240. クッキー祭は繰り返します(本編)
その日、ウィームはクッキー祭りの日を迎えていた。
毎年お馴染みの、開封されたものの食べきって貰えなかったクッキーたちが呪いのクッキーや祟りクッキーになって荒ぶる日なのだが、今年は夜明け前から厳戒態勢が敷かれていた。
今日の祝祭は準備運動などもしておかねばなるまいと、愛用のゴーグルを手に準備を進めていたネアは、その一報を聞き、さっと青ざめる。
「…………クッキーの輸送馬車が、湖に落ちた」
「そうなのだ。………よりにもよって、昨日の正午の事で…………運が悪ければその荷馬車に積まれていたクッキーも現れかねない」
「さ、昨日の事ですので、そんなにすぐには祟りものにならないと思うのです!」
既に顔色の悪いエーダリアにそう言えば、なぜかすっと目を逸らすではないか。
さては他にも事情があるなと眉を寄せていると、一緒にいたヒルドが、珍しく困ったような顔をしている。
「実は、その馬車に積まれていたクッキーは、その事故の前から祟りものになる危険があるとされていたものでして、近くにあった専門の魔術機関で急ぎ浄化を行う為に輸送されていた最中だったようです」
「ほわ…………。塩の魔物の転落理由の、いつもの冒頭なみの不穏な展開です…………」
「え、僕の本ってそんな不穏な始まり方するの?!なんで?!」
「そのような書き出しなのだね……」
よりにもよってという日に起きた事故に、とても暗い目をしているエーダリアの説明によると、問題のクッキーは、菓子店の店主である女性が自身の結婚式の為に焼いたものなのだそうだ。
しかし、お相手の男性が浮気をしている事が式の直前に発覚し、お祝いを彩る筈だった可愛いアイシングの装飾のあるクッキーは、一昼夜の間馬車の荷台に放置された。
その間に、花嫁が花婿になる筈だった男性をばらばらにしていたことや、そもそも新婦が妖精であった事などを踏まえ、荷馬車のクッキーが危ない状態にある気がすると近くのギルドに駆け込んだのは、半泣きの御者妖精だったそうだ。
クッキー祭りに現れるクッキー達は、容赦なく人外者達にも襲いかかる。
その開催を翌日に控え怯えきっていた御者妖精は、心なしか、荷台でかたかた音がすると訴えた。
荷馬車を調査した街のギルド職員も危険だと判断した為、急遽、近くの町にある魔術施設で浄化儀式が行われる運びになったらしい。
「そんな時は、お近くの町でも対応してくれるのですね」
「クッキー祭りに現れる呪いのクッキー達の活動範囲は、かなり広いからな。事前に手を打っておかねば、近隣の集落も犠牲になるのだ」
「………もはや毎年の事ながらもクッキーとは何かと考えてしまいそうですが、妖精さんのクッキーであれば、そちらでの対応は出来なかったのでしょうか?」
「今回は新郎が人間でしたので、クッキーは人間仕様だったようですね」
「ぎゃふ…………」
「その上、焦っているとさ、そういう時に限って事故ったりするからね」
「おのれ、そこでなぜ馬車ごと湖に落ちたのだ…………」
「せめて、市販品のような袋の包装だったら良かったのだ。だが、結婚式で招待客が食べられるように作ったものだったらしく、簡単に紙の箱に入れただけだったらしい」
かくして、崖から馬車ごと湖に転がり落ちたお祝いクッキーの箱は、簡単に開いてしまった。
簡易包装であったのが災いし、箱から落ちて岩場で無残に砕けたり、湖に沈んでしまったものも数多くあったという。
騒ぎを聞きつけた近隣の者達が総出で回収にあたったものの、そもそも、大きな湖の底からクッキーを回収するのは困難な作業である。
未だに半数以上が回収しきれていないまま、クッキー祭りの日を迎えてしまった。
「ウィーム中央からも騎士を派遣したのですが、さすがに夜半過ぎからは、その騎士達もこちらでの準備に入らなければいけませんからね。グラストとゼノーシュが事の発端となった花嫁の捕縛に出ていたこともあり、対応が後手になってしまいました」
「………ああ。あの妖精は、花婿の一族を全て滅ぼすと言っていたそうだからな」
「念の為に伺いますが、何の妖精さんだったのですか?」
ネアは、もしや植物の系譜の妖精だったのではあるまいかとそう尋ねてみたのだが、花嫁は、オーブンの妖精だったそうだ。
