表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
766/880

無価値な薬と羽模様




エーダリアから渡された指示書を読み、ネアは僅かに眉を顰めた。



本日の仕事で作る魔物の薬は、厄介な毒を盛られた一人の男性の為のものである。

誰か特定の人物の為の薬を作るのは珍しいので、何か政治的な事情があるのかもしれない。


窓辺から落ちる木漏れ日がちらちらと揺れ、仕事部屋の床に淡い光を投げかける。

カーテンは開いてあったが、いつの間にか夏の日差しはそこまで強いものではなくなった。



(本来なら今日は、海遊びに行く筈だった)



避暑地から戻ったばかりだが、夏休みというのは続けて予定を消化してはいけないという決まりもない。

駆け足になるがこのようにという感じで、そのまま詰め込まれた楽しい予定であった。



だが、そんな折に入ったのが、王都でのヴェンツェルの負傷の一報である。



幸いにも負傷の程度は軽いものであったし、その原因となったものは、すぐさまドリーが滅ぼしたそうだ。

珍しく、負傷した第一王子の執務を国王派が引き継ぐということもあり、王都では、立太子が近いのではという声が出始めているらしい。



「そのようにして別の噂で上書きされていますが、恐らく、それこそが目的なのでしょう。あの方は、頭の良さそうな方でしたし、少なくとも私は、その内情を知っても構わないと思われるくらいには信用されているようです」

「では君は、この薬があの王子の為の物だと思うのかい?」


そう問いかけた魔物は、向かいの席に座っていた。

ネアはそんなディノを見上げて、首を横に振る。

窓からの木漏れ日が落ちる部屋の中で、真珠色の長い三つ編みには複雑な光が入り、それでいて決して元の色彩を損なう事はない。


「恐らくこれは、ヴェンツェル王子に近しい方や、………護衛の方の為のものでしょう。あの方が毒を飲まされたのであればもう少し分かりやすい依頼が入る筈ですし、………余程の事がなければ、この国の第一王子様が噂に上がるような大きな怪我をする事もない筈なのです」



ネアは以前、狩りの獲物であった蛇の魔物から作られる薬で、ヴェンツェルが長年隠していた視力低下を回復させる手助けをしたことがある。

その時も原因は暗殺を目論んだ者達からの襲撃であったが、ヴェンツェルがその事実を公表する事はなかった。



(弱さは、不利益なのだ)


弱さを公表すれば、軽減される公務もあっただろう。

だが、彼等の立場では、それは足枷や隙にしかならないものである。


だから、今回のように負傷の一報が齎されたのは、それを隠しようのない場面で事件が起き、尚且つその場を取り繕う力がなかったという事の証であった。


何らかの事情からこの情報を公にした方がいいという側面は、ネアなりの推察ではあるが恐らくない。

そして、その不利益はこのウィームにも波及し、直接的な問題が起きている訳ではないものの、さすがに海遊び、しかもヴェルリア近くの海域で遊んでいる訳にはいかないという事になった。


つまり、それだけの影響を及ぼす事件だったのだ。



「指示書にある解毒剤は一種類だね。後は、………おや、もう一つ、毒にも薬にもならない無価値な祝福付与の薬があるね」

「毒にも薬にもならないもの、でしょうか?」

「うん。人間の多くはそれを秘薬だと思っているようだけれど、実際には、祝福付与を助ける程度の効果しかないものだ。そのようなものをエーダリアや王都が望むのは珍しい」



ミョイヨンという秘薬は、人ならざる者達が余興の為に作った無価値の薬なのだそうだ。


長い時間や幾つかの症例を設け、人間の文化の中にそれが秘薬であるという価値観を受け付けた、ただの栄養補助剤のような魔物の薬である。


淡い水色の水薬で、小瓶に収まるのは小さな蒸留酒用のグラス程の分量で、その薬を飲むとどのような魔術損傷も、たちどころに快癒するという噂なのだとか。



「王様達がご存知ではなく、ガレンに依頼を出したとは考え難いですね」

「君もそう思うかい?………それでも、高位の魔術師の多くや、各国の王族の中にもこの薬の正体を知らない者は多いだろう。けれども、この国の王は、どのようなものか理解している筈だよ。あの第一王子やエーダリアもね」

