避暑地の秘密と美味しいお祝い 2
大いなる謎を残したまま迷い込んだ森から戻ったネア達は、まずは食堂できりりと冷やしたニワトコシロップの飲み物をいただくと、それぞれの部屋に解散になった。
家族でわいわい過ごすのも素敵なのだが、この指輪の避暑地での過ごし方は何にも措いて休息である。
明らかに仕事も持ってきたなという気配のあるアルテアは別だが、それ以外の面々は、部屋でのんびり過ごすのだ。
「こういう過ごし方は有難いな。人恋しくもならないし、煩わしくもならない」
「……………お前らしい嗜好だな」
にっこり微笑んだウィリアムの隣でアルテアはどこか遠い目をしていたが、ネアは、先程までの全員の暗い眼差しとは似ても似つかないと判断し、残されたままの謎の究明を誓った。
ただし、現在の様子では誰も口を割らないと思われるので、いつか何でもないところでさり気なく真実を引き出してみせるというのが、ネアの作戦である。
その時になって初めて、人間は執念深い生き物であることを、多くの者達が知ることになるだろう。
「ネア達は、どう過ごすんだ?」
「お部屋も素敵ですが、このお城の温室に果樹園があるので、木の下に敷物を敷いて、のんびりピクニック風にごろごろしようかと話していたのです。明日の夜には釣り大会やヒルドさんのお誕生日がありますが、今日は到着した日なのでのんびり過ごす予定なのですよ」
「そうか。…………読書をしようと思っていたが、屋外でもいいかもしれないな」
そう言えば、ウィリアムは少し考えたようだ。
部屋に戻って軽くシャワーを浴びた後で、避暑地の中のお城の周辺や温室の中も見て回り、のんびり過ごすのに相応しい場所を探してみるらしい。
ネアは、星の光を湛えたお城の前の湖なども素敵なのだと伝えておき、ただし、湖の中には水棲棘牛が潜んでいることもあったと付け加えておく。
「急に決まった休暇だが、離宮に寄って本を持ってきたんだ。読もうと思ったまま二年くらい経っているが、ここでならゆっくりと読めそうだ」
「まぁ。どんな本なのですか?」
「その当時の話題作だな。海辺の町に暮らす魔術師と、彼の使い魔の黒い犬の話なんだ」
「星の海と檸檬ケーキか……………」
「おっと、内容は言わないで下さいよ」
どんな作品なのか見当がついたらしいアルテアに、珍しく本気で慌てたようにしているウィリアムを見て、ネアは、ここにいるのが高位の魔物達なのだなという不思議な気持ちになる。
そんな魔物達も、巷で話題の物語本を読んだり、読んでいない本の内容を明かされたくなくて焦ったりするのだから、何とも無垢な部分ではないか。
触れれば手のひらに残る温度のような、どこかしっかりとしたその象りは、こうして一緒に過ごすからこそのものなのだろう。
共にいる時間の中で少しずつ注ぎ足してゆく輪郭が、また一つ鮮明になるような感じがした。
(…………何だか、とても些細な事なのだけれど、嬉しいな)
そんな事を思って唇の端を持ち上げ、ネアは、初めて聞く本の題名に興味を示す。
名作といわれる本はリーエンベルクの書庫にもあるが、ウィリアムが持ってきた、市井の話題作などは書店で調査しなければ分からないものだ。
ある程度は興味を持って情報を収集しているのだが、伴侶の魔物が読書を警戒しているので、過去の話題作の捜索などまでは難しいネアは、まだまだ知らない作品が沢山あるに違いない。
「何やらとても面白そうな本なので、次の夏休みで読んでみてもいいかもしれませんね」
「本なんて……………」
「今日のピクニックが素敵だったら、一緒にごろごろしながら読書しても楽しいと思いますよ。ディノも、その時までに読みたい本を探してみるのはどうですか?」
「そのようなものがあるかな………」
「塩の魔物の転落理由を読んでみます?家族のお話だと思えば、案外楽しく読めるかもしれません」
「ノアベルトが、………破滅してしまうのだろう?」
「あらあら、私の魔物は、ノアが心配になってしまって読めないのですね?」
「ご主人様……………」
物語とは言え、家族になったノアがとんでもない目に遭うと考えると悲しくなってしまうらしい優しい魔物の王様には、どんな物語がいいのだろう。