火力的な意味合いでそれもそれで怖いなと思ったが、案の定、大事にすれば一族の繁栄を助けてくれるが、怒らせると起きな災いを運ぶ妖精であるらしい。
それなのになぜ浮気をしてしまったのかと思えば、オーブンの妖精は、朴訥とした優しそうな姿の妖精なのだそうだ。
時折、その容姿から穏やかな気質だと思ってオーブンの妖精を蔑ろにする者たちがいるが、決して何でも許してくれる妖精ではない。
「リーエンベルクのオーブンにも、派生されたりするのでしょうか?」
「いや。オーブンの妖精は、不特定多数に振舞われる料理や菓子を作る商業のオーブンにしか、派生しないと言われている。主に、レストランや菓子店などだな。ザハでも、オーブンの妖精が働いているそうだ」
「むむ!あの焼き菓子の美味しさに一役買ってくれている方に違いありません!…………そう言えば、ノアが昨晩出掛けていたのも、湖の捜索だったのですか?」
何もせずにのんびりと夜を過ごしていたネアは、少しだけ申し訳なくなった。
依頼がなかったからなのだが、言ってくれれば協力したのにという思いになる。
「あ、僕が出掛けてたのは、リノアールの地下から見つかった、展示用文字入れクッキーの消滅に立ち会っていたんだ。あれが今日出てきたら、百人単位の死者が出たからね」
「クッキーの奥深さに、もはや謎しかありません……………」
「因みに、湖の探索についてはアルテアがいればまだ良かったんだけどさ、僕とシルだとクッキー探しには向かないし、慶事の破綻っていう因果の魔術に触れるのもちょっと危ないなってなったんだよね」
「リーエンベルクの騎士の中では、ロマックが食品関係の魔術には長けているのですが、昨日の朝から不在にしておりますからね…………」
「………むぅ。ロマックさんも、誘拐されたままなのですか?」
実は、昨日からロマックは野良竜に誘拐されている。
それもまた厄介な事件であるので、ネアが現状を尋ねてみると、エーダリアはとても儚く遠い目をした。
「ロマックに好意を抱いている相手ということもあり、今のところは身の危険があるような状況ではないのだろう。だが、ウィームでは馴染みのない夏の系譜の竜種なので、慎重な対応を続けて貰っている。適時、エアリエルを使って状況を観察してくれているゼベルによると、意外に仲良くなってきているそうだ。……………とは言え、今日はまだ戻れないだろうな」
「どこでそんな竜を拾って来たのかはまだ分からないけど、夏の系譜の竜って他人の話を聞かないからなぁ」
「グラストによると、例の海遊びの島で出会った夏闇の竜ではないかと言うことですが、何しろ三年も前のことですからね……」
リーエンベルクの騎士の一人であるロマックは、牛飼いの息子だ。
だが、牛飼いとは言え、高級店御用達のチーズを作る事でも有名な、かなり裕福な一族なのだという。
ロマックにとっても家族の作るチーズは誇りであるようで、リーエンベルクにもよく美味しいチーズを持って来てくれており、タクスの牧場を贔屓にしているネアも、何度か季節のフレッシュチーズを注文させて貰った事があった。
そして、そんなロマックは、端正な面立ちと独身主義者らしい恋多き気質と、食べ物周りの祝福を得ている身の上の組み合わせがいけないのか、妙に人外者から好かれやすい傾向を持つ騎士でもある。
ネアも、街で声をかけられている姿を見たり、翼のある熊に危うく連れ去られそうになっている場面に遭遇したことがあるので人気があるのは知っていたが、まさか、クッキー祭りの前日に竜なお嬢さんに誘拐されるとは思わなかった。
犯人は、そもそもロマックがチーズをくれたのが出会いだったと主張しているらしく、お礼がてら一緒にウィーム観光をしているつもりのようだ。
残念ながら、さっぱりその出会いに覚えがない上に、同意の上とは思えない連れ去られ方をしたロマックは、自分を連れ去った女性を刺激しないようにしながら話を聞いているところだという。
(でも、誘拐から始まっても仲良しになれるのであれば丸く収まるのかな。…………竜さんは、思い込むと突撃しがちだから、今回のような事件は珍しくないそうだし………)
昂る思いを抑えずに体当たりしてくるのが、一般的な竜の信愛や愛情の表現だ。
