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目隠しと中庭バルバ




美しい花々の咲きこぼれる離宮には、噴水の水音が響いていた。


甘い花の香りに、木漏れ日に温められた土の香り。

そんな庭園の中央に椅子を出し、背の高い男性が体を休めている。


空は明るく晴れているが、地平線の向こうには少しばかり不穏な黒い雲がある。

もしあの雲がこちらに来るのであれば、午後遅くには雨が降るかもしれない。

その時に、白い包帯で目隠しをしているこの男性は、一人で雨に濡れずに屋内に戻れるのだろうか。



「ウィリアムさん」


ここまで連れてきてくれた魔物から離れ、ゆっくりよ歩み寄ってそう声をかけると、こちらに顔を向け、目隠しをされたままの魔物が微笑む。


「ああ、来てくれたんだな。………驚かせただろう」


その声があまりにも穏やかなので、ネアは、あの女神を捕まえて、どこかに放り投げてしまわなかったことを心から後悔した。


辻毒になった欠片と、その時もターシャックの王都にいたものは、同一意識であったのだ。

ターシャックの王都に迎え入れられていたものは、供物などを捧げられ変質していたそうだが、繋がった意識の端で恐ろしい目に遭えば大人しく逃げ出してくれたかもしれない。


少なくとも、こんな風に、ウィリアムの負傷した姿を見ずに済んだのかもしれなかった。



「どこか、痛んだりもするのでしょうか?………その、目以外に」

「いや、目以外の損傷は、その場で治してしまったからな。アルテアもそうだったと思うが、あの生き物の持つ資質から受けた傷だけは、どうも回復が遅い傾向があるんだ」

「ディノから、現在の回復状況は、人間が通常の回復力で傷を治すようなものだと聞きました。魔術の仕組みそのものに障りを出しているのは、お相手になった方が信仰に属するものだったからだろうとも」

「階位が左程高いように感じられなかったから、まさか、信仰の対象になるものだとは思っていなかった。……このあたりは、俺達の認識の甘さだったな。本体であればこちらの世界の影響を設ける筈なんだが、経典そのものが流れ着くとは思わなかった」



見えている限りの表情からすると、ウィリアムは苦笑したようだ。

包帯の巻き方が少しだけ歪なのだが、この手当ては誰がしたのだろう。

ネアは、ウィリアムが自分で消毒や薬の塗布などを行っている光景を想像してしまい、胸が苦しくなる。



ターシャックに現れた異形のものは、前漂流と呼ばれる本格的な漂流物に先んじて現れたものの一つであり、経典の挿絵から顕現した女神であったらしい。


女神本体であれば、まだこちらの世界層の影響を受けるものなのだが、物語のあわいなどに見るように、書物というものはその中に独自の世界性を持つ厄介さがある。


そんな相手の領域の中に踏み込み、既に供物などで土地に縛られてしまっていた異形を排除したウィリアムは、経典の中の女神の力そのものに触れながらも、その首を落としたらしい。

だが、女神の威光に目を焼かれるという表記そのままに、目を大きく損なったのだ。



(あの人は、……………元の場所には、帰れなかったのだわ)



少しだけ、落ち着いた声音だった花嫁姿の女性のことを思い出しながら、ネアは、椅子に腰かけたままのウィリアムの隣に立つと、そっと肩に手を載せた。


ネアが目を損なった時は、症状も相まって周辺状況の把握にひどく疲弊したので、ここにいるという事が分かった方がいいかなと思ったのだ。


しかし、肩に触れただけなのにシャツ越しに伝わってくる肌の熱さに、胸が締め付けられそうになる。

普段のウィリアムは、もっと体温が低かった。

体そのものにはしっかりと力があるし、このままネアが転んでも易々と受け止めてくれそうだが、この肌の熱さから感じているであろう苦痛が想像出来てしまい、堪らない気持ちになる。



ここが、リーエンベルクならまだいいのだ。

困った事があっても必ず屋内には誰かがいるし、苦しい時に気を紛らわせる事も出来るだろう。

けれどもウィリアムは、一人で離宮に籠って傷を癒しているではないか。



(でも、それもまた、ウィリアムさんの選択なのだ…………)



