避暑地の秘密と美味しいお祝い 1
「このような展開には覚えがあります」
どこか慎重な声音でそう呟いたネアに、隣に立っていたエーダリアがこくりと頷いた。
しかし、ゆっくりとそちらを見ると素早く目を逸らしたので、自分が原因であることはよく理解しているらしい。
二人が立っているのは、深い森の中である。
ネアは、以前もこの避暑地の庭園で大冒険をした記憶を糧に、エーダリアが金環蒲公英の採取をしている事を危ぶんではいたのだ。
こちらの家族が採取しようとしていた花が、花びらの縁に白い円環模様を持つ事に気付き、ささっと歩み寄ってその服裾を摑まえたのは、近くに伴侶の魔物がおらず、そんなディノと、ヒルドとノアが何かを話していたほんの一瞬の事であった。
「前回の迷子の際に、この中で完結している空間なので、どれだけ迷子になっても指輪の中だと聞いたのを心の支えにして、暫く助けを待ちましょうか」
「……………そうだな。すまない」
「幸い、もう一人道連れにしましたので、安全性は確保されていますからね」
ネアがふんすと胸を張ってそう言えば、エーダリアが悲し気にこくりと頷いた。
たいそう恐縮しているが、こちらの魔物はあまり細かい事は気にしない筈なので大丈夫だろう。
「………大したものだな。指輪の中に、こんなあわいまであるのか」
「うむ。以前にノアが、この中を避難用の隔離地とした場合に、中に暮らす人々が息苦しくならないように、王家とそこに力を授けた方々の叡智の結晶として造られたものだろうと話していました!」
「確かに、ウィームに暮らしていたような人間であれば、あわいや影絵まで拡充されるくらいに奥行きがあった方が、過ごし易いのかもしれないな」
こちらを見てそう笑ったのは、休日仕様のウィリアムだ。
シンプルな淡い水色のシャツを羽織っている装いは、洗いざらしのような木綿のシャツ具合が、おや、休日の軍人さんみたいな装いばかりを見てきたが、意外にお洒落かもしれないぞと思わせる様子である。
こちらは、ネアが、エーダリアを保護しに行った際に手を繋いでいたので、この謎めいた森に一緒に落とされてしまった終焉の魔物であった。
(でも、………静かな森だわ)
ぴちちと、どこかで小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
この世界では、場合によっては奇妙な姿になってしまう鳥類だが、小鳥と呼んで差支えのない生き物も普通に多く、だが、見た目は小鳥であっても実は妖精の系譜であることが少なくない。
この森にいるのはどんな生き物なのだろうと頭上を見上げ、ネアは、目を丸くして固まってしまった。
「ほわ…………」
それは、百日紅のような赤紫色から淡いピンク色の花を咲かせた、花盛りの木で構成された森であった。
雑多な木々が生い茂るというより、森の形成そのものが一種の木でなされているらしい。
今まで、枝葉の位置が高いので視界に入っていなかったが、こうして見上げると、満開に咲いた花々が色硝子のような不可思議な透明さを帯びていて、木漏れ日を透かして大聖堂の薔薇窓のように煌めくのだ。
「………これは見事だな。花が全て結晶化しているのか」
「ロビアドの花ではないか。…………ウィームには咲かないものだが、だからこそ取り入れたのだろうか」
「まぁ。このお花は、ウィームでは咲かないのですか?」
「ああ。ずっと昔の王族に、この花を好んだ者がいたらしい。ウィームでは育たないことを悲しみ、議事堂にロビアドの花の間を造らせたと聞いている」
「だとすれば、その王族の指定だったのかもしれないな。…………これだけの規模の森を用意するには、正午の時間の座の精霊の守護がないと難しいだろう。よほど、寵愛されていたらしい」
くすりと笑い、ウィリアムがそんな事を教えてくれる。
ウィームでは馴染みのない系譜のものだとなると少し警戒してしまったネアに気付いたのか、ふわりと頭の上に片手を載せて撫でてくれた。
見上げると、こちらを見ている白金色の瞳ははっとするぐらいに優しく、どこか男性的な穏やかさである。
「むぐ。…………ここは、良い場所なのですか?」