精霊のような執着の暗さはないので、禍根が残るような事件には発展しない反面、初動では何かと事件が起こり易いと言われている。
今回の事件のように、先方は同意の上でのお出掛けだと思っているが、本人や外野からすれば立派な誘拐であるということも少なくはないそうなので、ネアは、よく知る竜達が紳士的であることに心から感謝した。
「まぁ、馴れ初めがどんなものにせよ、そこそこに高位の竜みたいだから、今後の事を考えると上手くいくならそれはそれで美味しいんだけどね。とは言え、クッキー祭にはいて欲しかったかな」
「ふむ。きっかけはさて置き、場合によっては恋に発展する要素もあるという事なのですね」
「みたいだね。ゼベルの報告だと、あのロマックが見惚れる程の美人みたいだし」
「……………む、エーダリア様はなぜ遠くを見ているのですか?」
「ネア様。エーダリア様は、かつての風竜との文通の顛末などを思い出されているようですので、暫くそっとしておいた方がいいでしょう」
「は!…………そ、そうでした。エーダリア様の過去の失恋の傷に触れないよう、この話題は早急に終わらせますね!」
「ええ。そうしていただけますと助かります」
「…………二人とも、聞こえているのだからな」
どうやら、連れ去りという手法ながらも美しく高位の竜に好かれているロマックに、エーダリアは少しだけ羨ましさを覚えてしまっているようだ。
また、エーダリアだけでなく、騎士達の中には、あまりの羨ましさに咽び泣いている者もいるという。
リーエンベルクの騎士達は、魔術師としての気質も強く、たいそう人気がある割には、いざ恋愛や結婚に挑むと敗戦続きになる者達が多い。
そんな騎士達の中で、伴侶の喜びを喜びとしてくれる上に、騎士のような仕事に理解のある竜種は、根強い人気があるという。
とは言え、前述のような溺愛ぶりになるのは、比較的高位の竜が多く、そのような竜の心を得るのはやはり難しいことだ。
出会いなども含め、運要素も大きいのが悩ましいところなのだとか。
最も人間と伴侶になるのは生活層が重なりがちな妖精だが、次いで多いのが竜である。
竜の伴侶として最も多く報告されているのが騎士だと聞けば、職業的な相性の良さは昔からあるのだろう。
ネアは、ロマックが素敵な竜のお嫁さんを得てくれれば、同性のお友達になれるかもしれないぞとにんまりほくそ笑んだ。
「という事ですので、本日のクッキー祭りでは、場合によっては妖精さんの作った結婚式のクッキーがいるかもしれません」
「そうなのだね………。常時から悪変しかけていたものであれば、このような日には階位を上げているかもしれないから、私から離れないようにね」
「はい。現れるようであれば、すかさず水路に放り込みますね!」
「また、………水路に沢山いるのかな」
「うむ。今年もきっとクッキー祭りの仲間たちに出会えると信じているのです」
凛々しく頷いたネアは、首にゴーグルをかけ手袋を持った、乗馬用のパンツスタイルだ。
もはや乗馬の練習はさしてしていないので、乗馬用とはなんぞやという思いもあるのだが、一応はそのような名目で購入した装いである。
この装いをすると魔物がたいそう恥じらってしまうのだが、粉々になったクッキーに追いかけ回されるかもしれない日にスカートでいられる程、ネアは器用ではない。
動き易さを重視した服装で戦いに最適化させるのが、クッキー祭りの日に生き延びる為の知恵である。
頼もしい装備である、雪水晶と雪の日の霧から作られた結晶を使った愛用のゴーグルは、事前に行った霧の日のお散歩で、昨年のクッキー祭りで出来た傷などを修復してある。
こちらの世界のお道具特有の不思議で、買った直後より使い込めば使い込む程馴染むようになった。
そんな装いで戦いへの意気込みも新たに、朝食を食べて身支度を済ませると、ネアはきゅっと髪の毛を一本縛りにした。
「かわいい。首が見えてる………」
「またしても謎理由が出てきましたが、これも戦いの準備なのですよ!」
またしても魔物が弱ってしまうが、注意喚起されている妖精クッキーの他にも、今年のクッキー祭りでは粉砂糖を振るった丸いクッキーの出現が危惧されている。
