前漂流とバルッサの城 3
事件の顛末が説明されたのは、ネアが、筏の漂流物の領域に引き落とされた翌日のこと。
リーエンベルクでは、慌ただしく来客の受け入れが行われていた。
少しだけよれよれしながらその報告を聞くと、ネアはくあっと欠伸をする。
「…………ぎゅむ」
「おいで、ネア。………もう少し横になっていようか」
「むぐ。しかし、ヴェンツェル様もいらっしゃったので、お話をさせて貰った方がいいと思うのでふ」
「では、私が連れて行ってあげるよ」
「ふぁい。……………ぐぅ」
これまでにも、魔術酔いや工房中毒のようなものに悩まされた事はある。
境界の向こう側のものに接触するのは初めてではなかったし、ネアも、それ以外の様々な所へ迷い込んできた。
しかし今回は、昨晩からくてんと体の力が抜けてしまい、眠くて仕方ないという厄介な状況になっているのだ。
(これは、漂流物の領域に触れてしまった人間の、特徴的な反応であるらしい)
それもまた、境界の向こう側のものの恐ろしさだと聞き、ネアはぞっとした。
迷い子のような形や、先日の悪夢の時のようにこちら側に上がってくる漂流者達は、この世界の規則性の中に迷い込むものだ。
しかし、それが漂流物の固有領域となれば、この世界から切り離された隔離地のような意味を持つ。
そんな領域に自ら魔術を生成出来ない人間が放り込まれると、様々な不調が出るものであるらしい。
最も一般的なのが異様な眠気や怠さで、更に重篤になると指先の痺れや酩酊などになると言う。
強烈な夢の中にいるようなという言葉を残したのは、かつて漂流物の城に二日間閉じ込められた事のあるヴェルリアの五代前の王なのだとか。
「生き物の持つ欲の中で、選択肢を奪う要素が強い反応として出るらしいがな」
眠くて仕方ないネアがディノに運ばれた先の部屋で、そう教えてくれたのはアルテアだ。
中央との話し合いや、カルウィ一帯を治める統括の魔物であるグレアムとの調整は無事に終わったそうで、今日は、統括の魔物の権限で、ヴェンツェルを連れてリーエンベルクにやって来た。
「………私の場合は、それが食欲であったらしい」
「……………まぁ。ヴェンツェル様の場合は、食欲だったのです?」
苦し気にそう言ったヴェルクレアの第一王子は、用意されたコンビーフサンドを食べているところだ。
隣にはドリーがいて、そのしっかりとした竜らしい体格で大事な契約の子供の体を支えるように座っている。
いつもなら甲斐甲斐しいドリーに苦言を呈するヴェンツェルだが、今回ばかりは素直に世話を焼かれ、大きなグラスを取って貰ったり、二個目のサンドイッチを手渡されたりしていた。
「ああ。一般的な症状とは違うが、……………より手に負えない欲ではなかったのが幸いなのだがな」
「まぁ、そっちだと一人での処理が難しくなるし、最悪望ましくない結果を残すからなぁ」
「……………むむ?」
「そ、そうではなかったので、いいだろう。…………という事でな、症状が治まるまで、兄上はリーエンベルクに滞在する事になった」
どこか意地の悪い微笑みを浮かべたノアに、エーダリアが慌てて割って入る。
僅かに耳が赤くなっている上司を見ながら、ネアは、少しも晴れやかではない眠さの中で、何となくどのようなことになるのか分かったような気がするぞと遠い目になった。
「酩酊の傾向でも厄介な事になると聞いている。……ヴェンツェルは王子の立場なのでまだ執務を休めるが、王などが取り込まれた場合は冷静な判断をするべき場面でそれが難しくなる。……………今回の一件は、三重底だったんだろう」
そう告げたドリーの声は穏やかだが、どこかに苛烈さが滲むようなものだった。
人外者の精神圧に慣れていない者であれば竦み上がってしまうかもしれないが、幸いな事にネアは眠くて仕方がないので、ふむふむと頷くばかりである。
「この、後遺症的なもので、ヴェンツェル様の判断力を奪うのも計算の内だったのでしょうか?」
