誘拐犯と予防接種
その日、ネアは人生初めての体験をした。
そんな生ぬるい言葉で表現していいのかどうか分からないが、見ず知らずの人から身代金目当てに誘拐され、他国に運ばれたのだ。
がらごろと響く車輪の音を聞きながら、ふうっと息を吐けば、隣に座っていたノアがぎくりとしたように肩を揺らしている。
なお、先程まで装着していた青い革のリードは回収済だ。
「困ったことになりました」
「……………ごめんなさい」
「個人的には、せめて私がいた方が義兄を守れるかもしれないで構わないのですが、…………私の魔物が怖がっていたら困るのです」
「うん。………役立たずのお兄ちゃんでごめんね…………」
「むぅ。こちらもすっかりしょんぼりなのです……」
ネアは今、義兄の魔物と二人でごろごろと走行音を立てて走る箱馬車に閉じ込められていた。
この馬車は特殊魔獣運搬用の頑強なもので、可憐な乙女の手では扉をこじ開けられない。
また、一緒に捕縛された義兄の魔物は、諸事情から塩の魔物本来の魔術を扱えずにいる。
運搬する獲物を刺激しない為なのか、窓がないのでどこを走っているのかは不明だが、ノア曰く、精霊の国の中の道であろうと思われる魔術の変化があったらしい。
それだけでも、現状の厄介さが把握出来る。
人間の国ならまだしも、ここは精霊の国の中なのだ。
「それにしても、恨みのあるかつての恋人に似ているからという理由で狐さんとその飼い主の私を選んだのに、まさかその恋人当人を誘拐してしまっているのだとは、あの精霊さんも思いもしないでしょうね」
「…………そういうところさ、女の子って妙に鋭かったりするよね。………はぁ。あの子が、水仙の精霊じゃなければなぁ…………」
「そもそも、なぜ水仙の精霊さんに手を出したのでしょう…………」
「檸檬の精霊だって紹介されたんだよ。それがさ、水仙だって言うともてないから嘘を吐いてたけど、実は水仙だったって言われたんだ。あの日はさ、よく最後まで笑顔を保てたと思うな………」
つい先程まで、ネア達はウィームの街角に立っていた。
正確には、ウィームの街角にあるメランジェの屋台の前で、市場に買い物に来る選択の魔物を待ち伏せていたのである。
今日は、どうしても、アルテアと偶然に出会わなければならない目的があったのだ。
「事前予防接種日にアルテアさんと偶然遭遇するべく、本日の予定を秘密裏に入手したところまでは順調だったのに、なぜ、街角での張り込み中に誘拐されたのかが未だに解せないのですよ」
「…………うん。僕もさ、ウィーム中央でよく誘拐なんて出来たなと思うけど、何しろあの子は水仙だからね。ある意味、階位関係なく怖いものなしなのかもなぁ…………」
「確かに、高位の方々も含め、迂闊に手を出せないぞという注意喚起が有名な水仙さんですしね………」
「でもさ、そもそも街角から誘拐されるとも思わないよね………」
「はい。生まれて初めての身代金目的の誘拐でふ……」
本日のネア達の予定は、綿密な計算の上で成り立っていた。
まずは、メランジェ屋台でお喋りしている風のネア達が、市場帰りのアルテアと偶然出会う。
その後、何とかリーエンベルクに立ち寄って貰う約束を取り付け、封印庫前広場の道を経由して同行して帰路に着くのだ。
すると、偶然、事前予防接種が行われている会場の横を通る事になる。
そんな会場を見たノアが、健気にも、折角だからここで予防接種を受けて行こうかなという感じを出すまでが、計画の内であった。
しかし、現実は無情であった。
白持ちの公爵位の魔物が、何とか恐怖に打ち勝って自ら予防接種行きの覚悟を決めたというのに、肝心のアルテアに出会う前に、荒れ狂った水仙の精霊に誘拐されたのである。
恐らく、塩の魔物が銀狐姿でムギムギしていたのが逃げきれなかった敗因なのだが、ネアが抱っこしていた銀狐を見るなり、別れた恋人に似ていると告げた水仙の精霊の勘の良さも凄まじい。
かくしてネアは、精霊の舞踏会に行きたいが月明かりのドレスを買うだけのお金がないと思い詰めた水仙の精霊によって、抱いている銀狐が元恋人に似ているのでこの獲物でいいと思ったという理由により誘拐されてしまったのだ。