初期仕様からして危険でいっぱいな敵なので、髪の毛もまとめておくに越したことはない。
「アルテアさん、今年も宜しくお願いしますね」
「……………おい。上に何か羽織れ」
「むむ?………動き易さを重視して、薄手のセーターにしたのです。寒くはないのでこのままでいいかなと思いますが…………」
「っ、…………飛び跳ねるな!」
「ピ…………」
軽快な動きが可能であることを示す為に飛び跳ねてみせたネアは、どうしてすぐに叱られてしまうのだろうと眉を下げたが、ほこりにもその理由が分からなかったのか、ふかふかの白雛玉も怪訝そうな表情で後見人を見ている。
「ほこりは、たっぷり楽しんでいって下さいね。妖精さんの婚礼用のクッキーなどもいるかもしれないそうですので、新しい美味しさにもであるかもしれません」
「ピ!」
「アルテアさんがクッキーに襲われていたら、助けてあげて下さいね」
「ピギャ…………」
「このように、今はつんと澄ましてみせていますが、きっと、沢山のクッキーに襲われてしまうと怖いだろうと思うのです。さくさくバタークッキーなどの天敵もいるので、時には守ってあげて下さいね」
「ピィ」
「おい、妙な言い方をするな…………」
ネアに沢山撫でられて喜びに弾んでいるほこりは、今年も美味しい呪いのクッキー食べ放題に参加してくれた。
クッキー達の最終形態である祟りクッキーにも対応可能な、優秀で愛くるしい名付け子である。
今日が楽しみでならず軽く運動してお腹を空かせてきたそうで、一般的な星鳥とは違う真っ白な羽毛は、街に出る際にはいつものピンク色に擬態するのだそうだ。
クッキー祭りでは最も頼もしい戦士の一人なので、ウィーム中央の街並みの中で目立つ色彩に擬態し、街に出る騎士達とも連携を取り易いようにしていると聞けば、すっかりウィームのクッキー祭りになくてはならない存在になっているようだ。
「問題のクッキーの警戒もあるので、例年とは違い私達は、リーエンベルクから西側に展開する事になった。正門前から街の方へは、グラストとゼノーシュに向かって貰うようになる」
「はい。では、エーダリア様達とは丁度反対周りで水路沿いに動く私達とは、順調にいけばどこかで行き当たるかもしれませんね」
「ああ。………だが、粉砂糖のクッキーは、かなりの難敵になる事が予想される。今年はいつもとは違うかもしれないと用心するのだぞ」
ウィーム領主の鳶色の瞳を曇らせてしまう粉砂糖のクッキーは、春先にかけて流行ったお菓子である。
もろもろと崩れやすい丸い形成のアーモンドクッキーに真っ白な粉砂糖をまぶし、さくさくほろりといただく美味しいお菓子であったが、流行りだからというだけで購入したものの、食べきれなかったという者達が意外に多いのではないかと予測されていた。
湿気りやすく、一般的な物より遥かに日持ちしないと知った時には手遅れだったという話があちこちで聞かれていた為に、厳重警戒対象とされている。
「ぶつかった場合には、間違いなく一瞬で粉々になりますしね…………」
「ご主人様…………」
「あらあら、ディノはもう羽織りものになってしまうのですか?」
「粉砂糖のクッキーなんて……………」
なお、ディノは、取り上げようとするとすぐに崩れてしまう粉砂糖のクッキーが上手に食べられず、苦手であったので、祟りクッキーになると考えると怯えてしまうようだ。
ネアは、間違いなくゴーグルが必要になる敵だと考え、周囲に装備漏れがないかどうか仲間達を見回した。
(ディノは大丈夫。アルテアさんも、ノアもゴーグルは持っているみたい…………)
家族や仲間達はみな、クッキー祭りに相応しい装いである。
首元や袖口をぴっちり覆う服装を意識した結果、何やら特殊工作班のようになってしまっているが、皆がそのような完全防備で挑むのがクッキー祭りでもあった。
専門職の魔術師の装いに近くなるし、ウィームではあまり見かけられない黒ずくめの服装の領民が増えるのもクッキー祭りなのだが、それは近年のクッキーの嗜好にあるらしい。
近年は、柔らかな麦穂色のクッキーや生クリームの入った白っぽいクッキーなども多いので、体にまとわりついたクッキーの粉を識別し易いような色として好まれているのだとか。
(……………むむ!)
