242. お誕生日に結びます(本編)
目を覚ますと、うっとりとするような霧の朝であった。
ずっと昔に暮らしていた場所でも好きだった霧にも、何か見知らぬもの隠していそうなおとぎ話の気配はあったけれど、ネアは、こちらの世界に来て初めて、霧の美しさに目を奪われたように思う。
けぶるような青みがかった乳白色には僅かな虹の色がかかり、窓辺に立ってそんな霧のたちこめている庭を見ている伴侶の後ろ姿をじっと見ている。
昨晩は一緒にメランジェを飲み、どこかで行こうと話したままになっていた旅行の計画を練った。
(ディノの、一日目のお誕生日の朝だわ)
満開になったライラックの花と庭に咲いている薔薇が、霧に滲むようにその輪郭を透かしている。
時折オーロラのように揺らぐのは、虹の影だろうか。
窓枠を額縁にした一枚の絵のような美しさには引き込まれるようであったが、我が儘な人間は、今日ばかりはそんな美しさよりも、幸せでくしゃくしゃになっている魔物の方が好きだった。
「ディノ……………」
なのでと、その名前を呼ぶと、長い真珠色の髪を揺らして美しい魔物が振り返った。
まだ薄暗い夜明けの光は水色がかった灰色で、その中でぼうっと光るような長い髪は、出会った日に森で見上げた色と同じような人ならざる者のもの。
けれども、水紺色の瞳に浮かぶ嬉しそうな微笑みは、今ではもうネアのものなのだ。
「……………ネアが、可愛い」
「むぅ。目が覚めたら、凄く近くでもう一度朝のお祝いを言おうとしたのに、私の魔物に手が届きません」
「虐待…………」
目が覚めてすぐだったせいか、まだ起き上がるには至らない脆弱な人間の代わりに、ディノは慌てて寝台の上に戻ってきてくれた。
なぜか、慎重な動きでそっと寄り添った魔物は、贈り物を貰うかのようにそわそわしている。
ああ、こんな風に幸せな日を噛み締めてしまう大事な魔物には、何度だってお祝いを言わなければならないなと微笑み、ネアは、えいっと体を動かして伴侶の鼻先に口付けをした。
「お誕生日、おめでとうございます。ディノ」
「……………ネアが、凄く虐待した」
「ふふ。お誕生日の日は、沢山祝福してしまうのですよ。………それと、昨晩話した通り、今年の誕生日の贈り物はお誕生日の会場に行く前に渡してしまうので、覚悟しておいて下さいね」
「ずるい…………また虐待する」
そっと手を持ち上げ、僅かに躊躇する。
こんな時に躊躇わなくていいのにと思えば、けれども、未だに怖々とネアを腕の中に収める様子こそが、この魔物らしい拙さなのかもしれない。
いつもの当たり前には慣れても、いつもにはない特別な日のことには、まだ慣れていないのだろう。
(でも、それは私もなのだわ…………)
だからこんな風に、ディノの誕生日が来る度に嬉しくなってしまって、弾むような思いで大事な伴侶を抱き締めてしまうのだろう。
毎日が温かくて優しくて幸せで、ここには、誰よりも大切な人がいる。
おまけに、それだけでは飽き足らずに、家族やそこに近しい人達までがいるのだ。
これはきっと、どんな悲しい事があっても誰にも奪えない愛おしさに違いない。
(もう充分に、悲しい事も不公平な事も乗り越えてきた)
それでも多分、これからもそのような事はあるし、胸が潰れるような思いもするだろう。
そんな事はないとは言えないくらいにこの世界には様々な側面があって、けれども、ここで生きている大事な人達を抱き締める為に、そのくらいの怖さには立ち向かってしまうのだ。
だから、こんな大事な伴侶と素敵なお家と家族の為なら、ネアは、どんな悪いものだって踏み滅ぼしてしまえるだろう。
「今日は素敵な日ですね。私の大事な魔物のお祝いが出来るのですよ」
「………有難う、ネア。………だ…………大好きだよ」
「はい!私もディノが大好きです」
あまり多くは聞けない言葉に、ぱっと笑顔になったネアが同じ言葉を返すと、魔物の王様でもある筈の万象の魔物は、敢え無く寝台に沈み込んでしまう。
邪悪な人間は、恥じらう魔物にぎゅっと体を寄せ、その腕の中でぬくぬくと過ごす少し肌寒い朝は、なんて素晴らしいのだろうとにんまりした。