勿論、そんな銀狐が公爵の魔物であるので、ノアが元の姿になれば簡単に逃げ出せるだろう。
しかし、魔獣用の箱馬車の中からは転移が出来ない為、どうにかして馬車の外に出る必要がある。
その為には、不測の事態を避ける為に馬車は止まっていて貰うのが望ましいし、元恋人に似ている銀狐が、その元恋人当人であることを誘拐犯に気付かれてはならない。
何しろ水仙の系譜の乙女達は、それはもう恐ろしく障るのだ。
「ひとまず、ディノとアルテアさんとウィリアムさんには、カードから助けを求めました」
「…………うん。本当ならさ、このくらい僕一人で対処出来るんだけど、今回は、僕と君が一緒にいるところを万が一にでも見られたら、まず間違いなくこっちの話を聞かないで君を呪いかねないからね………」
「ふぁい。………私も、物語や、これまでの他人の話を聞かない系の方々との出会いで学んでいるのですよ。どんなに丁寧に誤解を解こうとしても、話を聞く準備がない方は荒ぶるばかりなのです………」
水仙の系譜の厄介なところは、生きていても呪うし死んでも呪うところだと言っても過言ではあるまい。
その特性を考慮し、ネア達は、逃げ出す為に誘拐犯を滅ぼすだけでは万全な対応ではないという結論に至っていた。
何しろ、動きを制限される高位の魔獣用の移送馬車のせいで、気付かれずに脱出するのは困難である。
もしもの場合に、こちらのか弱い乙女が塩の魔物と一緒にいるところが目撃でもされようものなら、まず間違いなく御者台にいるに違いない精霊は怒り狂うだろう。
擬態をして対処することも出来るが、相手は、銀狐姿でも元恋人に似ていると気付いた手練れではないか。
おまけに、ふかふかの銀狐にして抱っこしているところをばっちり見られている以上、今更、無関係の野良狐ですと言うには無理がある以上、現れたノア擬態の人物とも無関係で通すのは難しい。
同性ならまだしもネアは女性であるし、おまけに相手は、見ず知らずの人間を誘拐をして、ウィーム領主から身代金をせしめようという発想に至るくらいには思い詰めている。
「……………ふと思ったのですが、犯人は、なかなかに高位の精霊さんなのですよね?」
「うん。水仙の中でも、別の植物の系譜に擬態が出来たくらいにはね。七百年くらいは生きているんじゃないかな」
「であれば、ドレスの購入資金は、こんな乱暴な方法以外のことで集められなかったのでしょうか?例えば、川辺を散策してカワセミを二匹くらい捕獲すればそれで事足りそうですし、森で珍しい祝福石などを集めてもいいかもしれません。きっと精霊さんであれば、人間には想像もつかないような魔術も扱えるでしょう」
しかし、ネアがその点が大きな疑問であると言えば、なぜか、こちらを見た青紫色の瞳にくしゃくしゃの白い髪を濃紺のリボンで縛った美しい魔物は、困ったように首を横に振るではないか。
「念の為に説明するとね、普通は高位の精霊でもカワセミは素手で狩れないからね。交戦すれば殺す事は出来るだろうけれど、植物の系譜にはそれも難しいんじゃないかな。その上で、もし勝てた場合も、君がアクスで取引しているような状態で回収は出来ないから、高値は付かないね」
「ほわ、…………手でぎゅっとするだけでいいのですよ…………?」
「うん。それが出来るのは、僕の妹くらいだからね!」
「むむぅ。では、森で換金出来そうなものを収集するだけでもいいではありませんか。一日もあれば、きっと素敵なドレスが買えるようになる筈です!」
「ええとね、それも僕の妹ならではの才能だからね。ほら、普通の精霊はリズモの祝福なんて持っていないないから、ドレスが買えるくらい貯めるとなると、高位の精霊でも少なめに見積もってもふた月はかかると思うよ」
ネアは、収穫の祝福のない精霊はそんなに不器用なのかと目を瞬き、こくりと頷いた。
となれば、今回のように身代金目的の誘拐などをするしかないのだろうか。