「ふむ。となると、この薬をさも万能薬のようにして、飲みたい方がいるのでしょうね…………」

「恐らく、オフェトリウスか彼の配下ではないかな。グラフィーツは存在を公にしていない以上、人間であれば秘薬を必要とする損傷をやり過ごせる者は、そう多くはない。そして、彼がそのような負傷をしたとなると、他国からの刺客だったか、あまり現れないような生き物だったのかな」



(成る程、そのようにして調整していくのだわ…………)


ネアもあれこれ推理してみたが、やはりそこまでを読み解けるのは老獪な魔物達だからなのだろう。

だからこそ、ウィームの休暇も返上されたのだ。


どうやら、事件の顛末だけでなく、経緯の中にも特異なものがあるらしい。



一瞬、漂流物の件が脳裏を過ぎりぞっとしたが、ディノに尋ねてみると、ヴェルリア側にそのような動きはないようだ。

そしてネアは、うっかりその言葉を額面通りに受け取ってしまっていたのである。



「久しいな。休暇を潰してしまって、すまないことをした」


本日の薬を作ってエーダリアの執務室に届けに行くと、そこには既に先客がいた。

つい先程まで話題に上げていた第一王子の姿に、ネアは目を瞬く。


豪奢な金糸の髪は後ろに流されており、鮮やかな赤い瞳には複雑な金色の煌めきが宿る。

おや、こうして見ればこの王子も多色持ちだったのかなと首を傾げると、苦笑したヴェンツェルが片方の目の瞼に触れ、目敏いなと苦笑した。


「漂流物の訪れが終わる迄の間、ドリーとの契約を深めているのだ。その結果、ドリーが身に持つ色彩が私の方にも投影されているらしい。実際に瞳の色が変わった訳ではないのだが、………ドリー曰く、暫くは光の加減でこのように見えるようになるそうだ」

「まぁ。そうだったのですね。今まで見落としていただけなのかなと、考えてしまいました」


そう言って、まずは挨拶をと一礼したネアに、ヴェンツェルがほっとしたような表情を浮かべる。

奥の執務用のテーブルに着いていたエーダリアも同じ表情になったのは、部屋に入ったネアが、ヴェンツェルの姿を見ても動揺せずにいたからだろう。



「ドリーは、王都に残してきたのかい?」


そう問いかけたのはディノで、ヴェンツェルは立ち上がり深々と頭を下げると、その通りだと頷いた。

ここにいるのはヴェルクレア国の第一王子なので、言葉に出来ないことも多い。


どのような階位の魔物であっても、そえれぞれが司るものの王として振舞うように、人間がどれだけ脆弱でも、国を治める者には安易に示せない感情や動作がある。


なのでヴェンツェルは、深々と頭を下げる所作でのみ、ディノへの敬意を示したのだ。



(となるとこれは、………公式な訪問でもあるのだ)



「あれが王都にいないと、私がヴェルリアを離れた事が公になる。今回は、騎士団長の同行があったので、渋々であったが理解してくれた」


ヴェンツェルの言葉に視線を向けると、第一王子の隣に立っていたオフェトリウスがにっこりと微笑んで深々とお辞儀をする。

だが、その腕はどう考えても片方しかなかったし、それ以前の問題として、ヴェンツェルは片方の目に眼帯を当てていた。


(…………ヴェンツェル様の顔の片側にも、恐らくは手袋しているそちら側の手にも、そして、オフェトリウスさんの半身にも黒い羽模様のような痣がある…………)



