247. 思わぬ事態になりました(本編)
「シルハーン、ネア、…………俺からも謝罪させて貰う」
「ほわ。…………朝食に向かおうとした道中で、グレアムさんに出会いました」
それは、ディノの二日目の誕生日の朝の事だった。
ネア達が会食堂に向かおうとしていた道中、なぜかそこには、帰った筈のグレアムと、黒つやもふもふなるギードの姿がある。
そして、困惑したような表情のノアが一緒に立っていた。
なお、ネアの義兄は昨晩楽しくお酒をいただいたせいか、髪の毛はくしゃくしゃで少し眠そうな表情だった。
「何でだか分からないんだけどさ、シルとネアに話があるから同行して欲しいって言われて、朝一番に叩き起こされたんだよね。…………その、紐で繋いでるのって、ギードかな」
「グレアム、……………ギード、どうしたんだい?」
これにはディノも困惑してしまい、ネア達は顔を見合わせた。
いつもはゆったり微笑んでいる犠牲の魔物の夢見るような灰色の瞳は、なぜか、ぞっとするくらいに暗く翳り、黒つやもふもふな犠牲の魔物は、ぺたんと耳を寝かせてしまい項垂れている。
廊下に差し込む朝の光は、素敵に澄んでいてきらきらしていた。
こんな風に水晶のような透明の朝の光が落ちるのは、秋の初めの頃だけなのだ。
「………ノアベルト、君にもすまないことをした」
「え、…………なんでグレアムが、僕にも謝るの?っていうか、何があったのさ……?!」
「ギードは、………その、……………知らなかったんだ」
「む?ギードさんが、何か困ってしまっているのです?」
「……………アルテアが、……………その、狐の正体が……」
グレアムの言葉の途中でがしゃんと音がしたのでそちらを見ると、真っ青になったノアが窓にぶつかっている。
高位の魔物も、あまりの衝撃によろめいてどこかにぶつかったりするのだなと思いながら、ネアは、ざざっと血の気の引く思い視線を戻した。
目の前でもう一度深々と頭を下げたグレアムと、ぺたんと伏せになってしまった黒つやもふもふを見て、ふうっと深く息を吐く。
「……………何となくですが、緊急事態であると察しました」
「アルテアに、……………言ってしまったのだね」
そう呟き、自分の言葉で急に怖くなったものか、怯えてしまったディノが慌てて羽織りものになってくる。
今回ばかりはネアも心の支えを必要としていたので、そんな魔物の腕をしっかりと掴んだ。
「…………ノア、大丈夫ですか?」
「え、……………今日?……………今日なのかな」
「昨晩遅くに、……シルハーン達とノアベルトが部屋に戻ってからだ」
「……………わーお。………ええと、ってことは、僕はどこかに避難するべきかな」
青ざめたままそう呟き、ノアはしっかりと自分を抱き締めている。
ぶるぶる震えてとても混乱しているので、ネアは、片手を伸ばすと、そんな義兄を慌てて捕まえた。
「ノア、逃げても解決しないので、落ち着かなければエーダリア様かヒルドさんと一緒にいて下さいね。アルテアさんは、私とディノで探しに行きます」
「……………え、…………もしかして、失踪しちゃった感じ?」
「ご本人が直接苦情を言いに来ないという事は、恐らく…………」
「いや、」
しかし、ネアは森に帰ってしまったに違いない使い魔を捕まえに行く所存であったのだが、グレアムは短く首を横に振った。
「安心してくれ。さすがに、シルハーンの誕生日の内にそんな事になっては困るので、ウィーミアにして捕まえてある。今は、ウィリアムが見ていてくれているから、安心してくれ」
「………ほわ。狐さんの真実を知った上に、ちびふわに……」
「アルテアが……」
「え、…………当事者の僕でも、可哀想で泣きそうなんだけど……………!」
「仕方がないだろう。転移で逃げられるとまずい。今日はシルハーンの誕生日なんだぞ?!」
「……………わーお」
「アルテアが……………」
「むむぅ。元はと言えば、ノアがなかなか告白出来なかったからなので、これから謝りに行きます?」
「……………え、………今日じゃなきゃ駄目?……心の準備が」
とても長く生きてきた、高位の魔物である筈なのだ。