そんな事を考えながらウィリアムやアルテアと分かれ、ネア達はまず、荷物を部屋に置きに行くとそのまま温室に向かった。
(本当は、ヒルドさんのお誕生日会は最終日だったのだけれど………)
実は、急遽予定の変更がなされた。
折角参加出来ているウィリアムの滞在期間が最短の場合は二日となるので、ヒルドの誕生日会を、明日に変更したのである。
祝い事には祝福が添うので、みんなが揃っているのであれば、そんな日に済ませておくのがいいだろう。
この先に控えた憂いの為にも、終焉の魔物の齎す祝福もまた、得難いものである。
窓から廊下に落ちるのは、麗らかな一日らしい、庭園の縁取りであった。
城内を歩いていつもの温室に入り、久し振りに来た馴染みの場所という感覚にまた、小さな喜びと安堵が揺れる。
初めて訪れる時の驚きや喜びも勿論素晴らしいものだが、こうして、そんな場所を少しずつ自分の領域にしてゆける贅沢さも言葉にし尽せない。
おとぎ話の美貌や不思議だと思っていたものが自分の手のひらの中の何かになるのだと思えば、少しずつ叶ってゆく願い事の積み木のようでもあるからだ。
二人は手を繋いで畑の横や牛舎の脇を通り過ぎ、足元を駆け抜けてゆく鶏にディノがきゃっとなったり、ネアが、瑞々しい苺の実っている畑で少しだけ道草を食ったりした。
やがて辿り着いたのは見事な檸檬の木が続く果樹園の一角で、ネアがここを選んだのは、香りが素晴らしいのと、実った果実とその樹木の佇まいが美しいからであった。
「まぁ。なんて素敵なのでしょう!ここにしませんか?」
「月明かりの檸檬だね。日中はこのように淡い色合いなのだそうだ」
「という事は、日中に収穫するとお味も違うのかもしれませんね」
「そうなのかな……………」
魔術金庫の中に入れて持ってきた敷物を広げ、下敷き用のものとその上に載せるキルトの順番で重ねる。
こちらは飲み物とお菓子を詰めた籠も取り出し、クッションなども並べてしまえば、木漏れ日の落ちる果樹園での素晴らしい休息場所の完成だ。
なお、この際に忘れてはいけないのは、虫類の出入り禁止の排他術式を、頭上にも展開する事である。
のんびり寛いでいる時に、頭に檸檬が落ちてきては台無しではないか。
利口な人間は、万全を期すのであった。
「……………ここで、良かったのかい?」
ネアが、キルトの上に腰を下ろし、ぐいんと手足を伸ばしていると、ディノがそんな事を尋ねる。
優しいこの魔物の事なのだ。
きっと心配しているに違いないと考えていたネアは、微笑んで振り返る。
「檸檬畑ですものね。……………でも、ここにある檸檬は、記憶のものとは色合いが少し違いますし、こちらで過ごして家族を得て幸せになっていく過程で、多くの悲しい記憶が少しずつ丸くなっているのだと思います。少なくとも、ピクニックをするには、こちらの果樹園の方が見栄えがいいと判断してこの場所を選べるくらいには」
「うん。………君にとって悲しいものが、少しでも減ったのなら良かった。……………おいで、ネア」
「…………む。……………むぐ」
こちらを見て微笑んだ魔物は、なんて美しいのだろう。
伸ばされた手に少しそわそわしてから、ネアは、ディノの腕の中に収まった。
ネア一人では、クッションがないと後ろにばたんと倒れてしまう脆弱な腹筋具合だが、ディノは単体でしっかりとキルトの上に座っていられるどころか、そんな伴侶の背もたれになっても問題ないらしい。
すっぽりとディノの腕の中に収まり、ネアは、木漏れ日の落ちる水紺の瞳や、ほうっと溜め息を吐きたくなるような真珠色の髪の美しさに目を瞠った。
(…………何度見ても、毎日見ていても、やはりこんなに美しい)
そう感じてしまうことに誇らしさを覚えつつも、どこか陶酔にも似た甘い執着があるのは、これがネアの大事な家族だからなのだろう。
伸ばされた指先が唇に触れ、ふっと艶やかでどこか魔物らしい暗さのある微笑みが落ちる。
ぎくりとする間もなくいつの間にか体の向きが変えられていて、慣れた様子で深められた口付けの温度には、いつからか安堵が混ざるようになっていた。
触れ合う肌の温度に溺れそうな程の心地よさを思うのは、どこか、自分以外の誰かが寄り添っているという証のようなものなのかもしれない。
