避暑地の秘密と美味しいお祝い 5
夕闇が落ちると、美しい湖には星の光が落ちた。
この地に残る魔術の残照が星々のものから虹の煌めきに変わっても、やはり星の光をよく集める湖なのだ。
夜の結晶石で造られた桟橋を渡り、ネア達が乗り込んだ船が、ひたひたと星の色を湛えた水面に揺れる。
(ああ、綺麗だな………)
翳した手のひらにも滲むような湖の色は、不思議な事に、夜になってもあまり変化しない。
水色にエメラルドグリーンが混ざり込むような透明な湖水の色は、星の光を内包したように光っている。
湖の底の方は色を重ねて深い瑠璃色になっていて、それでもなぜか、夜の光のような暗い眩しさがあるのだった。
その中をざあっと泳ぎ抜けてゆく魚たちは、まるで星々の群れのよう。
星雲のように群れては散らばり、ネアはその様子を船から覗き込む。
「今夜はお祝いなので、とびきりの獲物を釣り上げて見せますね!」
「僕さ、今年はエーダリアがヒルドと一緒に湖岸からの釣りにしたのが、……どうにも気になるんだよね」
「ノアベルト?」
何やら思い詰めた様子でそう呟いた塩の魔物に、ディノが目を瞬く。
内側から光を透かすような水紺色の瞳は、星の光を宿した湖と同じような澄明さだ。
そんなディノの困惑に、ノアは少しだけ遠い目をした。
「うん。……………大丈夫だと思う。多分、…………大丈夫だよね」
「おい。船を出すぞ」
「何かあるとしても、僕じゃなくてアルテアだと思うし、そんなに不安に感じる事もないよね」
「おい、やめろ………」
「ネア、船が揺れた時の為に、俺に掴まっているといい。ノアベルトが不安がっているから、念の為にな」
「むむ………?ウィリアムさんは、歯車で月光鱒の釣りをしたことはあります?」
「ああ。俺は、釣りは得意な方だと思うぞ」
くすりと笑ったウィリアムが、体を寄せて支柱になってくれる。
この紫水晶の船が揺れるということはあまりないのだが、時には水棲棘牛なども釣れてしまうので、その場合はかなりの揺れが予想される。
ディノには自分に掴まるように言いながら、バケツの中の歯車を手に取り、とは言え今年はウィリアムがいるので大丈夫かなと、この時のネアはまだ楽観視していた。
「……………ノアベルト、大丈夫か?」
歯車の釣りが終わり、そんなネア達を乗せた船が戻ってくると、心配そうに声をかけたのはエーダリアだ。
ノアは船の端っこでディノと抱き合ってしくしくと泣いており、湖から現れた荒ぶるクッションを退治してくれたアルテアは、ぜいぜいと肩で息をしている。
ネアを抱き上げているウィリアムだけは涼しい顔をしており、バケツに入った釣果をヒルドに渡していた。
「最初から嫌な予感がしたんだ。こういう時に絶対に酷い目に遭わないエーダリアとヒルドだけ、船に乗ってないからさ……………。でもまさか、湖に落とされたまま忘れられて悪変したクッションに襲われるだなんて、想像もつかないよね」
「……そ、そうだな。………お前達が無事で良かった」
「ぐるる。私はまだ、暴れクッションしか釣りあげていません!」
「いいか、今夜は絶対に打ち止めだ。二度目があっても、俺は二度と対処しないぞ……」
「ご主人様……………」
「クッションは、水を含むとあれだけ斬り難くなるんだな。………ネア、怖くなかったか?」
「月光鱒が、………釣れませんでした。ヒルドさんの分は、私が釣る予定だったのですよ?………エーダリア様は、桟橋からでも釣れましたか?」
「ああ。…………三匹ほどだが、……………どうした?」
「むぅ。エーダリア様が釣れているのなら、それでヒルドさんの分は確保出来たと言えるでしょう。なので、今年はお祝いへと心を切り替えてゆきますね」
「おや、そのように悲しそうにされずとも、お気持ちだけで充分に嬉しいですよ」
「ぎゅ………」
今年のネアの釣果も、全く振るわなかった。
死闘を繰りひろげて釣り上げたのが濡れそぼった怒り狂うクッションだけなのだから、成果というよりは事件である。
