密談と片道の橋
「さてと。僕はもう少し頑張ろうかな」
そう呟き、けれども長椅子に寝そべったのはノアベルトだった。
すっかりと夜は明け、窓からは清廉な朝の光が煌めき落ちている。
「おい、いい加減に服を着ろ!」
「ありゃ。アルテアは口煩いなぁ……」
「ノアベルト、流石に俺もどうかと思うぞ」
「何だろう。ウィリアムにそう言われると、ちょっと違うなって思うんだよね………」
そんなやり取りを聞きながら、眠っているネアの髪を撫でた。
途端に顔を顰めたので、相変わらず、就寝時に触れられるのは苦手らしい。
けれども、そんな風に感じられるのも穏やかに眠っていてこそなので、微笑んでその指先に触れる。
檸檬の木の下で寛いだ様子で微笑んでいた姿を思い出し、また少しだけ嬉しくなった。
「………で、…………あれは何だ?」
そう切り出したのは、アルテアだ。
元より、その質問をする為に皆が集まったのだろう。
なので頷き、先程起きた事へと話を戻す。
「推測でしかないけれど、どこかでこちら側の世界からこぼれた、分岐の内の一つだろう。恐らくそうなのだろうとしか言えないんだ。………ただ、この子とは何らかの由縁がある。既にこちら側の世界に属さない場所になっていたとしても、…………ネアが出会った者は、ネアの成り立ちや履歴に属する者だろう」
分かっていて口を噤んだ訳ではないのだと伝えると、三人はそれぞれに考え込んでいるようだ。
(あの時、……………)
ネアが扉を開いた時、その向こうにこの世界に属さない場所があるのは分かった。
けれどもなぜか、彼女には必要なものだと感じ、すぐに引き戻しはしなかったのだ。
「…………ただ、あれは間違いなく祝福だったのだろう。この土地やここに残されたものが、それを祝福としてネアに齎したように感じられた」
「エーダリア達も何も言いませんでしたが、あわいの鴉は、………弔いの歌を歌う鳥ですからね。知らずに接触すると、望ましくない過去に触れかねない。ネアがそのようなものに触れずに済んだだけでも、幸いでしょう」
ウィリアムの言う通り、あわいの鴉は、誰かの訃報から派生するものだ。
追憶や証跡の系譜のものなので障りを齎す訳ではないのだが、多くの喪失を抱えた者にとっては望ましい存在ではない。
もし、知らずに羽ばたきの音に気付いて窓を開けてしまい、その羽に触れていたら。
今は伸びやかに眠っているネアが、また身を縮こまらせて震えながら眠るのかと思うと、堪らない気持ちになった。
「エーダリア達は、大丈夫かい?」
「うん。まさか、周知のものだとは思わなかったよね。ウィーム王家は、底知れないなぁ……………」
「橋が落ちる前までは、どこかの時代でこちらに繋がっていた領域なのかもしれないね。その記憶が引き継がれていれば、混ざり合うというよりは、再会に近いという認識だったのだろう」
「観測例が本当に二層だけなのかも、怪しいところだな。…………あの繋ぎを伝達事項如きで使う連中だ」
「その王はさ、こちら側があるってことを理解しているんだろうね。知っている者に盲目の魔術は使えないけれど、知らなければそれを命じる事も出来ない訳だしさ」
ノアベルトの言葉に頷き、扉の向こうには、どんな人間がいたのだろうかと考えた。
「……………その人間は、ネアが、家族からもう一度聞きたかった言葉をかけたらしい」
「……………そっか。じゃあさ、この城が齎した祝福は、その言葉なのかもしれないね」
「うん。漂流物への言及やあわいの鴉の件もあるけれど、齎された祝福自体は、そこだったのだろう」
あの古びた屋敷の中で、ネアはずっと、その言葉を待っていたのかもしれない。
残念ながら、ネアが欲していたのがどのような台詞なのかは聞けなかったが、他の誰かではなく、あの扉の向こうにいた人間でなければ補えなかったものなのだろう。
(でも、……………君はもう怖くないと言ってくれたから)
だからきっと、ここにだって、代わりに心を埋める事が出来た何かがある筈なのだ。
それを彼女の両手いっぱいに満たし、雨音を怖がらなくなったネアが、二度と一人で泣かなくてもいいように、ずっと傍に居よう。
どこまでも、どこまでも。
それでも多分、永遠はないけれど、続くだけの毎日を共に生きれば、怖いことを減らしてやれるだろうか。
そうして、彼女がずっと欲しかったもので、その手や心をいっぱいにしてやれるだろうか。
「でも、この子はもう私の伴侶だから、…………書庫に居た人間が、扉を閉じるように言ってくれて良かったよ」
「当然だ。閉じていなければ、癒着を精査して領域ごと排除するしかなかっただろうな」
「その場合は、既に橋は落ちているとはいえ、俺が再度絶ち落とした方がいいかもしれませんね」
「……………ありゃ。みんな狭量だなぁ。ネアはもう僕の妹なんだから、扉が開いていても、そっちには行かないと思うけれどね」
(……………おいで。こちらに)
あの日、手を伸ばして呼び落した温もりが、今は腕の中にある。
扉の向こう側のものを排除せずともいいと思った理由の一端は、だからこそなのかもしれない。
ずっと昔にこちらに橋をかけたのは、誰だったのか。
或いは、こちらと結んでいた橋が落ちても、彼女を見付けるに至るだけのものを残してくれたのは誰だったのか。
ここではないどこかがあると信じた誰かの願いが残ったからこそ、ネアがいた場所にはずっと、あるはずのはない橋がかかっていた。
とは言えもう、扉を閉めさせてやらずにネアをこちらに引き寄せてしまったので、彼女旅立ったのと全く同じ場所に結ぶことは二度とないだろう。
もし、再びあの階層に繋がるのであれば、夏至祭の時のように、そちらとこちらの間に橋がかかっていた頃のものなのだと思う。
そして、またどこかの見知らぬ対岸が現れても、もう他に欲しいものはない。
手を伸ばすことも、そちらを見る事もないだろう。
(……………たった一つだけ、……………君がここにいるから、それでもう充分だ)
「……………むぐ。……………ディノ?」
「まだゆっくりと眠っていていいよ。……………ネア?」
「ふにゅ。……………おはようございます」
「うん。おはよう。でもいまは、おやすみ」
「ふふ。伴侶がいると、おやすみもおはようも言えるのですよ………」
「あ、お兄ちゃんも混ぜて欲しいかな!」
「ぐぅ」
「……………ありゃ、間に合わなかった」
こちらを訪ねたものがどんなものでも、あの扉の向こうがどこであっても、ネアは構わないのだという。
大切なものがここに全て揃っているだけで充分なのだと微笑んだネアの言葉を思い出し、確かにそうなのだと考える。
もしかしたらそれは、扉を閉めるように言った王も、同じ気持ちだったのかもしれない。
執筆間に合いましたので、本日はSS更新となりました。
明日8/27の更新はお休みとなります。
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