「……………実は先程、生まれ育った場所の事を考えた時に、ずっと昔の事に思えて、少しだけ驚いたんです」
「そうなのかい……?」
「ええ。ここでの生活があまりに幸せだからに違いないので、ディノは、これからもずっと一緒にいて下さいね」
そんなお願いを、吐息が触れる程の近さでディノが受け止めてくれる。
真珠色の睫毛を揺らし、澄明な水紺色の瞳がくしゃりとなった。
「…………まぁ。泣いてしまうのですか?」
「ずっと、……………一緒にいるよ」
「ふふ。ディノの誕生日なのに、私も贈り物をもぎ取ってしまいました。約束なのですよ?」
「うん。…………虐待………」
「むぅ。お誕生日の朝になったばかりなのに、私は、お誕生日を迎えた伴侶を何度も虐待したことになっています。…………かくなる上は、そろそろ特別な贈り物の準備をした方が良さそうですね」
厳かにそう告げられた魔物は、ぴっとなって体を起こすと、涙の雫のついた睫毛を揺らした。
急な動きに、真珠色の髪の毛が肩口から落ちてさらりと弾む。
そんな小さな動きにさえ、何て綺麗なのだろうと思いながら、ネアももそもそと起き上がり、とは言えまずは顔を洗うのだと宣言した。
きりりとした面持ちで頷いた魔物は、まだこんな夜明けだけの簡単な服装だ。
「まずは、顔を洗うのだね」
「はい。私は顔を洗って…………何かをささっと塗っておきますので、そうしたら、ディノの髪の毛を梳かして三つ編みにしてあげますね」
「うん。…………顔を洗った後には、化粧水をつけて、クリームを塗った方がいいのだろう?」
「ぎゃふ。…………なぜその工程を知っているのだ」
「アルテアが、君が手を抜かないように覚えておいた方がいいと話していたからね」
「ず、ずるいです!ディノを味方に引き込むだなんて…………」
寝台から下りると、少しだけ肌寒く感じる季節になった。
ウィームは夏が短いので、すっかり秋の入り口の気温である。
寝台下の絨毯を室内履きでふかふかと踏み、浴室にある洗面台に向かう。
カーテンを手で引き、淡い夜明けの光を部屋の中に取り込むと、どこか清廉な気持ちになる。
部屋のカーテンはまだ白地に花枝柄の夏のものだが、もう少しすると秋用のものに変更されるのだろう。
(今年は、あの青緑色のものかな。それとも、くすんだ青灰色のものだろうか。一度くらい、他のお部屋にかかっている綺麗な紫色のカーテンにしてみたいけれど、あれくらいの鮮やかな色だと壁色に対してきつく感じてしまうだろうか)
季節の模様替えで新しいカーテンを選ばせて貰う日は、いつだって楽しみだった。
どんなものにしようかなと想像しながら顔を洗いに行き、蛇口を捻ってお湯と水の温度の調整をすることにも、もう慣れた。
寧ろこの辺りの仕様は、ネアがこちらに来る前の生活より遥かに恵まれている。
リーエンベルクでは、洗剤の値段や所有しているタオルの数とお天気を考えずとも、毎日ふかふかの洗い立てのタオルで顔を拭く事が出来るのだ。
「クリームは塗れたかい?」
「……………ふぁい。使い魔さんは、以前に一度、全部入りの化粧品にしてくれたことがあるのですが、最近んまた、手順を分けて効果を定着させた方がいいと、二段活用に戻してしまいました」
「君が、クリームを塗る事の方が苦手なので、化粧水と分けておけば、せめて化粧水は必ず使うだろうからと話していたかな」
「なぬ。…………一応は淑女なので、さすがに、何も塗らないという真似はしないのですよ」
ネアは慌ててそう主張したが、ディノに共有されていたアルテアの観察記録によると、一種類で済ませられる化粧品を用意した際には一度に使う量が少なすぎたらしい。
二段階に分けておけば化粧水はしっかり使うだろうと考えた使い魔は、クリームをそこに足してゆく方が安心だと思ったのだろう。
「でもネアは、水が気持ちいいのだよね」
「ええ。こちらに来てから、顔を洗ったり入浴する際の水や、飲み水までもがとても体に合うと感じるのです。頬に触れる雨粒や、霧のしっとりした粒子、風の感触も。なので、クリームを塗ると少し肌が重たく感じてしまうようになりました」
「土地の魔術や祝福が、君に合っているのだろう。でも、アルテアの言うように守護を重ねる意味でも塗っておいた方がいいのだと思うよ」