どこか深くへ落ちてゆくような甘美さなのに、ぬくぬくと毛布に包まって眠るような心地よさがある。
「……………ふは!…………そ、その。ここまでなのですよ?」
「うん。部屋に戻ってもいいけれど、折角君がこの場所を見付けてくれたから、今はここまでにしよう」
「ふぁ……………い、今は」
「後でゆっくりとね。……………ネア?」
そんな風に名前を呼ぶくせに、その声音にはいつもの無垢さはない。
こちらを見ているのは、男性的でぞくりとするような色香と仄暗さがある、魔物らしい冴え冴えとした美貌であった。
未だにこんな眼差しを向けられると、鷹揚に受け入れるというよりは動揺してしまうネアは、頬が上気するのを感じてもがもがと体を丸めた。
「あ、…………後でですからね」
「うん。…………おいで、膝枕してあげよう」
「そ、それもまた、恥ずかしいやつです!」
「でも、君は私に良く懐いているからね」
「むぅ。その場合は、私が、ディノの事を大好きだからというべきなので……………なぜ弱ってしまうのだ」
「……………ネアが虐待した」
「解せぬ」
相変わらずと言えば、こちらの線引きもである。
色めいた空気には微塵も動じないくせに、素直に愛情を伝えると、どうして体が傾いてしまうのだろう。
魔物の背もたれの強度が下がってしまったので、ネア達は、並んで横倒しになり、檸檬の木から落ちる木漏れ日を浴びながらごろごろすることになった。
聞こえてくるのは葉擦れの音に、どこかで流れる小川の音。
遠くで微かに牛の鳴き声や山の方にいる羊の声が聞こえ、暫くすると微かに誰かが下草を踏んで歩く音が聞こえてきた。
「……………む」
「ウィリアムのようだね」
「となると、シャワーを終えてこちらに来たのですね。おかしいです。ほんの数分横倒しになっただけなのですよ……………ふぁ」
「少しだけ眠ってしまったのかな。……………ここは、とても穏やかで、安心するからね」
「………ええ」
ネアは少しだけ、ディノがそんな風に言ってくれたことに驚いていた。
狡猾な人間は、ここで慌ててディノの方を見るような真似はしないが、その代わりに、えいっと手を伸ばして伴侶と手を繋いでしまい、隣の魔物を弱らせてしまう。
(ああ、いいな。…………ディノが、毎日過ごすような場所ではなくても安心出来ると言ってくれたのが、凄く嬉しいのだもの…………)
そんな喜びを噛み締めて口元をむずむずさせていると、吹き抜けていった風が清しい檸檬の香りを深めた。
ネアの世界にあった檸檬の木がこんな風に香るものかどうかは分からないのだが、かつて両親と暮らした異国の邸宅に庭にあった檸檬の木は、ここまでいい香りはしなかったような気がする。
雨音。
夏の、けれども肌寒いあの日の雨と、空っぽになってしまった家。
怖くて堪らなかったあの日の、痺れるような苦痛と絶望は今でも色褪せない。
そのようなものは時間が傷を癒して薄めてゆくのだとばかり思っていたが、実際には、上に他のものを沢山重ねてゆき、少しずつ埋めてゆくばかりなのだ。
だから今も、触れようと思って触れれば、こんなにも鮮やかに蘇る。
消えてゆく苦しみや悲しみもある一方で、こうして残る傷跡があるのは、そこに付随するのがネアの大事なものの記憶だからなのだろうか。
(……………でも、もう大丈夫だわ)
あの日の苦しみが同じ色をしていても、ネアはもう、大事な伴侶と手を繋いでいて、すぐ近くには、林檎の木の下で読書を始めたらしいウィリアムの気配もある。
受け取る側のネアが変わった事で、同じだけの悲しみを開いてみても、あの日のように胸が潰れる事はない。
終焉の魔物は、どこからか寝椅子のようなものを持ち込んだらしく、その横に木のテーブルを置いて優雅に休日を堪能しているようだ。
そして、ネアが、ディノに小さな子供の頃の事などを話している内に、ウィリアムは本を閉じて昼寝に入ってしまったらしい。
会話を終えて顔を上げ、眠っているウィリアムを見ていると、ますます、何て穏やかで素敵な一日だろうという気分になる。
どこかで蜂が飛んでいるぶんぶんという音がしたが、遮蔽魔術があるので臆する事もない。
「ふふ。午後のお昼寝も素敵ですが、こんな風に、午前の柔らかな光の中でのお昼寝も素敵ですねぇ」
「君も少し眠るかい?」
