前漂流とバルッサの城 2
「第一王子と入れ替えになったのか。情けないところを見せてすまなかったね。君が僕の次の王でなければ、危うく斬るところだった」
「まぁ。これでも激辛香辛料油と迷って、体に良いものにしたのですよ?」
「体に………いい?」
その後、剣の魔物は無事に目を覚ましてくれた。
今はとても怪訝そうにこちらを見ているので、ネアは神妙な面持ちで頷いてみせる。
きっちりと騎士服を着込んだオフェトリウスは、見慣れた美麗さを取り戻している。
穏やかに微笑んでいてもどこか酷薄に見え、それでいて人間と関わり慣れた人外者らしい親しみを感じられるのが、この魔物の特徴なのだろう。
片付けが出来ない事に加えてとても寝汚いことが判明したが、義兄も割とそんな感じなので、こちらの人間はそれが自分の不利益にならなければ気にしない。
「ここは漂流物の城か。ヴェンツェル王子が、誰かが魚に喋らせた名称を聞き違えていなければ、筏の漂流者かな。天窓の光の具合からすると城の主人は眠ったばかりのようだ。前漂流物を持ち込んだ者が無知で、この時間に仕掛けられたのが幸いだったね」
「………まぁ。随分と、漂流物に詳しいのですね」
淡々とした様子で現状の分析をしていくオフェトリウスに、ネアは目を瞬いた。
ヴェンツェルとの会話でもそうだったが、やはり、ヴェルリアが有している漂流物の知識は特別なものだという気がする。
少しばかり注意深く観察していると、そんなネアに気付いたのか、こちらを見た剣の魔物はおやっと眉を持ち上げて微笑んだ。
「君が驚いているのは、僕がここが誰の城かを特定したからかな」
「ヴェンツェル様も、漂流物の事をよくご存知でした。ヴェルリアは海の境界に近いとは聞いていたのですが、………どうも、その知識は特別なものだと思えてなりません」
「かもしれないね。ヴェルリア王族は、元より境界の向こう側から来た者だという説もある。あの土地で王位を継承し続ける為に必要な知恵と備えばかりだから、そこで培われたともされるけれどね」
「向こう側から………」
「ひっそりとこちらに紛れている者がいても、不思議ではない満月の夜などもある。王妃もね、海での儀式で何か別のものと内側を入れ替えたという者達もいる。精霊に近いと言われたり、中身は魔物だと断定する者もいて、真偽の程は定かではないけれどね」
朗らかな声でそう語られれば、ネアもさすがに呆然とする。
王都で出会った国王とのやり取りでも驚くことが多かったが、今のオフェトリウスが語っているのは、王妃に対する不特定多数の者達の評価である。
となればそれは、秘される程に隠されたものではないのかもしれない。
こんなにも、とんでもないことなのに。
「そのような事を、多くの方が認識されているのですか?」
「ヴェルリアの古い貴族の中には、海の向こうからやってくる力を持つ者を招き入れると大きな富を授かるという言い伝えを信じている者が多い。王家の起源に由来する価値観なのかもしれないね」
「……………だからこそ、ヴェルリアには漂流物に関する知識が、…………それが特別なものだと認識しないようなところまで、根付いているのですね」
「そのような事もあるだろうね。とは言え、王家の有する知識はやはり特別かな。それに、今の私の王は、異端と言ってもいい程だ。あのような立場で境界の向こう側にまで暇潰しに行く人間は、さすがに僕も知らないよ」
(境界の向こう側…………)
ウィームでの暮らししかしらないネアは、それがどれだけ特異な事なのかは分からないが、オフェトリウスがこう言ってみせるのであれば稀有な事なのだろう。
一杯のミルクティーを望んだ羊飼いが待っている人の事を思えば、ヴェルクレア王は今でもその誰かを探し続けているのかもしれない。
けれども、それは羊飼いだけの秘密に違いないので、ネアは自分の家族ではない者にまで話そうとは思わなかった。
「…………オフェトリウスさん、私はここから出てお家に帰りたいのですが、その術をご存知でしょうか?」