「ああ。敷き詰められた魔術の痕跡が、どこもかしこも好意的だ。…………強いて言えば、大切な友人や恋人の為に造った秘密の森、という感じだろう」
「ふふ。では、大切な方同士でのやり取りで造られた場所なのかもしれませんね」
「この規模の結晶化した森は、単体で育むのは難しいからな。誰かへの特別な贈り物として、無理矢理表層から剥ぎ取って来たんだと思うぞ」
「………む。突然に、荒々しい展開になりました。ということは、どこかの森がごっそりなくなってしまったのですね」
ネアは、その森の他の利用者はどうなったのだろうと遠い目になってしまったが、ウィリアム曰く、推測される年代には大きな戦乱が多かったので、この規模の森が突然消えても、森を治めえていた者があわいや種族の階層に持ち帰ってしまったのだと思ったり、戦乱で失われたと思われたに違いなく、大きな騒ぎにはなっていないらしい。
「……………そのような履歴まで読み解けてしまえば、この指輪の中にも、様々な歴史があるのだろうな」
エーダリアが感慨深げに、ぽつりとそんなことを呟く。
美しい森の天蓋を見上げて瞬いた瞳には、花影の煌めきが落ちて、きらきらと輝いていた。
「入り方はちょっぴりの事故でしたが、こんなに素敵な風景を見られたので、観光だったのかもしれません。ディノやノア達が、脱走躾絵本の対処を終えて迎えに来てくれるのを、のんびりと待ちましょうか」
「………あちらもあちらで心配なのだ。到着直後に、躾絵本が襲ってきたのは初めてだからな」
「私が思うに、ダリルさんの弟子の中に、片付け犯がいるのではないでしょうか?我々が行動を封じていった筈の躾絵本が、次に来るときに野放しになっている事が多くありませんか?」
「そう言われてみれば………。いや、そうなってくると、ダリルの仕業の可能性もあるのだな」
「ほわ………」
エーダリアがそんなことに気付くと、ネア達は、思わず顔を見合わせてしまった。
あの書架妖精であればやりかねないというのが全員の思いであったので、そのまま、小さく頷き合う。
ダリルであれば、ちょっとした悪戯だよという感じに、そのくらいのことをするだろう。
おまけに書架妖精ともなれば、解放の際に躾絵本に何かをされる可能性は、限りなく低い。
「なぜか、間違いなく犯人だという気がします………」
「す、すまない………」
「エーダリア様が謝る必要はないのですが、捕獲しようとしていたノア達には、無事でいて欲しいですね」
「ああ…………」
ネア達は、つい先程この避暑地に入ったばかりだ。
終焉の魔物であるウィリアムが最初から合流出来ているのは珍しいことなのだが、昨晩、トマトの料理を損なった事でトマトに呪われかけたのだという笑い話を職場でしたところ、トマトの障りを恐れる同僚たちからすぐさま早退させられたという経緯がある。
よって、本当にトマトに呪われていないかどうかが確定するまで、少なくとも二日間は帰って来るなと言われた終焉の魔物は、図らずも夏休みを貰えてしまったのだった。
「さて、暫くは待ち時間だな。特に危険はなさそうだから、少し歩いてみるか?」
「いいのだろうか?」
「ああ。あまり遠くへ行かなければ、この場所を起点とした魔術の結びを置いておくから、心配しなくていい。………ネア?」
「むちむち鼠を捕まえました!」
ネアはここで、足元の草むらからこちらを見ていた、小麦色のむちむちとした鼠のような生き物を鷲掴みにして捕獲していた。
ふさふさとした尻尾は綺麗な檸檬色で、くりくりっとした瞳の可愛い生き物だ。
ただし、いきなり見ず知らずの人間に捕獲され、恐怖のあまりに激しく震えている。
「野外演奏会でお前が見たものに近い、木漏れ日の系譜のものだ。穏やかな性質の精霊なので、放してやってくれ」
「むぅ。売れません?」
「…………キュイ?!」
「と、土地に付く種族なのだ。この森から離さない方がいいだろう」
たいそう邪悪な人間が恐ろしい提案をしてしまったので、鷲掴みのむちむち鼠は震え上がった。
慌てて逃がしてやるように説得したエーダリアの言葉にネアが従ったからか、解放された鼠は、エーダリアの方を見て何度も頭を下げると、きらきらとした檸檬色の小石を置いて逃げていく。
