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工房の少女と市場の子竜



ネアはその日、仕事の届け物に向かう道中で、水路沿いにある古い工房から出てきて、見送りに出た仲間達に深々と頭を下げた少女を見ていた。


涙を堪えてお辞儀をしたのは、栗色の髪の毛を三つ編みにした可愛らしい少女で、大事に手入れされているに違いない深い緑色の服を着ている。


簡素だが上等な服地を使ったドレスは職人などに多い装いで、左手で抱えた鞄やネアには何に使うのか分からない道具のような物などを見ても、恐らくは職人だったのだろう。


どのような背景で工房を出るのか分からない場面であるし、何か会話が聞こえてきた訳でもない。

だが、ネアには、微笑んではいるものの恐ろしさに震えるような眼差しに、覚えがあった。



(……………ああ、あの子は)



ずっと昔のネアハーレイも、あんな風に職場を後にしたことがあった。


それは、ひと月の入院を終えて仕事に戻った日の翌日に告げられた悲しい知らせを受け、その年の終わりのこと。


あの日の、じりりと胸の縁が不安と悲しみに焦げ付くような思いが蘇る。


その処遇が決まってからは、先の事を考えると不安で眠れず、嵩む医療費以外に何を節約すればいいのか分からないまま、誕生日やクリスマスを過ごした。


元々食べるものは殆どなかったが、その僅かな食べ物をこの先の生活を手繰り寄せる為に何とか呑み込んでいた毎日は、指先から崩れるような怖さと孤独が常に隣にあり、今でも思い出すと視界が陰るような怖さがある。



「……………ネア?」



立ち止まって胸を押さえたネアに、隣を歩いていたディノが不思議そうに目を瞬く。

気遣うように背中に手を添えてくれた魔物を見上げ、ネアは、差し出された三つ編みにちょっぴり眉を寄せた。



「……………ウィームでも、………勿論、様々な暮らしや状況があるので当然の事なのですが、解雇などもあるのですね」

「あの人間かい………?」

「ええ。………もう、あんなに遠くまで歩いていってしまいましたが、あの方の眼差しや動作から、………恐らく工房を解雇された方なのだろうなと思ったのです」

「私は、人間の商売や仕事の事はよく分からないけれど、あの工房は人間の職人だけを入れているようだね。であれば、ウィームで人間だけの織物の工房を維持するのは難しいことなのかもしれない」

「まぁ。…………言われてみれば当然ですが、そのような側面もあるのですね」



顔をくしゃりと歪めて、けれどもしっかりと前を向いた少女は、どこに帰るのだろう。


そこに家族や友人がいるのだろうか。

そして、日々の暮らしは大丈夫なのだろうか。

見ず知らずの誰かの生活をそんな風に思ってしまうのは、ネアが善人だからではない。

ちっとも大丈夫ではないのに放り出されて泣き出しそうだった、いつかの自分を覚えているからだ。



「工房の入り口や建物の造りからすると、恐らく、…………あまり可動域の高くない者達が働く場所なのかもしれない。そのような場所というのは、この土地では希少なものだとは思うよ」

「ウィームでは、妖精さんやその他の人外者の方と共同で働くような工房が多いですものね。…………確かに、私がかつて見てみた妖精インクの工房の求人には、最低限の可動域の指定がありました。となると、そのような規定に引っかかってしまい、思うように働けない方というのもの少なくはないのかもしれません」

「うん。………ただ、人間の組織での手助けもあるのではないかな」



ネアの気分は察してくれているものの、ディノは、不思議そうにしていた。


このあたりは、どれだけ会話を持っても埋まる事のない種族格差のような部分なので、ネアは曖昧に微笑んで、きっとそのような手助けがある筈ですよねと言っておく。



(でも、行政の側からの支援はきっと一時的なものであるし、仕事を無くしたのであれば、あのお嬢さんがこれから先に自分を養ってゆく場所を見付けなければいけないのは、確かなのだ…………)



そう考えてしんみりしかけ、そもそも、解雇という前提は想像に過ぎないのだと首を振ったネアは、こちらを見てまたしても三つ編みを差し出している魔物があまりにも心配そうにしているので、やれやれと苦笑して三つ編みを受け取ってやる事にした。



それは多分、ぱらぱらと足元に落ちる光の影のように。

美しく煌めく魔術の光に触れられない、誰かのように。


かつてのネアハーレイと同じような立場の者達は、ウィームが魔術の豊かな土地だからこその苦しさや、弊害として必ずどこかにいるだろう。


もしかしたらそれは、他の土地であればより歓迎される陽光の系譜の祝福を多く集めるグラストが、よりにもよってその資質に最も弱い、ウィーム固有の難病とも言える障りを得た娘を授かってしまったように。