それなのに、未だに心の準備が出来ていないと真っ青になって首を横に振っていたノアは、何かに気付いたように、のろのろと視線を正面を横に向けた。
まさか、ウィリアムがちびふわを連れて来てしまったのだろうかと考えたネアも慌ててそちらを向くと、真っ青になったエーダリアと、その隣で額を片手で押さえたヒルドが立っているではないか。
蒼白になったエーダリアの手から、何かの書類の束がぼさりと床に落ちた。
「……………とうとう、知られてしまったのだな」
「とは言え、いい機会ですから、しっかり話をしてきた方がいいでしょう。もはやどうしようもないのですから、すぐに会いった方がいいのでは?」
「え、まだ心の整理が出来てないんだってば………!!」
「整理が出来ておらずとも、行くのは今しかありませんよ。…………ディノ様、捕縛を手伝っていただけますか?」
「……………うん」
珍しくヒルドからお願いされ、ディノは、思わずノアの腕を掴んでしまったようだ。
逃げる間もなく捕らえられたノアは、はっとしたように青紫色の瞳を瞠ったが、流麗な動きで素早く回り込んだヒルドがもう片方の腕も掴んでしまったので、総計三人に拘束されている事になる。
「グレアム様、ご案内いただいても?」
「……………ああ。朝から手間をかける。…………この通り、ギードは狼姿になって反省しているので、ネアは好きなだけ撫でてくれ」
「黒つやもふもふ!」
「ギードなんて……」
「え、今日はやめておかない?ほら、…………アルテアもまだ動揺しているだろうしさ」
「元はと言えば、あなたがなかなか本当の事を告げずにいたからでしょう。このように、謝罪をいただくまでのことでもなく、自身の責任ですよ。そして、このような問題は時間を空けるだけ拗れますから、すぐに済ませた方がいいでしょう」
「うむ。その通りですね。早い段階できちんと話すべきだと私も思います。なのでノア、逃げてはいけませんよ?」
エーダリアは、あまりの悲劇に鳶色の瞳を揺らして震えていたが、それでも同行してくれる事になった。
それ以上に動揺していたノアは、涙目のまま、引き摺られるようにしてウィリアムがちびふわを保護している部屋に連行される。
それは多分、たいそう奇妙な光景であった事だろう。
犠牲の魔物に紐で繋がれた狼姿の絶望の魔物は、これ以上ないというくらいに項垂れていた。
ぽそぽそ歩く黒い狼は、尻尾をお尻に巻き込んでしまい、見ていて可哀想なくらいにけばけばになっている。
ネアは、この上、狼姿のギードが部屋に入ると何が何だか分からなくなるのではと思いもしたが、うっかり秘密を明かしてしまったギードをこの姿にしてくれたのは、グレアムなりの配慮なのだろう。
もふもふ銀狐の秘密についての騒動に、ちびふわになったアルテアと、黒つやもふもふが揃い踏みするという訳の分からない構図だが、諦めるしかあるまい。
「アルテアは、……………泣いてしまわないかな」
「………アルテアさんは、狐さんの事をとても可愛がっていたので、心配ですよね」
「うん。次の予防接種の話をしていたからね」
「……………え、お兄ちゃんも泣きそう…………。今度、新しい肉球クリームを持ってくるって話してたんだけど」
「ほわ。それはまさか、…………狐さんに?」
「う、うん……………」
「ヒルド、後で胃薬の場所を教えてくれ………」
「まぁ。エーダリア様が真っ青です」
「お、お前はなぜ、落ち着いていられるのだ?!私の目から見ても、恐らく異例の事なのだろうという可愛がり方だったのだぞ?!」
「それをエーダリア様にも認識されていることに慄くばかりですが、使い魔さんの慰安旅行について必死に脳内の予定を調整していますので、それで冷静にならざるを得ないのかもしれません」
「ご主人様……………」
「本当にすまない………」
なぜグレアムがこんなに落ち込んでいるのかと言えば、酔っ払ったギードがアルテアと何かを話している事に気付き、その話題はまずいと思った時に、咄嗟の判断が出来なかったらしい。
あんなに血が凍るような恐ろしい瞬間があるとは思わず、何の言葉も出て来なかったと話してくれる。
