前漂流とバルッサの城 1
「ほわ……………」
壮麗な回廊を見上げ、ネアは感嘆の溜め息を吐く。
美しいモザイクは薔薇枝と星の意匠のようで、どこか占い札のような不思議な構図であった。
窓は壁ではなく天井にあり、夜明けのものらしい光を足元に落としている。
「漂流物の城だとすると、厄介だな」
隣で同じように天井を見上げてそう呟いた王子は、あまり馴染みのない赤い瞳をしていた。
けぶるような金髪に天窓の光が揺れ、その光の揺れ方にふと、ネアはここは水の底なのかもしれないと思う。
(困ったことになってしまった………)
今年が漂流物の訪れのある年であることは、ネアとて重々承知していたつもりだ。
様々な手立てが整えられ、恐らく見えないところで用意された備えもあるのだろう。
だがまさか、それが悪意のスパイスとして誰かの頑強な守護を崩し、政治的な領域で自分を巻き込むものだとは思わなかった。
今日の朝食には楽しみにしていた茹でソーセージが出る筈だったのだと遠い目をすると、この事態に至るまでの経緯を説明した同行者がこちらを見る。
「……………という事だ。今回の一件を仕組んだ者は、私の失態が、ウィームの歌乞いの身の安全を損なうようにしたかったのだろう。用意されていた皿はウィームの伝統的な絵付けであった。歌う少女の絵柄が添えられていたので、思わず…………お前を思い浮かべてしまったのだ」
「ヴェンツェル様が私をこちらに呼び落してしまった経緯の上で、一番気になっているのは、お皿の上の焼き魚が喋った事なのです……」
「料理は生き物を使うので、決して珍しい術式ではないと思うのだが、…………調理されたものが呪いの言葉を吐く事もあるだろう」
「全くの初耳なのですよ。何という嫌な呪いなのだ」
お皿の上でソースまでかけられた魚が、バルッサと叫んだと聞いた段階から、ネアの頭の中はそのことでいっぱいになってしまっていた。
なお、現在、ヴェルクレア第一王子と共にネアが立っているのは、不思議な青い石材で造られた異国風の回廊である。
公的な立場で仕事をする事の多いヴェンツェルは、王族として名前に特別な仕掛けを持っている。
よって、ここでネアが名前を呼んでも支障はないそうたが、ヴェンツェルはネアの名前を呼ばないようにしてくれているようだ。
(でも、……………そのような理や仕掛けが、知っているままに機能するのだろうか)
そんな疑問にひやりとしてしまい、ネアは、小さな溜め息を噛み殺す。
ここは、漂流物の城だという。
漂流物が治める城なのか、漂流物も収められている城なのかは定かではないが、どちらの場合もそう呼ぶのだと教えてくれたヴェンツェルに、ネアは少しだけ驚いた。
ウィームでは、得体の知れず厄介なものという認識の漂流物だが、境界と成り得る海の近くで暮らす王族にとっては、そのような区分が身に着く程には近しいものであるらしい。
ネア達の立っている回廊は、少しだけカルウィの建築に似ているがヴェルリア風のエッセンスもあるようで、首を傾げてこの回廊を観察していたヴェンツェルは、見知らぬ建築意匠だと結論を出していた。
第一王子を狙った罠に巻き込まれる形になった乙女的には、ある意味、このような場所はもはや見知った領域だとも言える。
(またしても、見知らぬところに迷い込んだのだわ)
ただし、それが漂流物の領域だと理解するのは、やはり恐ろしい事であった。
身に付けたこちらの世界の常識が、少しも通じない可能性がある。
「…………ここ迄の説明で、分からないことはあるか?」
思っていたよりも冷静な問いかけに、ネアは首を横に振った。
今朝の朝食の席で、お皿の上の焼き魚が呪いの言葉を叫び、そんな魚が盛り付けられていたウィーム風のお皿のわざわざ歌乞い思わせる絵付けを見て、思わずネアを思い浮かべてしまったヴェンツェル王子は、気付けばネアと共にこのお城の中にいたという。
