避暑地の秘密と美味しいお祝い 4
「このパンは何ですか?」
「…………黒麦と発酵バターにヨーグルトも入っているな。少し酸味のあるパンだ」
「ほわ。………そこに、薄切りのボロニアソーセージとチーズを挟むのですね。じゅるり………」
「ったく。大人しくしていろよ」
「むぐ!」
ネアがそわそわとテーブルの周囲を歩き回ったからか、呆れ顔の使い魔は、ご主人様の口の中に、ボロニアソーセージの最後の部分を放り込むことにしたようだ。
確かにサンドイッチ用にはならないが、充分な美味しさの端っこを頬張り、ネアは小さく弾む。
「ネア、こっちも出来上がるぞ」
「ウィリアムさんの、海老のパスタです!!」
「……………おい。なんでそのソースなんだよ」
「あれ、アルテアもトマトクリームは問題ない筈でしたよね」
「お前に繊細さのかけらもないのが、よく分かる選択だな………」
「因みに私は、夏茜のスープを作りました!」
「……………お前には、そもそもその界隈の器官がないんだろうが」
「よく分かりませんが、貶されているようです……」
なぜか遠い目をしているアルテアに、ネアとウィリアムは顔を見合わせた。
不思議なお客の訪れとあわいの鴉の引っ越しのあった夜が明け、遅い昼食の準備中である。
湖の見える位置にテーブルを出して外での昼食になるので、今日も避暑地でいただくような素朴な料理ばかりだ。
なお、思い思いに過ごす代わりに、食事はみんなで一緒にというのが、指輪の避暑地での暗黙のルールになっている。
「ネア、これを、テーブルの上に運ぶのだね」
「はい。硝子のスープピッチャーにしましたので、テーブルの二か所に設置します」
「うん。…………一つは、私の前かな」
「あらあら、お代わりしてくれるのです?」
「ネアが作ってくれた……………」
目元を染めて嬉しそうにしているディノは、このくらいであればという危なげない手つきで、スープピッチャーを外のテーブルに運んでくれる。
夏茜のスープはごくごく飲める疲労回復のスープでもあるので、まずは各自のスープカップに注いでおき、多めに作ったものの残りはお代わり自由としたのだ。
残った場合は、夜のお祝いの後に酔い覚ましで飲んでもいいし、何かと重宝する汎用性の高いスープなのである。
午後の光を浴びて、湖はきらきらと光っていた。
中央にかけてぐっと色の濃くなる複雑な色合いなので、僅かな風に揺れる水面や湖底に沈んだ何かが時折ちかりと光ったり、魚たちの影が揺れていたりする。
平面的な水面もその静謐さが美しいが、この避暑地の湖は、様々な色が重なる水彩画のような美しさだ。
テーブルの上には小さなグラスに庭園で摘んできた花が飾られ、ヒルドが飲み物の準備をしていてくれる。
搾りたてのオレンジジュースだけでなく、ウィリアムが取り寄せてくれたパイナップルジュースまであるので、夏休みという気分を満喫するのにぴったりではないか。
「ディノ、私はカトラリーの籠を貰ってきますので、地面で寝ているノアを起こしてあげてくれますか?」
「……………ノアベルトが」
「ふかふかの下草の上で木漏れ日を浴びて眠るのは素敵ですが、あの位置だと、お料理を運ぶ方に踏み潰されてしまいそうですから………」
「うん。椅子に座らせておくかい?」
「取り敢えず、テーブルに着いている感じが出ればいいような気がします!」
厨房は湖向きの大きな両開きの硝子戸を開けているので、ネアも一人で往復出来る。
この距離感や配置を考えると、美しい湖の畔にテーブルを出して食事をするのは、建設時から想定済みなのだろう。
(昨晩は不思議な事があったけれど、…………何だろう。心の中が、ふんわりしている)
それが、どのような心の区切りであったのか、或いは胸の底であの雨の日を抱えて泣いていたネアハーレイが報われた瞬間だったのかは、ネアにも分からない。
だが、部屋の扉の向こうにあった書庫にいた男性からお帰りと言われた瞬間に、かちりとピースが嵌るようにして一番暗く悲しい日の思い出があるべき過去の抽斗に収まり、それ以前のもっと前に出しておきたい幸せな記憶を取り出し易くなったような気がしていた。
(多分、………ずっと動かずにいたのは、そのくらいに些細な事だったのかしら)
それはきっと、最後まで正解を得られなかった合言葉のようなものだったのだろう。
宙ぶらりんになっていたものが、やっと安心してしまえるようになり、自分でも良く分からない何かがやっと終わったのだ。
「まぁ。これは、どんなお料理なのですか?」
「香草パン粉の鶏肉のシュニッツェルだな。中にチーズが入っている」
「じゅるり………。バターソースをかけていただくのですね。…………鴨さま」
「鴨は、プラムのソースだ。果樹園の奥にプラムの木があったからな。とは言え、どちらもいつも程には手が込んでいない簡単なものだぞ」
「ほわ…………。じゅ、じゅるり!