(……………でも)
目を輝かせたエーダリアが、バケツに入った見事な月光鱒を見せてくれたので、もうそれで充分だろう。
船から見た二人は楽しそうに話をしながら釣りをしていたので、二人でゆっくりと楽しむ時間が取れただけでも、ヒルドにとってはお祝いになるに違いない。
なのでネアは、目が合ったヒルドがおやっと眉を持ち上げたので、にっこりと微笑んでおいた。
幸い、こちらの狩りの女王には、香草棘牛という獲物がある。
「月光鱒は釣れませんでしたが、香草棘牛をアルテアさんが立派なタルタルにしてくれているそうなので、沢山食べて下さいね!」
「有難うございます、ネア様。妖精にとって、獲物を捧げ合うのは家族だけのことですからね。有難くいただきましょう」
「はい!エーダリア様の月光鱒に、ノアもディノも鱒を釣っていましたし、私には香草棘牛があるので、これでみんなで用意したお祝いの晩餐の材料と言えるでしょう。なお、アルテアさんとウィリアムさんの月光鱒も含めると、食べ放題なのですよ!」
かくして、避暑地で行われる、ヒルドの誕生日会が始まった。
何とか元気を取り戻してくれたノアが、これもとっておきだよと透き通った水色のシュプリを開ける。
今回用意されたシュプリはかなりのビンテージもののようだが、長く寝かしておくだけ、味が澄み渡り涼やかな喉越しになるのだそうだ。
「ほわ、瓶の口の部分を、ナイフで削ぎ落すのです?」
「うん。このくらいになると、コルクが完全に結晶化していて抜けないからね。後でここから切り出して、ヒルドにあげるよ」
「結晶化したコルクは、その飲み物の祝福を集めているというが、この場合は、シュプリの名前の通りに、夜の森と家族の家という祝福の形になるのだろうか?」
グラスの準備をしているアルテアの方を、任せきりでいいのだろうかと心配そうに見ながら尋ねたエーダリアに、ノアは微笑んで頷く。
ウィリアムも料理を並べてくれていて、ネアがカトラリーの籠持ちと、その配置を任務としていると、ディノがテーブルの上にある燭台に魔術の火を灯してくれた。
こんな時、以前の魔物達であれば、泰然と構えながらもどこかで一線を引いていたかもしれない。
だが今はもう、今夜は主賓となるヒルドに仕事をさせず、お祝いの食卓の準備を進めてくれる。
これが共に歩いてきた日々の成果で、大事な宝物なのだと思えば、ネアはどうしてもいつもよりにこにこしてしまうのだった。
「綺麗な夜になりましたねぇ」
「…………ええ。湖に星の光が映って、虹の証跡が僅かに夜を複雑な色合いにしているようです。美しい夜だ」
ネアの言葉に頷き、ヒルドが僅かに羽を広げる。
空の月は満月ではなかったが、それでも明るい夜の光を透かして青緑色の羽が淡く光を帯びた。
家族や仲間達の話し声に、美味しそうな料理の香り。
釣り上げたばかりの月光鱒は、あっという間に、カルパッチョのような花盛りと、香草塩でシンプルに焼いただけの美味しそうな晩餐になった。
なお、こちらの塩焼きには、お好みで林檎のバターソースかオリーブのタプナードソースをかけることも出来る。
勿論、テーブルの上に並んだ晩餐は、それだけではない。
何しろ今夜は、ヒルドの誕生日会なのだ。
ネアとしては、まだノアやウィリアムの誕生日もしていないのが少し気になったが、どうやらこちらの二人の誕生日は少しだけ意図的に調整されているらしい。
漂流物の件などもあるので、大きな祝福を齎す魔物達の慶事は、どこかに当てはめるべき場所があるのかもしれない。
「わーお。僕の知らないシュニッツェルがあるぞ」
「こちらは、薄切りの牛肉でお野菜を包んだ棒型シュニッツェルの輪切りですね!キノコたっぷりのクリームソースでいただくのですよ」
「ありゃ。ネアが解説してくれたぞ………」
「香草棘牛のタルタルに、ヒルドさんが意外にもお気に入りにしてくれた、水牛チーズのピザもあります!リーエンベルクの夏野菜のゼリー寄せには、美味しいハムも入っていますし、少し食べ用のローストビーフも楽しみですね」