ここではないどこかであれば普通に暮らせた者達が、ここだからこそ普通に暮らせないということもある筈だ。


人ならざる者達に寄り添い、雪と森と湖の土地だからこそ、指の間から零れ落ちてゆくものは、決して少なくはないのだと思う。



(もはや季節の風物詩になってしまった気象性の悪夢や、毎年の祝祭や災害などで多くを失う人達もいる。たまたま、その一番悲しいところが私の側を向いていない事が多いというだけで、私がやっと安定した暮らしを得ることが出来たこの土地だからこそ、多くを失ってゆく人達もいる筈なのだ)



「ネア、…………市場で蜂蜜クリームチーズを食べるかい?」

「………むぐ。お仕事のお使いを終えたら、寄ってみてもいいですか?」

「うん。何か欲しいものがあったら、買ってあげるよ」

「………むむ」


微笑んでそう言ってくれる伴侶がいるということは、どれだけの贅沢さなのか。


ネアは、胸の中でちくちくしているいつかの日のネアハーレイの孤独をぐっと押し込め、そんな伴侶の三つ編みをにぎにぎした。



(……………例えば)



例えばここで、我が儘な人間が、先程の少女の人生に手を出そうとしたとする。


でも、あの少女にネア達がしてやれることは殆どないのだろう。

可動域が低くても働けるような工房職を選んでいるのであれば、彼女の人生には、最初から人ならざる者達から得られる恩恵に限りがある。

ネア自身も可動域は上品だが、けれどももう、こちらの側なのだ。


所属しているリーエンベルクも含め、対岸に立つ者が差し出せるものには限りがあって、ましてや、他の誰かも苦労して繋いでいるような領域を、何も知らない者が勝手に踏み荒らしていいものではない。