一目で、魔術的な障りであると分かる姿に、ネアは、ごくりと息を呑んだ。


ウィームのように考えてはいけないのかもしれないが、この国の時期国王とされる王子がこれだけの傷を負い、実は剣の魔物である騎士団長が片腕を失くしたのだ。


どう考えても、普通の事件ではないのだろう。



「……………王子、暫し休憩をいただいても?」

「ああ。構わん。好きなだけ時間を取れ」



ここでなぜか、オフェトリウスがヴェンツェルに休憩を願い出た。

腕の負傷があるので立っているのも辛いのかなと思えば、どうやらそうではないらしい。


近くにある椅子にふうっと息を吐きながら座ったその姿は、王都の騎士服を纏っていても、どこか人ならざるもののように見えたので、一介の騎士ではなく、剣の魔物に戻る為に必要なやり取りだったのだろう。



「オフェトリウス、事情を説明してくれるかい?」

「ええ。アルテアからは説明はありませんでしたか?」

「アルビクロムと国境を面する国での異変と、同じ盤上のものだろうと言われたよ。ウィリアムとアルテアは、そちらに出ているようだね」



(……………え)


思いがけない名前が出てきて、ネアはぎくりとした。

確かにその二人は慌ただしく帰っていったが、ヴェルクレアの第一王子への襲撃があった以上、それぞれの仕事にも影響が出るのは当然だろうと考えていた。


だが、今のやり取りを聞いている限り、何か大きな事件が動いているようではないか。



「本国にいる本体は、あの二人で抑えられるでしょう。双方、人間の被り物をしていますからある程度不自由でしょうが。…………今回王都に届けられたのは、その国からの献上品でした。残虐であるが、その残虐さを賢く使ってきた王は、どうやら機能しなくなったようですね。対岸のものが国の中枢に入り込み、そこに取り込まれた者達が、ヴェルクレア王家への贈り物に辻毒を仕込めるくらいですから」

「では、辻毒だったのだね」

「そこまでは判明しています。…………ノアベルトの手も借りましたけれどね」

「そうそう。僕が調査に協力したから、そこまで分かったんだよ」



苦笑したオフェトリウスに、エーダリアの隣に椅子を置いて座っていたノアが、魔物らしい微笑みを浮かべる。


ヒルドの姿は見えないが、ヴェンツェル王子の代理妖精達の姿も見えないので、別室にいるのかもしれない。



「今回届けられたのは、あの国に入り込んだものの欠片を使って作られた、辻毒でした。カルウィのような力はありませんが、あの国もその手の術式が好まれる土地ですからね。辻毒の生成技術はそれなりに高いようだ。…………そして、使われた材料がどれだけ危うく、どれだけ悍ましい物を作ったのかを知らない者達が、使者を立ててこの国へと呪物を売りつけにきた」



それは、小国の高位貴族の思惑だったようだ。


国内に巣食っているもののの恩恵にはあずかれなかったが、それでもその生き物の特異さを理解している者達がいた。

彼等は、国の混乱を利用し、何とか自分達も利益を得ようとしたのだろう。


そこで目をつけたのが、国境を面するアルビクロムを飛び越えたヴェルクレアの王族で、珍しい呪物を献上し、気に入ってくれるようであれば商売にという算段だったようだ。


王妃への献上であったので、折り悪く、その場にはヴェンツェルも同席していた。

事件に至る経緯は偶然揃ったようだが、その場で呪物が暴走し、このような結果となったらしい。



「呪物が開いたのは、本当に偶然なのかい?」

「ええ。僕としても気になる部分だったので、因果の手を借りて検証しました。偶然開いたというよりも、それまでの工程で障りを出さずにいたのが奇跡のような状態であったものを、高位の人外者の集まる広間で取り出したのが原因だったようです」