ギードは、アルテアがその事実を知らないという事が、大きな問題だと判断することが出来ないくらいには気持ち良く酔っ払っていた。
そして、珍しく気付きの悪い選択の魔物を不憫に思い、良かれと思って本当のことを告げてしまったのだ。
「…………その時のアルテアは、どのような様子だったんだい?」
「暫くの間、無言でいました。ウィリアムも珍しく言葉を失っていて、俺は堪らずに彼をウィーミアに……」
「思っていたよりも、ずっと早い段階でちびふわにされています……………」
「ウィリアムは、アルテアがこんなにも動揺するとは思っていなかったそうです。彼も動揺してしまい、ウィーミアになったアルテアを抱いて、暫く途方に暮れていました」
「え、何その凄惨な状況…………」
「ネイ。元はと言えば、あなたのせいでしょう」
「ごめんなさい……………」
(とりあえず、状況の確認は出来た……………)
その頃には、ネア達は問題の部屋に到着していた。
さすがに部屋の扉を開けるのには勇気を振り絞らねばならなかったが、それでも、少しでも早い段階で加害者と被害者を引き合わせておかねばならない。
ネアが意を決する頃にはグレアムも覚悟を決めたのか、扉をがちゃりと開けた。
「シルハーン。ネアも来てくれたのか。……………ノアベルト」
「えっ?!アルテアはどうしたの?!」
「まぁ。……………ちびふわが、虚無の眼差しです……」
そこには、長椅子に腰かけ、小さな子供をあやすようにちびふわを抱いたウィリアムがいる。
その腕の中に納まったちびちびふわふわした生き物は、虚ろな赤紫の瞳でとても遠くを見ていた。
ネアは、こちらを見たら怒り狂うだとか、羞恥のあまりにどこかへ逃げ出してゆこうとするのだとばかり思っていたので、呆然とするしかない。
この様子では、確かにグレアムがこんなに参ってしまうのも納得だ。
「……………ちびふわ?」
羽織りものの伴侶を着たままネアが近付き、そっと呼び掛けてみたが、虚ろな目のちびふわは、ぐんにゃりしたままウィリアムに抱かれているばかりだ。
不安になってそっと指先で撫でてやると、その一瞬だけ瞳が僅かに揺れる。
「ずっとこの様子なんだ。………思っていた以上に、………衝撃を受けたんだろう」
「アルテア、……………大丈夫かい?」
思わずディノがそう声をかけてしまったが、ちびちびふわふわした生き物は未だに遠くを見ている。
ネアは胸がぎゅっとなってしまい、ウィリアムの手からそっとちびふわを受け取ると、ぐんにゃりしたままの生き物を胸元に抱き締めた。
そしてそのまま、くるりと振り返る。
「……………ノア。アルテアさんを抱っこしてあげて下さい」
「え、……………僕?」
「そして、ちゃんと謝るのですよ」
「え、…………僕が抱くの?」
「いつも狐さんにして貰っていたように、大事に抱っこして下さいね」
「………うん。………ええと、……………ごめんね、アルテア」
ノアが怖々と手を伸ばしてちびふわを受け取ると、初めてちびふわに大きな変化が現れた。
赤紫色の瞳を瞠ってみっとなると、尻尾の先までけばけばになり、一生懸命にネアの手の方へ戻ろうとする。
しかし、冷酷な人間はそれに気付かないふりをしてしまい、激しく震える伴侶を羽織ったまま、途方に暮れてちびふわを抱っこしているノアから少しだけ離れた。
「……………アルテア、………ええと、……………本当にごめん。僕はさ、アルテアが大好きで言い出せなかったんだ。……………あ、間違えた」
「フキュフ?!」
「……………えーと、僕がって言うか、銀狐が?…………ほら、いつもこっそり健康にいいおやつくれたり、爪を切ってブラッシングもしてくれるし、肉球クリームを塗ってくれたり、皆で食事する時には、君だけが僕にちゃんと一口大に切り分けた料理を食べさせてくれたし……」
「フキュフ?!」
「予防接種もいつも一緒に行ってくれたし、洗ってくれたこともあるし……………」
「フキュフー?!」
「ふむ。ショック療法ですね……」
「アルテアが………」
もはや、何だか違う告白のようになってきていたが、ノアも動揺していて気付かないのだろう。