今年のお祝いの席ではピザなども並ぶのでと、ローストビーフはしっかりと分厚いものではなく、少し小さめの塊を切って食べれるようになっている。
鶏肉の香草焼きには焼き栗が添えられており、レバーパテやバターにジャムの瓶も並んだ。
誕生日のケーキが白いクリームと林檎のケーキであるのは、ヒルドの本来の誕生日である夏至祭を思ってのものだろう。
お酒を飲んだ後に冷やして飲むと最高であるという評判をもぎ取ったからか、作り足した夏茜のスープも加わり、全員の手元にシュプリのグラスが行き渡る。
「ヒルド、誕生日おめでとう」
「ええ。有難うございます」
例年よりも、エーダリアのお祝いの言葉は短く、そして家族らしいものになった。
だが、こうして前置きなく笑顔で祝えるようになっただけ、また今年も何かが満たされ、家族の輪がしっかりと繋がったのだろう。
「ヒルドさん、お誕生日おめでとうございます!」
「有難うございます、ネア様。さっそく、香草棘牛をいただきましょう」
「ふふ。お味見した際にとても美味しかったので、自慢の獲物ですよ!」
「おい、お前はいつ食べたんだ………?!」
「む?」
「僕さ、夏の休暇のこの時間が大好きなんだよね。如何にも家族の誕生日って感じがするし、この先もずっと続いていきそうな気がすると思わないかい?」
「ふふ。確かにそうですね。当たり前のように、来年もその先も、夏のお休みはここでお祝いするのかもしれません。今年はウィリアムさんも一緒なので、楽しさがぐんと上がりました」
「それなら、俺を帰らせたナインやアンセルムには感謝しないとな」
焼き立てのパンの香りに、林檎のバターソースの甘酸っぱい香り。
ネアは、香草棘牛のタルタルの美味しさに夢中になってしまい、その次にいただいた巻き物シュニッツェルの新しい食感におおっと目を瞠った。
丸鶏の香草焼きはシンプルな料理だが、焼き栗と一緒に食べると途端に味の印象が変わる。
オーブンで焼いた何種類もの一口野菜を特製のマスタードドレッシングに潜らせたものや、お皿の上の彩りと小さな味の変化として用意された、選択の魔物のキッシュまで。
「はぐ!…………むふぅ。やはり、月光鱒は美味しいですねぇ」
「うん。………このままでいいかな」
「ディノは、シンプルな塩焼きが好きなのですよね。私は、林檎のバターソースと交互にいただくのが好きです」
「俺は、このオリーブのソースが気に入ったかもしれないな。よくあるものより大蒜が控えめで食べ易い」
「そう言えばさ、前から思ってたけど、リーエンベルクのタプナードソースって何種類かあるよね」
「四種類あるようですよ。執務や儀式などの関係で、特定の食材を避けなければいけない事もありますからね。今回は休暇中ですので、他の料理と合わせやすいソースを選んだと聞いております」
「ヒルドが一番好きなのは、このタプナードソースだしね」
にやりと微笑んでそう言ったノアに、ヒルドは微かに目を瞠ったようだ。
どうして四種類の中からこのソースが選ばれたのか、リーエンベルクの料理人は、その一番の理由を伝えてはいなかったらしい。
特別な催しがある訳ではないのだが、晩餐の席での会話は弾んだ。
このあたりは、ノアやアルテア、ウィリアムも含めて会話の回し方が上手いのだが、気持ちのいい夜に仄かな釣りの疲労感も覚えつつネアが観察していたところ、お祝いの席に集まった人外者達は、長らく誰かと共有してこなかった話題を沢山抱えているようだ。
(誰かと分かち合おうと思い、その相手を持たなかった思い出が、ゆっくりと咲いてゆくみたいだわ…………)
だならこそ、話題は尽きず、ずっと楽しい。
そんな特別なお喋りも、何でもない料理の感想も。
全てが美味しい晩餐と美しい夜の中に収められ、きらきらと祝福結晶のように輝く。
ネアは、会話に参加していなくても隣の伴侶な魔物が楽しそうに目をきらきらさせている様子に満足し、ちらりとエーダリアの方を見る。