「………資質によっての変化ではなければ、まだいい方だろう。………羽の模様ということは元は鳥だったものなのかもしれないね」

「綺麗な孔雀模様ですものね」



ネアが、そんな事をぽつりと漏らした時だった。


なぜか部屋全体の空気がぴしりと張り詰め、何か目に見えないものがざわざわと音を立てる。



「ネア。おいで」

「む………」

「…………ありゃ。エーダリア、持ち上げるよ」

「ノアベルト?!」

「…………ええと、僕があなたを抱き上げれば?」

「折角の申し出だが、断らせて貰おう。エーダリア、エドラを呼び戻したいのだが、部屋の扉を開けない方がいいだろうか」

「…………ええ。恐らくは。ノアベルト、兄上を……」



そう言ってしまってから、エーダリアは自分の兄が、塩の魔物の呪いを受けるヴェルリア王族である事を思い出したようだ。

困惑したように目を瞬いた契約者にくすりと笑い、ノアは、そちらはオフェトリウスがいるから大丈夫だよと教えてやっている。



「こんな場所でこの王子を損なえば、それこそ移住どころじゃなくなるからね、頑張るんじゃないかな」

「はは、残念ながらその通りだね。…………殿下と、この状態で呼ぶのおかしな事だけれど、その椅子から動かないように。どうやら、僕と君の受けた障りが立てる音のようだ」




ざわざわと、暗闇が揺れている。



先程迄、エーダリアの執務室は夏の日の正午前に相応しい明るさであった。

ウィームの夏はそれでも雲一つない青空は少ないものの、それでも他の季節よりはずっと明るい。

けれども今、その部屋の中は一雨来そうな空模様の下のように、ぐっと暗くなっている。


まるで、その暗闇の対岸に何かがいるように。



(こんな感覚が、以前にもあった)



ばさりと、見事な尾羽が揺れた。

こんな見事な飾り羽を持つのは雄である筈なのに、なぜかネアは、その暗がりの向こうに潜むものが、女性であるような気がして目を瞠る。


すると、両手を大きな翼にし、美しい冠をかぶった花嫁姿の女性が暗闇の向こう側に佇んでいた。


真っ白なヴェールの裾は孔雀の飾り羽に転じていて、古い神殿のような円柱が背後に立ち並んでいる。



「ナータリス」



突然、ここにはいない誰かがそんな言葉を発した。

その場にいる誰かではなく、まるで民衆がその名を呼ぶようにざわめき、連なってゆく。


そしてなぜか、ネアは、その響きをどこかで良く知っているような気がした。


怖くもないのに息が苦しくなり、円環の向こう側で誰かが微笑む。

ああ、君達かと呟く美しい声に滲んだ嘲りに、ネアはなぜか遠い夏至祭の喧騒を聞いた。




「レギーナ」

「ユガ」

「カプロティアーナ」

「ソスピタ」


(……………ここだ!)



その時、なぜその瞬間をと思ったのかは、後になってもわからない。

だが、声を発するのならその瞬間だと感じた。



「誰かが、あなたのもてなし方を間違えたようです。この方たちは巻き込まれ、障りを得てしまいました」


ネアが突然そんな事を言い出したので、ディノはぎくりとしたようだ。

だが、ネアが何かの確信を持って言葉を発したことに気付いたのか、しっかりと抱き直してくれる。



「……………私の夫を知らないかしら?あの国にいた強欲な王は、よく似ているけれど違ったし、火の気配がしたから目を開けてみたけれど、この土地にいたもう一人の王は全然違う。そこにいる王も、私の夫には少しも似ていない」

「だとすれば、迷い込んでしまったあなたは、元の場所に戻るのが良いのでしょう。来た道を戻る事は出来ますか?」

「ええ。出来るでしょうね。………不思議なところだわ。あの人を探して迷い込んだのに、見た事もない悍ましく奇妙なものばかり。誰も私を正しくもてなさないし、……………お前のような怪物がいるなんて。……………ねぇ、お前」