まだまだ聞きたい事はあったが、ネアは、剣の魔物が言及したことの中に気になる文言があった。
(城の主人は眠っていると、オフェトリウスさんは言ったのだ)
という事は即ち、夜になれば城の主人が目を覚ますのだろう。
与えられた好機を無駄にせずに、どうにかしてここから脱出せねばならない。
城の主人が目を覚ますまでにはここを出るのだと拳を握ったネアはしかし、なぜか、思案するように視線を返したオフェトリウスの眼差しに不穏な気配を見た。
「……………そうだね。出るだけであれば、そう難しくはないかな。でも、君と二人きりになるような機会は早々ないのかなと思えば、何か、君の王の質を垣間見れるような事が起ってもいいかもしれないね」
「入れ替えの直後から、人選を誤ったような気はしていたのです。こちらの魔物さんが少しも役に立たないのであれば、私の方で、眠っているというお城の住人は、今の内に殺しておくべきかもしれません………」
「おや、とんでもない暴君の質を見せ始めたね…………」
くすりと微笑んだオフェトリウスは、貴公子然とした表情である。
だが、目の前の人間が、茹でソーセージを食べ損ねた事でどれだけ磨耗しているのかは、知っておくべきだろう。
「私から、茹でソーセージを食べる機会を奪ったのですよ?寧ろ、なぜ今も生きているのかが不思議なくらいなのです」
「この城の主人も、君達を招きたかった訳ではないだろう。それと、便宜上、筏という名称が充てられているけれど、ここにいるのは樹木を司る者だ。あちら側ではどうなのかはさて置き、僕達の領域の作法からするとあまり危害を加えない方がいい相手だろう」
「まぁ。植物の系譜の方なのですね。除草剤一式を最近手厚くしたばかりなのです。とは言え、最新のものはいささか人型向けと言わざるを得ませんので、やはりスープになっているものでしょうか」
「……………アレクシスに何か持たされているな」
ネアは武器の品揃えが潤沢な相手だと胸を撫で下ろし、なぜか顔色を少しばかり悪くしたオフェトリウスから視線を外すと、あらためて、回廊の先を見つめてみた。
(…………壁の側面に窓はないから、窓からの脱出は難しいだろう。それに、この建物を出れば安全なのかどうかも今は確認のしようがない。何か魔術的な対応が必要なのかもしれないし、カードが使えないとなると必要なのは別のことなのかもしれない)
どのような建物の造りになっているのかを確かめる為に歩いてみてもいいのだが、ヴェンツェルと話した時には不用意に動かない方がいいだろうという結論であった。
なのでまずは、カードが使えずに入れ替えは可能だった理由を考えてみるべきかもしれない。
(…………入れ替えの守護は、可動域によって利用の可否が分かれるものだわ。私にもその備えがされた時もあるけれど、今は整っていないかもしれないし、魔術を扱えずに合図の仕方も知らない現状では、入れ替えを要求する方法も分からない)
入れ替えの守護は、沢山の備えをした上で予め打ち合わせをしておけば、ネアにも有用な手段だ。
だが、その備えは単発の仕掛けで継続的なものではないと聞いているし、当初の条件を考えると、ネアが生来使えるものではないのだろう。
そこまで考えると、結論は一つしかないような気がした。
(多分、入れ替えの魔術は己の身の内に残っている魔術を使うのではないだろうか。この場所にはカードを使えるだけの魔術はないけれど、ヴェンツェル様の可動域に於いて、身の内に残っていた魔術量が守護を動かす事を可能としたような気がする…………)
だからこそその守護が使えてカードが使えないのだとすれば、ここには己の身の内で魔術を育む生き物がいるではないか。
「…………貯水槽として使えるかどうか」
「……………さては、僕を貯水槽代わりにして、何か道具を使おうとしているね?」
新たな可能性を見付けてしまったネアが、鋭い視線を剣の魔物に向けると、オフェトリウスが困ったように微笑む。