目が合うとはっとしたように頷いたエーダリアが、魔術金庫から大きな箱を取り出した。
「ヒルド。これが、今年の誕生日の贈り物なのだ。開けてみると、意外に思うかもしれないが、理由があるので説明をさせて欲しい」
「おや、この木箱には見覚えがありますね。一昨年いただいたブーツと同じものでしょうか」
渡された箱をテーブルの空いている部分に置いたヒルドが、中からウィステリア色がかった水色の布袋を取り出す。
そこから取り出されたのは、どうにも見覚えのある、瑠璃紺色の見事な編み上げのブーツだ。
「……………凄い付与術式だな」
始めて見るウィリアムだから、そう呟くのではない。
実際に今回のブーツには、特別な仕掛けが幾つもあった。
とは言え、その感想から得られた手応えに僅かな安堵の微笑みを浮かべ、エーダリアが今年の贈り物の説明に入る。
「このような贈り物は消耗品でもあるので、惜しみなく使って欲しいというのもあるのだが、今回のものは近年の事件や傾向を経て、魔術付与の形を変えたものなのだ。前回のブーツも汎用性を上げてはあるのだが、それよりも更に、あわいや境界線への揺らぎに対応したものになる」
「………以前の物より格段に軽いのは、その為なのですね」
「そうなんだよね。ヒルドは妖精だからさ、多少の揺らぎや対岸への接触には長けているんだけど、いざ取り込まれたりその中で対処をするってなると、既存の守護や祝福が無効化されかねないんだ。だから今回のブーツは、有事用ってところかな。出来るだけ使う機会がない方がいいけれど、僕も僕の妹も備えられるだけ備えた方がいいって持論だから」
「………災いの魔術の扱いが、妙に手が込んでいるな。誰の構築術式だ?」
ふっと目を細めたアルテアが、そんな事を言う。
にんまり微笑んだノアが、どこか得意げに協力先を明かした。
「グラフィーツだよ。夏至祭の一件で思うところがあったみたいで、ヒルドの持っている資質をしっかり守っておいた方がいいって言ってくれたからさ、これ幸いと幾つかの術式を教えて貰ったんだよね」
「よく彼から術式を引き出せたな…………。ああ見えて、固有魔術の類は滅多に明かさない男だった筈だが……………」
「そこはほら、僕の腕かな」
そんな魔物達のやり取りを聞きながら、ヒルドは、思いがけず砂糖の魔物の力も借りて作られていると判明した贈り物を、しげしげと見つめていた。
「リーエンベルクの中に於いて、私はネアを、ノアベルトはエーダリアを繋ぐ楔になはるだろう。だが、その繋ぎとは別の角度からこちらの二人の守護の楔となるのは、君なのだと思う。今年の懸念は漂流物だけれど、最も知られているものがそうだと言うだけで、テルナグアのようなものも幾つでも観測されているからね」
「やはり、今回の靴底の守護術式は、ディノ様によるものですね」
「うん。用途に合わせて、この世界にしっかりと帰路を作るというものになっている。術式の結びはエーダリアにしてあるから、もし、何かの事情でウィームから離れた場所で働く事があっても、君が望むところに帰れるだろう」
ヒルドが驚いたように瞳を揺らしたのは、ディノが、そこまで自分の事を考えてくれるとは思わなかったからだろう。
ディノは元々優しい魔物であるし、こちらは家族の輪なのだが、とは言え、どこまでを考えて手をかけるかという問題に於いては、まだまだ不慣れな魔物であった。
「……………有難うございます。ディノ様」
「うん。………家族、……だからかな」
「ネアがな、………こうして家族になった先に考えなければならないのは、家族が離れ離れになるような事件や事故だというのだ。なので今回は、身を守る為にと作った前回のブーツとは用途を変え、不安定な場所で足場を作り、戻るべき場所へ戻れるようなブーツになっている。…………どうしても、立場上お前には前線に出て貰う事も多くなる。謂わば、その際の命綱になるようにと作ったものなのだ」