「ふと思ったのですが、ほこりは、ゴーグルがなくても大丈夫なのですか?」
「ピ!」
「ぶつかられる前に全部食べちゃうから、大丈夫なんだって」
「まぁ。私の可愛い雛玉は、とても素早いのですね?」
「ピギャ!」
ネアは、雛玉用のゴーグルもいるだろうかと心配になってしまったが、ゼノーシュが、ゴーグルが不用な理由をすかさず通訳をしてくれる。
階位を上げた事でいっそうに素早く動けるようになっているそうで、雛玉姿ではゴーグルがない方が動きやすいのだそうだ。
目が小さ過ぎるんだろうと意地悪を言った後見人は怒ったほこりに靴先を齧られているが、真っ白な羽毛を持つほこりを生まれた日からよく知る選択の魔物だからこそ、ネアも安心して任せられる組み合わせであった。
「さて。今年も、ミカさんとワイアートさんが同行してくれるそうですので、そろそろ行きましょうか」
「…………うん。ネア、これまでとは違うクッキーが出るようだから、無理はしないようにね」
「はい。粉砂糖めに最大限の警戒をするべく、今年は最初からゴーグルを装着してゆきますね。ディノも、怖い時は結界などで予め防御をしておいていいですからね?」
「粉砂糖のクッキーなんて……………」
しかし、そんな万全の備えをしていた筈の人間は、リーエンベルクから少し離れただけの場所で、容易く心を折られる羽目になった。
どこからともなく真っ先に飛来したバタークッキーが、脆弱な乙女の心をずたぼろにしたのだ。
「……………ぎゅわ。……………ひ、酷いです!何でこんな酷い事を……………」
「ネア、泣いてしまったのかい?…………あのクッキーが怖いのかな………」
ぎゅおんと飛んで来た祟りクッキーを見た瞬間、ネアは呆然と立ち尽くした。
涙ぐまずにはいられない惨い光景を、すぐには理解出来なかったのである。
勇ましい事を言っていたくせに呆気なく弱体化させられてしまったご主人様を守るように、呪いのクッキーが苦手なディノが健気にも前に出てくれる。
「………あれは、アクテーのバタークッキーのようだな。おまけに、限定品か」
「い、苺クリーム味という、とても珍しい限定品なのですよ!アルテアさんにも、アクス商会にも頼んだのに、そのどちらも惨敗した幻の完売御礼クッキーなのです…………」
見間違えようのないアクテーの修道院の押印模様のあるクッキーには、限定品であることを示す、ミルク色と苺色の筋が入っていた。
バターのいい香りに加え、甘酸っぱい香りがするのも間違いない。
すぐにアクテーのバタークッキーだと気付いてくれたのはミカで、栗色の髪の青年姿に擬態している。
真夜中の座には様々な資質があるが、食楽もその一端であるミカにとっても、あれだけ希少なクッキーを開封したまま駄目にした者がいるというのは衝撃的であるようだ。
ネアと同じように、クッキーの正体に気付いた瞬間に、はっと息を呑んだのはこのミカだけであった。
その一方で、襲おうとした獲物たちが弱っていることに気付いたクッキーの群れは、俄かに活気づいた。
ネア達をぐるりと取り囲み、獣の狩りのような配置を取るのだから、知能派のクッキーなのだろう。
「ふぇっく。…………数えてみたところ、十二個もあるではないですか。十五個入りの箱だとしても、三個しか食べていません……………。わ、私の食べたかった憧れのクッキーが…………」
「ネア、可哀想に。…………ああ、ゴーグルを外さないようにね。粉砂糖のクッキーが来たらまずいのだろう?」