その隙のない騎士ぶりに、眠っている内に森の仲間のおやつを食べさせておくべきだったと、ネアは心から後悔した。
「オフェトリウスさん、お腹は空いていませんか?」
「うん。この状況で君から与えられたものを食べる程、僕も迂闊ではないと思うよ。それと、なぜ僕がここに来られたのかまでは理解が出来たようだから、何もかもを僕に頼らずにその答えを自分で導き出したご褒美はあげようか」
「なぜでしょう。その言い方にむしゃくしゃします」
「自分の騎士ではない騎士なんて、こんなものさ。僕を望むように働かせたければ、自分の剣にしてみせるといい。君は僕の次の王に相応しいけれど、まだ主人ではない」
ゆったりと微笑み、それでもオフェトリウスは手を差し出してくれる。
どこかに連れて行ってくれるようなので、ネアはその手を見て小さく唸ったものの、素直に手を預けた。
「あなたが見出した価値の一つにつき、何かを一つ私に返してくれるという事でしょうか」
「そうかもしれないね。…………これもまた騎士の悪癖だけれど、主人として仕えるべき相手を何度でも見定めたくなるのは、資質に於ける欲求なのだろう。とは言え、流石に一度主人と決めたならそんな真似はしないよ」
重ねた手はひんやりとしていて、着替えを済ませたオフェトリウスはなぜか純白の騎士服で、魔物として剣を振るう時のような漆黒の甲冑姿ではなかった。
ネアは儚い望みを抱いて、預けた手からこの魔物の魔術な何かを少し取り入れられないだろうかと考えたが、九という可動域で自身を介してあのカードを動かせるかどうかは未知数である。
(でも、死者の国でも使えたのに。………だとすれば、魔術の有り無しというよりは、境界の向こうかこちらかも、カードの反応に関わっているのだろうか)
靴音はなく、二人は壮麗な回廊を前に進んだ。
暫く歩くと分岐があり、オフェトリウスは勝手知ったる様子で右手に曲がる。
左手に向かえば壁面に窓のある廊下に出られそうだったので、ネアはぎりぎりと眉を寄せた。
「……………もしかして、以前にも来た事があるのですか?」
「筏は、向こう側から漂着しやすいものなんだ。だからこそ、今回の事件を仕組んだ者達でも手に入れられたんだろう。正確には、その材料となる樹木そのものが漂流物なんだけれど、向こう側では余程頻繁に海に流すものであるらしい」
「ふむ。筏の材料として一般的であるならば、水に浮きやすい、或いは耐水性の高い木材なのかもしれませんね。激辛香辛料油をかけて火を放てば、良く燃えるかもしれません」
「困ったな。思考が完全に襲撃者側になっていないかい?」
隣を歩く剣の魔物は、穏やかな口調のどこかに僅かな呆れを滲ませていたが、ネアは、漂流物関連では耐性ありという言葉を既に貰っている。
一度それを退けたものを損なえないのが漂流物であるのなら、相手が防戦一方の中で戦う術を持っているということではないのだろうか。
そこに僅かな期待をかけているネアは、もし厄介なものと遭遇したらすかさず戦う所存であった。
だが、魔術的な作用が見込めないのであれば、ちびふわ符などは使えないだろう。
とは言え、激辛香辛料油は多分、境界の向こう側でも有効なものではないだろうか。
「………は!」
「おや、何か気付いた事があったのかな?」
「こちらでは魔術的なものが扱えないとなると、先程オフェトリウスさんに飲ませた傷薬は、更に千倍ではなく、元の何倍だか分からない謎倍率のままだったのでは……」
「……………最初から得体の知れないものを、よくも僕に飲ませようと思ったね」
「あら。アルテアさんは、そこから更に強化したものをいつも飲んでいるのですよ?」
ネアがそう言えば、オフェトリウスは顔を顰めた。
いつも愛想よく微笑んでいるような魔物なので、珍しい表情なのかもしれない。
(……………あ、)
何かが奥でちかりと光り、ネアは、広い廊下の壁沿いに並んでいる装飾台に気付いた。
