夜の桟橋と物語の欠片
「では、行ってこい。港に着けば、お前に声をかけて来る者がいるだろう。その者に、祝福を一つ持ち帰れと言われていると伝えるといい」
そう命じられた青年は、生真面目に頷いた。
はたはたと夜風に揺れる白い布は、この青年を高貴な稀人にするのだろうか。
それとも、取るに足りない装束として見過ごすのだろうか。
そんな事を考えながら、夜の桟橋から旅立つ者を見送った。
「凍えるような寒さですね。………これが、漂流物の知らせなんですか?」
青年の姿が見えなくなった頃合いを見計らい、背後からかけられた声に振り返ると、ランタンを持ったリソがこちらに歩いてきた。
この辺りは境界が揺らいでいると伝えておいたのだが、この従者は階位の割にはそのような土地を危なげない足取りで歩いてみせる。
(以前に話していた、高位の魔物の一部を取り込んだからか………)
その魔物の資質こそが、境界のあわいを歩くに足りるだけの力を与えているのだとすれば、リソが取り込んだものの本体となる魔物は、対岸に渡った事があるのだろうか。
(そこには、…………どんな風景が広がっていたのだろう)
青い青い海や、檸檬の木の生い茂る美しい島の残照が瞼の奥で揺れたが、そんな景色にはいつも、どこか途方に暮れたようにくしゃりと微笑んだ青い瞳に真珠色の髪の女の影が落ちる。
その影に気付いて振り返り、彼女を見上げると胸が潰れそうになるのは、遠い遠い誰かの感傷だった。
だから、その痛みがニケに拾い上げられるまでには角が丸くなり、ひと欠片の月の光のような美しさで残される。
「あの青年で、二十六人目ですね」
「漂流物がやって来る年にだけ、………あちら側へ辿り着く者が出る。帰ってこなかった者も帰ってきた者もいたが、一度こちらに戻った者は、二度と向こうには戻れないからな」
「そこが存在しないはずの何処かだと知らずに任務から戻った者達が、今回もいるといいんですが。………… 上の王子方も、それぞれに老獪ですからね。手札を隠しているのはニケ様もですが、あちらもあちらで、………得体が知れません」
「漂流物を取り込む手法そのものは、古くからカルウィに存在しているからな。こんな無謀な真似を俺以外にする奴がいるとは思えないが、追い詰められた人間は何でもする」
「…………無謀だという自覚があるのなら、少しは体を労って下さい!」
腰に手を当てたリソにそう言われ、小さく苦笑した。
口煩い従者だが、このような存在は必要なのだろう。
ヴェンツェルに寄り添うドリーとは違い、アフタンの甥っ子を寵愛している魔物とも違う。
(だが、毒にあたる存在ならいるからな。………リソはこれでいい)
「聞いているんですか!また何かおかしなものを拾い食いしたでしょう!」
「………その言い方はどうにかならないのか」
「あれは狩りだ。少なくとも拾い食いじゃないが、得体の知れないものをほいほいと口に入れるのは諌めておけ」
「お前はまた出てきたのか!!」
リソが眉を持ち上げ、背後で、ばさりと大きな翼を振るう音がした。
「リュツィフェール………」
振り返った際に立っていたのは、この季節に姿を見せる筈のない純白と呼ばれる悪食で、美しい顔を歪めている様子からすると、これだけの冷気でも起きているのは苦痛らしい。
「………無理に出てこなくともいいだろう」
「今、この海の向こうにいるのは、………悪食だぞ」
「………っ、………ニケ様、もう桟橋を離れましょう。盲目の魔術は終えたのでしょう?」
「悪食なら、……あの世界が終わるまでは清貧だった誰かなのだろうな。それは俺ではないが、………こちらに来れば、思い出話くらいは聞いてやるのだが」
そう呟けば、リュツィフェールは青い瞳を細めて呆れたような顔になる。
その青さにふと、遠い日の海と、伸ばした手を握って泣いていた美しい真珠色の髪の女が思い出された。
(そうだ。それはもう俺のものではない。だが、………俺の知る限り、最も印象深く心を揺さぶる物語であった)
「お前は、過去の女に魅せられ過ぎて、まともな恋愛をしそうにないな………」
「………お前にそんな話をされるとは、思わなかったな」
「言っておくが、俺は妻がいたこともあるぞ」
「……………は?」
「はい?!こ、この、………性格の捻じ曲がった鳥に!?」
「お前らは、俺を何だと思っているんだ。食おうが殺そうが、伴侶を得られないことにはならんだろう」
「………しかも食べたんじゃないですか!!最悪ですね!」
リソと言い争いを始めてしまった純白を見ながら、先程とは違う苦笑を浮かべた。
こんな時の悪食の雪食い鳥は、おやっと思うような生き生きとした顔をしていて、案外仲が良いのではないかと思ってしまう。
(さて。………霧が出てきたな。そろそろ戻ったほうが良さそうだ)
「……霧だな。そろそろ離れておけ。この国は、信仰の魔術の使い方が危うい。絶対に対岸から招き入れてはいけないものがいるとすれば、祝祭周りか、信仰を司る者達だ。どちらにも霧を前兆に持つ者がいるはずだからな」
「…………俺が知る限り最も悍ましく恐ろしいのは、イブメリアに相当する祝祭を司るものだ。唯一の信仰であり、ありとあらゆる文化の源であり、音楽そのものであり、祝祭の王でもある。……ずっと昔に、一人の男をその世界から追放し、永劫に彷徨うような呪いをかけたくらいだからな」
「………言っておくが、その障りがまだ動くなら、俺との契約を解除しろ」
「安心していい。追い出された段階で終わりだ。………あの神が自分の庭から追い出されても見ているのは、自分の愛し子くらいだからな」
ざざんと、桟橋に打ち付ける波音が響いた。
霧の向こうに漕ぎ出して行った船は、もう見えない。
あの青年がある筈のないどこかに辿り着くかどうかは、彼がどれだけ疑わずにある筈のない港の存在を目指しているのかと、それを上回るだけの幸運に出会えるかだ。
(クオ・バディス)
遠い昔の言葉を胸の中で響かせ、小さく笑った。
ここがもう既に、どこでもないどこかだと、その言葉を学んだ男なら答えるだろう。
本日も執筆間に合いましたので、SSの更新をさせていただきます!