まさかの朝食の皿の上という罠の位置に、さすがの第一王子陣営も、回避が間に合わなかったらしい。
また、第一王子の食事に手を加えられるということは、王宮内に手引きをした者がいるのも間違いない。
ここまでが現在判明している事実である。
お皿の上の魚が叫んだという冒頭からたいへん気が散る説明であったが、話すことに長けた人物らしく、ヴェンツェルの話はとても分かりやすかった。
そのような経緯があり、ネア達は現在、漂流物の側の領域のどこかに引き摺り落とされているのだ。
「漂流物とは言え、ヴェルクレア周辺には、まだ本漂流が届いてない。前漂流として現れたものを、どこからか入手してきたのだろう」
漂流物の欠片を呪物にする手法は昔からあるのだと説明され、ネアはまたしても驚いてしまう。
ヴェルリア王族だからこそ知り得る特別な知識なのかもしれないが、ウィームでは聞いたこともないような話である。
(もしかすると、ヴェンツェル様が当たり前の知識だと思って話していないことの中には、エーダリア様や私の家族が初めて聞くような情報があるのではないだろうか)
「ヴェンツェル様を狙った罠に、漂流物の欠片などを仕込めたということは、…………犯人は人間ではないのでしょうか。何と言うか、あまり人間が用意に扱えるものではないと思うのです」
「ああ。あの皿を用意したのは、人外者だろう。同じ部屋の中にドリーがいない瞬間を狙える事も合わせて考えると、近しい人物が取り込まれている可能性もある」
「………それは、あまり嬉しくない気付きですね」
「そうだな。………だが、私の立場では望まざるとも周囲に人が増える。裏切りなどに磨耗するような相手とは別に、立場上、近しくせねばならない者達も多い。今回はそちらの側の誰かの裏切りだろう」
淡々とそう言ってのけたヴェンツェルに、ネアはこくりと頷いた。
朝の早い海の都の王都とは違い、ウィームは朝食前の時間であったので、ネアはまだ部屋着であった。
首飾りの金庫から取り出した上着を羽織り、こちらも金庫の中にしまってあった戦闘靴に履き替えている。
可能であれば部屋着から手持ちのドレスに着替えたいが、さすがに誰が現れるともしれない回廊でそこまでを済ませる勇気はない。
何しろ、今回、ネアと一緒にいるのはヴェンツェルなのだ。
エーダリア程の魔術の才もなく、ネアにとって近しい相手でもなく、勿論、ネアがいつも頼ってしまう魔物達のように様々な事を可能とする訳ではない。
おまけに、いち国民としてもここで損なわれては困る、エーダリアの兄で未来の国王候補だ。
「後ろにいる方の予測は、ついているのですか?」
「現段階では、何の裏付けもない私の個人的な見解でしかないが、先日のターシャックの一件の残党か、………カルウィの十七王子だな」
「じゅうなな……………」
「ああ。私が王子としての交流を持っている、カルウィの何人かの王子達のすぐ下の順列にある王子だ。自国内での苛烈な争いに加わらずに上の王子達を削るのには、大国であるヴェルクレアとの交流の手札を奪うというやり方もある。先日までヴェルリア港に寄港していた交易船に姿があったという報告に、妙な動き方をするなと探らせていたのだが…………」
「ふむ。その方が首謀者だとすれば、思っていたより上手く立ち回れたようですね」
「警戒をしていたがそれでもこのような事を可能としたのだと思えば、十七王子に対する評価は上げざるを得ないな。………恐らくだが、私一人をここに送り込むのが目的ではないのだろう。ヴェルクレア王族の持つ入れ替えの守護についての知識があり、その上で、私の陣営がどうすれば致命的な傷を負うのかまでを理解している」
入れ替えの守護は、高貴な者達に与えられる、特定の人物と身を入れ替える魔術だ。
エーダリアが使った事もあるが、ヴェンツェルのような立場の者がその備えをしていない筈もない。
そう考えた犯人は、ただヴェルクレアの第一王子を漂流物の領域に落とすだけでは足りないと考えたのだろう。