「ぐぬぅ…………」
ネアは渋々、夏季限定ですっきりとしたプラムの香りだったクリームを塗り、鏡台の前に移動すると手早く髪の毛を梳かして身支度を終えた。
そのブラシを手にしたまま振り返れば、ディノがはっとしたように背筋を伸ばしている。
「まずは、この椅子に座って下さいね。いつものように髪の毛を梳かして、三つ編みにしましょう」
「……………うん。いつもと同じでいいのだね」
「ええ。ここまではいつもと同じです!」
長い長い髪の毛だが、ネアは、ディノの髪の毛を梳かすのが大好きだった。
宝石を紡いだような髪の毛は滑らかで、ゆるやかな巻き髪のようなウェーブには弾むような弾力がある。
さらさらと指先を通せるくらいに細いが強靭な髪質は、ほんの一筋でも通した指先の上できらきらと光るよう。
狩りをしてたっぷり稼げるようになってから買い替えたブラシは、上等なものだ。
地肌に触れる心地良さもあるので、微かに頭皮に触れるようにして梳かし始め、長い髪の毛先までを簡単にではあるが整えてやる。
人間とは違い、寝ているだけでは髪の毛がくしゃくしゃにならない魔物だが、こんな風に手入れして貰えるというのは魔術的にも大事な事であるらしい。
そして、そこからはいつもの手順で、ブラシと手櫛を使い分けて髪を片側にまとめ、前に回り込んで緩めの三つ編みにしてゆく。
髪の長さがまちまちだと三つ編みが緩みそうだが、髪の毛が伸びたり生え変わったりすることのない魔物の髪の毛はある程度均一な長さになっており、途中で不格好にこぼれてしまう事もないのだった。
ディノの三つ編みは、心配症な人間が解けてしまわないようにと試行錯誤した結果、最近は、妖精の髪紐という細い髪ゴムのようなものでまとめ、その上からリボンを結ぶようになった。
なのでネアは、髪ゴムで三つ編みを固定すると、鏡台の抽斗に隠しておいた夜の祝福石の小箱を取り出し、ディノの前にじゃじゃんと掲げてみせた。
「…………ネア?」
「この小箱は、ミカさんに夜の系譜の宝石を扱っている方を紹介して貰い、買ってきた夜の祝福石をアルテアさんのご愛用だという秘密の細工屋さんに依頼して貰って、小箱にしたものなのです」
「リボンの模様がある…………」
小箱の細工に気付き、ディノがふるりと瞳を揺らした。
ネアは、お誕生日なのだからと容れ物にだって妥協したくなかったので、決して華美にはならない程度に繊細な細工を入れて貰い、柊の小枝にリボン飾りの模様としたのだ。
「そしてこの中に、ディノの今年のお誕生日の贈り物が入っています。今日のお誕生日の一日を、朝から楽しめる贈り物なので、特別にお祝いの席ではなく私から贈る事になりました」
「……………うん」
「箱を開けてみますね………」
「……………うん」
箱の真ん中にリボンが彫られているのだから、中身の想像がついたのだろう。
もう既にちょっと涙目の魔物に微笑みかけ、ネアは、かぱりと小箱を開けた。
勿論、ご期待通り今年の贈り物はリボンである。
艶々とした菫色がかった青色の祝福石の箱の中には、綺麗にくるりと巻いたラベンダー色のリボンが入っていた。
「このリボンは私が織り上げたものなのですよ。ディノに最初に贈ったリボンの色にしました」
「…………リボン」
「ええ。昨年、偶然に妖精さんのリボン織り機をお店で見付け、これはもう、リボン織りを会得するしかないと思い挑戦してみたのです。使う糸は私にとってちょっぴり特別な意味もある菫の花から紡ぎ、糸紬はヒルドさんに手伝って貰いました」
とは言え、当初の妖精の織り機は、ネア一人で扱えるようなものではなかった。
まずは道具の調整から始まり、リボンを織り始めたのだと話せば、ディノはこくりと頷いている。
「……………リボンが」
「そして今回、そのリボンに更なる特別さを出すべく刺繍もしてあるのです。ディノの上着模様と相性がいいように、魔術的な問題がないようエーダリア様に図案を考えていただきながら、片面織りの一方にお花や雪や星の模様を選んで刺繍しました。………この、きらきらとしている部分は、私の髪の毛を切り揃えた際にそこから小さな宝石ビーズを作っていただき、縫い込んであります。家族のリボンにもしたかったので、ノアの魔術から紡いだ宝石も入っているのですよ」