腰までの綺麗な金髪を切って売ったり、他にもやりようはあるのではなかろうか。
しかし、そう言えば今だけ元の姿に戻っているノアが、またしても首を横に振った。
「ありゃ。…………階位が高ければ高い程、失った髪を取り戻すのは大変なんだからね?」
「むぐぐ。ではせめて、どこかで日雇いのお仕事でもすればいいのです」
「そこはさ、高慢さでも有名な水仙の女の子だからね。そういう正規の手法は面倒がるんだ」
「なんと我が儘なのだ。………おのれ、さては世間知らずのお嬢さんですね」
「わーお。世間知らずに認定されたぞ………」
ネアも、かつてはお金に苦労したものだ。
その時は体が弱く思うように働けない事も大きな原因であったので、健やかな体を持ち、ましてや高位の精霊という資質の高さを持ちながらも労働を好まないと聞けば、たいへんにむしゃくしゃする。
なにしろ、その浅慮な精霊のせいで、練りに練った自然に予防接種に同行して貰おう作戦が台無しになったばかりだ。
腹も立つというものである。
今日の作戦は、銀狐の正体がノアだと知った後は、最初の一回を乗り越えるのが難しいだろうアルテアの為にと考えて決行されていた。
この誘拐事件で計画が秋の予防接種作戦が潰された以上、その次の接種となる、来年の春の回への参加が危うくなったと考えるべきだろう。
事前接種日だからこそ、今日がそうだとは知らなかったという言い訳が出来る、千載一遇の機会だったのだ。
だからこそ、自然な流れで同行するしかないと思わせる無防備さの演出の為に、敢えてディノには離れていて貰った。
それが、目を離した隙に伴侶と義兄が誘拐されたとなれば、あの魔物はどれだけ動揺するだろう。
加えて、誘拐の原因となってしまったノアだって、どれだけ悲しいだろう。
「よって、ぎゅっと括れた細い腰と、健やかな肉体を持ちながら働きもしない愚かな精霊めは、きりん箱に入れられても文句は言えないのですよ…………」
「え、何か違う怨嗟も交じってない?」
「おまけに、可憐な感じを全面に出しながらも少し凛とした印象という、私の好きな感じのお顔です。そんな武器を生まれながらに持ちながら、ドレス一つで我が儘を言う精霊さんなど、どんな目に遭っても文句を言う資格はありません」
「ありゃ。それも理由になっちゃうの………?」
「世の中には、理不尽な事が沢山あるのです。そもそも最初に誘拐などに手を染めたのは水仙さんですので、その結果、どれだけ理不尽な恨みを買おうとも甘んじて受け止めていただくしかありません」
「わーお……………」
誘拐された瞬間の事を、ネアはよく覚えていた。
ぎゃんと音を立てて、乱暴な馬車さばきで乗り付けた美しい金髪の女性は、何て綺麗な人だろうと目を丸くして見ていた罪なき乙女を、乱暴に魔術拘束して獣用の馬車に投げ込んだのである。
その際に、誘拐される乙女よりも細い腰と、はっとするような魅力的な面立ちを凝視していた人間は、自分の持たない素敵なものを得ている精霊に強い羨望を覚えたのだった。
がらごろと、歪な音を立てて馬車は今もどこかに向けて走っている。
あまり聞いた事のない走行音であるのは、ずしりと重い鉄鉱石の車輪が立てる音で、大型の魔獣も運ぶ特殊な馬車だからこそなのだとか。
そして、馬車が駆け抜けているのが精霊の国であるのも、その一端であるらしかった。
「……………大丈夫だよ、いざという時は、僕はどうなっても大事な女の子を守るからね」
ネアがぐるると唸り声を上げていると、くすりと笑ったノアが、そろそろお尻が痛くなってきた妹をひょいと抱き上げて膝の上に座らせてくれる。
この馬車は獣の運搬用なので、勿論、素敵なクッション張りの客席などの備え付けはないのだ。
「どうにかなっては困るので、………倒す時には、私が除草剤を投げつけます?」
「わーお。それ、今日も持っているんだ…………」
「手持ちの除草剤は、三種類あるのですよ?」
「え、三種類もあるの………」
「一般の除草剤と、樹木用、薔薇と水仙用の三種類です!」
「あ、水仙用ってあるんだ…………」