不意に、その声はディノに向けられた。


美しい女性だとは分かるのだが、眼窩には光が入らず亡霊のようにも見えてさまい、美しい筈だったものが悍ましく姿を変えてみせるのは、岸辺を違えるからだろうか。



「私に、何か話したい事があるのかい?」

「……………お前も、私のようなものなのね。私や、私の夫のような。…………であれば、その腕の中の怪物を、愛してやるといいでしょう。私がそのようなものに出会った時にも、或いはそれを与えていればと思った事もあったけれど、そうはならかった。魔法の紐も、強い靴も、全部あげてしまいなさい。本当はきっと、心臓を貫く剣ではなく、その身を抱き締める者こそが必要だったのでしょうから」



どこか慈悲深く、愛情深い、けれども人ならざるものの余所余所しさのある声だった。

威厳があり、だがこちらでは少しだけ壊れていて、ここではないどこかでは清廉で美しいもの。


そんな生き物が語る不思議な言葉を聞きながら、ネアはなぜか、あちら側ではなくこちらに来て良かったと、理由も分からない奇妙な安堵に包まれる。



「モネータ」



誰かが、また遠くでその声を上げた。

ああ、神殿を訪れた者達の声だと、ネアは、不思議な確信を得ている意識のどこかで考える。



「そのようにするつもりだよ。この子は私の伴侶だし、ここにはこの子の家族がいるからね。…………君は、まずはあの国へ戻った方がいいのだろう。そして可能であれば、そこから来た道を戻るといい。境界が曖昧になるのは、定められた年の定められた期間だけだと言われている。帰り道がなくなると、ずっとこちら側にいる事になってしまうよ」


返答はなかったが、それは困るというように顔を顰める気配があった。

そしてその直後、ざわんと、何か重たい羽の束を引き摺るような独特な音がすると、窓を覆っていたカーテンを引いたように、部屋の中が明るくなる。



するともう、そこは先程までのエーダリアの執務室であった。


ふうっと全員分の安堵の溜め息が落ち、最初に声を発したのは、エーダリアを下ろしながら肩を竦めたノアだ。



「……………ありゃ。欠片までをも自身とする類のものだったかぁ。うっかりこちら側に、探し人とやらの条件を満たすものがなくて良かったのかな」

「兄上………!!」

「エーダリア………?」

「痣が…………、消えています」


突然、驚いたような声を発したエーダリアにひやりとしたが、どうやら、残されたのはいい変化であったらしい。


ネアも慌ててヴェンツェルの方を見たが、確かに、先程まであった半身の痣が綺麗に消えている。

恐る恐るといった様子で眼帯を外したヴェンツェルは、負傷の気配などはないもう片方の瞳を瞠って、深い深い息を吐いた。



「………こちらも、元通りに見えるようになっている。視界に入っていた黒い影が消えたようだ」

「おや、僕の体からも障りが引いたようだね。では、落としておいた片手を戻しても大丈夫かな」

「そこはせめて、万能薬を飲んでからにするべきではないのか?」

「見世物になるつもりはないから、ここで済ませてしまおうか。誰かが魔術証跡を辿ると厄介だから、実際にその薬は飲んでおかないといけないんだよね。支払いは済ませてあるから、納品をお願いしてもいいかい?」

「ああ。…………ネア、お前達が持ってきてくれた薬を、受け取ろう」

「ほわ。…………いきなりのことに、お薬を納めていませんでしたね。ディノ、今日の薬をエーダリア様に渡してあげてくれますか」

「うん。そうしようか。……………ネア、あれを知っていたのかい?」



エーダリアに薬を渡しながら、ディノがそう問いかける。

こちらはまだ持ち上げられたままであったネアは、こくりと頷いた。



「私の生まれ育った世界にあった、古い信仰の中の名前が聞こえました。私が生きていた時代の信仰は別の神様が主流ではありましたが、古い伝承やおとぎ話の中に残る一人の神様の名前でした。私の両親はそのような本が好きでしたので、幼い頃にはたくさん読んだのですよ」

