須条件であったのだ。
「……………私は、こうして家族が見舞いに来てくれるようになった。ヒルドには叱られてしまったが」
「でも、とても心配もしてくれているのでしょう?」
「……ああ。心配をかけてしまった。私のやるべきだった仕事で、無理をさせていないといいのだが」
「私やディノもいるので大丈夫ですよ。ノアが見過ごさないとは思いますが、もし、ヒルドさんが困っているようだったらお手伝いしておきますね。それに…………むむ。どなたかいらっしゃいましたね」
こつこつと扉を叩く音がして、短く息を呑んだ。
声をかけられずとも感じる魔術の気配があって、このウィームでは滅多に触れないその色に、どうしてだか途方に暮れてしまう。
「お前は、残るだろう?」
「あらあら、ここはやはり、兄弟水入らずで過ごされては?ドリーさんは同席してくれる筈ですから、会話に詰まった場合は、きっと手助けをしてくれると思うのです」
「だが……………。いや、…………すまない。やはり気にしないでくれ」
なぜ、ネアを引き止めようとしたのだろう。
自分の兄ではないかと思い直し、溜め息を吐く。
だが、ネアがいてくれたなら、受け答えに困っても助けて貰えると思ったのだ。
「これは秘密情報なのですが、エーダリア様が精霊さんの障りを受けたと知った時、ヴェンツェル様はとても動揺していました。こんなことがよくあるのだろうかと二回も尋ね、薬はあるのだろうかと三回も尋ねていたのだとか」
「……………兄上自身も、療養中ではないか」
「そのお陰で近くにいられて、ここはリーエンベルクですから、安心して大事なご兄弟の心配が出来たのでしょう。エーダリア様も、何度もヴェンツェル様のお薬予定を見直しておられますものね」
「……………っ、……………あ、あれはだな、ついついウィームでの感覚で進めてしまいそうになるので、迂闊に負荷をかけないように都度確認しているのだ」
慌ててそう言い重ねたが、ネアは微笑んだだけで何も言わなかった。
そしてそのまま、胸元に収まってすやすや眠っているらしいムグリス状態のディノと共に帰ってゆき、次に部屋を訪れたのは兄とその契約の竜であった。
「…………精霊の障りを受けたと聞いたが。………いや、そのまま寝台の上にいてくれ。……………ふむ。顔色はそこまで悪くないようだな」
「あ、あ、兄上?!」
幸い、ここまで同行してくれたヒルドも部屋に残ってくれるようだ。
そのことに安心していると、いきなり歩み寄った兄が、寝台の横に腰かけてしまう。
驚きのあまり目を瞬いていると、額に手を当てられ、ふうっと安堵の息を吐いている。
「お前は、私よりも守護などは厚いのだろうが、…………体が細いからな。私程には、毒の脂質を持つ障りへの耐性もつけていないだろう」
「……………そうかもしれません」
「まぁ、お前の場合は、私とは違い魔術での解毒が出来るからでもある。その代わり、元々の体の耐性で言えば低い方だ。致死性の高い面倒な毒類は魔術階位の高い者には反応が弱くなるが、今回のようなものは致死性がない代わりに均一な反応が出る。……………不調が残るようであれば、必ずヒルドやお前の契約の魔物に相談するのだぞ」
こちらを見た鮮やかな深紅の瞳には、どこか真摯な色があった。
王宮に泊まっている時に、短い時間とは言え兄の私室で親しい者達だけで過ごした事もあるが、こんな風に案じられた事はない。
「………ええ。そうします。見舞いに来て下さり、有難うございます」
「お前は弟なのだ。当然だろう。……………とは言え、これまではそれが難しい環境であったが。お前の領域の中でなければ、こうして見舞いをすることすら難しい時もある。王宮となれば、私の陣営の中にもそれなりの野心を持つ者達がいるだろう。私の派閥内の者達であっても、お前にとっては完全に味方ではない者達も多い」
続く言葉は王都での兄の立場の難しさを示したものであったが、エーダリアは最初の一言でびっくりしてしまい、無言で頷く事しか出来なかった。
「あまり長居は出来ないからな。明日の朝にはウィームを発つことになりそうだが、お前の誕生日にはこちらにいていてやれる。直接贈り物をするのは、初めてかもしれんな」
「………………体調は、如何ですか?私がこのようになってしまっては説得力もありませんが、漂流物の反応なので、丁寧に経過観察をした方がいいかと」
「フランツの助言で、ウィームでの療養となったが、こちらに来てからはかなり落ち着いた。何を頼んで何を食べても、毒などの心配がなく温かなものが摂れるのもいい」
「であれば、………またこのようにして、滞在して貰えるといいのですが」
そう言えば、今度は兄が目を瞬いている。
あまりにも驚くのでエーダリアまでそわそわしてしまい、近くに立っていたドリーが小さく笑う。
「だそうだ。良かったな、ヴェンツェル」
「…………これで、何かあれば王都に来いと言う訳にはいかないのが、情けないところだがな」
「おや、何かがあってもそちらに行かずに済む体制を整えていただくのであれば、いいかと思いますが」
「ヒルド………!」
少しも隠さずにそう言ってしまったヒルドに慌てて名前を呼んだが、幸いにも、兄は気分を害した様子もなくそうだなと頷いている。
寝台の上に腰かけられているので、これまでにない近さなのが、このあたりでじわじわと気になってきた。
今迄この距離に入ったのは、ヒルドやノアベルトくらいのものだ。
かつて、大きな傷を負って寝込んだ時に毎日見舞ってくれていたグラストですら、寝台の上には腰掛けなかった。
(…………兄上?)