「えぐ。…………そうでした。うっかり涙が出てしまったのでゴーグルを外しかけてしまいましたが、外している時に粉砂糖めが現れたら大惨事になるところでした。…………えぐ」
「…………このクッキーを無駄にした者は、後日粛清しましょう」
「ワイアート…………」
しかし、クッキー祭りは苛烈な祝祭だ。
そもそもが、食べ残した人間達への憎しみから呪いのクッキー達が蜂起するので、戦場でめそめそしているような人間は、あっという間に餌食になってしまう。
それは、すっかりよれよれのネアも例外ではなく、すぐさまアクテーのバタークッキー達の標的となった。
何か見えない合図でもあったのか、一斉に飛びかかってきたクッキーを、ミカと一緒に参加してくれているワイアートが素早く掴み取り、水路に投げ込んでくれる。
初めて一緒にクッキー祭りに参加した時より格段に洗練された動きになっているのは、この祝祭へ対応力を磨き上げてきたということなのだろう。
ネアも、あんなに食べたかったクッキーをなぜ水路に投げ込まねばいけないのかとべそべそしつつも、頑張って応戦した。
襲い掛かってくるクッキーを何とか鷲掴みにすると、今年も食いしん坊の仲間が集まってくれている水路に放り込む。
すぐさま聞こえてくる歓喜の声からすると、やはり、この呪いのクッキーは相当に美味しいのだろう。
しかし、最後の一個を生け捕りにしたネアは、水路に放り込むのが勿体なくなってしまった。
「………ディノ、私が捕獲したこやつを、どうにかしてほこりにあげることは出来ませんか?せめて、美味しい筈の限定クッキーを、可愛いほこりに食べさせてあげたいでふ」
「では、私が渡してきてあげようか」
「ふぁい。名付け親の代わりに、美味しいクッキーを食べてほしいです…………」
「シルハーン、届けるのであれば私が行こう。あなたは、彼女の側にいた方がいいだろう」
「おや、いいのかい?」
「ああ。転移なのですぐに届けられるからね」
「ほわ、ミカさん…………」
悲しみに暮れる乙女の願いに、ミカは微笑んで頷いてくれる。
真夜中の座の精霊王としても、出来ればこのクッキーは、美味しく食べてくれる者に届けたいそうだ。
「真夜中の座でも、このクッキーを買おうとした者達は多かったのだ。だが、誰一人として買えないままだった。中には、完売の知らせを受けて失意のあまり自分の城に閉じこもった者もいるくらいだったからな」
「…………そこまで希少なクッキーだったのか」
このクッキーの販売自体を知らなかったというワイアートは瞠目しているが、ネアは、さもありなんという思いで深々と頷いた。
アクテーの限定バタークッキーの中には、数年に一度しか売り出さない特別な味がある。
年単位の商品開発の後に売り出されるそれらの商品は、一口食べただけで心躍ると言われる程の美味しさでも有名なものなのだ。
ネアは、アクテーのバタークッキーに出会ってから日が浅く、通常の季節限定のバタークッキーしか知らない。
まだ一度も、最も希少だと言われる不定期発売の限定クッキーを食べた事がなかった。
初夏に届いた発売情報に飛び上がって喜び、何枚もの計画書をしたため、綿密な下準備の上で予約に挑んだのだが、滑り止めで用意していた購入経路も含めて全て惨敗であった。
そんなクッキーを手に入れながらも食べなかった不届き者は、理由を問わずに死すべしという思いだが、せめて、お口に合わないのであれば、職場で配るなり友人にお裾分けするなりするべきだろう。
(それを、食べずに駄目にしてしまうなんて…………!)