「……………ええ。必ず、どのようなことがあっても、私はあなたの元へ帰りましょう」
真摯な眼差しで結んだエーダリアは、ふわりと微笑んだヒルドが返す言葉を想像していなかったのだろう。
穏やかな、けれども強い決意と願いを込めた声でそう誓ったヒルドに、鳶色の瞳を大きく瞠り、ふるりと震わせる。
「……………ああ。…………ああ、そうだな。だが、どのようなこともないのが一番だ」
「ありゃ。エーダリアもしかして泣いてる?」
「な、泣いてはいないぞ?!」
「実はそのブーツの色は、前回のブーツから少し色味を変えてみたのですが、最初の革の染めだとヒルドさんに合わないと言って、エーダリア様の拘りの色になっているのですよ」
「ネア?!」
「おや、深みのある色合いが素晴らしいと思っておりましたが、そうでしたか」
「…………最初の色は、合わせの良さを考えたそうで、色味が少しくすんでいたからだ」
「そして今日のケーキは、そんなエーダリア様が切った林檎を使っています!ノアは少し危なっかしい様子でしたので、材料を測る作業を任せました!」
だが、さすがのヒルドも、まさか誕生日のケーキにまで、その二人の手が入っているとは思わなかったのだろう。
邪悪な人間が畳みかけるならここであると付け加えた情報に、美しい青緑色の宝石のような羽にざあっと光が入った。
「………それでは、大切に食べなければいけませんね。………今年も、素晴らしい贈り物を有難うございます。こうして帰るべき場所への命綱を得られるということは、この上ない安堵となるでしょう。私としても、漸く得た家族をもう一度失くす訳にはいきませんからね」
「……………ありゃ。僕が泣くかなって思ったけど、先にエーダリアが泣いたかな」
「……………な、泣いていないのだからな」
「やれやれ、困った方ですね」
どきりとする程に優しい微笑みを浮かべ、ヒルドがエーダリアにそっとハンカチを持たせている。
どう見ても少し泣いているので、ネアは微笑みを深め、エーダリアの言う通り、誰よりも前線に向かう事の多いヒルドの身を守るものが増えた事に胸を撫で下ろした。
(……………ただの道具の付与だけでは、授けきれない祝福や守護がある)
誕生日などの慶事は、そのような過ぎたるものまでを定着させるに相応しい、魔術的な儀式でもある。
だからこそ、分かり易く楽しい新しい贈り物ではなく、今回はこのブーツが必要だったのだ。
今年はエーダリアの誕生日などもこの傾向になるのだが、そちらは、漂流物の訪れに間に合うようにと願うばかりである。
だが、王都の者達がヴェルリアが耐性のある初夏から夏にかけての時期に、王都周りにひと波を作り、漂流物の訪れを後ろ倒しにして調整をかけているのであれば、四領の全てが比較的対応し易い秋から晩秋にかけての調整ではないかというのが、魔物達の見解だ。
であればエーダリアの誕生日にも間に合う筈なので、今年はジュリアン王子の動向などもかなり警戒されている。
そんな事を考えていると、こちらを見た優しい瑠璃色の瞳に気付いた。
「もしや、ケーキそのものは、ネア様が?」
「ええ。ディノにも生クリームを立てて貰い、家族のケーキにしました。その代わりに、リーエンベルクの厨房からは、お酒の後に美味しいブルーベリーとヨーグルトの素敵な氷菓子があるそうなので、そちらも楽しみにしていて下さいね!」
「となりますと、今夜は、ネイ達に最後まで付き合う事になりそうですね」
「うんうん。今夜はじっくり飲もうよ。ヒルドの好きな酒も準備しているしね」
「…………今年も、ですか?」
「今年は思いがけないところから三本入手したから、来年でも再来年でも、また飲めるようにしてあるよ。因みに一本はアルテアに預けて、この酒をもう一度作れないか相談しているところかな」
「ほわ。そう言えばノアは、アルテアさんと葡萄畑を作るお話もされていましたよね……………」
「何でだか、こっちの趣味は合うんだよね」