「狂おしい程の足のむずむず感と背中の痒さを伴う除草剤ですので、敵を呪う事もままならないままに滅びるそうです。…………このような馬車に閉じ込められてなければ、それで一発なのですが………」
「その除草剤さ、絶対に開発にダリルが絡んでるよね?!……………でも、そんな道具があるなら、僕達だけで脱出出来るかな…………。カードに返事は来ているかい?」
「アルテアさんから、お前は、少しも目が離せないのかと苦情が来ています……………」
「ありゃ。アルテアっぽいなぁ………」
ノアが、小さく苦笑してそう呟いた時の事だった。
「…………っ?!」
「おっと」
勢いよく走行していた馬車が、まるで急ブレーキをかけるようにぎゅっと止まったのだ。
乱暴な扱いに、獲物用の荷馬車の中で放り出され、壁に叩きつけられそうになったネアを、ノアがすかさず抱き締めてくれる。
こんな時、少しも体勢を崩さずに涼やかにネアを持ち上げてくれているノアを見ると、ああ魔物なのだなと今更だが思ってしまう。
「………ぎゅわ。馬車が停まったようです……?」
「うん。…………この気配、誰か来たね。…………あ、ウィリアムかな」
「ウィリアムさん!」
ノアはそのまま、ネアを抱えて馬車の後方に向かうと、外側から魔術施錠されている扉に片手をかけた。
確かこの内側は魔術遮蔽で殆どの魔術を使えなかったのではないかなと思ったネアは、次の瞬間、ごうっと吹き荒れた強い風に目を瞠る。
(…………夢の中で見る吹雪のようだわ)
強い風に煽られて舞い散る雪片のように、ノアの瞳の色にも似た小さな魔術の光がざあっと吹き抜ける。
ノアが手をかけている扉の内側が音を立てて凍るようにして結晶化し、そのまま、ざらりと崩れた。
「この部分は、ウィリアムに証拠隠滅して貰おう。ほら、あの子を残しておく判断となった場合は、僕の痕跡を残すのは良くないからね」
「はい。ノアの魔術は、きらきらしていて綺麗なのですね」
「ありゃ、結婚しちゃう?」
「あら、もう家族なのでその必要はないのですよ?」
そして次の瞬間、がしゃんという凄まじい音がして、後方の扉が切断された。
まるで柔らかいものを切り落とすように滑らかに剣を振るい、終焉の魔物が馬車を壊してしまったのだ。
「………むぐ」
壊れた扉から差し込んだのは、木漏れ日だろうか。
眩しさに目を細めたネアを見て、その向こうに立ったウィリアムが、ほっとしたように微笑んでくれる。
だが、そうして表情を変える迄の一瞬に、冷静に扉の破壊を行っていたものか、ぞっとするような冷たい目をした終焉の魔物が見えたような気がした。
「ネア、大丈夫だったか?」
「ふぁい。……………ノアが守ってくれました」
「今回は、そのノアベルトのせいでもあるんだが、………この場合はどうしようもないとも言えるのか………」
「僕も、僕に似ているからっていう理由で攫われたのは初めてだよ………」
ネアはまず、手を伸ばしてくれたウィリアムに抱き上げられ、馬車から下ろして貰う。
周辺を見回すと、僅かに黄色がかってきた麦畑が広がっており、糸杉の並木道がその真ん中に通されていた。
ネア達を乗せていた馬車は、道の中央を逸れ、街路樹側の斜めを向いて止まっている。
不思議と誘拐犯の姿が見えずにほっとしたネアは、糸杉の間から見えるどこまでも続く麦畑の美しさに目を瞬いた。
「仕立て妖精の城に向かっていたようだから、そこでの保護するという手もあったんだが、さすがに時間がかかり過ぎるからな」
「まぁ。そうだったのですね。…………それと、私の義兄は一刻も早く隠れて下さい」
「うん。……………そう思ったんだけど、……………あの子をどうやって止めたんだい?」
どこか怪訝そうな表情でそう問いかけたノアに、ウィリアムはなぜか遠い目をする。
「今回は、ネア達が誘拐された現場を、スープの魔術師の妹だという人物が見ていたらしくてな……」
「まぁ。アレクシスさんの妹さんがいらっしゃったのですね」
言われてみれば確かに、ネア達がアルテアを待ち構えていたのは、ウィーム中央市場の朝市のお客が帰りに通る場所であった。