「……………ああ。犯人を捕縛した後に周辺を調べたところ、本日の午後から、繋がりのある者との会談が入っていた。早々に帰還するのは想定済で、ウィームとの関係の悪化やその後の公式の場での影響などの方が本命であったと言えるんだろう。……………ヴェンツェル、お代わりを貰うか?」
「……………さすがに、これ以上は胃が保たん。治療薬を飲んで、この後は休むことにする」
「ああ。俺が側にいるし、ここはリーエンベルクだ。安心して休むといい」
柔らかな眼差しで微笑むドリーに頷いたヴェンツェルは、普段であればオールバックにしている前髪をばさりと下ろしており、どこか無防備に見えた。
それでも、青年のようにも見えるエーダリアよりは年上に見えるのだが、簡素なヴェルリア風の室内着なのも少し幼く見える要因だろうか。
そんなヴェンツェルを大事そうに抱えているドリーの表情は、今でこそはっとする程に優しいが、今回の問題を引き起こした犯人側に言及するときだけ、凍えるような冷ややかさを帯びる。
「あの国の王族であれば、ある程度は可能な算段でしょうね。ですから、以前より金木犀の王子と親しくするのは注意するように申し上げておりましたが」
「……………ああ。だが、ニケとの交流のいい目晦ましになるのは、あの王子しかいなくてな」
「段階を踏み手をかければ、他にも選択肢はありますよ。私がいた頃はそうしていた筈ですが?」
「ウォルターが体調を崩していた時期なども重なって、暫く手を抜いた。まさか、その煽りがここまで顕著に出るとは思わなかった俺の責任だ」
容赦なく判断の甘さを指摘したヒルドに対し、ヴェンツェルの口調は少しだけ砕けたものになる。
普段であれば意識する程ではないのだが、ネアと同じように漂流物の領域の影響を強く受け、いつもは整えている体裁が崩れるのだろう。
「きんもくせいの王子様がいるのですか……?」
首を傾げたネアに、隣に座ったアルテアが頷く。
「カルウィの、現七王子のことだ。魔術師の役割を持つ王族で、理知的な印象に対して享楽的な資質を持つ人間だな。あまり口数が多くないので誤認されがちだが、あれは、口が達者な方の魔術師の質だ。表面的な印象に騙されて足元を掬われる者は少なくない上に、そうなった場合のやり口はかなり陰惨な事が多い」
「ふむ。それはつまり、たいそう恨みを買っている方なのですね?」
「王族の中でも警戒をされている、という表現でもいいでしょうね。ですので、あまりそちらの線との繋がりを見せますと、金木犀の王子との関係が良くない王族は強い嫌悪感を示します。…………今回のように、あの王子が権威を強めるくらいであればと、ヴェルクレアの力を削ごうとする者も現れかねない」
アルテアの説明を引き取ってそう続けたヒルドに、ドリーが無言でこちらに頭を下げた。
(今回の一件の黒幕は、ヴェンツェル様が仰っていた十七王子だった)
そしてその背景には、ヴェンツェルが望まざるとも交流を持たねばならないカルウィの第七王子との関係を危険視したという事情があったらしい。
魔術師であり、カルウィの中でも漂流物などの扱いが上手いとされる金木犀の王子のやり方を敢えて踏襲した上で、今回の襲撃は行われたのだ。
調査を始めると、ヴェルクレア側に犯人を見極めるだけの目がなければ、カルウィの第七王子が関わっていると考えられるような材料が、事件の周囲に幾つも転がっていたそうだ。
しかし、当の十七王子の姿がヴェルリア港で目撃されていたことが決定打になり、ヴェンツェルの陣営は犯人側の敷いた誘導路に惑わされる事はなかった。
「ヴェルリアは、元々商人と船乗りの国でもある。カルウィの統治では得られない市井の情報網が港の各所に敷かれているという事を、十七番目は知らなかったのだろう。今回の一件は、父上と統括の魔物との間に話し合いが持たれ、ヴェルクレア王家も有責の上で、カルウィ側での落としどころが決まった。ウィームやネアを巻き込んでしまい、すまなかった」