「ネア、こっちの揚げ物も終わったぞ」
「お魚の素揚げに、辛酸っぱいソースのものです!!」
今年の夏休みはウィリアムもいるので、お料理班は二人体制である。
作る料理の傾向が違うの二重に楽しくなってしまい、ネアは、弾むような足取りでウィリアムの料理を見に行った。
終焉の魔物の背中に掴まるようにして盛り付けをしているお皿を覗き込めば、素揚げにした魚にじゅわっと回しかける辛酸っぱいソースがぷちぷちと魚の皮を弾けさせる。
食欲をそそるような香りにお腹がぐーっと鳴り、ネアは、幸せな予感に口をもぐもぐさせた。
「さて、俺の方はおしまいだ。皿を運ぶのを手伝ってくれるか?」
「はい!このお魚のお皿はとても重要なので、私の近くに寄せてもいいのです?」
「それは嬉しいな。二人の秘密にしようか」
「……………おい、聞こえてるぞ」
「お魚は二皿ですので、争奪戦ですよ!」
「お前な……………」
ネアはうきうきしながら、カトラリーの籠とパスタのお皿の一つを受け持ち、残りの料理はウィリアムが器用に一人で運んでしまう。
このあたりは如何にも男性という感じなのだが、以前に大国の騎士団で暮らしていた際に、料理当番をしていたことがあるという話を聞き、ネアは驚いてしまった。
「まぁ。ウィリアムさんは、どちらかというと、主力騎士団の実働部隊に所属するという印象でした」
「そちらの役割に就く事もあるが、のんびり過ごしたい時には、あまに表に立たない方がいいんだ。その時は、遠征先の土地の料理人が辛いものしか作れなくてな。料理が出来る騎士達が集まって、当番制で作っていたな」
「ふふ。という事は、そこにいた騎士さん達は、ウィリアムさんの美味しいパスタも食べてしまったのですね?」
「ああ。俺より料理の上手い男が一人いたんだが、……………そう言えばあれは、後々にオフェトリウスだと分かったんだったか………」
「なぬ。オフェトリウスさんは、お料理上手……………」
ネアは、ここで剣の魔物の思いがけない新情報を入手してしまい、高位の魔物達の思わぬ器用さに瞠目した。
(………魔物さんは、自分の身支度も出来ないような人達がいる一方で、器用な人はとことん器用なのだろうなぁ…………)
生きている時間の長さと、階位に見合っただけの器用さを思えば不思議ではないのだが、存外に丁寧な暮らし方をしている高位の人外者が多いので、時折何とも言えない気持ちになる。
「言っておくが、家事全般は、オフェトリウスより俺の方が得意だぞ」
「……………む。お洗濯やお掃除などですか?」
「ああ。オフェトリウスに限らず、剣の魔物はなぜか掃除が出来ないからな。だからこそ、従者を同行する事が多いんだろうが」
「それはもしや、お料理についても後片付けが出来ない人なのでは…………」
「………そう言えば、騎士団での料理当番は皿洗いは下位の騎士が行っていたが、片付けながら料理が出来るようには見えなかったような気もするな………」
「むぅ。それは大きな減点なのですよ。ウィリアムさんやアルテアさんは、作りながら洗い物も済ませてしまう派ですものね」
「俺は効率的だからそうするんだが、アルテアは几帳面だからだろう」
くすりと笑ってそんな事を教えてくれたウィリアムに、ネアは微笑んで頷いた。
先日は少しひやりとするような応酬もしていたが、基本的に第二席の魔物と三席の魔物は仲良しである。