つまりは、家族からの贈り物なのだとふんすと胸を張れば、小箱を渡された魔物は途方に暮れたように瞳を瞠り、ほろほろと涙を流した。
窓の外では空に虹がかかり、結晶石の花などが咲いているので、喜びの涙だろう。
今年もエーダリアやウィーム中央の魔術大学では大忙しなのかなと思いつつ、ネアは、小箱をそっと手の中に収めて泣いている魔物の頬に口付けを落とした。
「……………有難う、ネア。大事にするよ」
「はい。でも、もし傷付けてしまったり失くしてしまっても、また作れるものなので、怖がらずに使って下さいね。その他のリボンだって私の大事な魔物用なので、気分に合わせて自由に使ってくれると嬉しいです」
「ネアが、……………リボンを作ってくれた」
「指輪の宝石を贈り物にして以来、お出かけでも身に付けていられるような贈り物がなかったでしょう?なので今年は、そのようなものがいいなと考えて、このリボンにしてみました」
贈り物のリボンには刺繍や宝石ビーズの縫い込みもあるが、それは、指先でなぞって微かな手触りの違いがあるくらいになるよう、細い細い糸で丁寧に縫い込まれている。
リボンとして手の役割を妨げないような工夫もした。
リボン結びにする際に硬くて使い勝手が悪くならないよう、刺繍は見栄えばかりに拘らない控えめだが寂しくならない図案にし、片面織りのリボンを重ねて縫い合わせ、最終的には両面織りに見える仕上げになっている。
縫い込まれて隠されてしまうリボンの内側には、ちょっぴり不格好になった縫い目だけではなく、実は、文字入れで付与する伴侶用の祝福魔術も籠められている。
こちらの文字選びにはグレアムが参加してくれていて、ネアがその秘密を明かすと、ディノはぴっと目を瞬いた。
「グレアムも、………なのだね」
「文字入れの際に使う特別なインクは、ウィリアムさんが用意してくれたのですよ。特別な魔術のペンはギードさんが探してきてくれました。どちらも、後程贈り物包装で渡すので、インクやペンだけとしても使って下さいね」
「……………ウィリアムとギードが…………」
「因みに、もう一つの贈り物になる、ゼノとグラストさんが用意してくれた伝統のお酒は、夜のお誕生日の席で渡してくれるそうです」
「……………もう一つあるのかい?」
「はい!ディノの事を大好きなみんなで、沢山の贈り物を用意しました。ゼノ達の用意してくれた伝統のお酒は、私がこちらに来てからの年数的に、やっと渡せるものなのだとか」
そのお酒については、ディノはきっと喜ぶとゼノが保証してくれたので、どんなものなのだろうと首を傾げながら、今日まで楽しみにしていた。
ディノと二人で飲むと素敵なものらしいので、この魔物の好きそうな贈り物をよく知っていてくれると言わざるを得ない。
目をきらきらさせた魔物の様子を見ていると、ディノにはどんなものなのかの想像がつくのかもしれなかった。
「さて、今日はディノのお誕生日なので、この贈り物のリボンを結んでもいいですか?」
「……………うん」
嬉しそうに口元をもぞもぞさせて頷いたディノに、小箱の中からリボンを取り出して広げて見せる。
そこでまたディノが少し泣いてしまい、ネアは、鉱石の花がぽんと咲いてしまった鏡台の上から、慌てて大事なブラシを取り上げなければいけなかった。
何度も使い勝手が悪くないかどうか、結んだ際にちくちくごわごわしないか、もぎゅもぎゅと触診していたリボンだが、こうして贈り物の形になってディノにお披露目が済み、真珠色の髪を飾ると格別の思いである。
(……………ああ、綺麗だな。沢山試行錯誤して良かった。ディノにぴったりだもの)
刺繍や宝石ビーズはラベンダー色のリボンと同系色でまとめており、僅かにネアの色である青みの灰色や、ノアの色である青紫色の色味が入る程度であった。
よく見れば非常に手が込んでいるが、あまり主張し過ぎないようににして、普段使いをしても浮いてしまわないリボンを目指したのだ。