そう言って、ヴェンツェルもこちらに深々と頭を下げる。
完全に被害者であるのだが、だとしても隙を作った事こそが問題なのだと言われてしまうのが彼の立場なのだろう。
意外にもすぐに事後処理の全てを引き取ったという国王派は、だからこそ、ヴェンツェルとウィームの関係に甘えることなく、王家有責としてアルテアに調停を持ちかけたのだ。
「公式な立場ではまた別の返答を求められるかもしれませんが、私の気持ちとしては、悪いのは仕掛けた側の方なのでそちらの問題がなくなっただけで充分なのです」
「このような事で今の内から足元を危うくしているようでは、将来が思いやられますね。ネア様、どうぞお気遣いなされず」
「ほわ……」
「ヒルド……………。ドリー、これはガレンの長としての言葉でもあるのだが、そろそろ兄上を休ませて差し上げてはどうだろう?ネアに出ている反応よりも、そちらの方が苦痛もあるのではないだろうか。リーエンベルクの星の庭の部屋を用意してあるので、………風景としては落ち着かないだろうが、そちらで休んで貰いたい」
「ああ。そうさせて貰おう。ヒルド、こちらの反応が落ち着いたら、あらためて話をさえてくれ」
「やれやれ、ガレンの長としての判断であれば、致し方ありませんが……………」
言葉は冷ややかだが、ヒルドは呆れたような表情である。
エーダリアが、苦し気な様子のヴェンツェルを見ていられなくなり、早々に話し合いの場を切り上げさせようとしているのに気付いたのだろう。
「ありゃ。エーダリアは甘いなぁ。……………でもまぁ、こっちにも必要な人材だしね。それに今回は、初動は良かったみたいだからそれで良しとするかな」
「……………ぐぅ」
ネアは最もこの場でヴェルリア王家に厳しい筈のノアも容認の方向だと知ると、安心してしまい、少しだけ眠ってしまった。
伴侶な魔物の椅子の上でくたんとなり、眠りの意識の外側で交わされる家族や仲間の議論を音楽のように聞いている。
(……………今回の主犯となった王子様は、陥れようとした第七王子に身柄を預けられるらしい)
今回の事件に巻き込まれた形で、こちらの統括の魔物の眷属が漂流物の城に呼び込まれたとし、アルテアが、カルウィの領域を収めるグレアムに申し立てが入る。
それを受けたグレアムが、ぎりぎり領海内で捕縛されたカルウィの第十七王子を、そちらの管理責任だという事にして第七王子に引き渡したのだそうだ。
カルウィでのグレアムは、贄と引き換えに願いを叶える事もあるという恐ろしい魔物である。
災いを齎す事も少なくない高位の魔物から弟王子を引き渡された第七王子は、すぐさま充分過ぎる程の供物を捧げ、自らの不手際を詫びた。
それは、魔術師でもあるからこその迅速な対応であったが、弟王子の思惑も仕損じたとは言え、まんまと不利益を被る形になった金木犀の王子は、国内での立場を安定させる為にも自分を陥れようとした派閥には容赦しないだろう。
おまけに、この一件に対して充分だというだけの粛清を見せなければ納得しないのは、何も一連の顛末を観察している他の王族達だけではない。
カルウィ一帯では気紛れで残忍な魔物として知られるグレアムに恭順を示す為にも、徹底的に今回の関係者を洗い出し殲滅しておく必要があるのだ。
(上手いやり方だと思う。ヴェルクレア側でも協力者の洗い出しと処罰は必要になるけれど、カルウィの継承争いや派閥闘争に首を突っ込まずに済む。被害者としてこちら側の服裾を一切汚さない解決が叶うのだから、国王派が素早く有責であると宣言した上でアルテアさんに頭を下げたのは、一番賢い解決の仕方なのだろう)
何しろ、統括の魔物同士の交渉に持ち込めば、ヴェルクレア側で、カルウィの尾を踏む可能性は限りなくゼロになる。
仕掛けられた罠から他国の問題に関わる羽目になるのが、一番馬鹿馬鹿しいではないか。
「……………むぐ」
「目が覚めたね。何か飲み物を貰うかい?」