しかし、そんな事を考えながらテーブルに向かうと、ヒルドの手伝いをしていたエーダリアが、こちらを見て、呆然としたように鳶色の瞳を瞠るではないか。
「…………エーダリア様?」
「その、……………それは何なのだ?」
「ウィリアムさんの作ってくれた、濃厚な海老トマトクリームとぷりぷりの海老のパスタなのですよ!」
「い、いや、……………お前は、何を踏んでいるのだ」
「む?……………こやつは、たった今、足元に攻撃を仕掛けてきた謎のごわごわ鳥です」
「白銀色という段階で、ただの鳥ではないと考えなかったのだな………」
「おっと、銀湖石の精霊か。死ぬと最上級の銀湖石になるから、そのまま素材として持ち帰れるぞ」
「まぁ。確かに、……………かちこちになりました」
「銀湖石と言えば、近年は市場に出回らなくなった魔術結晶の一つではないか……!」
エーダリアが目を輝かせていたので、ネアは、お持ち帰りは指輪の持ち主に任せることにし、代わりに何かこの銀湖石から作った細工ものを一つ、こちらにも卸して貰うこととした。
回収は起きたばかりのノアが行ってくれ、こちらの精霊は人間や階位の低い精霊達の食事を奪い、喜びや祝福を貯め込む生き物だと教えてくれる。
「という事は、私に手にあるパスタを奪おうとしたのですね………」
「ご主人様………」
「ありゃ。ネアから料理を奪おうとするなんて、馬鹿な精霊だなぁ………」
「おや、そうなりますと、群れなどを持つようであれば警戒した方が良さそうですね」
「一個体の縄張りが広いから、近くにはいないと思うよ。近年はさ、餌の奪い方が巧妙になってきていているみたいで、あんまり捕縛されなくなったんだよね」
「もしかすると、銀湖石欲しさの乱獲などで数を減らしてしまったのかなと思っていましたが、正反対の理由でした……」
ネアが踏み滅ぼした精霊は義兄に回収されてゆき、テーブルには無事にウィリアムの料理が到着する。
アルテアが作っていたサンドイッチの他にも、焼き立てのパンが二種類並び、続けてアルテアの料理も到着した。
銀湖石の精霊の一件で目が覚めたのか、ぐいんと伸びをしたノアが白葡萄酒を開けていたが、ネアは、昼食はジュースと冷たい香草茶でいいかなと最初の一杯だけにして貰う。
「しっかり食事をした後でも、お酒を飲みながら食べられるように、サンドイッチも作ってくれたのですね」
「この時間帯の食事は、それぞれの嗜好が変化し易いからな。………何だ?」
サンドイッチの配置的にその役割を分析していたネアは、ふっと視線を持ち上げ、怪訝そうに赤紫色の瞳を瞠った使い魔を凝視する。
柔らかな木漏れ日を透かして白い髪にも複雑な影が落ち、こうして見ていると、魔物達の髪色や質感はやはりそれぞれに少しずつ違う。
「デザートは………」
「……………オレンジのタルトを焼いてある。焼き立てにクリームを添えるから、まだこちらには出さないぞ」
「タルト様!!」
テーブルを見渡した際に大事なものが欠けていると思っていたのだが、ちゃんと準備されていると知り、ネアは安堵に微笑んだ。
しかし、背後の義兄から、これだけ広いとボールが投げやすそうだよねという危うい会話が聞こえてきてしまい、ぎくりとする。
(ノア!!)
恐らく、無意識に口にしてしまったのだろう。
アルテアが気付いて銀狐の所在確認をしないかはらはらしたが、幸いにも、ヒルドが巧みに話題を変えていってくれた。
(これで、全部揃ったかな。……………いい匂い!)
