銀狐と肉球クリーム
膝の上に置かれた銀狐の前足に、力が入っているのがよくわかる。
小さく震えている体は思っていたよりも軽く、けれどもしっかりとした体温がある。
あれだけ力強く動くくせにこんなに軽いのかと、毎回思うのだ。
いつも真っ直ぐにこちらを見上げていた眼差しは、塩の魔物の瞳と同じ青紫色だ。
なぜ気付かなかったのだろうというどころではなく、そのままの色彩をどうして見落としていたのだろう。
だが、それもまた選択の底なのだろう。
選択は決して万能なものではなく、正しくもない。
それが都度正しく、正しくなければ階位を落としたのが前の世界層で、先代の選択はそれを望まずに階位を上げようとすらしないままに最下層の魔物で有り続けたと聞く。
己の選択が己を損なうとしても、選択されたものは選択の領域で固定される。
自身を損なうと知っていて為された選択が回り回って己を救うことは殆どないし、どのような願いを持ったとしても、選択肢がなければそれが叶うことはない。
(だとすれば俺はどこかで、これはノアベルトの擬態ではないという選択をし、自身の選択の魔術の顛末に目隠しをされ続けていたらしい…………)
そう考えれば落胆というよりは諦観に近く、けれども理解を浸透させる為には時間がかかった。
例えばそこで、いや、そんな筈はないという判断で選択を重ねていれば、もう一度理解が阻害されていただろう。
選択の術式は取捨そのもので、選び取られなかった一方は削ぎ落される。
選択肢は多い方がいいには違いないのだが、選び抜いた後で捨てたカードを拾い難いという、系譜の王としての不自由さもあるのは間違いない。
だからこそ、不要な選択を僅かに欲する心が残っていても敢えて切り捨てる事もある。
切り捨てたという事実が因果となり、その道筋がもう二度と戻ってこないように。
「……………おい、いい加減に元の姿に戻れ。いつまで俺の膝の上にいる気だ」
ふうっと息を吐き、低い声でそう言えば、未だに僅かな違和感を覚える。
これが身に馴染ませた選択の弊害かと思えば、今回の一件はギードという選択の結実の先でそれを壊し得る資質を持つ魔物だからこそ可能としたものだったのかもしれない。
「やれやれ、ノアベルトはこのままなんですね……」
「お前も、そろそろ戦場に戻る頃合いだろうが。いい加減この鳥籠を畳めよ」
「残念ながら、今日は世界がとても静かなんですよ。……………この狐がノアベルトだと気付かなかったのは、選択の資質の目隠しですか」
「さぁな」
「ネア達が部屋に来る迄の様子を見て気を揉みましたが、もしかするとあれば、選択肢を立てずに敢えてやり過ごす方向を取っていたのでは………?」
「…………お前は、いつからお節介になったんだ?」
顔を顰めてそう言えば、勝手に隣に座ったウィリアムが淡く微笑む。
いつもの軍服ではなく寛いだ服装で、この男の持つ無神経さの一端でも見せるかと思えば、酷く気遣わし気な目をするのが癪に障る。
「俺は沢山失くしましたが、あなたは殆ど何も手元に残さなかったでしょう?自らの選択ではない顛末で偉い取ったものを失うのは、……………滅多にない事だと思ったからかな」
「ほお。それで俺が、気落ちしているとでも思ったのか?」
「俺は弱い男ですから、自分だったらそうなるかなと」
そう言って微笑んだウィリアムに、更に顔を顰めた。
おかしなところで繊細な男であるのは確かだが、そう考えた経緯は相変わらず身勝手だ。
しかし、返答をするよりも前に、膝の上でムギーという声が上がった。
漸く落ち着いてきたところであった銀狐が、ウィリアムの言葉を聞いて取り乱したのか、またしても毛を逆立てて足踏みを始める。
「おい、やめろ!……………は?……………おい!!」
「…………俺は時々真剣に悩むんですが、……………これは本当に、ノアベルトなんですよね」
「っ、何をやっているんだお前は!!」
膝の上で暴れ始めた銀狐は、なぜか腕と胴の間に頭を突っ込み、そのままぐりぐりと押し付けてくる。
何とか引き抜こうとしても全身を押し付けてくるので、振り回される尻尾を掴むところから始めねばならなかった。
「……………いいか、その姿で……………くそ、今の騒ぎのせいで耳裏の毛が絡んだだろうが!」