「……………ふぁい。冷たい香草茶が欲しいです」
「うん。準備して貰おう。……………可愛い」
眠たさのあまり、ネアは少しだけ我が儘になった。
こんな時は、本来であれば用意のある飲み物の中に冷たいものはあるだろうかと尋ねるのが、いつものネアである。
特にそうでなければという拘りがない場合は、自分の我が儘を通す必要もないし、結果としては何を飲んでも美味しいからなのだが、眠たさのあまりに要求がどうしても前に出てしまう。
ディノは、そんな伴侶が甘えてくれるようで嬉しいようだが、ネアはまたやってしまったぞと眉を寄せていた。
「ぐぬぬ……………」
「欲しているものがあるのなら、今は素直に取り込んでおけ。今回の反応は、謂わば、環境でかかる負荷の軽減を体主導で求めてゆくものだ。反応を抑える方が負担になる」
「葡萄ぜり…………」
「ったく。用意しておいてやる。…………シルハーン、あの後も発熱はなかっただろうな?」
「うん。この子が眠ってしまってから様子を見ていたけれど、不調というようなものは出ていなかったね。あの王子にもそのような反応が出ていないのであれば、やはり今回の事は、漂流物には出会っていないという扱いなのだろう」
「その点に於いては、この国の王の目論見は外れた訳だな」
「……………む?」
ふと、聞き捨てのならない言葉が聞こえたぞと首を傾げていると、ふうっと溜め息を吐いたのはヒルドであった。
今回はヴェンツェルの陣営との連携が求められる為、かつてそちらで代理妖精の統括をしていたヒルドが、交渉や調整の前面に立っているらしい。
「ヴェルクレア王宮では、ある程度の漂流物の排出守護はなされている筈なんですよ。その上で、あの程度のものが持ち込まれたとなれば、内通者がいたという前提の他に、管理している部門での不手際もあったと考えるのが自然でしょう。…………王宮内での漂流物と迷い子の管理をしているのは、国王派です」
「それはつまり、…………その程度のものであればと、敢えて見逃された可能性もあるのですか?」
「アルテア様の見立てでは、国王派が、ヴェンツェル様に敢えて漂流物への耐性をつけさせようとした、という事のようですね。ただ今回は、内通者になった人物が思いの他顔が広く、ネア様を巻き込ませるような情報を得ていたのがそちらの想定外でした」
(でも、その場合は…………)
「私を巻き込まずに事件が起きていた場合は、……ヴェンツェル様がお一人であのお城に落とされたのでは」
「…………あの方は、それでも兄上であれば問題ないだろうと判断したのだろう。もしくは、いざという時には救援の手を差し向けるだけの準備すらあったのかもしれない。お前が気付いてくれたお陰で、あらためて兄上と話を出来たのだが、やはりヴェルリア王家には、ガレンの側でも把握していない漂流物の知識があるようだ」
「まぁ、計画そのものはカルウィの王子のものだけど、どうせならってことで、その罠を利用しようとしたってことなんだろうね。最悪の場合、あの王子は入れ替えの守護で戻れるし、そちらの陣営で失い得ない人材であるドリーは、あの城からの脱出方法は知っていたみたいだ。そこまでを承知の上で、様子を見ていたんじゃないかな」
「……………まぁ。羊飼いさんも、思い切ったことをするのですねぇ」
まだ眠くて頭がぼうっとしているからかもしれないが、巻き込まれたネアが、その措置に腹を立てることはなかった。
今回の罠に使われた漂流物が、呪物として扱える程度のものであることと、これからやってくる漂流物の訪れの前に耐性をつけさせようとしたのだと聞けば、成る程と思うばかりである。
「ここでの様々な縁を辿って、ルドヴィークやウェルバから漂流物の訪れに際しての知恵を借りていたが、まさか、これ程近くにより多くの対策を持っている者がいるとは思わなかった。王都で過ごしていた時にも漂流物の訪れはあったのだが、幸運にも私は外に出ずに済んでいたからな」