これまでの銀狐の溺愛ぶりをこんな衆目の前で明かされてしまったちびふわは、大混乱に陥ってちびちびふわふわ大暴れしていた。
奥では、やっとアルテアに反応が現れたとグレアムが肩を震わせており、ウィリアムがそんな友人を支え、正気に戻ってくれて良かったなと頷き合っている。
すっかり意識を取り戻した重病人のような扱いにされているが、高位の魔物達をそこまで心配させてしまうくらいの状況だったのだろう。
「そんな風にしてくれたのって、アルテアだけだったからさ、言おう言おうと思っても、………いなくなったらどうしようと思ったら、怖くなって……………え、これ愛の告白みたいになってない?!」
「フキュフ?!」
「え、……………ええと、だから、これからもアルテアがいないと困るんだ。……………あれ?」
「……………ネイ。謝罪をもう少し足した方がいいのでは?」
「そうだった!…………ごめんよ、アルテア。悪気があった訳じゃなくて、大事過ぎて言えなかったっていうか、……………何で言えば言う程、告白になっちゃうのかな?!」
「ノアベルトが……………」
「フキュフー!!!」
「ふむふむ。熱烈な思いを告げるという意味で、もうそれでいい気がします」
「フキュフ!!」
「あっ、アルテアが逃げた……………」
何とか謝罪を口にして安堵した瞬間に手が緩んだのか、ノアの元から逃げ出したちびふわが、しゅばっとネアの腕の中に飛び込んでくる。
けばけばになって、ふーっとノアを威嚇しているが、たいへん健康的な反応でネアはほろりとしてしまう。
「良かったですねぇ、ちびふわ。元気になって……」
「フキュフ?!」
「それと、きっと今は動揺の方が大きいでしょうが、これからじわじわと落ち込んできてしまうかもしれません。それくらい、アルテアさんは狐さんを可愛がっていたのだと思います。ですので、慰安旅行の予定を立てています。三個くらいこちらで日程を出しますので、ご都合の合う日があれば教えて下さいね」
「……………フキュフ?」
「家具の国と呼ばれる、素敵なところなのですよ。アレクシスさんのお店のカウンターを作った家具職人さんがいて、紹介制の工房なのですよ」
「フキュフ…………」
ネアは慎重にちびふわの表情を見ながら話を進めた。
この場合は、後々に落ち着いた後に失踪したくなるかもしれないので、事前に約束を入れてしまう方針である。
なお、今年の秋の銀狐の予防接種は、まだ心の傷が癒えていないかもしれないので、欠席でも仕方がないと考えていた。
「それと、今年は漂流物が怖いので、使い魔さんはいなくならないで下さいね。この通り私はよく色々な事に巻き込まれますし、使い魔さんもたいへん事故り易いと言わざるを得ず…………」
「フキュフ……………」
「心がざわざわしている時は、幾らでも愚痴を聞きますし、今度、杏のパウンドケーキを作って差し上げますから、今年の、……………私の誕生日が終わるくらいまで………、いえ、やっぱり、新年のお祝いの後までは失踪は避けていただき、薔薇の祝祭の前くらいまでの期間ならどこかでお一人でゆっくりしていてもいいですからね」
「ネア、新年はボラボラ祭りがあるのではないかな……」
「は!失念していました。ボラボラが去った後にしましょうね」
「フキュフ……………」
失踪許可が出るのが随分先だと分かり、ちびふわはたいそう荒んだ目になった。
しかし、先程の虚ろな眼差しよりは余程いいではないか。
(……………もう一押し!)
ネアはここで、ちらりとノアの方に視線を向ける。
残念ながら義兄はべそべそしていてこちらを見ていなかったが、代わりにヒルドが気付いて頷いてくれた。
頼もしい友人に耳元で何かを言われたノアは、はっとしたように顔を上げる。
「アルテア、……………僕が隠し持ってる、氷河と薔薇の酒をあげるよ。ほら、ネアが絶対に大好きだから」
「フキュフ……………」
「な、なぬ。私の好きそうなお酒が、隠し持たれています!」
「それと、アルテアがずっと探していた福音と来訪者の魔術書、実は僕が作者だから、原本はもう残ってないけど何でも聞いて」
「フキュフ?!」