そう言われてしまったアルテアは、ケーキナイフを手にしながらたまたまだと返している。
なお、選択の魔物がなぜケーキの切り分けを担っているかと言えば、最初はネアがナイフを手にしたのだが、どこから切ろうかなと首を傾げていたところ、溜め息を吐いた使い魔に役目を奪われたからであった。
さわさわと、夜風が揺れた。
今年のお祝いでは、テーブルの上のご馳走を狙ってくる不埒な者達はいないようだ。
けれども、どこか遠くから美しい音楽が聴こえてきて振り返ると、背後のお城の一室にぼうっと明かりが灯り、そこから聴こえてくるようであった。
「土地の記憶だね。何かが作用しているのではなく、条件が揃った時に浮かび上がる模様のようなものだ」
「ヒルドさんのお祝いの夜に音楽を流してくれるだなんて、さすが、ウィーム所有のお城の模様ですね。もし、この夜に鴉さん達が引っ越ししようとしたら、私は怒り狂うところでした…………」
「あ、言われてみれば、その可能性もあったのかぁ。昨日で良かったね」
「…………いい夜だな。こんな風に寛げる夜が、暫く続くといいんだが。今夜はしっかりと夜を楽しんで、明日はゆっくり眠るつもりなんだが、このままだと帰りたくなくなるな」
「おや、ウィリアムは、明日もこちらにいられそうなのかい?」
「ええ。系譜の者達から呼び出しがかかりませんので、明日もこちらにいられそうです」
「死の精霊達が、油断をせずにもう一日様子を見ようと決めたらしいぞ」
どうやら終焉の魔物の休暇は、死の精霊達の慎重な判断のお陰であるらしい。
ネアは、美味しくスープをいただいただけなのに素敵な祝福をくれたトマトを思い、素敵な夏休みをくれた恩人としての好意を高めてしまった。
とは言え、元々美味しい食材として大好きなので、いっそうに大好きになっただけとも言える。
「ディノ、ケーキをどうぞ」
「うん。……………ネアの手作り………」
「そして、家族の誕生日のお祝いのケーキです!家族や家族相当の仲間がいないと食べられない素敵なものなので、こんな風にみんなで食べられるのは嬉しいですね」
「……………そうだね」
手渡されたお皿の上のケーキを見て瞳を揺らし、ディノも嬉しそうに微笑んだ。
ヒルドは、まだ少し涙目のエーダリアに優しい声で話しかけていて、ノアはその隣で楽しそうに笑う。
当たり前のようにケーキを切ってくれるアルテアに、すっかり寛いでいたが、ノアの出した森と流星のお酒に興味を示しているウィリアムまで。
素晴らしい夜をすっかり堪能してしまうべく、ネアは深く息を吸い込んだ。
ここは優しく温かく、少しも寂しくない家族の家の庭だ。
しっかりと抱き締めて二度と離すものかと胸を熱くすれば、もし、今、お城の方を振り返ったら明かりの灯っている窓の向こうには誰かが見えたりするのだろうか。
「……………ぎゃわ」
しかし、そんな素敵な想像をしながらそっと振り返ったネアは、明かりの灯っている部屋のバルコニーに、こんな夜には見付けたくなかった影を発見してしまった。
「ネア、どうしたんだい?」
「今、……………いえ、何でもありません。良く晴れて星空が明るくて、素敵なお祝いになりましたね!」
「うん」
だが、賢い乙女は、背後のお城のバルコニーにまた躾絵本の姿があったとは、口にせずにいた。
屋内に戻る際に誰かが襲われるとしても、今はまだ、このお祝いの素敵な気分に浸っていよう。
決して現実逃避ではなく、それもまた、楽しみを楽しみとして余さず食べる為の、大事なお作法であるのだ。
夜半過ぎに、眠らずに遊んでいた悪い子を躾ける絵本が大暴れしたものの、それもまた、いい思い出になるのかもしれない。
とは言え、戻ったらダリルとの性急な話し合いの場が、魔物達も含めて持たれることになるだろう。
ネアは、解き放たれている躾絵本が、これで最後であることを星空に祈ったのであった。
明日の更新はお休みとなります。
TwitterにてSSを書かせていただきますので、宜しければご覧下さい。