狐姿で許されようと思っても無駄だと言い含めようとしたのだが、頭を擦りつけたせいで耳裏の柔らかな毛の部分が絡まってしまっている。
このまま放置すれば確実に面倒な毛玉になる上に、ネアやエーダリアなどの近しい者達は、あれだけ可愛がっておきながらも毎回毛玉にするまで気付かないのだ。
ヒルドやグラストなどは手入れの先読みが出来るものの、そもその時間が取れない事が多い。
深夜に騒ぎを起こした場合はほぼヒルドが対応していると聞くが、その多くは体を汚してきた場合の対処であるらしい。
となれば、ここで手入れをしておかねば、次に来た時には確実に毛玉になっているだろう。
「……………と言うかお前は、…………なんで毎回クリームケーキやスープに顔を突っ込むんだよ」
「……そこを考えるのは、やめた方がいいと思いますよ。俺は一度、休日にそれを考え始めて、最終的に具合が悪くなりましたから」
「箱に顔を突っ込んだり、花壇から抜け出せなくなっているのもおかしいだろ」
そう言えば、銀狐は涙目になったまま必死に首を傾げている。
こちらに向き合う形で膝に座っているので、ずりずりと体を後ろに下げてゆく動作が、見ていて不安しかないのもどういうことだろうか。
このままでいれば、そろそろ膝から落ちるような気がする。
「…………っ!!」
案の定、そのままずり下がってゆきながら後ろに落ちそうになり、ムギャワーと悲鳴を上げた。
すかさず手を伸ばして抱き止めながら、いっそうに思考が混迷を深めるのは致し方あるまい。
「……………本当に、ノアベルトなのか?」
「そう思いますよね。…………時々、アルテアにも思いますが」
「………は?」
「この前、ネアの皿から海老を盗んでいたでしょう。実は、シルハーンがムグリスになる場合は、かなり理性的だと思っているんですが、ギードも似たような事があって、……………この前会いに行ったらずっと尻尾を追いかけて回っていたな…………」
「…………は?」
それは本当に犠牲の魔物だったのだろうか。
森狼など幾らでもいるものだし、群れで行動しているので別の狼だったのではあるまいか。
しかし、そう考えたところで、ギードはその群れの中に番を得ていたことを思い出した。
ずっと精霊か妖精だと思っていたが、昨晩の会話によれば本当にただの狼だったらしい。
「だから、……………何というか、擬態に引っ張られて思考や行動がそちら寄りになる可能性もあるんでしょう」
「お前は知らないだろうから言っておくが、こいつは、ほぼ週に一度はリーエンベルクの廊下で仰向けになったまま遊び疲れて寝ているんだぞ?」
「…………おっと。あまり聞きたくないですね。俺の休日を、これ以上潰さないで下さい」
「騎士達に日替わりでリードをつけられて散歩している上に、…………お前は、何枚の絨毯を修繕に出させたんだ」
その中には、密かに驚嘆していた技術を駆使して織られた絨毯もあったので、ついつい声が低くなってしまう。
ただの狐であればまだしも、あの絨毯を駄目にしたのがノアベルトだと思えば何とも呑み込み難い気持ちになるというものだ。
だが、そう言われた銀狐は涙目でムギーと声を上げるばかりだ。
「俺なりの納得の仕方ですが、擬態の作り方によって状態の差があるのでは?…………ノアベルトの場合は、狐に擬態するというよりは、狐になるという状態にしているのかなと思うんですよね」
「例えそうだとしても、……………何で俺があいつの面倒を見なけりゃいけないんだよ」
「さぁ。それは多分、……………あなたがこの狐を気に入っているからなのでは?」
苦笑し、テーブルの上のカップを取り上げているウィリアムにそう言われ、半眼になる。
例えこの狐を気に入っていたとしても、それは中身がノアベルトだと知るまでのことだ。
耳裏に毛玉を作りかけ、涙目でこちらを見上げている銀狐を一瞥し、ふうっと息を吐いた。
「言っておくが、お前が自分で俺の目隠しを回収したんだろうが。馬鹿馬鹿しい限りだが、俺が、ある程度魔術の顛末としても目隠し状態にあったのは間違いないだろう。…………お前なら、あの状態の俺に対し、その認識をそのまま残す事も出来た筈だぞ」
「うーん。この状態でその議論は、………通じるのかな。……………おっと」