第一王子がこの罠を切り抜けることを見越した上で、的確に力を削ぐための同行者としてネアを指名したのであれば、ウィームの歌乞いを取り巻く環境がそれを許さないという判断が出来るからだ。
絵皿にわざわざ歌乞いを思わせる絵付けをして使っているのだから、ネアを特定した上で巻き込もうとしたのも間違いない。
(つまり、…………それだけの情報を手にしている人物が犯人の側にいる。けれども、私がこのような展開に耐性がある事と、このような場を切り抜けられそうな備えがある事迄は知らないのだろう。…………恐らくだけれど、こんな事件が起きても、ディノが第一王子派に八つ当たりをする訳ではないという事も知らないのだと思う)
巻き込まれたウィームの歌乞いが何らかの形で損なわれ、そのような事件に歌乞いを巻き込んだ第一王子派を、契約の魔物が損なうところまでが作戦だろうというのが、ヴェンツェルの推理であった。
場合によっては、ネアの周囲にいるのがディノだけではないという情報までも持っている可能性があると言われ、ネアとその可能性があると思っている。
(そもそも、罠を仕掛けたのはある程度高位の人外者かもしれないのだもの)
人間の側で得ている情報とは別に、人外者の側からの情報も得ていると思えば、そこまでも予測を立てられても不思議はないのかもしれない。
とは言え、現在のヴェンツェルの陣営の一つの柱となっているのが、ウィームとの連携であるという理解を犯人側に齎した裏切り者が、王都のどこかにいる可能性もあった。
「とは言え、そちらの炙り出しと対処は、……ドリーを始めとした私の陣営の誰かが済ませるだろう。ウィームの側では、ダリルも加わるかもしれないな。こちらで早急に結論を出すべきことは、私が誰と入れ替わるかなのだが、結論は出ただろうか」
「ヴェンツェル様が結んでいる守護で、確実に入れ替えが可能となると、ドリーさんか、代理妖精さん達、後は騎士団の方なのですよね」
「ああ。ドリーであれば、どのような事があってもお前を守るだろうが、…………このような領域への対処については、別の者の方が長けているかもしれない。漂流物への対処という意味では、何人か適した者がいるが、……………お前が面識があるという者の方がいいのだろう」
「むぐぐ…………」
二人が悩んでいるのは、まさにその人選であった。
ヴェンツェル自身は入れ替えの守護で元の場所に戻れるが、ネアはそうもいかない。
入れ替えの守護はたいそう便利なものだが、使う当人にもある程度の可動域も必要なので、ネアが日常的な備えをするのはほぼ不可能に近く、どうにかしてそれを叶えたいのであれば、手間暇かけて備えておかなければならないようなものだ。
よって、その備えを持たずここに残らねばならなくなるネアの為に、ヴェンツェルは、無事にウィームの歌乞いを連れ帰る力を持つ人物と入れ替わろうとしてくれている。
(ここで、ドリーさんをこちらに入れてもいいというような判断が出来るくらい、ヴェンツェル様はドリーさんを信頼しているのだわ)
確かに、ドリーであれば力を尽くして守ってくれるだろうし、ネアの良く知る魔物達からも評価の高い高位の竜である。
だが、ネアの所感としては、こうした事件の場合はより高度な器用さを求められるような気がしていた。
王都で騎士団長をしているオフェトリウスあたりが適任ではあるのだが、可能であればもう少し手堅く、王宮に出入りのあるグラフィーツ、或いは、かつて王宮に魔術師として出没していたノアが望ましい。
しかし、グラフィーツからノアへの順番で、入れ替えが可能かどうかの難易度が格段に上がるのだ。
王宮内で王家に仕える立場にある者、或いは協力者や在籍者の中で、術式の承認が入った際に、この入れ替えに同意してくれる者でなければならない。
騎士団の騎士達は所属する際に誓約を交わしているが、単にヴェンツェルからの入れ替え依頼としてしか認識の出来ないグラフィーツやノアは、拒否する可能性は低くなかった。