だが、我が儘な登場人物がこんな風に余計な手間をかけさせたせいで、本来であったら助かった筈の仲間が非業の死を遂げたりする物語も多い。
ネアは、ミカは大丈夫だろうかとはらはらしたが、幸いにも、ほこりにクッキーを届けてくれたミカは、すぐに戻ってきてくれた。
ほこりは、お届けされたクッキーのあまりの美味しさに転がっていたそうで、ネアは、可愛い名付け子に喜んで貰た事を知って笑顔になる。
「ミカさん、有難うございます!これで、少しだけ無念が晴れました………」
「ああ。私も、あのように喜ぶ様子を見られて良かった。……………ワイアート?!」
しかし、多少の素敵な事があっても、ほっこりしている暇などないのがクッキー祭りであった。
戻ってきたばかりのミカから報告を聞いていたその時、どこからともなく、大判のお祝いクッキーが飛来したらしい。
ずざっと石畳の上を靴裏で滑るようにして、ワイアートが受け止めたが、ネアはそのクッキーの表面にアイシングで書かれたメッセージを見て、震え上がってしまった。
「ぎゃ!生い立ちからしての、呪いのクッキーです!!」
「どうして、…………クッキーに書くのは、怨嗟の言葉になってしまうのかな………」
「ぐ、ぐぬぅ。どうして皆さんは、美味しいお祝いクッキーに呪いを込めるのだ………」
角度的に、そのクッキーに記されたメッセージは見えないワイアートだが、以前にも恐ろしいお祝いクッキーと戦った事があるので、何となく内容の想像は出来るのだろう。
怒り狂ったように暴れるクッキーを押さえ込んだまま、途方に暮れたように青ざめている。
書かれているメッセージが見えてしまったらしいミカは無言で慄いていて、ディノも、怯えたようにネアの羽織りものになった。
(……………凄い。年単位の怨嗟が、ファンシーな装飾のクッキーに書かれている…………)
淡い水色と黄色のデコレーションのクッキーには、柔らかな字体で、新築のお祝いと、自分を裏切って結婚したことを何年も経った今でも絶対に許さないと思っていると記されている。
もしや、以前に見たクッキーの続編ではあるまいかという内容だが、そのような事案は残念ながら珍しくはなさそうなので、また別の贈り主からのものかもしれなかった。
結局、そのお祝いクッキーは、気を取り直して戦いに戻ってくれたミカと、最後まで体を張って頑張ってくれたワイアートが死闘の後にばきばきにへし折り、欠片諸共水路に投げ込んでくれた。
大きなクッキー程飽きないように美味しく作られているので、たっぷり美味しいクッキーを食べた水路の中の何かが、きらきらと浄化してゆく。
ネアは、大事な伴侶の後頭部にごちんとぶつかってきたさくさくバタークッキーを退治し、水路に放り込んでからそちらに駆け寄る。
「ミカさん、ワイアートさん、大丈夫でしたか?!」
「……………ウィームの菓子店に、あのクッキーを注文しようと思う。誰が呼んでも心温まるようなメッセージを入れて貰おう……………」
「僕も、そうしよう。…………丁度、親族に祝い事がある。正しい慶事のメッセージを入れて貰うつもりだ」
「ほわ、完全にトラウマを乗り越えようとする人の言葉です………」
「ネア、お祝いクッキーを買ってあげようか?」
「ディノもでした…………。一度食べてみたかったので、今年のお誕生日に買ってくれますか?」
「うん。勿論だよ」
あんまりな怨嗟のクッキーを見てしまった男達は、それぞれに記憶の上書き方法を見付けて、ほっとしている様子である。
ネアは、あの類のクッキーはまた現れるぞという気がしてならなかったが、けれどもそれは告げないのが優しさだと思った。
クッキー祭りは、見知らぬ誰かの赤裸々な生きざまが、あちこちに透けて見えるものなのだ。