いつものリボン結びを作り、きゅっと仕上げをして形を整え顔を上げると、自分の三つ編みを持ったままほろほろと泣いているディノが出来上がる。
驚くべきことに、ディノはそのまま暫く泣いてしまい、ネアは、大事な伴侶が泣き止めるように頭を撫でてみたり、朝食のグヤーシュの話をしてみたりして、頑張って会食堂に誘導しなければならなかった。
「たっぷりと、家族やディノのお友達のみんなの愛情を込めた贈り物なのですが、リボン自体は、沢山数があるものなのでどうかなとも思ったのです。こんなに喜んでくれるとは思いませんでした」
「………リボンは、特別なものだからかな」
「もしかして、最初の贈り物だからなのです?」
「……………うん。髪を三つ編みにしてくれたのは、ネアが初めてだったし…………、リボンを結んでくれたのも、……………君が初めてだった」
そう微笑んだディノが、あまりにも幸せそうに見えたので、ネアは胸の奥がぎゅっとなってしまう。
こんな日々に至るまでの日々は少しゆっくりだったけれど、ずっとこの魔物の手を離さずにこれて本当に良かった。
「……………これからは、いつだって好きな時に三つ編みにしてあげますし、毎日リボンも結びますからね。他の髪型に挑戦したい時も、………」
「三つ編みでいいかな」
ネアは、他にも素敵なものがあるかもしれないからと付け加えたのだが、はっと息を呑んだ魔物は、慌てて三つ編みがいいのだと主張してきた。
ちょっぴり警戒の目をしているので、まだ、他の髪型への移行は早かったようだ。
こんな時は素早く撤退する方針のネアは、試してみたくなったら教えて貰うようにして会話を切り上げる。
「それに、ネアが掴まるのにも、三つ編みが一番いいだろう?」
「なぜ、リードとしてのお役目も必須項目にしたのだ。理由の前提がおかしいのですよ……………」
二人が朝食の時間に会食堂に行けば、勿論そこには家族がいる。
皆の目が新しいリボンに集まり、綺麗に結ばれたリボンを見て微笑んでくれた。
エーダリアが袖を捲ったままであるのは、鉱石の花などを採取していたからだろう。
ぎりぎりまでその作業をしていたに違いなく、ネアの視線を辿ってその様子に気付いてしまったヒルドが、無言で眉を持ち上げていた。
「シル、誕生日おめでとう。………うん。やっぱりそのリボンはいいよね。ネアが拘った色も、シルにぴったりだ」
「有難う、ノアベルト」
「ディノ、誕生日おめでとう。贈り物が間に合ったようで良かった」
「有難う…………?」
「ぎゃ!仕上げにぎりぎりまでかかったのは、秘密なのですよ!」
「そ、そうだったのだな、すまない!」
「エーダリア様…………。…………ディノ様、お誕生日おめでとうございます」
「有難う」
家族の人数分のお祝いを貰ったディノは、そそっと移動し、ネアの背中の影に少しだけ入る。
こんな時にどうしていいか分からずに心が揺れてしまうのは、今年も変わらないらしい。
そんな魔物の恥じらいにくすりと微笑み、ネアは、朝食の席に向かう。
慌てて付いて来るディノの三つ編みで、贈り物のリボンに縫い込まれたビーズが細やかな光を揺らす。
「わーお。今年のテーブルの花は、もしかして朝積みの薔薇かな」
「………花びらが、少し結晶化していないか?」
「むむ、お祝いが終わった後で、この薔薇が一輪欲しいです!」
「おや、花瓶ごと持ち帰られては?」
「……………ヒルド」
「ふふ。エーダリア様ががっかりしてしまいますし、一輪だけいただいて、後は皆さんに分けて貰いますね。実は、今朝のお部屋で咲いた鉱石のお花もあるのです」
テーブルの上に置かれた雪陶器の花瓶には、ずしりと重たい花びらを蓄えた素晴らしい白薔薇が飾られていた。
朝の光の中では白に見えるが、正確には白灰色の薔薇であるらしい。
元々は水色の薔薇を咲かせていた品種だが、ここ二年程で見かけるようになった白灰色の花を咲かせる株を増やし、近々魔術鑑定を行った結果如何によっては、リーエンベルク生まれの新しい品種になるそうだ。
「ネアのフレンチトーストがある……………」
「勿論ですよ!今年も、アルバンの雪花牛の牛乳をいただいたので、そちらを使用しました」
「手料理…………」