だからネアが、何で頼ってくれなかったのだとその判断を責める事は出来ない。

苦痛の受け流しかたは人ぞれぞれであるし、何か魔術的な事情があったのかもしれない。



「そんな経典など、燃やしてしまえば良かったです。私が見付けたら、すぐさま捨ててしまったのに」

「最初に見付けた者が、そうしてくれれば良かったんだけどな。ネア、………泣いていないよな?」

「………むぐ。じわっと涙が滲みそうですが、堪えています。私は、自分の大事な人が傷付けられるのが、一番に嫌いなのに、それをした相手をくしゃぼろにすることも出来ません………」

「きっちりとお返しはしているから、安心してくれ。それにこの目も、時間をかければ治っていくものだ。…………多少、仕事では無理をする必要も出てくるだろうが、初めてという訳でもないからな」



事もなげにそんなことを言う魔物に、ネアは、悲しくなった。


そうなのかもしれないが、そうではないのだ。

他の誰かがそれでいいのだと言ったのだとしても、ウィリアムがそれは平気だと言っても、ネアには許し難い事なのである。



「ウィリアムさん。…………私は多分、この世界のどんな方よりも、強欲で我が儘なのでしょう。ですから、こんな状態のウィリアムさんがそのまま仕事に出ると思うと、とてもむしゃくしゃするのです」