飲食店系のお店の主人などで賑わう朝市なので、スープ屋さんのおかみさんがいても不思議はない。
「あ、ってことは…………あの子を止めたのは、スープの魔術師かぁ…………」
「自我を奪い、スープの事しか考えられなくなる一皿があるらしい。呪いや障りを残しても厄介だという事で、今回はそのスープで水仙の精霊を捕縛するべく、スープの魔術師の手を借りる事になった」
「わーお。自我もなくなっちゃうのかぁ…………」
「自分の意思で引き寄せられ、半月ほど、それ以外の事を考えられなくなるそうだからな。中毒症状が抜けた後も、その前後の記憶は残らないらしい」
「…………スープとは」
ネアは、あまりにも残酷な仕様のスープに慄くばかりであったが、馬車そのものが死角になっている前方からやって来たアレクシス曰く、新作の試食をする人材を確保出来ない時には、このスープで野生の精霊や妖精を捕獲してくるらしい。
試食用人員確保用の、洗脳スープなのだ。
「ネア、先日から引き続き、災難だったな」
そう労ってくれたアレクシスも、考えれば当たり前なのだが、こちらに来ていてくれたようだ。
高位の魔物であれば不思議はない精霊の国への転移だが、一応こちらは人間なので、どうやってウィリアムに同行してくれたのかは気になるところである。
「アレクシスさん、先日も助けていただいたばかりなのに、今日もお手数をおかけしてすみません」
「いや、妹からあの組み合わせを損なわせたら許さないと言われてな。俺も、大事な娘が攫われては困る」
「ふふ。私が娘なら、ノアもアレクシスさんの息子さんになってしまうのです?」
「…………狐の時であれば、スープの飲み方が合格なんだが」
「ありゃ。この姿だと駄目っぽいぞ……」
誘拐犯の精霊は、馬車の前方でアレクシスが道の真ん中に置いておいたお鍋に顔を突っ込み、スープを飲んでいるらしい。
ウィリアム曰く、あんまりな様子なので見ない方がいいと言われ、ネアは、がつがつぺちゃぺちゃという音がそちらから聞こえてくることもあり、有り難くその忠告に従う事にした。
「そして、アレクシスさんが持っているのは、麦でしょうか?」
「ああ。この領域の精霊の国で育てられている精霊小麦は、希少なものなんだ。今なら水仙の精霊のせいにして少し持ち帰れるからな。いい収穫になった」
「………ああ。麦の系譜は、収穫を損なうと障るからな」
「うん。おまけに収穫間近の時期ってことは、相当怒られるだろうなぁ……………」
ウィリアムとノアがそう呟き、にっこりと微笑んだスープの魔術師は、鍋類は飲み終わると同時に消えてしまうものなので、こちらの証跡は残らないと教えてくれる。
「となると、ばりんとやってくれた馬車の扉もどうにかしておいた方がいいのです?」
「ああ。腐食の魔術で扉の切断面そのものを破壊しておくから、何があったのかは分からないだろう。さて、帰るか」
「はい!ウィリアムさん、アレクシスさん、助けに来て下さって有難うございます」
この場所に残された水仙の精霊がどうなってしまうのかは、ネアには想像のしようもない。
だが、収穫を損なわれた麦の系譜の者達の障りは、時として水仙の障りよりも恐ろしいそうだ。
「麦の系譜の者達は、季節によって資質や階位を変える者もいる。あの辺りを収める麦の精霊達は、古い豊穣の系譜も備える者達だから、土地を荒らした者を許しはしないだろう」
そう教えてくれたのは、さすがに距離があるからと、経由地にした精霊の国の一つで待っていてくれたディノだ。
領域が領域なのでと、そこには高位の精霊として同行してくれたミカも立っている。
ネアは救出依頼がこんなに大掛かりになったことに驚き、慌ててお礼を言ったが、今回は相手が荒ぶる水仙ということもあり、かなり慎重な作戦が立てられていたらしい。
「毒には毒をという締め方だな。……………ったく。お前は何でシルハーンも同行せずに外に出たんだ」
こちらも駆けつけてくれた選択の魔物も、そこで待っていてくれた。