テーブルの上には、素朴だが目にも楽しく美味しそうな料理が沢山並んだ。
シュニッツェルや鴨、魚の素揚げなどのしっかりした料理もあるが、どれも大皿料理でみんなで取り分けて食べるようになっているのが、休暇中の食卓らしい。
ネアも、いそいそと自分の席に着こうとしたのだが、その途中でひょいと持ち上げられてしまう。
いざ食べようとしたところであった乙女は、慌ててじたばたしたが、下ろされたのは椅子の上ではなかった。
「……………さて、食事の前にこちらだな」
「ふぁふ?!………なぜ私は、使い魔さんのお膝の上に乗せられたのでしょう?」
「お前がまた、妙なものを踏んでいたからだな。靴裏の魔術洗浄をしておくぞ」
「しょ、食事の後でもいいのですよ……?」
「あの階位とは言え、精霊だ。ノアベルト、食事は始めていて構わないぞ」
「ありゃ。僕とウィリアムで確認もしたのに、アルテアは神経質だなぁ…………」
「ネアがいなくなった………」
「ぐるる!!」
腹ペコの乙女は必死に抵抗したが、足を持ち上げられてしまうと体勢が不安定になるので、慌ててアルテアの肩に掴まらねばならなかった。
足首を掴んだ指先の温度が、じわりと肌に伝わる。
(……………あ、)
この体勢だからだろうか。
耳元で、滅多に聞く事のないアルテアの低い詠唱が聞こえ、ネアは目を瞬いた。
目が合ったアルテアが、ふっとどこか愉快そうに微笑む。
「歌ってはやらんぞ」
「…………む。むむぅ。…………前に訊いた曲がお気に入りですので、次もまたあちらでお願いしますね」
「………おい。歌わないと言わなかったか?……………っ、それと、妙なことをするな!」
「む?固定されている腕のせいで、服地が引っ張られていましたので、窮屈になった胸周りの生地を引っ張り上げただけなのですよ?」
「お前の情緒は、一体いつになったら派生するんだよ…………」
「おかしいです。情緒豊かな慈悲深き乙女なのですからね」
「わーお。何が見えたんだろう。いいなぁ……………」
「ネイ?」
「アルテア、その角度だと魔術洗浄が難しいのでは?ネアは俺が抱いていましょうか」
「放っておけ。…………おい!お前はこの体勢で物を食おうとするな!!」
「あら、ご存知ないかもしれませんが、サンドイッチとは、このような状況下でもいただける、とても便利な美味しいものなのですよ」
ネアは我慢出来ずにサンドイッチを一ついただいてしまい、靴裏の魔術洗浄が終わるとすぐさま自分の席に着いた。
先程から楽しみにしていたパイナップルジュースをごくごくと飲み、いよいよ、テーブルの上の美味しそうな料理にとりかかる。
「ディノ、何か取って欲しいものはありますか?」
「魚はウィリアムが取ってくれたから、こちらを食べ終えてからにしようかな。このシュニッツェルを交換するかい?」
「ふふ。シュニッツェル同士の交換ですね」
ネアが、靴裏の魔術洗浄をされている間に、ウィリアムが取り分ける系のお料理をディノに取ってくれていたらしい。
ノアは早速二杯も白葡萄酒を飲んでしまい、すっかり気に入ったらしいウィリアムのパスタを食べている。
エーダリアは夏茜のスープを飲んでいて、ヒルドは、そんなエーダリア達にサラダを取り分け終え、自分のお皿にはサンドイッチを取っていた。
「……………美味しいですねぇ」
「うん。君の手料理だからね」
「スープのお代わりも、たっぷりありますからね。……………あぐ!………さくさくシュニッツェルの中から蕩けたチーズが出てきていて、こちらとパスタを交互にいただくと、お口の中がとても贅沢な感じになるのですよ。……………むむ!」
少し離れたところにあるラベンダーの植え込みの向こうで、何かががさりと動いたような気がして、ネアは、丸めた布ナプキンをそちらに投げつけた。
片方の眉を持ち上げて無言で立ち上がったアルテアがそちらに向かい、なぜか立ち尽くしている。
気になったのかノアもそちらを見に行き、同じように立ち尽くしているようだ。
「……………な、何かいたのだろうか?」
「僕の妹がさ……………布ナプキンを投げつけただけで、……………香草棘牛を倒したんだけど」
「香草棘牛?!き、希少種ではないか!!」
「うん。凄く美味しいから、今夜の晩餐になるのかな。…………アルテアがきっとタルタルを作ると思うよ」
「おかしいだろ。ただの布の塊だぞ。………何で死んでるんだよ」
「まぁ。美味しいものをいただきながら、狩りまでしてしまいましたね」
「ご主人様………」
ディノは少しだけふるふるしていたが、ご主人様が倒したのは穴熊程度の大きさの生き物だ。
きっと儚い生き物だったに違いないと思ったネアは、香草棘牛の可動域が七百だと聞き、羨望のあまりに倒れそうになった。
なお、香草棘牛はこの大きさで成牛であるらしい。
香りのある植物の茂みに暮らしているが、とても獰猛なので体当たりした人間に大怪我をさせたりもするのだそうだ。
「むぐ!………むふぅ。平和ですねぇ……」
「ネア様、こちらのパンも取りましょうか?」」
「はい。お願いします!」
「うーん。何で布ナプキンで狩りが出来たんだろうな。……………直前まで、元気そうだったんだけどな」
「あぐ!」
ウィリアムも首を傾げていたが、ネアは不敵に笑うと、海老のパスタをお口に入れた。
こちらの人間はとても心が狭いので、食事中に不用意にこちらのテーブルに近付く見知らぬものは、例外なく滅ぼすと決めているのだ。
それなのにこちらに向かって来ようとした香草棘牛が、ただ愚かだったという事でしかないのだった。