「先程少しうつらうつらしましたが、今はもう目が覚めているので、このままディノとお喋りしていたいです。でも、ディノが眠るのであればお隣で昼寝するので、遠慮なく目を閉じて下さいね」
「ネアが見えなくなるから、目は閉じないかな」
「若干ぞくりとする理由はやめるのだ……………」
そうして、穏やかな穏やかな時間が過ぎてゆき、そろそろ昼食の準備をすると、ノアが呼びに来た。
すっかり目の輝きが戻り、髪の毛も艶々としている塩の魔物は、もしかしたら、ボール遊びでもして貰ったのかもしれない。
城内にアルテアもいるので、なかなかの綱渡りだが、幸いにも、各々に過ごす傾向であるので見付かってしまう可能性は低いと言えるだろう。
ネアはいつ告白するのかなと首を傾げたが、ノアの様子を見ている限りは今回ではなさそうだ。
「アルテアがさ、月光の方じゃなくて、色のしっかり入った檸檬の木がある筈だから、その檸檬の実を三個持ってくるようにってさ」
「むむ。となるとアルテアさんは、檸檬を使った何かを作ってくれようとしているのですね!」
「後は、ウィリアムに卵を持ってくるようにって言っていたかな。いい卵の選別は、この中だとウィリアムが一番長けているみたいだね」
「わ、私だって、卵の良し悪しくらい、分かるのですよ……………」
ネアは女性としての誇りに賭けて慌ててそう主張したが、鶏舎に入ってウィリアムが卵の選別を始めると、確かに幾つかの卵の中から目当てのものを素早く拾い上げているので、ネアには区別がつかなかった選考基準を持っているらしい。
卵と檸檬と、少しの苺を持って厨房に向かうと、そこではもう昼食の準備が始まっていた。
「まぁ。この卵は、エーダリア様のオムレツ用だったのですね」
「ああ。スープはヒルドで、アルテアが鶏肉の檸檬と香草蒸しを作ってくれるそうだ」
「じゅるり…………」
「パンもそろそろ焼き上がるらしい」
「ほわ。さては、アルテアさんが焼いてくれたのですね?」
「…………以前から、試作予定だったレシピがあるからな。今回は、ランシーンの霧小麦のパンと、蜂蜜とチーズのパンだ」
「蜂蜜とチーズ!!」
アルテアが他にも用意してくれたので、ネアは料理を免除され、飲み物の準備を引き受ける。
もそもそと付いて回るディノにも手伝って貰い、テーブルはやはり、湖畔沿いに出す事にした。
「準備が出来ました!」
「よーし。シュプリを開けちゃうぞ」
「むむ。初めて見るラベルです?」
「湖の歌うたいっていう銘柄なんだ。珍しいものかな」
「……………おい。親族限定の銘柄だろうが。何でお前が持っているんだよ」
「ありゃ。その時に付き合っていた女の子の家族が、作っていたんだよ。その一年後に、僕を刺し殺そうとした子だったけれどね」
「うーん。何で毎回刺される方向なんだろうな…………」
テーブルの上に並んだのは、ふわふわとろりのチーズオムレツと、ビシソワーズのような冷たいジャガイモのスープ。
削ぎ切りにした鶏肉を、塩胡椒と薄く輪切りにした檸檬とローズマリーで蒸しあげた料理は、そのままでも充分に美味しいのだが、少しだけ異国風の辛い漬けダレもある。
焼き立てのパンにバターを塗り、田舎風のパテにはマスタードと、ディノの好きな酢漬け野菜を添えて。
ばりばりとした表面とふかふかの中の対比が楽しい蜂蜜チーズのパンは、ブルーチーズのようなくせのあるチーズの塩味に蜂蜜がとてもよく合い、ネアは、むしゃむしゃとかなりの量を食べてしまった。
勿論、たっぷりのサラダには選択の魔物の作ったドレッシングが使われており、食後には、ヨーグルトとブルーベリーのシャーベットのようなものがふるまわれた。
到着した日の昼食であるので、アルテア曰く、敢えて少し軽めのデザートなのだそうだ。
最初から最後まで全てが美味しく、ネアは幸せでいっぱいになったまま、むふんと頬を緩める。
「ヒルドさんのスープが美味しいのはいつもなのですが、エーダリア様のオムレツが、年々、玄人の域に入りつつありますね」
「今回は、レシピにないような火加減の調整を、アルテアが教えてくれたのだ。基礎的な調理はこれで完成で、後は、好みに合わせてソースを作り足したり、中に入れるものを替えたりすればいいらしい」