美術館などの展示台に似ており、優美な曲線を描く脚を持つテーブルには硝子のような覆いがかけられている。
どうやら、テーブルの上に飾られているものを保護してあるようだ。
こちらの世界に来てからは、お城などの装飾品をこのように保護している様子はあまり見ないなと考えていたネアは、硝子の覆いの中に収められているものの奇妙さに気付いた。
ぼろぼろになった宝箱のようなものの中には、鈍い輝きを放つ金貨や宝石が入っている。
朽ちかけた木箱の中の高価そうなお酒に、欠けた石板や、不思議な痛み方をした見事な宝石の首飾り。
どれも、今のままでも価値のある物のようだが、一様に少し痛んでいて、その痛み方には共通点があるように思えた。
ふと、先程見た、足元に落ちる不思議な天窓の光の揺らぎを思い出す。
あの光を見た時、ネアは、まるで水の底にいるようだと思ったのだ。
「………ここは、もしかしたら難破船の底のようなところなのではありませんか?」
オフェトリウスがどこに案内してくれているのか分からないが、ご褒美だと言われる要素は増やしておいた方がいいだろう。
そう考えたネアは、もう一度展示品を確認してから隣の魔物にそう尋ねてみた。
ふつりと揺れたのは、こちらを見たオフェトリウスの青緑色の瞳で、あまり光の入らない夜明けのお城の廊下の中では、鮮やかな南洋の海の色にも思えた。
とても鮮やかで美しく、穏やかに見えるけれど残忍さもある。
線引きの外側にいる魔物の眼差しだ。
「…………よく分かったね。君が見ていた飾り棚には、特に答えに繋がるようなものは飾られていなかった筈だけれど」
「あら。木箱や宝飾品の朽ち方には、長年海水に浸かっていたものの特徴がありますよ?そのような物ばかりを置いてあれば、今のように考えてみることは出来ます」
「……………朽ち方?……………どの品物も、少しの遜色もなく真新しく見える。……………どうやら、僕が王にと思う君には、魔物の目には映らないものが見えるらしい」
「なぬ………」
一人だけ、見えているものが違う。
それはまさにホラー的な展開なのでとてもやめて欲しかったが、オフェトリウスはなぜか上機嫌になって微笑んだので、ネアは、結果としては当たりを引いたのかなと首を傾げた。
だが、二人に見えているものが違うのであれば、その差をつけたのは何だろう。
漂流物に対峙してそれを退けたかどうかであれば、ヴェルリアの騎士団にいるオフェトリウスにもその経験はあるのではないだろうか。
「王の質があり、目がいいのか。僕はまだ試した事がないけれど、君にシルハーンがいなければ王配の座を狙ってみたくなるくらいだね」
「解せません。なぜに騎士さんの立場からそこまで飛躍するのだ」
「強欲さもまた、剣の気質だよ。僕は仕え祓う剣としての気質が強いものだけれど、中には簒奪だけを資質とする剣もある。どちらにせよ、剣は正しく従えておかなければ貞淑ではなく欲深いものだ」
ネアは、王都の騎士団長が浮いた話のない硬派な騎士ではなく、どちらかと言えば社交界でも人気者であることを思い出した。
放蕩者という感じではないようだが、適度に嗜んでいるらしい強かさもあるので、本人の言うように貞淑な気質ではないのだろう。
(これ迄は柔和で御し易いような面ばかりを見せてくれていたけれど、これもオフェトリウスさんの一端なのだろう。もしかすると、………ここがいつもとは違う対岸のどこかであることも影響しているのではないだろうか)
ネアはふと、そんな事を考えた。
オフェトリウス自身の姿には変化はないものの、なぜかこの魔物がいつもとは違う純白の装いであることが少しだけ気になっていたのだ。
土地や文化によって、認識や扱いが変わるものがある。
ここが漂流物の領域なのだとしたら、あの世界の中での価値観や資質に紐付く生き物の在り方に、変化は出ないのだろうか。
「…………さて。そろそろ境界だね。………この先は、君はどう見えるんだい?」
立ち止まったオフェトリウスが、そんな事を問いかける。