我慢出来ずにそう告げれば、ふっとウィリアムの微笑みが深まり、伸ばされた指先が頬に触れる。

頬に触れる手もいつもより熱かったが、幸いにもそれ以外に不調を感じさせるようなおぼつかなさなかった。


頬を辿り、耳朶に触れ、擽ったさにネアがじりりと体を離すと、どこか悪戯っぽく微笑む気配がある。

やがて、ネアがそこにいることを確かめるように触れていた手を離し、そっと腕の中に収められた。

その腕の思いがけない強さに、少しだけほっとする。


女神の権能がウィリアムの視界を奪ったとしても、それは、取り戻せるものだと分かったから。



「……………そうか。そう言ってくれるだけで俺は充分なんだが、…………ネアは、何かしようとしているな?」

「むぅ。…………手に持った傷薬を、スプーンで飲ませようとしています」

「おっと。…………加算の銀器か……………」

「ディノにお願いして、その為に連れて来て貰ったのです。海遊びの日に、アルテアさんの傷もこの薬で治りましたので、どうか我慢して飲んで下さいね」

「……………アルテアも、かなりの負傷だった筈なんだが、まさか、海遊びに参加したのか?」

「気付かれないと思って、何食わぬ顔でチキンを焼いていたのですよ。ですが、私だけでなく、みんな気付いていたと思います」

「だとすれば、それは得難いものだな。気付かれない事の方が圧倒的に多いだろう。状態に関わらず、どんな事であってもだが」



ネアは、目が見えなくなってしまった時に、誰にも案じて貰えず誰にも寄り添って貰えないままで過ごした真っ暗な夜の事を思い出した。


その時のように、そもそも誰も側に居ないという事もあるだろう。

或いは、側にいても気付かないという事でもあるのかもしれない。


ネアの大事な家族や仲間は、みんな、そんな事に慣れていて、だからこそ今回は絶対に見過ごしたくなかったのだった。



「今はもう、私に大事な家族や仲間がいるように、ウィリアムさんにだって、この傷薬があるのですよ」

「……………ああ。そうなのかもしれないな。……………だが、少しだけ心の準備をする時間をくれるか?」

「むぐぅ。………かなり痛むようだと聞いているので、一刻も早く治したいです!」

「はは。臆病ですまないな。…………その薬は色々と過激だと、アルテアに聞いた事があるんだ」

「まずい薬を飲むよりも、痛みを感じない方がずっといい筈です。なぜなのだ……………」

「うーん。そちらの感覚については、俺は耐性があるんだろうな」

「ですが、……………痛みは痛みでしょう。ディノもそうですが、不用なものに慣れる必要など、これっぽっちもないのですからね?」


ウィリアムは何も答えなかったが、微笑みを深めたようだ。

ネアはこちらもなかなかに頑固な人だぞと眉を寄せると、その腕の中でスプーンを持ち替え、薬を飲ませる体勢に移行した。


「気のせいかな。…………問答無用で飲ませようとしていないか?」

「気のせいなのですよ。少し、お口を開けていて下さいね」

「……………ネア。それは、……………」

「むが!なぜ閉じたのだ!」


指先で唇をこじ開けようとした人間は、どこか困惑したように唇を閉じてしまった終焉の魔物に、慌ててその頬に手を当てた。

何も事情を知らない者が見たら完全に痴女だが、この際、薬を飲ませるまでは致し方ないと割り切ろう。


「なんだろう。……………俺もよく分からないんだが、………こう、背徳的過ぎないか?」

「ちょっとよく分からないので、お口を開けるのですよ」


角度的に面倒なのでと、ネアはもはやウィリアムの膝の上に座ってしまっていた。

これなら立ち上がって逃げようとしても、ネアをふるい落とさねばならないし、角度や高さ的にも丁度いい。


「うーん。視界を遮られているせいかな。……………おっと。ネア、その角度は本気でまずい」

「む?………もう、傷薬の瓶を開けてしまったので、後はじっとしていて下さいね」

「…………っ、ネア、指は………」

「ふむ。これでお口を閉じられません!えいっ!」


ネアは、椅子の横にテーブルがあったのをいいことに、傷薬を注いだスプーンを器用に持ち帰ると、傷薬の瓶をテーブルに置き、片手の親指の先をウィリアムの口に入れてしまった。


これは、薬を飲むのを嫌がる獣などのお口を閉じさせない為の方法なのだが、暴れる獣に指を噛まれる事が多いので、小さな生き物などにしか使えない技だ。


ムグリスディノやちびふわ用に会得したのだが、ウィリアムもさすがに指は噛まないだろうと考え、強引に使ってしまった。


しかし、乱暴に傷薬を飲まされた終焉の魔物が、そのまま倒れそうになったので、慌てて抜き取って体を離そうとする。



「ほわ、……………なぜ固定されたのでしょう」

「……………っ、…………酷い味だな。すまないが、暫くこうしていてくれ。そうしないと、とてもじゃないが耐えられそうにない」

「お口直しの氷菓子も持って来ているので、必要だったら言って下さいね」

「ああ。……………だが今は、ネアの方がいいかな」

「むぐぐ…………」


そのようなご要望であったので、ネアは暫くウィリアムの膝の上に滞在した。

喘ぐように荒い息を吐き、あまりの不味さに身悶える人をこの至近距離で見ていると、何だか色めいた感じにも見えてしまい、じわじわっと頬に血が昇る。


ネアも飲まされた事があるが、案外普通に消毒液かなというぐらいであったので、こんなにまずいのだろうかという怪訝な思いもあった。


だが、時折身震いするように体を揺らす様子を見ていると、間違いなく、本気で不味さに苦しむ人である。

ネアの腰に回した手には力を入れ過ぎないように加減してくれているが、うっかり握り潰されやしないかと少しだけはらはらしてしまった。



やがて、ふーっと深い深い息を吐き、ウィリアムが乾いた唇を舐める。


目の表情が見えないせいで煽情的にも見える仕草に、ネアは、いけないものを見ているようでまた少しそわそわした。


「……………酷い味だな」

「む。少し落ち着きました…………?」

「……………ああ。氷菓子を食べるには、包帯を外してみる必要がありそうだ。……………とは言え、回復しているかどうかが分からない以上は、ネアに見せるものじゃない。シルハーンは近くに?」

「ディノは、少し離れたところで待っていてくれるので、こちらに来て貰いますね」



ネアをこの離宮まで送ってくれたディノは、庭園の少し離れた位置で待っていてくれた。

ウィリアムが本調子ではない事もあり、近付くと魔術的な負担をかけるかもしれないという配慮からなのだそうだ。


ウィリアムの膝から下りて待機中の魔物を呼びに行くと、ディノがそっと爪先を差し出してくる。

なぜだろうと思いながらも踏んでやり、そのままウィリアムのところへ戻った。


「ウィリアムなんて……………」

「むむ。待たせてしまったので、少し荒ぶっていますね。…………後で撫でてあげましょうか?」

「ずるい………」

「ディノ、ウィリアムさんの包帯を外すのを、手伝ってあげてくれますか?…………もし、回復しきれていなかった場合、私が見るのは好ましくないようなので」

「すみません、シルハーン」



(私が外しても、良かったのだけれど…………)



ネアからしてみれば、胸が潰れるようなものを見ようとも、任されたなら引き受ける覚悟はある。

だが、見せなくないという配慮をウィリアムが望んだ以上は、ここで、自分がやると駄々を捏ねるのは無駄な時間でしかないので、ディノにお願いする事にした。


出会った頃のディノには怖くて任せられないが、今のディノであればそっと外してくれるだろう。



「痛みはどうだい?」

「……………恐らく、引いたように思います。ただ、…………口内があまり無事ではないので、……ああ、味覚的な状況なんですが、………痛みが残っているかどうかの判断が不明瞭でして」