「…………だとすると、君の知っているようなものがある世界層から、流れ着いたのかな」

「ディノ、あの方は、…………元の場所に戻れるでしょうか?」

「信仰というものは、信徒やそれを知る者の前でしか、本来の形を成さないものだ。君があの模様が孔雀の羽だと気付き、そう声を上げた事でこの場ではその形を取り戻したのだろう。………けれど、元の場所に戻れるかどうかは、どれだけの部位がこちらに紛れ込んだかにもよるだろうね」

「うーん。あの階位の感触で、…………この呪物ってなると、こっちに漂着したのは記憶や欠片かもしれないなぁ。場合によっては、本人とは何の関係もない、書物や聖遺物みたいなものってことも考えられるし」

「むむ、…………となると、ご本人ではないかもしれないのですね」

「うん。背後に見えた神殿の様子からすると、かなりの信仰を得ていそうだったからね。そんなものが紛れ込んで障りになっていたら、とうにこの王子は死んでるよ」

「ほわ…………」



ノアがそう言い切ったので、ネアは、エーダリアと共にまじまじとヴェンツェルを見てしまった。

安堵の眼差しで見つめられ、当人も少しばかり青い顔をしている。



「あの眼帯は、視界の揺らぎを押さえる為のものだったのだ」



あまり長く王都を空けられないということで、障りを落としたヴェンツェルと、ディノの作った魔物の薬を飲んで腕を取り戻したオフェトリウスは、隣室にしたエドラ達とすぐにヴェルリアに戻っていった。


眼帯の秘密を教えてくれたエーダリアによると、あの羽模様の障りが眼球にも及んでいた為に、ヴェンツェルは視界にその黒い影が入ってしまい、不快感を軽減する為に敢えて眼帯をしていたらしい。



「見知った文化のものであれば当然なのかもしれないが、…………よく、あの羽模様が孔雀だと気付いたな」

「…………今、エーダリア様に言われて初めて、岸辺を違えると、見方や、時には色の印象までも変わってしまうのは、そのような事なのだと理解しました。…………私の生まれ育った国では、孔雀の羽模様と言えば、あの模様表現だったのですよ」

「そう、……………なのだな。………こちらでは、鳥の尾羽に目玉の模様となると、悪食や祟りものを示す際には使われるかもしれないが、少なくとも孔雀ではないな」

「ええ。こちらの孔雀さんの羽模様は、お花のような模様ですものね」



以前から、羽模様が少し違うのだなとは思っていたが、まさかこのようなところで差が出るとは思わなかったネアは、まだ少しどきどきしている胸を押さえ、ヒルドが淹れてくれた冷たい香草茶をごくごくと飲む。


ウィーム側としては、特別に大きな事件に見舞われたというよりは、傍観者として凄いものを見てしまったぞという感じだけなのだが、それでも何となく家族で集まってお茶をしてしまっている。



「私には、……………黒い羽が絡まった怪物のように見えたのだが、お前は、あの生き物に話しかけて、恐ろしくはなかったのか?」

「まぁ。エーダリア様には、そのように見えていたのですか?私には、王冠を被った花嫁姿の、少しだけ鳥さんという感じに見えていました」

「表情まで見えていたかい?」

「いえ。なぜか眼窩がとても暗く、美しい人だなと思うのに表情は見えなかったのです」

「そうだったのだね。……………ではやはり、君の知る神そのものではなく、それを模した何かなのだろう」

「………ただ、私の知る伝承には、その方が鳥の翼を持っているという表現はないので、こちらで何かが変化していたのか、…………よく似た別のものだったのかなとも思うのです」