「……………私の義兄は、そもそも入れ替えをかけられるかどうかすら、定かではないのが悩ましいです」
「ああ。この術式は拒絶されたら後がない。殉じる覚悟を持つ者がいてこそ生かせるものだからな」
「むぐぅ…………」
「道筋さえ付けられれば、ここから脱出するのはそう難しい事ではないだろう。…………父上から聞いた事があるのだが、狂っている漂流物は比較的簡単に見分けがつくらしい。この回廊の様子を見ていると、………ここにいる何かは、そのようなものではないと考えている」
「ええ。それについては私も同感です。…………何と言うか、悍ましい感じが少しもなく、単純に他人様の土地に迷い込んだという感覚しかありません」
幸いにも、周囲に誰かの気配はない。
どこからか侵入者の様子を窺っているのかもしれないが、何かがまだ始まっていない、或いはこちらには無関心であるという印象があった。
不思議な感覚ではあるが、ヴェンツェルもそう感じるのであれば、この領域からの意思表示でもあるのだろうか。
(つまりは、事態が変化する前に、ここから無事に出る事さえ叶えばいいのだわ)
だが、その為に必要な入れ替え相手の厳選が、たいそう難航していた。
何しろここは、ネアが何かと切り札にしてきた、カードによる交信が叶わないのだ。
それが即ち、漂流物の領域だという事に他ならないのだが、こんなに不便なのかと思わずにはいられない。
(……………ヴェンツェル様が戻れば、ディノ達に連絡を取って貰う事も、この状況を説明する事は出来るのだけれど、………こちらから連絡が取れない状態では、グラフィーツさんやノアに入れ替えの魔術に応じて貰うのはやっぱり難しいのだろうな………)
となれば、一番可能性が高く、その上でこのような領域からの脱出を可能にしそうな人物はいる。
しかし、そんなオフェトリウスが実は高位の魔物だという点に、大きな懸念があった。
本来であれば、王家に忠誠を誓っている騎士なので、誓約で引き受けている入れ替えを拒絶出来る立場ではないが、実は高位の魔物となれば幾らでも枷の外しようはあるだろう。
そうなると、確実に受け入れてくれるのはドリーだけなのかもしれない。
頼もしい相手程不確定になるという悩ましさに満ちた選択肢なので、慎重な判断が求められる。
長考する余裕もないので、すぐにでも結論を出すべきだ。
(……………案外、ノアなどはすぐに気付いて応じてくれるかもしれないけれど、やっぱり賭けになる。それに、今回実際に狙われたのがヴェンツェル様だと考えれば、ドリーさんが近くに居ないと何かがあってからでは取り返しがつかなくなる)
ヴェンツェルの読みでは、ネアを巻き込むことこそが敵の狙いだという。
だが、その危険を回避する為にヴェンツェルがドリーという最大の切り札を手放す瞬間こそを狙うという、二重仕掛けの罠ではないとは言い切れないではないか。
「……………騎士団長さんにします」
「良いのだな?…………彼は、入れ替えの術式を拒絶出来るかもしれないという事であったが」
「王宮内の騒ぎを、あの方が掴んでいるという事に賭けましょう。お皿の模様は、明らかに私を示すような露骨なものだったのですよね?であれば、ヴェンツェル様の近くに居た、エルゼさんやエドラさんは気付いてくれる筈だと考えました。……………あの方々であれば、すぐにウィームに連絡を入れてくれている可能性も高い思うのです」
「ああ。…………気付けばすぐにでも一報を入れるだろう。朝の見回りを終えたドリーが部屋に戻れば彼がそうする筈だ」
「そこまでが済んでいれば、私の魔物や義兄は、すぐに入れ替えの守護の可能性にも気付くかもしれませんが、………先程ヴェンツェル様が懸念していたように、ノアがそちらとの繋ぎを既に切っていた場合はそれが再構築可能かどうかが最大の賭けになります。………その場合、王宮内で騒ぎを聞きつけているかもしれず、私の先生とは違い確実に王都にいることも確認済みで、尚且つ私の魔物が連絡を取れる騎士団長さんが、最も無難なところではないでしょうか」