そう考えると少ししょんぼりしてしまったものの、ネアは、魔物の三つ編みリードを引っ張ってお使い先の文書館での書類の受け渡しを恙無く終えた。



本日、ネア達が運んだ書類は災厄に纏わる記録書類なので、ある程度の抵抗値を有する者がが文書館の専用

保管庫に運び入れる必要がある。


文書館の職員でも対応可能だが、何しろ優秀な職員程忙しい職場であるので、専用の封印箱などの手間なく運べるネア達がえいっと届けてしまった方が早い。

本日は休日なのでエーダリアは恐縮していたが、このくらいであればいつだって頼んでくれていいのだとネアはしっかり主張しておいた。




「という事で、無事にお仕事が終わりましたので、市場に寄ってゆきましょうか」

「うん。何か欲しいものがあれば、市場で何でも買ってあげるよ」

「ふふ。私の魔物はいつだって優しいのですが、今日は甘えてしまうかもしれませんよ?」

「…………ずるい」

「私が、チーズやジャムを欲しがってから慄いても遅いのですからね!」



ふんすと胸を張ったネアに、ディノが水紺色の瞳を細めてふわりと微笑む。


優しい魔物の表情のまま、けれども、長命高位の生き物らしい不思議な穏やかさがあって、はっとするような美しさにネアは目を瞬いた。



「君には、もう私がいるから安心しておいで」

「……………ええ。ディノにももう私がいるので、怖いものからは守ってあげますからね」

「可愛い……」


しかし、嬉しそうに目元を染めていた魔物は、市場の一画で足を止めたご主人様に、直前に結んだ約束を撤回せざる得なくなった。



「……………ディノ、何でも買ってくれるのです?」

「それは、買わない………」

「先週、農場の軒下で生まれたばかりの、ふわふわ霧竜の赤ちゃんです!」

「……………それは、絶対に買わないかな」

「市場では、何でも買ってくれると言ったのに……」

「ご主人様……………」



市場の野菜屋の前に、大きな木箱が置かれ、水灰色のふわふわの子竜が売られていたのだ。


販売と言っても実質引き取り手を探す為なのでたいそう安価であり、その代わり、大事に育てるという魔術契約書に署名をせねばならない。

料金はその契約魔術代なのだそうだ。



こちらの霧竜は、ウィームでは子猫や子犬のような区分にあたる。

小さな羽は毛皮に隠れてしまっているので、見た目もふわふわの子犬のようにしか見えず、目が開いたばかりなのだとか。


どうやら親竜が何かに襲われていなくなってしまったようで、農場の軒先に子供達だけが置き去りになり、このような運びになったらしかった。



「……………何て愛くるしいのでしょう」

「こんな竜なんて……………」



木箱の中にタオルを敷き詰め、みぃみぃと鳴いている子竜から離れられなくなってしまったネアを、魔物は一生懸命持ち上げてどこかに運ぼうとしているようだ。

だが、その度にご主人様が威嚇するので思うように移動出来ずにいて、何とかして子竜が見えないように遮ろうとしている。



「ネア、リノアールで好きな物を買ってあげるよ。ザハで食事をしてもいいし、歌劇場に行きたいなら連れていってあげようか」

「ちび竜……………」

「君はもう、アルテアがいるだろう?」

「おかしいです。アルテアさんが、ペット枠になりました……」

「何かを撫でたいのなら、アルテアを呼んでちびふわにしてあげようか?」

「むむぅ……………」



しかし、魔物の王様が自身の権限を行使して選択の魔物を呼び出すよりも、どこかからご主人様が子竜を狙っているとい噂を聞きつけたアルテアが駆け付ける方が早かった。



「……………おい。前にも言っただろうが、余分の枠は一切ないからな」


ざざっと音がして振り返ると、どこか焦って駆けつけたような様子のアルテアがいる。

擬態はしているが、装いは市場には不似合いな漆黒のスリーピースだ。


「ほわ、…………アルテアさんが来てしまいました」

「ほら、君にはもうアルテアがいるだろう?」

「どうして、ふわふわちび竜とアルテアさんを並べてしまうのか分かりませんが、この子達は、まだミルクを飲むそうですよ!」

「獣区分の霧竜とは言え、祝福の取り込み具合によっては階位を上げる事もある。絶対に持ち帰るなよ」

「ぎゅわ………」

「そもそも、お前に懐く訳がないだろうが」

「まぁ。私はこれでも、生き物のお世話は慣れているのですよ。ちびふわだって、撫でるとくたくたになってしまうではありませんか」

「やめろ…………」

「ネア、この階位の生き物は、…………リーエンベルクでの飼育は難しいと思うよ」

「むぐぐ…………で、でも、ちょっとだけ撫でてみますね」



リーエンベルクでの飼育が難しいと言われてしまえば、確かにそうだという気もした。

ネアは、悲しく眉を下げ、せめてふわふわの竜の赤ちゃんを撫でてみようとする。


しかし、か弱い乙女が手を伸ばそうとした瞬間、固まってもこもこふわふわしていた赤ちゃん竜達が、びみゃんと飛び上がると一斉にタオルの下に隠れてしまうではないか。



「…………まぁ。隠れてしまうのです?」

「お前には森の賢者ですら怯えるのに、この階位の竜が懐く筈がないだろ」

「森の賢者さん達は、ただ狩りの女王に相応しい品を献上してくれるだけなのですよ。それに、今は何も狩っていません………」

「ネア、この竜を撫でるのは難しそうだから、クリームチーズを食べに行こうか。それとも、アルテアをちびふわにするかい?」

「……………むぅ。竜さん……」

「……………くそ、…………リーエンベルクに戻ってからであれば、少しだけ時間を作ってやる。ここではやめろ」

「では、……………クリームチーズを食べて、市場でディノに何か美味しいお土産を買って貰い、その上でリーエンベルクに戻ってからちびふわと遊びますね……。竜さん……………」



肝心の子竜達がタオルの隙間からこちらを威嚇しているので、ネアは、渋々であるが魔物達の提案を受け入れざるを得なかった。

市場では熟成チーズのチーズケーキを買って貰ったので、明日のお茶の時間にでも家族と食べようと思う。



(………あ、)



帰りがけに先程の工房の前を通ると、大きな織り機が一台、業者に引き取られてゆくところだった。

どこか悲しげにそれを見送る老婦人は、工房主だろうか。


ネアは、腕に抱えたチーズケーキの木箱をぎゅっと抱き締め、両隣を歩いている魔物達をこっそりと眺める。



(もし、いつか…………)



その領域でしか成し得ない技術や可能性を見付けたなら、すぐさまエーダリアに相談してみよう。

それは多分、仕事を失くして途方に暮れた事のあるネアにしか成し得ない我が儘で、感傷なのだから。

そう考えて心を宥めてから頷くと、ふうっと深呼吸をし、前を向いた。



なお、子竜が怯えなければ飼えたかもしれないという悔しさは残念ながら午後まで残り、ネアは、じっとりとした目のちびふわとお腹を差し出しているムグリスディノを、心ゆくまで撫でまわしたのであった。






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