ネアは眉を寄せて正面を見据え、なぜ、石造りの壮麗なお城の中に、突然朽ちた木の橋が現れたのだろうと考えた。
「朽ちかけた木の橋です。木香薔薇のような植物が絡み、お花が咲いています」
「……………バーンディア王が君を気に入ったのは、境界の向こう側の目を持つからかな。……………君も、案外こちら側から迷い込んだものなのかもしれないが。……………僕にはね、城の棟を繋ぐ石造りの外回廊に見えるんだ。僕には健やかなものに見え、君には危ういものに見える。まるで、こちらとそちらの線引きのようだとは思わないかい?」
ひゅおんと、どこからともなく風が吹いた。
ネアとしては、急にお城の廊下の外壁が崩れ、見るのも危ういようなぼろ橋がかかっているようにしか見えない。
橋の向こうは霧がかっていて、怖い夢にでも登場しそうな風景だ。
(けれども、その何かが境界を分かつ場所を示しているのであれば…………)
ネアは本来、向こう側に渡るべきではなかったものなのだろうか。
そう考えてしまうと僅かに足が竦み、もし、橋を渡る途中で自分だけ足場が崩れてしまったらどうしようかと不安になった。
ネアにとって一番恐ろしいのは、やっと見つけた大事な場所に帰れないことだ。
漂流物を悍ましく思うのも、それが、ここではない場所との繋がりがあると示すから。
二度と戻りたくない場所があるからだ。
「……………むぐ、バルッサめ」
だから、今の自分の居場所を心から気に入っているネアが、怒りで自分を奮い立たせようと思わずそんな怨嗟の呟きを漏らしたのは、崩れ落ちそうな橋にさしかかる直前の事だった。
一緒にいる人間が橋を威嚇している事に気付き、オフェトリウスが小さく微笑む。
「君の視覚だと、少し足元が危ういのかな。ここを通る間は僕が抱き上げてあげようか。……………そうだね、僕を、必ず君の特別な騎士にしてくれると約束してくれるのであれば」
「悪いが、それは俺の役割だな。ネアの騎士は今のところ、俺だけで充分だ」
「……っ、ウィリアム?!」
耳元に唇を寄せた魔物のの悪戯っぽい声音で成された提案に、ネアがぐぬぬと更なる威嚇体勢を取ったその瞬間だった。
後方からかかった声に、ぎょっとしたようにオフェトリウスが振り返る。
「ウィリアムさんです!!」
そこに立っていたのは、ネアの良く知る終焉の魔物だ。
けれどもなぜか、今度はウィリアムが、純白の軍服ではなく漆黒の軍服姿であった。
その装いに目を瞠り、ネアは、まるで蝕の時のようだと思ってしまう。
だが、髪色や瞳の色はいつものままであるし、ウィリアムが漆黒の軍服について説明をする事はなかった。
びゃんと喜びに弾んだネアが伸ばした手を、ウィリアムはすかさずしっかりと握ってくれる。
「ネアが、呪いの結びの言葉をこちらから呟いてくれて助かった。あの王子も口にしたが、すぐさま同じ言葉を重ねて道を打ち消してしまっていて、向こう側から辿れずにいたんだ」
「ほわ、まさかバ……むぐ?!」
「おっと!」
迂闊にももう一度その言葉を言いかけてしまい、ネアは、ウィリアムの指先で唇を押さえられる。
そして、そのままひょいと持ち上げられた。
「こちらに道を繋げると、また誰かが落ちるかもしれない。向こうに戻って橋を落とすまでは、口にしないようにな」
「ふぁい。その前のお話で想像出来た筈なのに、うっかりでした…………」
くしゅんと項垂れたネアを引き寄せて腕の中に収めると、ウィリアムは、苦笑しているオフェトリウスに視線を戻す。
「…………騎士は間に合っている。君は、もう暫くは王都で仕事をしていたらどうだ?」
「やれやれ。忙しいあなたでは、ウィームに常駐は出来ないでしょう。それに、いずれ僕はウィームに必要になりますよ。現王の代のような安定が、次の王の代ですぐに築けるとは思わない。その時には、リーエンベルクで捌く問題には、外交も入るようになる筈ですからね」
「かもしれないが、当分は問題ないだろう」