自宅で過ごす時のような寛いだ服装なのは、工房での作業の合間に作業用の服装で買い物に出た際に誘拐の知らせを聞いたからであるらしい。
魔術的に調整をかけた作業着であった為、着替える手間がかかるからとそのまま駆けつけてくれたのだ。
「……………むぐ。狐さんの予防接種に………」
あまりにも慌てて駆けつけてくれた使い魔に、ネアは、素直に告白しようとしたものの、選択の魔物を陥れる為の作戦中だったとは言えなくなってしまった。
そこで言葉を切るとなぜか、アルテアは赤紫色の瞳を瞠って、僅かに眉を寄せる。
「まさかとは思うが、一人で行こうとしたのか?」
「……………ふぁい。メランジェの後に、封印庫前広場での事前接種会場を通る予定だったのですよ。ちょっとだけ、市場の前経由で歩けば偶然アルテアさんにも会えるかなと思っていました」
「…………シルハーンを同行すれば良かっただろう。いつもそうしているだろうが」
「今年は、少し特別だったのです………」
勿論、わざと使い魔が見過ごせなくなるようにネアと銀狐だけでいたのだが、それを知らない選択の魔物は、こちらの人間が思い詰めて一人で出掛けてしまったと思ったようだ。
顔を顰めて深い深い溜め息を吐くと、ノアを一瞥し、もう一度溜め息を吐く。
「こいつは、俺が予防接種を受けさせておいてやる。お前は、先にリーエンベルクに戻っていろ。予防接種が終わったら、魔術洗浄だぞ」
「ぎゃ!」
「であれば、初段の洗浄は精霊の領域で行った方がいい。真夜中の座の城に寄っていくといい。……………アレクシスも寄って行くか?前に話していた料理人が、今日は来ている筈だ」
「ああ。それなら、是非にそうさせて貰おう。娘を取り戻しに来ただけだったが、思わぬ収穫が重なるな」
くすりと微笑んだアレクシスが嬉しそうだったので、ネアは、ほっと胸を撫で下ろし、ウィリアムからディノに受け渡して貰う。
水仙の精霊が怯えて狂乱してもいけないので、ディノは初回の救出作戦には加わらなかったのだそうだ。
また、アルテアは先程の小麦畑の界隈では、麦の魔物との商業的な契約が邪魔をして思うように動けなかったらしい。
「………え、僕、これからアルテアと二人で予防接種に行くの?」
「さっさとしろ、今年からは手早く済ませるぞ」
「え、シルも一緒に来てくれないの?」
「ネアの側にいようかな………」
「分かってはいても、凄まじい構図だな………」
涙目で震えるノアは、渋面のアルテアに連れられてひとまずはウィームに戻る事になり、その様子を、ウィリアムが途方に暮れたように見送っている。
ディノも少し震えていたので、ネアは、そんな魔物をそっと撫でてやった。
「……………怖くなかったかい?」
「拙い作戦のせいで、心配をかけてしまってごめんなさい」
「今回のことは、想定が難しかったものだ。私の守護やノアベルトが咄嗟に回避しようとしても、予め精霊の国への扉を開いて現れたので難しかった………」
「そんな初めての誘拐でしたが、頼もしい家族がいるので怖くはなかったです。ただ、ノアが見付かったら大惨事間違いなしでしたので、少しハラハラしました」
「うん。………注射されてしまうのかな…………」
「どうやって二人で会場に向かうのでしょうねぇ……」
「…………ノアベルトとアルテアが…………」
その後、予防接種の事を考え、ディノとウィリアムの元気がなくなってしまったので、微笑んだミカが、真夜中の座のお城で素晴らしい軽食を振舞ってくれることになった。
暫くすると、涙目でけばけばになった銀狐を小脇に抱いたアルテアが、毛だらけで戻ってきたので、今年の予防接種は無事に終了したようだ。
ネアは、とても難しい駆け引きが必要になった筈のやり直しの初回を、こうして恙なく終えられた切っ掛けを作ってくれた水仙の精霊にこっそりと心の中で感謝する。
なお、その後に聞いた噂によれば、麦畑を荒らされた麦の精霊達が怒り狂ったので、休暇に出ていた麦の魔物が水仙の系譜との調停に引っ張り出される事態になったらしい。
繁忙期のため、明日は少なめ更新となります。