ふと、視線を外した兄が、酷く硬質な眼差しになる。
その冷え冷えとした王族らしい表情に眉を顰めると、気付いてこちらを見た。
「このような時にしか、言えぬ事だろう。…………もし、何かが合って私の力を借りるしかないような事があれば、遠慮なく助けを求めろ。私の立場を悪くすることや、こちらの負担は考えずともよい」
「…………それは」
「お前がウィームで暮らす限り、そんな事は起こるまい。だが、ヴェルリア王族としての立場や王都での影響力こそが必要になる事もあるやもしれん。必要な時に、必ずお前の話を聞いてやれる訳ではないからな。こうして事前に伝えておかねば、お前は手を伸ばさないだろう」
「かもしれません。…………ですが、」
「昔とは違うのだ。………多少、双方の足元を危うくしても、今のお前と私なら、どうにか事態を収められるだろう。周囲の者達に負担はかかるだろうが、そうせざるを得ない時というのは、ないとは言えないものだ」
(こんなことを言われるとは、思ってもいなかった)
途方に暮れたまま、小さく頷くと、兄は安心したように微笑む。
以前から、冷徹な第一王子としての判断を下す場面も多い反面、下の弟達への対応を見ていると情深い人でもあるのだとは思っていた。
だが、こんなことを直接言われたのは初めてで、どう答えるべきなのかが分からずに困惑してしまう。
勿論、嬉しいのだ。
だが、その思いをどうやって伝えるべきかを知らなかった。
「……………やれやれ。今は気負わずともいい。もしもの場合だ」
「……っ?!」
返す言葉を探して黙り込んでしまえば、苦笑した兄が、頭の上に手を載せる。
子供にするように撫でられて呆然としていると、不思議そうな顔をされてしまった。
「なんだ?こうするものなのだろう?」
「……………い、いえ。驚いただけで、…………」
兄がちらりとドリーの方を見ていたので、どうやらこれを教えたのは契約の火竜のようだ。
ドリーであれば分かる気がすると息を吐き、慣れない温度にそわそわと座り直した。
「それと、…………これは私の勘でしかないのだが、もし漂流物に関わる事で何か深刻な問題が起きた場合は、父上を頼る事も覚えておくといい。あの方は一筋縄ではいかぬだろうが、今のウィームであれば、交換条件などを出して知識や方策を引き出す事も出来るだろう」
「…………それに関しては、ネアも話していました。あの方は、漂流物や対岸の魔術に造詣が深いようだと」
「ああ。私も、思わぬところで父上に出会った事がある。…………魔術の理の上で、王に勝る階位を作る訳にはいかぬとして、人間は国王の魔術階位を観測しないからな。あの方はあれで、……………相当な階位にあるような気もするのだが、…………まぁ、ウィームにいればより潤沢な知識を得られるだろうが」
「いえ、土地ごとに継承された知識は、得てして追随を許さぬものであることが多いものです。助言をいただき、有難うございました」
礼を言えば、兄は頷いて微笑んだ。
柔らかな目元の表情に、王都では見かけないものだとまた少しだけ驚いてしまう。
リーエンベルクだからなのだと思えば、ほんの少しの誇らしさもあった。
「フランツに押し切られてこちらでの療養を決めたが、…………指示を出したのは、父上だろう。ウィームに移れば、二刻程の内に初期症状が軽減されると聞いていて、その通りになった。その他の思わぬところでも、何かをご存知かもしれないからな」
「そうなのかもしれません。…………必要とあれば、あの方の知識も借りる術もあるのだと考えておきます」
そう頷いた時の事だった。