「対岸と強欲さと、彼女の資質にも僕はよく見合っていると思いますけれどね」
「資質の面で言えば、最も相性がいいのは俺だと思うぞ。響きだけ聞けば言うまでもないだろう」
何やら、ウィリアムとオフェトリウスは冷え冷えとした応酬をしているようだ。
しかしネアは、黒い軍服姿のウィリアムをもう少し観察したくてそわそわしていたし、けれどもいよいよ朽ちかけた橋にそのウィリアムの足がかかったといいこともあり、相反する思いに心の中を忙しくしていた。
ウィリアムが橋に立てば、ぎしりと、今にも崩れ落ちそうな木の板が音を立てる。
ネア自身が踏んでいる訳ではなかったが、漆黒の軍靴が踏み込まれると僅かに爪先が沈む様子に、今にもネア達の重さに耐えきれずに腐り落ちるのではないかとはらはらしてしまう。
思わずぎゅっとウィリアムの肩に掴まってしまえば、おやっとこちらを見たウィリアムが酷く優しい目をした。
「すまないな。オフェトリウスは放っておこう。……怖かったか?」
「ふぐ。…………もしかすると、ウィリアムさんには、ここが石造りの外回廊に見えています?」
「そう問いかけるという事は、ネアには違うものに見えるんだな?」
「彼女には、朽ちかけた木の橋に見えるようですね」
「……………おかしいな。俺はネアと話をしていた筈だったんだが」
「僕も同じような思いかな。本当なら、彼女は僕が抱いて渡る筈だったんですが」
「ぎゃ!橋が、みしっとなりました!!」
「おっと。それならここは、早々に抜けてしまおう」
ぐっとウィリアムの体に力が入り、ぶわっと周囲に立ち籠めた霧が揺れた。
オフェトリウスはが小さく呻く声が聞こえ、すぐ近くで別の何かがまた霧を揺らす。
一瞬のことすぎて、何が起こったのか理解出来なかったネアは、ぱちぱちと目を瞬く。
周囲を見回すとそこはもう、橋の対岸のようなので、どうやらウィリアムは、あの橋を駆け渡ってくれたようだ。
「趣味が悪いですよ。あなたが先に戻れば、僕が渡っている間に橋を落とすつもりだったでしょう」
「仮にも漂流物の一端なんだ。早々に押し戻しておいた方がいいだろう」
「……………むぐ。も、もう橋は抜けたのです?」
怖さのあまりにウィリアムの肩口に埋めていた顔を上げてあちこちを見ていたネアがそう尋ねると、こちらを見た白金色の瞳が優しく微笑む。
白い軍帽の影に気付きはっとすると、ウィリアムはもう、見慣れた白い軍服姿であった。
「あの場所との間に術式に押し固めた繋ぎは、ここで俺が断ち落としておくから安心していいぞ。……………ここは、ガゼットか、………バルザールか。もうこちら側に戻ってきたからな。すぐにシルハーンが迎えに来る筈だ」
「ふぁい………」
(戻って来られた………)
思っていた以上にすぐに解決したし、何か恐ろしい怪物が現れた訳でもないのだが、なぜか異様に恐ろしかった朽ちかけた木橋を超えたと知り、ネアはよれよれな思いでウィリアムな乗り物に身を預ける。
微笑む気配があって、優しい手が背中を撫でてくれると、ふうっと安堵の息を深く吐いた。
「あの特徴的な時計塔があるということは、バルザールのようだね。さてと、僕は王都に戻って午後までには昨日の報告書を仕上げた方が良さそうだ。とは言え、その前にヴェンツェル王子に会いに行かないとかな」
その言葉にもう一度顔を上げると、いつもの漆黒の騎士服のオフェトリウスがこちらを見て微笑む。
柔和で美しい微笑みだったが、ネアは、無事に帰れたのであれば全てを良しとする善良な人間ではなかった。
「オフェトリウスさんの騎士さんな評価は、今回の一件で十八段階降格です」
「んん?!多くないかい?!」
「最初の、有事なのに二度寝をした段階で五段階降格なのですよ……………」
「やれやれ、オフェトリウスは未だに寝起きが悪いのか………」
がくりと項垂れた剣の魔物を見て、ウィリアムが呆れたような目をしている。
ネアが剣の魔物の査定をしている間に何かをしてくれたのか、片手で剣を鞘に納めていた。