「これは、木漏れ日の祝福結晶なのではないだろうか………」
「そのようだな。これだけ質のいい結晶は珍しい。いい土産になったな」
「ああ。…………陽光の系譜の品は、ウィームには少ないのだ。幸い、グラストが扱いに長けているので、このようなものがあると有難い」
「…………おかしいです。本来なら、私に捧げられ、私からエーダリア様に差し上げる筈だったのでは………」
綺麗な檸檬色の石をエーダリアが手にする事には何の不満もないが、狩りに見合った成果が得られていないことに眉を下げ、ネアは、他にも何かいいものがいないだろうかと周囲を見回した。
すると、木立の向こうに小さな家のようなものが見えた気がして、体を斜めにしたり、飛び上がったりしてそちらを凝視する。
気付いたウィリアムが、目を瞠ってそんなネアをひょいと持ち上げてくれた。
「どうした、ネア?何かいたのか?」
「今、向こう側に小さな家があったような気がしたのですが、すぐに見えなくなってしまいました。……目の錯覚だったのかもしれません」
「………それは、どうだろうな」
「一瞬は、見えたのだな………」
ネアは、木々の影などが偶然家のように見えたのだろうと考えていたが、ウィリアムとエーダリアは、違う考えであるようだ。
「そのような場合は、遮蔽魔術の揺らぎである事が多いんだ。特に今は、俺たちが入ってきたばかりだからな」
「ああ。隠された建物があるとなると、歴史的に貴重なものなどが残っているかもしれない」
そんな話から、ひとまず本当に家があるかどうかを確かめる為に向かってみようということになり、美しい結晶化した花々の影が落ちる森の中を歩き出す運びとなった。
ふかふかとした下草を踏み、木漏れ日の中を歩く。
ネアは、なぜか地面に下ろしてくれないウィリアムに視線で問いかけてみたが、もしもの時に危ないからなと微笑まれてしまうと、何も言えずにぎりぎりと眉を寄せるしかなかった。
初めて訪れる不思議で美しい森の中には、幾筋も光の筋が落ちていて、それが森影をけぶらせてヴェールのように見えなくもない。
小鳥の声に混じって聞こえてくる葉擦れの音は、硬質な響きを持ったしゃわしゃわとした美しい調べであった。
「さてと、やはり建物があったようだな」
「魔術遮蔽がかけられていたのだろうが、………これは、誰かの住まいだったのだろうか」
「まぁ!小さな隠れ家のような、可愛いお家です!」
暫く歩くと、森の中に忽然と現れたのは、どこか童話的な趣のある可愛い家であった。
赤く塗られた屋根は、まるで鉱石の釉薬をまぶしたように艶やかで、淡い灰色の壁は色相の割には暗くなく森の景色の中に見事に調和している。
僅かに野生的な趣がある庭園はそれでも可憐であったし、窓から見えるカーテンなどからは、女性の住まいであるような気がした。
とは言え、どれだけ綺麗に残されていても独特な無人の建物の気配があり、既に住人はいないようだ。
それでもかつては、誰かがこの家にいたのだろう。
どんな人の住まいだったのだろうかと想像を巡らせていたネアは、視線で何かの意思確認を済ませたウィリアムとエーダリアと一緒に、そのまま家に近付くことになった。
「……もう、ここには、どなたも住んでいないのですよね?」
「ああ。…………無人になってから、随分と年月が経っているようだな。かけられている状態保存の魔術は、ひと昔前のものだと思うぞ」
「今の術式が構築されたのは、おおよそ六百年前と言われているのだ。ウィームでは記録に残るよりも早く利用が開始されていたと聞くので、それではないとなると、…………随分と前のものなのだな」
「そんなに昔のお家が、こんなに綺麗に残っているのですね」
「恐らくだが、精霊の隠れ家だろう。……この地を離れる際に放棄したようだな。施錠もしていないようだが、……………ん?」
「……………これは」
そこでなぜか、窓から屋内を覗き込んだウィリアムが、眉を顰めた。
続けて中を見たエーダリアも、はっとしたように息を呑む。
ウィリアムに抱えられている角度からだと、窓のカーテンが邪魔で中が見えなかったネアがじたばたしても、どういう訳か、ウィリアムは屋内が見える角度に融通してくれなかった。