馬鹿にされたと感じたのか、ウィリアムの言葉に尻尾を膨らませた銀狐が、ムギャムギャと声を上げて抗議している。
こんな様子はノアベルトなのだろうかと考えかけ、いやただの狐だなと思い直す。
中身がノアベルトだと思うので紐付けようとしてしまうものの、よく考えれば塩の魔物らしさはほぼ残っていないに等しい。
前足をこちらの胸に押し当て、狐語で何かを訴えてくるのは、ウィリアムをどうにかしろというところだろうか。
(……………おい、今日の今日だろうが)
なぜ、既にこちらを味方にしているつもりなのか分からず、頭痛を覚え始めた額に指先を当てる。
すると今度は、折り曲げた肘の上に、甘えるように顎先を載せてくる始末だ。
「その狐は、あなたが大好きですね」
「やめろ…………」
「でも俺は、アルテアもそろそろ悩むべきだと思いますよ。……………俺は、この狐がノアベルトだと知った状態で、ボール投げで半刻も拘束された事がありますからね」
「………放っておけばいいだろ」
呆れてそう返せば、ウィリアムはなぜか、リーエンベルクにいるとそれを断るのが残酷なように思えてきてしまい、ついつい付き合うという不可思議な状態に陥るのだと呟く。
「もし本気でそうなっているなら、魔術浸食の段階だからな」
「かもしれませんね。…………とは言え、…………こうして見ていると、魔獣ですらなくただの獣なんですが」
「おい、毛の流れを逆立てるな。その撫で方だと換毛する毛が舞うだろうが」
「うーん。やっぱり、かなり溺愛しているな………」
「やめろ。こいつはノアベルトだぞ」
だが、ウィリアムの雑な撫で方で更に絡まった耳裏の毛を見ていたら、我慢がならなくなった。
ふうっと息を吐き直し、ネアが押し付けていったブラシを取り上げ顔を顰めると、魔術金庫から手持ちの小さな獣用の櫛を取り出し、耳裏の毛を梳かしてやる。
銀狐は目を丸くしてぶるぶると震えていたが、背中に脱毛部分を作った上に耳裏に毛玉も作ると思えば生来の気質のせいで我慢がならなかったのだ。
「……………この脱毛は、問題ないんだろうな?」
「俺も気になっていたんですが、ネア曰く背中の毛が抜けるのは二度目だそうですよ」
「この部位は、背中にあたるんだろうが……………何かが欠け落ちているってことだろ?」
「そうですよね。……まさか皮膚ということもないでしょうし」
「今、この時期にノアベルトに魔術的な欠落を出せば、リーエンベルクの守護に隙が出るぞ」
「確かにそうですね。…………その場合、獣の脱毛はどうすればいいのか、知っていますか?」
「こっちを見るな。知らん」
そうは言ったものの、背中に二か所もある脱毛部位はどうしても気になった。
小さく舌打ちすると、手持ちのある魔術薬を考え、コロールの店の薬草軟膏を取り出す。
「…………いいか、届きはしないだろうが、絶対に舐めるなよ」
「狐に塗っても大丈夫なんですかね…………」
「わざわざ専用のものを作る手間をかけるつもりはないからな…………」
毛が抜け落ちて地肌が覗いている部分に軟膏を塗られた銀狐は、涙目で尻尾をけばだたせたまま頷いている。
どうやら、こちらの言葉は正確に理解しているようだ。
それも当然だと思うと、ではなぜ、椅子の足に引っかかったまま動けなくなっていたりするのだろうか。
ウィリアムの考察のように、擬態ではなくそのものに変化するという術式を組んでこちらに擬態に気付かせないようにしていたのであれば、命を司る魔術を有する魔物だからこそなのかもしれない。
「……………何だ」
しかしここで、軟膏を塗り終えた指先を拭いていると、銀狐が前足の裏をこちらに向けるではないか。
何を言いたいのかと思えばどうやら、肉球をこちらに見せているらしい。
「アルテアに、何かを言いたいみたいですね」
「いや、おかしいだろ。元の姿に戻れよ」
「……………足裏に怪我でもしているのでは?」
「爪は切ったばかりだろうが。足裏の毛も整えたばかりだぞ。……………くそ、肉球の手入れか」
「ん?……………凄く手入れしてませんか?」
「室内飼いだからだ。野生の狐には必要のない手入れが必要になる」
「ああ。成る程……………ん?納得していいところなのか……………?」