「ありゃ。いつの間にか完璧なオムレツになってるぞ……………」
「ああ。これならもう、店で食べられるようなものだといってもいいくらいだな。…………このスープも、すっきりと飲めていいな」
「おい!何個目のパンだ!そのくらいにしておけ」
「むぐぅ…………」
「ネイ、シュプリの飲み過ぎですよ。脱がないように」
「わーお。僕、もしかしてシャツを脱ごうとしてた?」
みんなでお喋りをしながら、その合間には時々、高位の人外者達らしい話題も混ざる。
漂流物の話も少し出たが、どちらかと言えば、領民達の暮らしを少しでも損なわないようにするための対策や、川沿いの家々の扉の管理の仕方などの魔術的な措置の話題が多かった。
「そう言えば、以前に来た際には、星の魔術が濃く満ちていたのだが、今年は、どちらかと言えば虹の魔術の気配があるようだ」
「うんうん。お客がいない間も、保有している天候や星の巡行が幾つか変わっていくからね。何日か前に虹が出たんだと思うよ。シルの系譜の前兆でもあるから、そんな魔術の結びもあるのかもしれないけれど」
「残っている証跡からすると、夜の虹だろうな。祝福結晶を回収出来れば、いい質のものがあるだろう」
「そうなのだな。…………午後は、虹の魔術痕跡が強い場所を歩いてみてもいいかもしれない」
「よーし、じゃあ僕が一緒に行くよ。ヒルドは、まだ編み始めでしょ?」
「ええ。では、そちらはお任せします」
ネアは、夜の虹の祝福結晶にはどんな付与効果があるのだろうと思い、ディノに訊いてみた。
すると、幸運や願い事を司る組み合わせである一方で、食楽の充実などの祝福もあるというではないか。
「ただ、夜の系譜も虹の系譜も、扱いを間違えると災いに転じるものでもある。付与される祝福を蔑ろにする者が得た場合は、祝福ではなく災いを齎す事もあるだろう。得た者全てを、幸福にするものではないのかもしれないね」
「ふむ。幸運も願い事も美味しいものも大好きなので、私が手にすると、祝福しかない筈なのですよ」
「うん。君は大丈夫だよ。ここにいる者には障らないだろう」
「どの祝福も、一般的には望まれるようなものばかりだが、障りになってしまう者もいるのだな…………」
決してここに至るまでの道が平坦ではなかった筈のエーダリアが、不思議そうに首を傾げる。
であればきっと、エーダリアがウィームに来る迄の道のりは、絶望や孤独があっても、憎悪や諦観ではなかったのだろうと思い、ネアはほっとした。
とは言え、憎悪や諦観を得ていたネアとて、夜の虹の祝福結晶が付与する祝福は、欲しくないだなんて思えないような素敵なものばかりだと考えるだろう。
(それでもきっと、その祝福が障りになる人はいるのだろう)
最後まで諦めが悪く願い事や幸運を拾い集めていたネアハーレイとは違い、そんな風に要領よく生きられないままに、そのようなものすら憎悪する者達もいるのだろう。
得るべきものを得られなくなった手のひらの上では祝福も災いに変わるのだと知れば、ネアは、心の中に沢山のおとぎ話を残してくれた両親に心から感謝した。
ネアの嗜好や思想の何かがこちら側と一致しなければ、ネアは、新しい世界でも幸せになれなかったのかもしれない。
こうして大好きな家族を得られたのは、あの救いのないような日々の中でさえ奪えなかったものが心の中にしっかりと根付いていたからだ。
「だからね、思うのです。私の両親が、人ならざる不思議な生き物の出て来る物語本が大好きで、物語の中の魔法………祝福のある魔術のようなものを大事に思う人達だったからこそ、私はここで、伸び伸びと生きていけているに違いありません」
「…………では、私が君でなければと思ったのも、だからこそなのかな」
ネアの言葉に、ディノがどこか不思議そうに首を傾げる。
それは何だか素敵な事だったので、ネアは力いっぱい頷いておいた。
「さて。午後は水遊びに行きますので、ささっと着替えてきますね」
「……………また、足を出してしまうのかい?」
「どうして水着には慣れたのに、スカートを持ち上げるのは苦手なのでしょうね」
「ネアが虐待しようとする…………」
「不思議ですねぇ……………」
恥じらう魔物を隣室に置いて、ネアは寝室の側の扉を開いた。
(……………え?)