「それもさ、少し意図的な配置なんだよね。一度目はあの王自らが近くに居る時で、二度目はガレンの隔離庫の管理を徹底されていたってなると、対策の伝承がなされない代わりに巻き込まれないような手配はされていたのかもね」
「そう、……………なのだろうか」
思わぬ返答だったのか、目を瞬いたエーダリアに、ノアが頷いている。
「僕も、ヴェルリア王家を呪いはしていたけど、あの王家を紐解いた事はなかったからなぁ。多少、対岸の扱いに長けていても、海沿いに暮らしているからねってだけで納得しちゃってたし」
「その点については、私の把握が甘い部分でもありましたね。ヴェンツェル様の陣営の対策などは手伝っておりましたが、私自身も出身の文化圏が違いますので気に留めておりませんでした」
ふうっと息を吐き、ヒルドがそう言った時、ネアは、そんな森と湖のシーの国を滅ぼした王妃も、まるで漂流物の訪れのようだったのではないかとぼんやり考えた。
それは、海の向こうからやってくる得体の知れない恐ろしいもので、実際にその身の内にはこちらの側では収まらない何かが入っているのかもしれない。
「……………おや、グラフィーツが来たようだね」
そんな会話の折に、ディノが何かに気付いたように顔を上げた。
「まぁ。先生が来たのです?」
「うん。君の不調を診てもらおうと思ってね」
「こういう時、グラフィーツって結構時間通りだよね。前は意外だなって思ってたけど、最近は落ち着いているところも見るから、みんな、色々な側面があるんだなって思うけれど」
「……………ノアベルト!」
「エーダリア?………あ、僕の事を言ってる訳じゃないよ?!ええと、…………この前は、予防接種に連れていってくれて、有難う……………?」
何か繊細な問題に触れてしまったのか、ノアが慌てたようにアルテアに弁明している。
選択の魔物は何も言わず、とても暗い目をしていた。
ディノも少しおろおろしてしまい、そうこうしている間に、次なるお客を迎えに行ってくれたヒルドが戻ってくる。
「………症状は、眠気と倦怠感くらいか」
部屋に入ってくるなり、グラフィーツは青藍の瞳を細め、そう言った。
本日の装いは漆黒で統一されており、けばけばしい極彩色ではないようだ。
おやつの味覚向上に使われずに済みそうだと胸を撫で下ろし、ネアは、胸元に下げた銀のスプーンを揺らして歩み寄ってきたグラフィーツを見上げる。
「先生でふ。……………むぅ。またしても眠たくなってきたので、香草茶を飲みますね」
「いや、いい。……………眠たければ眠っておけ。終焉の魔物が連れ帰ったのなら、特に問題はないだろう。……………例の人影は見なかったな?」
「ええ。どなたも見かけませんでした。ウィリアムさんとオフェトリウスさんの服の色が反転して見えたのと、お城の中の展示物や、渡った橋の様相が違うものに見えたくらいなのです」
「どうだろう。何か、影響が残っているかい?」
ディノがそう問いかけたのは、こちらの砂糖の魔物に頼んだネアの健康診断で、漂流物の影響を診てくれるようにお願いしてくれていたかららしい。
漂流物の領域でネアにだけ違うものが見えていたという話をしたところ、ネア自身の身に持つ資質に揺らぎが出ていないかどうかを調べておいた方がいいという事になったのだそうだ。
「……………祝福と災いの反転などはないようですね。それが現れるとさすがに危ういが、魂の持つ履歴として、生育過程での知識と理が視覚の変化に繋がっただけでしょう」
「成る程な。入れ物を移し替えても、魂の枝葉の形はその生育環境によるものが残る。見る力そのものではなく、認識の仕方の相違という訳か……………」
「もう一つ確認だが、渡った橋に見えたという木香薔薇には、花が咲いていたか?花の色を聞きたい」
(……………薔薇の色)
ネアは、そう言えば、薔薇の花が咲いているとは思ったが色まではあまり気にしていなかったなと考え、首を傾げる。
強いて言うなら、色味そのものを感じなかったのだ。