リーエンベルクの屋内では、野生の獣が踏まないようなものが数多くある。
例えば騎士棟に入る階段では、野外での活動も多い騎士達の手間を減らす為に水気などを落とす為の魔術の手間がかけられており、騎士達の行動を見込んでの工夫が銀狐の足裏を乾燥させてしまう。
また、リーエンベルク内であちこちに敷かれている絨毯や、外回廊の境目に展開されている薄い排他結界も、野生で暮らすことだけを想定して育まれた体には、重ねて接触させると負担になるものが多い。
だからこそ、時折、肉球クリームを塗ってやっていたのだが、どうやらこの狐は、今日もそれをやってくれということであるらしい。
「自分でやれよ」
「……………素朴な疑問ですが、この姿になると出来ないのでは?」
「そうか。じゃあ、お前がやれ」
「やれやれ。………クリームは、どこかに用意されているんですか?」
「……………これだ」
「……………そう言えば、ノアベルトが、あなたが準備しているような事を話していましたね」
まさかとは思ったが、ウィリアムは塗ってやるつもりらしい。
しかし、瓶の蓋を開けて乱雑に指先を突っ込もうとするので、思わず小さく呻いた。
「ん?何か、使い方があるんですか?」
「……………貸せ。俺がやる」
諦めて引き取れば、ウィリアムの様子を見てまたしてもけばだっていた銀狐が、安堵したようにこちらを見る。
あの勢いでクリームを取れば、恐らく足裏をべたべたにされると分かっていたのだろう。
何でこんなことをする羽目になったのだろうと思いながら、膝の上に横倒しになって足裏を差し出している銀狐の肉球にクリームを塗ってやっていると、隣でふっと微笑む気配がした。
その様子に苛立ち何かを言おうとしたところで、ぐーっという寝息が聞こえてくる。
「……………寝るのかよ」
「……………うわ。………これは、………何とも言えない気持ちになりますね」
「本当にこいつは、中身がノアベルトなんだろうな……………?」
「自我としては、ほぼ残っていないと言われたほうが心に優しいかもしれないな…………」
どこか呆然としたまま、眠っている銀狐の肉球にクリームを塗り込み、寝返りを打って仰向けになろうとした銀狐を慌てて抱き上げる。
ぐっすり眠っているので背中に軟膏を塗っている事など考慮していないのも当然なのだろうが、こちらの服が大変な事になるではないか。
顔を顰めたまま長椅子の座面に移動させ、そこで少し考えて溜め息を吐くと、取り出したタオルを座面に敷いた上でその上に寝かせ直す。
この部屋の家具類は、統一戦争前からある希少なものだ。
住人が生活の中で磨耗する事は構わないが、さすがに薬草軟膏で汚すのは気が引けた。
「……………アルテア、少し飲みませんか?」
ふいに、ウィリアムがそんなことを言った。
「昼前からか?」
「ええ。俺は珍しく仕事がありませんし、あなたも今日はまだここにいるつもりでしょう。ネアには飲ませられないので出す場面がありませんでしたが、巨人の作る真夜中の系譜のいい酒があるんです」
「リレーヴァーか」
「ええ。仕事で出掛けた先の国で、戦乱を逃れて亡命するという商人が、安く売ってくれました」
「……………その酒に合わせるとなると、雪胡椒のサラミだろうな」
「ああ、いいですね」
隣からは、銀狐の寝息が聞こえている。
そこに眠っているのがノアベルトであるともう一度自分に言い聞かせたが、その事実を上手く呑み込めないというよりは、呑み込んだ上でも何やら釈然としない奇妙な思いが心の中に残った。
それぞれに取り出したグラスに、ウィリアムが無色透明の酒を注ぐ。
ふわりと漂うのは雨上がりの森のような香りで、そこに僅かなラベンダーの香りが重なった。
ウィリアムと飲むのに手間をかける必要もないので、サラミをその場でナイフで削ぎ切り、取り出した皿の上に適当に並べておく。
添えるのは乾燥させた葡萄でいいだろうと考え、ノアベルトと管理している葡萄園の事を思い出して頭を抱えたくなった。
(……………くそ。………諸々の整理は、後回しだ)
自分がそう考えるのがどれだけ珍しい事なのかは承知していたが、そう決めて首を振る。
久し振りに飲んだ巨人の酒は、冴え冴えとした冷たさが喉に沁みるような、美味い酒だった。