はっとして周囲を見回すと、もうあの橋はどこにも見えない。
「ネア!」
「ほわ、ディノです!!」
「……………良かった。怖かっただろう」
そこに飛び込んできたのは、まだ三つ編みにしておらず長い髪の毛を下ろしたままのディノだ。
こちらもすっかりくしゃくしゃになっているので、ネアは、慌ててウィリアムに持ち上げられたまま手を伸ばした。
「ヴェンツェル様はとても落ち着いておられて頼もしくて、オフェトリウスさんはなかなか起きずに大変だったのですよ………」
「オフェトリウスなんて…………」
「物凄い勢いで僕の評価を落としているけど、これでも、頑張って君を連れ帰ろうとしていたのだけれどなぁ」
「シルハーン、こちら側との繋ぎは切っておきました。……………バルッサの城の回廊だったようなので、比較的良く見かける漂流物ですね」
「うん。この子が迷い込んだのが、夜明けだったのが幸いしたようだ。………ネア?」
「………茹でソーセージは、まだあります?」
ネア達が立っているのは、バルザールという土地であるらしい。
ウィリアムから伴侶な魔物の腕に受け渡されてやっと安心したネアは、今居る場所から見えている時計塔のある町の様子から、まだ朝のようだと気付いたところであった。
考えてみれば、ヴェンツェルと共に漂流物の領域に落とされてからは、半刻程度しか経っていないように思う。
であれば、楽しみにしていた朝食に間に合えるかもしれないと考えたのだ。
「うん。君が楽しみにしていたメニューだったね。少しだけ遅くなったとしても、まだ充分に朝食の時間にも間に合うと思うよ」
水紺色の瞳を瞬いたディノは、すぐにそう言ってくれた。
ぎゅっと抱き締められ、いつもの大事な魔物の腕の中で、ネアは安堵と喜びにふにゃりと微笑む。
これから王都に戻るというオフェトリウスには、それでもちゃんとお礼も伝えておいた。
入れ替えとなったのが剣の魔物であったのが頼もしかったのは事実であるし、昨晩は夜会であったので今朝は午前中は休みを取っていたと聞けば、折角のお休みを潰してしまったという罪悪感を覚えなくもない。
「僕の評価を元通りにしてくれてもいいけれど、お礼代わりに、ウィームで見かけたらザハのケーキでも一緒に食べてくれるかい?勿論、僕の奢りだ」
「……………じゅるり」
「オフェトリウスなんて……………」
「勿論、シルハーンもご一緒の時にお声掛けしますよ。…………さて、僕はこれで失礼します。また、今回の事件の首謀者なども含め、ご連絡させていただきましょう」
その言葉を残し、オフェトリウスの姿がしゅわんと消える。
ネア達は顔を見合わせ、こちらもリーエンベルクに帰るかと微笑み合う。
「ウィリアムさん、来てくれて有難うございます」
「ああ。今回のように、術式などでこちら側から漂流物の領域に橋をかけた場合は、どちらにせよ俺が行く必要があるんだ。この世界の禁忌にあたるからな」
「むむ、そうだったのですね。ディノ、先に戻ったヴェンツェル様はご無事だったでしょうか?」
「うん。ドリーがとても怒っていたようだけれど、呪いを仕掛けた者はすぐに捕縛されたようだ。今回は、漂流物対策の指揮を取っている国王派が迅速に動いたらしい」
「ふむ。あの王様であれば犯人も捕まえてしまえそうだと言う気がしますね………」
アルテアは、統括の魔物として王都に赴いた後、その後は、やはり犯人だったらしいカルウィの王子を巡ってそちらの統括をしているグレアムと話し合うらしい。
何にせよ犯人が特定されたのはいいことだと頷き、ネアは安心出来る伴侶の腕の中で目を閉じる。
どこか遠くからこの世界に流れ着く船の残骸には、様々な積み荷があるだろう。
かつて、経典一つが巻き起こした惨事を思えば、あの城に飾られていた物の一つでも、こちらに漂着させてはならないという気がした。
(ずっと海の底に沈んだまま、…………こちらには来ませんように)
そう思って身震いすれば、ざざんと、どこかで波音が聞こえた気がした。