「私も、精霊さんのお家の中が見たいです!」
「……………そうだな、やめておこうか」
おまけに、埒が明かないと感じて申請してみれば、振り返ったウィリアムは、どことなく疲弊したような眼差しでそう言うではないか。
「ああ。……お前は見ない方がいいだろう。…………様々な御仁がいたのだな」
「この森をこれ以上探索するのは危険だな。………元の場所で、迎えを待つか」
「私も、そうした方が良さそうな気がしてきた。…………すまない、私の失態で、妙な場所へ迷い込んでしまった」
「な、なにがあったのですか?!なぜ、二人とも目を逸らすのだ!!」
突然、この美しい森に全ての興味を失ったエーダリアも気になるし、どこか乾いた微笑みになってしまったウィリアムの様子は、明らかにおかしい。
ネアは、あの窓から何が見えたのか知りたくてじたばたしたが、ひょいとウィリアムに向かい合うようにしっかりと抱えられてしまい、抵抗を封じられた。
「ネア。今は、到着した後の昼食の事を考えようか。……………俺も、早く忘れたいからな」
「……………何があったのだ。そして、この持ち上げ方は赤ちゃん抱っこ方式なので、是非に元の形に戻していただきたい」
「せめてお前だけは、………この森の美しさだけを覚えていてくれ」
「エーダリア様が、まるで遺言のような言い方になってしまうくらいのものが、あのお家の中にあったのですか?!」
二人の様子があまりにもおかしいので、ネアは、一人だけの仲間外れにわなわなしたが、二人は、断固としてネアに窓の向こうに見たものを伝えようとはしなかった。
精霊の家だというし、もしかすると、凄惨な殺戮現場などが残っていたのかもしれない。
そう考えれば二人の気遣いは尤もなのだが、こうも思わせぶりな言葉だけを残されてしまうと、気になって堪らないではないか。
「……………おい。お前は何をしたんだ」
おまけに、先程迷い込んだ場所に戻ってくると、そこには既に、お迎えの使い魔が来ていた。
後から合流した筈なので、ディノ達から迎えを託されたのだろうと思われるが、エーダリアとウィリアムの表情を見るなりそう尋ねてきても、ネアは全くの部外者である。
「森の中にあった精霊さんのお家を見た途端、このご様子なのですよ。私は、可憐な花柄のカーテンしか見えませんでしたが、二人とも、頑なに中に何が見えたのかを教えてくれないのです」
「………精霊の家?……………この土地の系譜で、精霊となると……………正午の座か」
怪訝そうにしていたアルテアだが、そう呟くと、じわりと眼差しを翳らせた。
ネアは、事情を知っていそうな助っ人が現れたぞと目を輝かせたが、なぜか、顔を上げたアルテアの表情は酷く暗かった。
「どうやら、心当たりがあるみたいですね。であれば、この土地は探索しないことをお勧めしますよ」
「……………一歩たりとて、奥に行く気はない。さっさと帰るぞ」
「むが!!一体、何があるのですか!!」
その後、無事に躾絵本を撃退して、先に玄関前で待っていてくれたノア達と合流したが、躾絵本との間にどんな死闘があったものか、酷く着衣が乱れている塩の魔物と森と湖のシーも、ウィリアムから何やら耳打ちされた途端に表情が死んでしまったではないか。
何も共有されなかったのはディノだけで、ウィリアムからネアを引き渡され、困惑したように水紺の瞳を揺らしている。
「………何か、障りになるようなものがあったのかもしれないね」
「…………むぐぅ。気になって堪らないので、思わせぶりにひそひそするのをやめて欲しいです」
「疲れただろう。中に入って飲み物を飲もうと話していたのだけれど、少し休むかい?」
「到着早々に大きな謎が残されましたが、折角のお休みなので、まずは堪能しなければですね!みんなで、何か冷たい飲み物でもいただきましょうか?」
「うん。では、中に入ろうか」
躾絵本との闘いでもディノは無傷だったようで、今年は珍しく二人が先頭となり、大きな扉を開いた。
後に続く家族達が、酷く暗い目をして二人程着衣が乱れているので、なかなかにあんまりな夏休みの開始である。