「……………霧の中で色味そのものを認識せずにいたので、白だったような気がします。蔓性の小ぶりな薔薇の花だったので、木香薔薇だと思いましたが、違う品種だった可能性もあると思います」
「薔薇花が黄色だった可能性はあるか?白みや青みの黄色なら構わないが、鮮やかな黄色だと少し問題がある」
「…………いえ、黄色ではなかった筈です。そのような色味の黄色い薔薇であれば覚えている筈ですから」
「そうか。そうかもしれんな。…………では、そちらも問題なしだ」
そう告げて息を吐いた砂糖の魔物がまるで安堵しているように見え、ネアは目を瞬いた。
「何か、意味のある色なのですか?」
「橋の向こう側でのその色は、信仰と祝祭の領域に於いて、あまり良い予兆や啓示にならない色だからな」
「そうなのですね…………」
(そう言えば、私の育ったジョーンズワースの家の庭でもそうだった)
ふと、そんな事を思い出した。
それは母方の一族の禁忌であったようだが、なぜだか、黄色の薔薇だけは決して庭に植えないようにという迷信めいた言い伝えがあったらしい。
とは言えそれは珍しい事ではなく、ネアの暮らしていた土地では、古くからの経典に基づき、信仰の場にい於いての黄色を厭う文化はあった。
しかしそれも厳密なものではなく、このような意味合いを宿す色でもあるのでという程度のものでしかなかったような気がするので、母方の一族は迷信深い人達だったのだろう。
「特に問題もないな。……………テーブルを借りるぞ」
「ぎゃ!一仕事終えた感じで、お砂糖を取り出すのはやめるのだ!!」
「おい、食事なら他所でやれよ」
「予定を変更までして呼びつけられたんだ。このくらいの旨味がなければやっていられないだろう」
「グラフィーツなんて……………」
「ありゃ。いつものやつが始まるのか。……エーダリアも、そろそろ部屋に戻るかい?」
「あ、ああ。……………そうさせて貰おう。ネア、お前も今日はゆっくり休むのだぞ」
「ノアが、エーダリア様とヒルドさんだけ逃がそうとしていまふ……………」
「ええとほら、僕の大事な女の子も助けてあげたいけれど、今後の為に必要な交流かもしれないからね」
「ぐるるる!!」
ネアは、突然始まってしまったグラフィーツのおやつ時間から何とか逃れようとしたが、椅子になっている魔物が困惑して抱き締めてくれるばかりだったので、眠さのあまりにふらふらの乙女は逃げきれないまま、たっぷり見て楽しむおかず扱いにされてしまった。
アルテアも呆れてはいたが止めてくれなかったので、ノアと同じように、ある程度は折り合いをつけろという方針であるらしい。
ネアは精一杯の唸り声を上げ、じゃりじゃりとお砂糖を食べる魔物を威嚇していたが、その内にまた眠たくなってきてしまい、こてんと眠ってしまった。
ざざん。
眠りの向こう側で、また波音が揺れる。
ネアはどこかで暗い夜の海を見ていて、少しだけ怖いなと感じていた。
ふと、視界の端に白い者が揺れてぎくりとしたが、その途端に馴染んだ香りがしてほっと頬を緩めた。
「あの祝祭の文化圏のものではないのだろう。けれども、この子はもう私のものだ。ウィリアムが橋を落とした後も尚、そうして探そうとする事さえも疎ましい」
冷ややかなディノの声が聞こえ、その途端に波音がぴたりと止まる。
すっかり安心してしまったネアが寝返りを打って体を寄せると、優しい手がそっと頭を撫でてくれた。
「大丈夫だよ。君はもう、二度と帰れないから」
甘く暗く耳朶に触れるその言葉は、もしかしたらとても恐ろしいものなのかもしれないけれど、あの世界でどこにも行けなかったネアにとっては、お守りのような響きで心の内側にふわりと落ちる。
もぞりと手を伸ばして大事な魔物をしっかり抱き締めると、とても幸せな気持ちでまた眠りに落ちた。
あの漂流物の城にどんな名前があったのかを思い出そうとしたが、なぜだかもう、どうしても思い出せなかった。