(………それに、以前にディノから、オフェトリウスさんは前世界の魔術の扱いに長けているという話を聞いた事がある。ヴェルリア王宮内にこれだけ漂流物の知識があるということは、オフェトリウスさんもより実用的な対策を持っているのかもしれない)
ほんの少しだけ、寧ろあの国王陛下をお借りした方が簡単に帰れそうな気がするとも考えたが、さすがに第一王子を無事に帰らせる為に国王を犠牲にする訳にはいかない。
ネアの気持ちとしては、断然ノアであるし、次点ではグラフィーツだ。
だからこそ迷ってしまったが、確実さというものはやはり、この場面では捨て難かった。
「……………よし。では守護を使おう。……これを持っているといい」
「む。…………網のように織り込んだ不思議な布ですね」
術式を動かす前にと、ヴェンツェルがどこからか取り出したのは、籠模様のような不思議な編み方をした大判の布であった。
リボン織りのようになっていることに意味がありそうだと考え、海から異形のものが上がってくるときに軒下に吊り下げる籠を思い出した。
「漂流物を退ける効果があるとされている。海から現れるものは、なぜか、この籠目模様を嫌うのでな」
「はい。ではこちらをしっかり持っていますね。有難うございます」
「ああ。………こちらへの襲撃に巻き込んだ上に、お前をここに置いてゆくのは心苦しいが、私などより力になる者と入れ替わろう。無事に解決した後に、あらためて謝罪させてくれ」
こちらを見下ろしたヴェンツェルに、ネアは微笑んで首を横に振った。
政治的な問題に巻き込まれたのだと思えば煩わしさもあるが、彼も被害者なのだ。
ネアは心の狭い人間なので、これがもし交流のない人物のとばっちりであれば許さないが、ヴェンツェルについては気にしないでくれ給えと言える相手である。
「ですので、犯人を粉々にするだけで済ませましょうねと笑って言えるように、私も、早々にこちらからお暇するようにしますね」
「ああ。では、」
(…………わ!)
ふっと言葉が途切れ、ざあっと温度のない炎が燃え上がるように鮮やかな深紅が揺れた。
如何にもヴェルリア王族の魔術という感じがしたし、それ以前に、上背がありがっしりとしたヴェルリア人特有の体型であるヴェンツェルは、あまり馴染みのない存在感であった。
そんな王子様が、ぼうっと炎に包まれる様はどこか新鮮な魔術の彩りで、ネアは、ほほうと目を丸くする。
ごうっと鮮やかな炎が揺れ、ネアは祈るような気持で入れ替えを待つのは、ヴェルクレア国の筆頭騎士である騎士団長。
ヴェンツェルが既に着替えていたことからすると、騎士団長も騎士服だろう。
あの剣の魔物は、おやここはどこだろうかと青緑色の目を瞠ってこちらを見るのかもしれない。
「……………ほわ」
しかし、燃え上がった炎が凝るように巻き上がり、ぼさりと落ちてきたものを見たネアは、目を丸くした。
そこにいたのは間違いなくお目当てのオフェトリウスであったので、目的という意味では無事に果たしたと言えよう。
しかし、ヴェルクレア国の騎士団長は、どうやらまずい場面で呼び出されてしまったようだ。
「……………ん?…………もしかして今のは、入れ替え守護の術式だったのかな」
「……………寝起きです」
「……………良く考えずに承認したけれど、………僕が許可しているとなると、国王か第一王子だろうね。…………それと、なぜかここには僕の将来の王がいるらしい」
「とても冷静に分析している風ですが、目が半分開いていません。……………は、早く服を着るのだ!!」
壮麗な回廊の床に落ちている剣の魔物は、騎士団長としての擬態はしているようだ。