「それから、……………またブラッシングしてね」
「……………フキュフ?!」
思わぬお願いが最後に飛び出し、ちびふわは、けばけばになって固まった。
ここで、ウィリアムがそろそろ心の整理をさせないと、許容量を超えるのではと提案してくれたので、ネアもこくりと頷く。
「今、グレアムと相談したんだが、この部屋の中に特殊な鳥籠を構築する事にした。落ち着くまで、アルテアは閉じ込めておこう」
「ほわ………。監禁してしまうのです…………?」
「一応、人型の状態でもノアベルトと話させた方がいいだろう。それが終わるまではな」
「え?!僕の心も、結構いっぱいいっぱいだよ?!」
「あなたは、自己責任でしょう」
「ノアベルト。もう少しなのだ。誠意を尽くして頑張ってくれ」
エーダリアにも応援されてしまえば、ノアも頷くしかないようだった。
代わりに、後で沢山ボールで遊んで欲しいとお願いしているノアを見て、ネアの腕の中のちびふわの尻尾は使い古しの歯ブラシのようになってしまう。
「えーと、じゃあ、僕と鳥籠に入ろうか。……………って、これなんか凄い誤解を与えそうな誘い方じゃない?!」
「もう、どんな言い方でもいいんじゃないか?」
「わーお。アルテアが普通に反応し始めたから、ウィリアムが雑になってきたぞ…………」
「いや、まだ心配しているぞ。……………アルテア、何か温かい飲み物でも飲みますか?」
「……………フキュフ」
その問いかけに、ちびふわは酷く暗い声で返した。
ウィリアムは困惑したように白金色の瞳を瞬き、縋るような目でこちらを見る。
「これは、素直になれずにつんつんしているだけなので、飲み物は用意してあげた方がいいと思います」
「フキュフー?!」
「そうなんだな。分かった。……………こんな時ですし、昔なら違うものでしたが、紅茶にしますか」
「フキュフ……」
「おや、であればこちらで準備しましょう。…………アルテア様、朝食はこの部屋に運びますか?」
「……………フキュフ」
「ええ、ではそのように」
こちらはすんなりとちびふわ語を汲み取ったヒルドに、ウィリアムとグレアムが感嘆の目を向けている。
ネアの予測では、銀狐のお世話をしている内に培った能力かなというところであった。
やがて、終焉の魔物と犠牲の魔物が特殊な魔術調整をかけて展開した鳥籠が張り巡らされ、ちびふわ擬態が解かれる事となった。
ちびふわから人型に転じた直後のアルテアが暴れないように、その瞬間はディノが抱いている事になる。
ネアは、悲し気に瞳を揺らしてそっとちびふわを撫でてやり、赤紫色の瞳のちびちびふわふわした生き物をいっそうにけばけばにしている伴侶が、この後のお誕生日も笑顔でいられますようにと祈った。
ぼふんと、音がして小さな生き物が本来の姿に戻ったのはその直後だ。
立っているアルテアの手は、逃がしてはいけないと思ったのかディノがしっかりと掴んでいてくれ、ネアも慌てて駆け寄った。
「……………アルテアさん」
「……………何だ」
名前を呼べば、こちらを見たアルテアは、かなり荒んだ瞳をしている。
だが、突き放すような冷たい眼差しではなかったし、真実を隠していたネア達への憎悪もないようだ。
それを見たネアはほっとしてしまい、腕を掴んでくれていたディノごと、そんな魔物を抱き締めてしまう。
「っ?!……………おい!!」
「当分は、失踪しないで下さいね。悲しくなった時は、狐さんを抱っこしてもふもふすれば……………むむ?」
「……………やめろ」
「で、では、一緒に家具の国に行きましょうね!中でも、指折りの職人さんだけが暮らしている上流区画は、滅多に観光許可が下りない特別な町なのだそうです」
「………アレクシスがその権限を持っていたのも驚きだが、まさか取れたのか?」
「ええ。許可証だけは既に発行済ですので、いつでも申請出来ますよ。ただし、現地での自然災害や魔術異変が起きている場合は渡航延期とされるので、事前の確認は必要なのです」
「ったく。……………それについては同行してやる。だが、……………今年の予防接種はなしだ」
「はい!」
(良かった………!)