ふっと空気が馴染みのある温度に揺れ、清しいバーベナのような香りが届く。
寝台の反対側が揺れたので振り返ると、なぜか、暗い目をしたノアベルトが腰かけているではないか。
いつの間に部屋に来たのだろうと、目を瞬いた。
「ノアベルト……………」
「ここって、僕とヒルドの領域なんだけど。………まぁ、こういう時は許すけど、エーダリアを持ち上げたりするのは禁止だからね」
「ノ、ノアベルト?!」
「それは大丈夫だ。抱き上げたりあやしたりするのは、叱られるかもしれないのでやらないようにと伝えてある。俺も、他の者がヴェンツェルにそれをしたら少し嫌な気分になるからな」
「ドリー?!」
慌てたような兄の声も聞こえて振り返ると、兄はこれまでに見た事がないような焦った顔をしていた。
しかし、対するドリーは、不思議そうに首を傾げるばかりだ。
「俺がそう思うのは当然だろう。ヴェンツェルは、契約の子供で竜の宝だからな」
「弟の部屋で、あらためて言うような事ではないだろう?!」
「大事な子供が皆に愛されるのは素晴らしい事だが、俺には俺の領域もある。エーダリアなら、伝えておけば理解してくれる。言っておくべきだ」
「………あ、兄上は、持ち上げないようにしましょう」
「ああ。そうしてくれると助かる」
「ドリー!!」
「ありゃ。…………竜の方が遠慮がないなぁ………」
「やれやれ。騒ぐようであれば、そろそろ部屋にお戻りいただきましょうか」
「ヒルド……………」
その後、兄とドリーは、ヒルドが手際よく部屋から出してしまい、エーダリアは銀狐姿になって寝台の上に仰向けに寝転がっている契約の魔物をなでていた。
部屋に戻ってきたヒルドは呆れていたが、気恥ずかしいのでこちらの姿で自分の領域だと主張したいのでしょうと言い、却って銀狐をけばけばにさせている。
「熱は上がっていないようですが、お疲れのようであれば、少し横になられては?」
「ああ。明日に備えて、少し横にならせて貰おうと思う。……………ヒルド、心配をかけてすまない」
先程の兄とドリーの様子を見ていたせいだろうか。
素直にそう言えば、こちらを見た瑠璃色の瞳がふわりと和らぐ。
穏やかな微笑みを浮かべたヒルドが寝台の端に腰かけ、手を伸ばして頭を撫でてくれた。
こちらも慣れているとは言えないが、初めてではない温度にどこかほっとする。
「思わぬ経緯ではありましたが、このような時間が取れて良かったのでしょう」
「ああ。兄上と……………あのような話が出来るとは思わなかった。驚いてしまって、上手く返事を出来なかった部分もある」
「きちんと理解される方だと思いますよ。そのような点では、私もあの方を評価しておりますからね」
「ドリーとのやり取りも、普段はあんなに柔らかいのだな。………兄上があれほど焦っている姿は、初めて見たかもしれない」
「竜とはそのようなものですよ。…………ですが、妖精にもそのような傾向がありますので、どうかご留意下さい。あなたやヴェンツェル様が変わられたように、私も、ウィームでは以前のように過ごさずに済んでおります。存分にあなたを甘やかす権利を得たのも、こちらの生活で得た恩恵ですからね。あなたがそうするべきは、私やネイだという事もお忘れなきよう」
「…………っ、」
あまりにも自然にそんな事を言うので、思わず瞠目してしまった。
するとヒルドはくすりと微笑みを深め、横になる前に温かな香草茶を淹れてくれた。
なぜか気持ちが沢山動いてしまい、なかなか寝付けなかったが、眠っている時にもう一度部屋に様子を見に来てくれたのだろう。
そっと髪を撫でるヒルドの手の温度に、こんな日も悪くないのだと少しだけ思ってしまった。