しかし、上にかけていたらしい軽めのタオルケットのようなものを掴んだまま、くしゃくしゃの髪とよれよれの寝間着で召喚されてしまったらしい。
もはや騎士の質のある男性の常なのか、上には何も着ておらず、とは言え、幸いにも下履きは穿いている。
ネアの想像したような凛々しいい騎士風の佇まいは欠片もないが、中身が合っていればもはや良しとするしかないだろう。
「参ったな。……………昨日は少し羽目を外していたから、…………今朝はゆっくりと過ごす予定だったのだけど」
「ぎゃ!なぜ、こんなところで二度寝に入ろうとしているのだ!!起きて下さい!!」
「おや、王と共寝をするというのも、案外面白いかもしれないね。こちらに来るかい?」
「しっかり喋っている風にしていますが、完全に目が閉じています!!おのれ、その目を開けるのだ!!」
ネアは、石床の上でタオルケットに包まり直そうとする剣の魔物を、か弱い乙女の腕でがくがくと揺さぶった。
オフェトリウスがここまで寝汚いのは、初耳である。
これはもう、ある意味交代失敗だったのではという思いに冷や汗をかきながら、ネアは、いつもの凛々しい騎士ぶりが嘘のようにすやすやと寝ている魔物を揺さぶり続けた。
「……………ふぇぐ。これはもう、何か眠たくて堪らなくなる呪いでもかけられているのでは……………」
艶々の床石なので、タオルケットに包まった剣の魔物を掴んで引き摺るのは、想像よりは楽であった。
ネアは二度寝の魔物を掴んで回廊の端っこに引き摺り寄せると、暗い目で首飾りの金庫の中を漁り始める。
お口の中に少しばかり激辛香辛料油を流し込めば、目を覚ましてくれるだろうか。
アレクシスから貰っている押し花図鑑や、とても美味しくないと評判の傷薬の倍率をこれでもかと上げたものでもいいかもしれない。
どうにかして叩き起こすのは決定事項として、この魔物は、こんなに無防備でこれまでどうやって生き延びてきたのだろうと思わずにはいられない。
それくらい、オフェトリウスは目を覚さなかった。
「……………よく、廊下でお腹を出して寝ている狐さんと同じ状態です。もはや、ヴェンツェル様の方が良かったのではという気がしてきました」
暗い声でそう呟き、心の中での剣の魔物の評価を五段階程落としてから、ネアは、体にいいもので目覚ましにした方が今後の活動に響かないだろうと考え、傷薬の小瓶を手に取った。
加算の銀器には千倍を命じておき、気持ちよさそうに眠っているオフェトリウスの口元に手をかける。
指を突っ込んで口を開かせるのはもはや獣の投薬の手法だが、そこまで親しくない相手になぜここまでしなければならないのかという恥じらいは、捨てておかねばならないのが悔しいではないか。
しかし、何としてもこの魔物を起こして、きりきり働かせねばならないのだ。
(…………でも、こうして、ヴェンツェル様の守護が機能したということは、カードは使えなくてもそのような手段であれば使えるという知見を得たという事でもあるのだ。もし、本格的に漂流物が来てしまった後にこんな目にあった場合に備えて、誰かを呼び込めるような備えをしておいて貰うといいのかもしれない)
今のところ、見ず知らずの領域に迷い込まされたという以上に問題はないので、今回の事件が無事に解決すれば、思っているよりも得るものがあるのかもしれない。
そんな事を考えながら、ネアはなかなか口を開けない魔物に苛立ち、ぐいぐいと口元を引っ張った。
「………ん」
さすがに気になったのか、眉を寄せて薄っすらと目を開いたオフェトリウスはたいそう無防備な感じであったが、そんな魔物が、馬乗りになって口をこじ開けようとする乙女に驚いて何かを言おうとした瞬間、ネアは、すかさず傷薬を口内に流し入れてしまう。
「…………っ?!」
「ふむ。これでやっと目が覚めたようですね」
声も出せず悶絶する魔物の上から立ち上がり、ネアはふうっと手の甲で額の汗を拭った。
これでようやく、脱出に向けての話し合いが出来そうだ。