アルテアが、自らの意思で慰安旅行に行けそうなくらいだと知ったネアは喜んでしまったが、その言葉を聞いたノアは違ったようだ。
ぴっと飛び上がると、慌ててこちらに走って来る。
「……………おい、お前は近寄るな」
「え、何で?!もう、僕の予防接種には一緒に行ってくれないの?!」
「……………は?」
「アルテアがいいんだけど!」
「おかしいだろうが。お前一人で行けよ。……………というか、その予防接種は必要なのか……………?」
何か気付いてはいけない事に気付いてしまい、アルテアがまた遠い目をする。
その表情に微かな不安が見えたのは、自らももふもふに擬態するからだろう。
もしくは、塩の魔物が獣用の予防接種を毎年受けていたという事実が、思いのほか大きなダメージになったのかもしれない。
「アルテアが一番いいんだって。ゼノーシュは、僕を鷲掴みにするんだよ?!……………ネアも、きっと同じ感じだと思う」
「むむぅ。私は、いつだって狐さんを大事にしていますよ?」
「ボールはエーダリアとヒルドがいいけど、ブラッシングも、アルテアが一番上手いかな…………」
「ほわ………」
アルテアが比較的落ち着いた様子だったので我欲が前に出てしまったのか、取り縋るようにして肩を掴んで訴えたノアに、選択の魔物の瞳にはすっかり光が入らなくなってしまったではないか。
ネアは、慌てて引き剥がそうとしたのだが、はっとしたように何かを考える表情になったノアが、突然銀狐の姿になる。
そして、無言で瞠目したアルテアの爪先をぎゅっと踏み、ムギャワーと鳴いた。
「……………っ、ノアベルト、………その説得方法でいいのだろうか?」
「やれやれ。私は、飲み物と食事の準備を厨房に伝えてきましょう」
「ヒルド、俺の食事もこちらでいいか?……………この状態のノアベルトと二人にするのは、酷な気がしてきた」
「ええ。では、ウィリアム様の分も。……………グレアム様とギード様は、こちらで食べていかれますか?」
「い、いや。…………これ以上長居はしない方がいいだろう。アルテアが落ち着いたら、俺達は帰ろうと思う。………ギードは置いていってもいいが………」
そう言われた黒つやもふもふは、項垂れたままこくりと頷いた。
悪気があっての事ではなかったのだし、何しろ酒席での失敗である。
ネアは、ギードが落ち込み過ぎないように帰り際にディノから声をかけて貰う事にして、そんなギードもグレアムと一緒に出た方がいいのではないかと考えた。
(多分ここからは、当事者同士にしか解決出来ないことだもの………)
ムギャワーウォウウォウという雄叫びが聞こえてきて振り返ると、仰向けになって寝そべり、手足をばたばたさせて暴れている銀狐と、そんな銀狐を暗い目でじっと見下ろしているアルテアがいる。
ディノはすっかりおろおろしてしまい、銀狐を撫でればいいのか、アルテアを慰めればいいのか分からないようだ。
なのでネアはまず、立ち尽くしているアルテアの手を引いて、長椅子に座らせてやると、起き上がって涙目でけばけばになっている銀狐を持ち上げ、使い魔のお膝の上に設置してみた。
双方がびみゃんとなったが、邪悪な人間は、すかさず換毛期用のブラシをアルテアの手に持たせ、途方に暮れたように見つめ合う魔物達から、さっと離れた。
「ふう!これで、対話の形が整いましたね!」
「うーん。またしても片方が獣姿だが、これでいいんだな…………」
「アルテアとノアベルトが……………」
「ネア、あれはさすがに、……………残酷過ぎないだろうか」
「ここから先は、狐さんの交渉能力次第ですね。………む」
「毛が、抜けてしまったのかな……」
ブラシを持たされたアルテアが何も言ってくれないのが、過大なストレスだったのだろうか。
涙目の銀狐の背中の毛が、ぼさりと抜け落ちる。
すると、アルテアは眉を寄せ、人生の岐路に立たされたかのような悩ましげな表情になった。
続いて、けばけばだった尻尾がぽさりと下に垂れ、銀狐の耳がぱたりと後ろに倒れる。
また、束になってぼさりと抜け落ちた毛に、エーダリアは胸元で両手をぎゅっと握り締めていた。
皆が固唾を飲んで見守る中、のろのろと、まるで自分の意思ではないかのように手を持ち上げたアルテアが、ひどくゆっくりとした動きで、銀狐の胸毛にブラシをあてる。
その途端、銀狐の尻尾が、ふりふりと振られた。
「……………同じ部屋にはいて、でも、少しだけ二人にしてあげましょうか」
「うん。…………大丈夫かな」
「ふふ。あの様子だと、私達が思っていたよりも、仲直りは早いかもしれませんね」
「ノアベルトは、あれでいいんだな………」
その声の力のなさに顔を上げると、今度は、ウィリアムがとても遠くを見ていた。
ネアは、こちらも心のケアが必要かもしれないと考え、朝食はこの部屋で食べた方がいいかなと首を傾げる。
エーダリア達の方を見れば、そちらも同じ考えのようだ。
結局この日の朝食は、皆で同じ部屋で摂る事になった。
項垂れるギードを連れて帰っていったグレアムは、ザハの朝食セットを、落ち込む友人に奢ってあげるのだそうだ。
今年の銀狐の予防接種がどうなるのかは、いまだに未定であったが、ネアはかすかな希望の光をどこかに感じている。
執着や愛情は、そうそう簡単に断ち切れるものではないのだから。