ディノはまず、フレンチトーストでくしゃくしゃになってしまい、丁度そこで朝の見回りを終えてのグラストとゼノーシュが到着した。
「ディノ殿、誕生日おめでとうございます」
「ディノ、誕生日おめでとう」
「有難う」
「わぁ。今年の朝食も、ネアのフレンチトーストだね。僕、これ大好き!あ、ダンキンの林檎酒ハムもある!」
ネアが、慌ててダンキンの林檎酒ハムを探している間に、ディノは恥じらうようにお礼を言っていた。
ゼノーシュが教えてくれたハムはディノも大好きなので、前菜のお皿に添えてあるのを見付けて嬉しそうに目をきらきらさせている。
そしてそこに、本日のグヤーシュが運ばれてきた。
思えば、ディノが最初から気に入っていたのがこのグヤーシュだ。
実は、伝統的な家庭料理ということもあって土地によって様々なグヤーシュがあるのだが、ウィーム中央のグヤーシュは、旧王都に相応しい滑らかさで、ブラウンシチューのような美味しさである。
ディノがこちらに来た当初は、気に入ったようだからとディノだけ余分にグヤーシュが出されるという事もあったのだが、今は、テーブルに着く者達の料理は基本同じ物となっている。
(多分、あの頃はまだディノへの対応をみんなが試行錯誤していた頃で、料理人の妖精さんは、好きなものを選ばせてくれていたのではないかな…………)
幾つもの朝と、様々な試行錯誤を経て、ディノの誕生日の朝はこんな風にみんなでグヤーシュとフレンチトーストをを囲むようになったのはまだ最近のこと。
リーエンベルクの料理人たちが、素人料理のネアのフレンチトーストを一緒に並べる事を少しも嫌がらずにいてくれ、それどころか、一緒に食べると美味しいような料理を考えて添えてくれるので、お誕生日の朝がこんな風に楽しい席になるのだろう。
おまけに実は、グラストのグヤーシュだけ辛い調味料を入れてくれていたり、ヒルドのグヤーシュは上に生クリームを上にかけないようにしてあったりと、さり気ない心遣いが随所に見られた。
勿論、ネアとゼノーシュのお皿のハムは、みんなよりも多めである。
「リボンがある…………」
「ふふ。今年のお祝いグヤーシュは、贈り物の話を聞いた料理人さんが、リボンを入れてくれたのですよ。……………まぁ。小箱まで!繊細で素敵なお祝いクリームですねぇ」
ディノは、ほかほかと湯気を立てるグヤーシュの上に生クリームで描かれたお祝いメッセージを見て、澄明な瞳を揺らしていた。
両手でそっとスープボウルに触れ、優美な文字で書かれたお祝いの文言を何度も読んでいるようだ。
覗き込んだネアも、素敵なお祝いににっこりした。
(そのリボンのように、今年の誕生日も素晴らしいものになりますように)
ディノはそんなメッセージを暫く見ていたが、どこか悲し気にスプーンを取り上げ、けれどもいつものように一口飲むと幸せそうにふにゃりと頬を緩めている。
そこ迄を見届けてから部屋を出て行った給仕妖精は、毎年、ディノの反応を料理人に伝える役目を果たしているらしい。
「まぁ。今朝のソーセージは、初めていただく味です!ローズマリーの香りがしてなんて美味しいのでしょう」
「珍しく、仕入れのリストに棘牛があったようでな。とは言え私達は、バルバなどで…………質のいい棘牛を食べ慣れているだろうと、ソーセージにしてくれたそうだ」
「ふむ。鮮度の違いを考慮してくれたのですね」
エーダリアが言いよどんだ言葉を引継ぎ、ネアは、美味しいソーセージをあぐりと食べる。
シロップをかけたフレンチトーストとの相性が素晴らしいのだが、棘牛と聞くとこれだけでも食べたくなるのが人間の我が儘なところだ。
むぐむぐと、他にも美味しい朝の食事をいただきながら、ネアは、目元を染めてフレンチトーストを食べているディノをこっそり見つめてしまう。
それはそれは、穏やかで幸せなお祝いの朝であった。
沢山の応援をいただき、薬の魔物のお話は、本日で5周年を迎える事が出来ました。
ここまでの長い道のりを共に歩いて来てくれた方々
そして、新しく物語の扉を開いてくださった方々
これからも、橋の向こうのネア達の毎日の物語をお伝えしていきますので、引き続きお付き合いいただけますと嬉しいです!