「うん。そうなのかもしれないね」



そんな会話をしていると、ダリルから連絡が入り、エーダリアが事の経緯を説明している。

報告を聞いたダリルはたいそう喜び、王都に公式な貸しが出来たと、ネアにボーナスを出してくれるらしい。


それを聞いたネアは、椅子の上でぴょんと弾んでしまった。



「ディノ、報奨金です!!」

「良かったね。魔術洗浄はアルテア達が戻ってきてからになるだろうけれど、それが終わったら、何か買い物に行くかい?」

「……………まじゅつせんじょう」

「うん。今回のものは、顕現というよりは回収に近い。けれども、触れたものがないかどうか、念の為に、魔術洗浄をかけておこう」

「薬湯も飲むのですか…………?」

「うん。飲んでおこうか」

「……………ぎゅわ。突然、観客から、悲しい事件の被害者になりました」

「ご主人様……………」

「おや、ご活躍されたネア様がそれではいけませんね。厨房に、薬湯の後のデザートなど、何か頼んでおきましょうか?」

「ろーすとびーふが食べたいです………」

「ありゃ。デザートよりそっちかぁ………」

「ええ。では、そういたしましょう。恐らく、また日をあらためて、ヴェンツェル様からもお礼が届くと思いますよ」




後日、ヴェンツェルからは、王都で所有のあった氷河の酒が届けられた。


喜び弾むネアに、もう一つ届けられたのは、解毒の為にディノの魔物の薬を飲んだウォルターからのお礼の荷物だ。



事件があった日、ヴェンツェル達が呪物の受け渡しの場で手薄になっていたのは、直前にウォルターが毒を飲まされるという事件があったからであった。


ヴェンツェルを狙った暗殺に巻き込まれたウォルターが一刻を争う状態であったので、その動揺を引き摺ったまま使節の謁見の場に立ち会う事になり、ヴェンツェル当人も含めた第一王子派の動きが鈍ったようだ。


幸い、正妃の持つ魔術薬のお陰で、ウォルターは小康状態を保っていたらしい。

解毒剤を飲むとすぐに回復したそうで、三日経った今はもう、元気に暗躍も出来るようになったのだとか。



「そっちはさ、偶然というより必然なんだよね。他国の使節が王妃を訪ねる日に、王妃宮の客間での暗殺騒ぎだ。第一王子派の警備が手薄になる瞬間を狙って仕込まれた物を、あの宰相の息子が、念には念を入れてと自分のカップと取り換えた事で免れたって感じかな。……………あ、因みにそっちの犯人は、王妃が報復したみたいだからもう大丈夫だよ」



その一件で、第一王子派とは折り合いの悪い、小さな薬師の家門が取り潰しとなったらしい。


ヴェンツェルが立太子されると恩恵を得難くなると思い事を為したようだが、事件の危うさを隠そうとした国王派の一手によって、却ってヴェンツェルの立太子を確定付けるようになってしまった。



ウィリアムとアルテアはまだ、かの小国から帰ってこないが、アルビクロムが主導する任務が絡んでいるようなので、高位の魔物として思うままに動けないのが、時間がかかっている理由なのだとか。



(……………あの時)



もはやお馴染みの、円環の向こう側にいた何かは、女神の名前を持つあの女性をどこか軽視しているようだった。

だからこそ、不思議とネアも、あの女性が自分を損なえるとは思っておらず、少しも怖くなかったのだ。


そしてその時は確かに記憶を揺らした幾つかの名前は、あの後でディノに尋ねられた時にはもう思い出せなくなっていて、ネアは、あの名前までをも知っていたのは、果たして自分だったのだろうかと考える事もある。



(そして、あの人から見た私は、………怪物に見えたのだわ)



けれども、そう言われた事と、あの女性がディノに告げた言葉はしっかり覚えていて、ネアは、この世界に来てからの特別なお気に入りである戦闘靴で、しっかりと地面を踏み締める。


ディノも思うところがあったのか、紐運用の必要性を問われたので、ネアはにっこり微笑むと魔物の三つ編みを鷲掴みにし、こちらで充分であると伝えておいた。













明日は、少なめの更新となります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