「なぬ…………」

「そんなに大変な味なのだね…………」

「アルテアは、これを何度も飲まされているのか…………」



どこか暗い声でそう呟いたウィリアムに、ネアは、ここに来るまでに傷薬の倍率を重ね上げしたことは誰にも言わずにいようと考えた。


もはや何倍なのかは不明の傷薬だが、何となく、通常のものでは到底足りないという気がしたのだ。


ネアが背を向けて傷薬を片付けていると、しゅるしゅると、布を解く音がする。

その音を聞き、不安と期待に揺さぶられながら待っていると、誰かが深く息を吐いた。



「見た限りの損傷は、なさそうだね。…………見え方に支障はないかい?」

「……………ええ。…………問題なさそうです。………凄いな、こんな風に治るものなのか」

「……………ネア、もう大丈夫だよ。こっちにおいで」

「ぎゅわ…………」



ディノの優しい声に、ネアは恐る恐る振り返る。


(…………あ、)


こちらを見て微笑んでいるウィリアムは、いつもと変わらないように見えた。

白金色の瞳には葡萄酒色が入り、思っているよりも長い白い睫毛の影が落ちる。

にっこりと微笑んでいる表情にも、無理はないように思えた。



「もう、……………どこも痛くありませんか?」

「ああ。ネアの傷薬のお陰だな。……………そんな風に治して貰って、こういうのは心苦しいんだが………」

「ウィリアムさん?」

「可能な限り早く、氷菓子をくれると嬉しい」

「ほわ……………」

「ウィリアムが……………」

「す、すぐに出します!!」



その後ネア達は、光の入らなくなった暗い目で、さくさくと氷菓子を食べ続けるウィリアムを見守った。


もし体調がすぐに良くならなければ、保冷庫などに備蓄しておいてあげようかなと三個持ってきたのだが、その全てを一気に食べてしまったので驚いた。



「……………氷菓子は、……………もうないのか」

「そして、三個では足りません。……………は!」


暗い声で次なる氷菓子を求めたウィリアムに、ネアはあわあわした。

そして、海遊び会場で、残っていたスパイシーチキンを食べたアルテアが、これが一番味消しになったと呟いていたことを思い出したのだ。



「待っていて下さい!今、すぱいしを呼び込みます!!」



慌てた人間に、終焉の魔物の離宮に呼び出された使い魔は、突然のスパイシーチキンの要求に呆れていたようだ。

依頼の通りにお肉は持ってきてくれたようだが、まさか、ウィリアムの口内緩和のために呼ばれたとは思っていなかったのだろう。



「また妙な魔術規則の罠にでも引っかかったかと思えば、こいつかよ…………」

「速やかに、スパイシーチキンが求められているのですよ。ささ、ウィリアムさん、これがあればきっと大丈夫だと思います……………」

「アルテアを呼んだのか…………」

「受け入れ措置を取ってくれたのに、記憶から失われています…………」

「そんなに、……………不味いのだね」

「……………お前、まさかとは思うが、また倍率を上げてないだろうな?」

「そのようなきおくはございません」



スパイシーチキンを三個食べて、漸く人心地がついたウィリアムによると、ネアが飲ませた傷薬は、飲んだ瞬間の衝撃もさることながら、落ち着いてから込み上げてくる後味が堪らなく酷いものであったらしい。


氷菓子は緩和になっても解決にはならず、香辛料たっぷりのスパイシーチキンを食べてやっとその後味を消せたのだそうだ。



「正直、ネア達が来たときは目の痛みがそこそこ出ていたんだが、……………傷薬の騒動でその記憶も吹き飛んだな……………」

「そうなのだね………」

「ぎゅわ……………」

「いや、ネアのお陰であの酷い火傷が治ったんだ。そんなに悲しい顔をしないでくれ」



項垂れたネアを、ウィリアムは慌てて慰めてくれたが、まだスパイシーチキンを食べ続けているところをみると、相当に堪えたのだろう。

ぶつぶつ言いながらも追加のチキンをどこからか補充してくれたので、アルテアも、そんなウィリアムを心配していたのではないだろうか。




即席バルバ会場になった離宮の中庭で、ネア達は美味しいシュプリを飲んだ。


徐々に回復しているようだが、時折口元を片手で覆っているウィリアムに、今夜は絶対にリーエンベルクに連れ帰ろうと心に誓い、ネアは、こっそりとエーダリアに許可を取っておいたのだった。







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