するとなぜか、その先にあったのは書庫ではないか。
おまけにそちら側は夜のようで、燭台に灯した魔術の火が、ちらちらと揺れている。
扉が開いた事に気付いたのか、書架の前に立って本を取ろうとしていた男性が、こちらを振り返った。
冬の装いだと、ネアは咄嗟に、それだけを思った。
「お帰り。今日はどんな紅茶を飲もうか。…………おや?」
振り返ったのは、黒い巻き毛に灰色の瞳の男性だ。
はっとする程に美しい男性だが、その美しさは人間の領域のものであったし、どこかで見た事があるような不思議な親しみを感じる美貌である。
年齢は、ジッタより少し年上というくらいだろうか。
充分に魅力的な男性でもあるが、青年と言えるくらいの子供がいても良さそうな雰囲気だ。
「……………っ、」
こちらを見た眼差しがあまりも優しかったので、ネアはなぜか、わあっと声を上げて泣きたくなった。
遠い遠い昔にいなくなってしまった筈の父親に、身に持つ配色も違うのにあまりにも似ていたのだ。
何も言えずに立ち尽くしているネアを見て、その男性は少し驚いてはいたものの、すぐに温かな微笑みを浮かべる。
「おや、すまないね。娘と間違えてしまったようだ。扉が、間違えてこちら側を開けてしまったのかな。もう一度閉じて、開いてごらん」
「……………はい。お邪魔しました」
「うん。時間軸や魔術の交わりは、時々不思議な贈り物をくれるね。さようなら、可愛いお嬢さん。君はきっと、どこかで僕に繋がる誰かなのだろう」
この時程、扉を閉じたくないと思った事があっただろうか。
けれどもネアは、男性の言う通りに扉を閉じ、もう一度、そっと開いてみる。
するとその先にあったのは、先程、荷物を置きに来た際にカーテンを開けておいた寝室で、窓辺から落ちるのは淡い午後の木漏れ日であった。
「……………ネア?………空間が揺れたようだけれど、何かあったのかい?」
「今、この扉の向こうに、…………どなたか、とても優しい目をした方がおられました。私を娘さんと間違えて声をかけて下さって、…………扉を閉めてごらんと教えてくれたのです」
すぐに気付いたディノがこちらにやって来ると、後ろから抱き締めてくれたので、ネアは、羽織ものになった魔物に、たった今見たもののことを伝えてみる。
水紺色の瞳を揺らして考え込んだディノは、この土地に残っていた古い記憶や時間層に、扉が繋げてしまったのかもしれないねと教えてくれた。
「以前に、大浴場でグレアムに会った事があるだろう?」
「ええ。あの時のような、不思議な感じがしました。怖さはまるでなくて、とても優しいものだったのですよ」
「うん。そのような邂逅は、土地からの祝福である事が多い。多くの場合は、啓示や助言として現れるのだけれど、この土地は君に必要だと思ったのだろう」
(………私に、必要なもの)
扉の向こう側は、冬の入りか晩秋だったのだろう。
こちらを見て微笑んだ人を思うと、なぜだか胸がぎゅっとなるのだ。
「………扉の向こうにいた方は、面立ちは何も似ていないのに、なぜか、父によく似ていました。……………実は先程、もうこんなに幸せになってしまったので、一番悲しかった日のことを思い出しても、あの頃のように打ちのめされないのだなと考えていたばかりだったのです」
「では、そんな君の気持を汲んで、この城が、何か幸いになるものを見せようとしたのかもしれないね。……………それは、君にとってはいいものだったのだろう?」
「ええ、……………多分、とても。…………先程の方に出会った事で、大好きだった父が健やかにしていた頃のことを、鮮明に思い出せてしまいました。……………あら、どうしました?」
「……………父親なんて」
途中までは優しく話を聞いていてくれた魔物は、最後の言葉に反応し、ほんの少しだけ荒ぶってしまったようだ。
ネアは、くすりと笑ってそんな魔物にえいっと体当たりすると、目を瞬いたディノをぎゅっと抱き締める。
「でも、私の一番幸せなものは、こうしてぎゅっと出来る伴侶なので、ディノを見ているのが、一番幸せなのですよ!……………ぎゃ!!死んだ!!」
その告白はどうやら、水遊びを終えるまで控えるべきだったようだ。
ネアは、ぼさっと床に倒れてしまった伴侶を必死に揺さぶり、何とかして湖に遊びに行くのだと回復させねばならなくなった。




